中編4
人間が幸福の夢を追うときに犯す大きな過失は、 人間の生来から備わっているあの「死」という弱点を忘れてしまうことだ。
――『シャトー・ブリアン』
今年の学園で開催された学園祭は合併の頃から続く追い風を受けて前年よりさらに大規模な物になっていた。あの学園長が引っ張ってきた支援者――蒼井社長を含んだ有権者――から年に多額の援助金を貰えているおかげだろう。小さな所で大手会社の宣伝が行われているスペースもあれば、有名人を何人か学園祭のイベントで特別に出す事もあってさすがは楠賀美学院だと来校者を唸らせる出し物が多くある。
大層な『化粧』をした物だよ。外から来た人達はこの学園の現状がどんな物か気付いてないのが大勢いるんだろうね。藤和と葵に関しては学園長がマスコミ関係に口止めするよう何か動いたかもしれないし、どこにでもあるような不運な出来事にあった少年達としか世間は見ないから悪評で学園が乏しめられる心配はない。
でも、それもさすがに限界だろうね…。
『三人目の犠牲者』が出てきたとなったら、情報関連の仕事からおいしい蜜を得ようとしてタチの悪い輩がこぞって学園の事を調べようと動き出す可能性が高くなる。
だから、勝負は一瞬にして決める。残りの二人――藍染と柳二――を始末するのに時間をかけてられない。彼らはこれまでの二人と違って個人そのものが実質的な力を持っている兵だ。
時折、自分の父親の会社であるAOIの仕事を末端とはいえ任される事もある蒼井柳二――。
愛人の子とはいえども、武術の名家である橙堂家の当主として相応しい武術の腕を持つ橙堂藍染――。
この二人には隙という物をほとんど見せない。安易に毒という手段を使っても気付かれるかもしれない。やれやれ、天才という人種を相手にする行動自体が無謀に思えて仕方ないよ。それも知力と武力を備えた健康優良男児という何ともうらやましいスペック…。まったくこの世界は理不尽極まりなくて胸がつまりそうだよ。
藤和も頭は良かったし、喧嘩も強かったけど性格が物凄く難があって大雑把な行動を好む習性を利用できたんだけど、この二人はベクトルが正反対。
僕はこの二人を一瞬でも超えなくちゃいけない。
今は馬鹿らしいピエロに踊らされて精進と研鑽を怠けているとはいえ、僕一人を相手にするくらいは彼らにとって造作もないだろう。だけどそれは『正攻法』での話だ。勝負は正々堂々とは限らないんだよ?
だからここで『助っ人』の登場だ。僕の計画のためにわざわざ山奥から無断ながらもついて来てもらった協力者達に力を貸してもらう。報酬はとーっても甘い蜜…。今でも僕の足元には取り扱いを厳重にして『彼ら』が入ってもらっている入れ物を置いている。狭い入れ物に無理やり入れてしまってさぞかし怒り狂っているだろうけど、計画までは出来る限り極上の待遇をしてあげた。
――すまなかったね、でもようやく君達の出番だよ…。
実験のために彼らと入れ物を同伴させ、悲痛な鳴き声を上げて死んでいったマウスの五号君と六号君。君達の死も絶対に無駄になんかしないよ。彼らと僕は言葉が通じない以上、実践で計画に必要な事を覚え込ませなければいけなかった。その苦しみを報わせてもらう日がとうとう来たんだ。
身勝手だよね…怨んでるよね……。
本当にごめん…墓を作ってあげたぐらいじゃ許してもらえないのは分かっている。
僕の事を分かってくれなくてもいい。だけど、せめてこの復讐が終わるまでは君達からの罰を待ってほしいんだ。
お願い、もうすぐだから――。
決行の日がとうとうやってきた。
楽しい学園祭が終わった後はせっかくの休みを返上して夕方から片づけを開始していく。ステージ組は鉄骨やら木材やらと地獄だろうね。昼間で遊んだ分と働いた分の疲れが溜まっている所に今度は片づける分の疲れが追加されるとなると、その人達はきっと明日にて筋肉痛が確定だ。
僕も園芸部の出し物で使ったテントを片づけていた。出し物の結果はそれなりに好評だったよ。前に増やした花だけでなく、いざという時のために部が学園に使わせてもらっている裏側の土地を畑にして作っていたマスクメロンとスイカを開放して試食コーナーをやったおかげかな?
あの苦労して作り上げた果物類を黄村さんと紫さんからの一生のお願いにより、というより強制的に泣く泣くビニールハウスから収穫(という名の虎狩りをされた)して大盤振る舞いした僕。あの綺麗な網と縞模様を形成したマスクメロンとスイカを包丁で豪快に叩き割られる光景を見ていて落ち込んだりした事もあった。
美味しかったって? 当たり前だよ! 毎朝早起きして登校し、丹念に育て上げた僕の傑作が不味い訳ないじゃないか! しかも一番甘く育つように時期を考えて試行錯誤の末に実った傑作だったんだよ!? そんな事言うようなやつがいるんだったら口の中に自家製堆肥をぶち込んでやりたいよ!
…過ぎた物は仕方ない。とにかく、果物はお子さんやマダムといった層に人気が出ていて在庫が切れるまで出していたら物珍しさで集まってきてくれた。
普段、激しく動き回る事のない黄村さんと紫さんが忙しそうにする姿を見たのも初めてかもしれない。忙しいのにすごく喜んだ顔をしていたから結果オーライなんじゃないかな?
「うぅ…もう疲れたよ~! 休みたーい!」
「文句を言わないで早く倉庫に運んでください部長」
「酷い! か弱い女の子にこんな重たい物を持たせて扱き使おうというの!?」
「はいはい、今の世は男女平等ですのでそんな隔たりは一切無しですから…あ、紫さんそっち側持って」
「し、白水君。ひょっとして…果物の事、怒ってる?」
「…何の事でしょうかね? 暇な『お二人』とは違って世話をじっくりと欠かさなかった僕の至高の作品を躊躇いもなくもぎ取っていった事なんかぜーんぜん怒っていませんよ?」
「絶対怒ってるってば!?」
「じゃあ部長はこの段ボールを持っていってください」
「ちょっ、さらに重ねちゃらめぇぇぇぇっ! 腰が! 足があぁぁぁぁっ!!」
虐めてないよ、ホントだよ?
まぁ、二人とも一生懸命頑張ったらこれぐらいで許しておいてやろう。
それより…。
「何だか昼間、体育館が騒がしかったんですけど部長と紫さんは何か知っていますか?」
嘘、本当は知っている。初めて聞いたという状況証拠を残すためにわざと知っている事を聞いた。
「あー演劇部の出し物の時にね、何だか凄い演出の劇をやったって噂があるの。凄かったそうよー? 演劇中にいきなり表れた怪物みたいな衣装を着た人達とウチ――学園――のマスコットキャラ『クッシー君』の着ぐるみを着た謎の人が戦隊物顔負けな殺陣を繰り広げたんだって」
「それはもう大人気! 特にクッシー君の動きがそれはもう凄まじくて喝采が鳴りやまないくらいに凄い劇をしたんだよ!」
「…クッシー君って、あのクッシー君ですか?」
クッシー君――。
それは楠賀美学園にて突如現れた学園の妖精にして守り神。
キュートな豆粒の目に楠の葉っぱが背中に四枚羽として生えていて、身体はベージュに近い茶色の太めな胴体と足を持つ。
頭には学園のシンボルであるK文字を真ん中にいれた楠の花弁を象った帽子を被っている。
現れるのはオープンキャンパス、学園祭、入学式、卒業式といった特別な行事ぐらいでクッシー君を見た人はほとんどいないとされる。そのため、目にした人には幸運が訪れるというレア的要素を含んだマスコットキャラ。何だか学園に伝わる七不思議の一つにクッシー君が仕舞われる場所を題目としている物もあるそうで、何とも謎に包まれた存在であった。
「去年も私見れなかったんだよねー。あー見たかったなぁクッシー君!」
「私は少しだけ見た事ありますよ?」
「え、うそうそ!? どんな姿だったの紫ちゃん!」
黄村さんと紫さんは片づけをそっちのけて置いてあったプリントとボールペンに書かれていくクッシー君の絵に釘づけになっていった。
――やれやれ、こういう所を見てると彼女達も今時の女の子なんだな。
前世の分から現世まで人生経験した年上の観点から僕は彼女達を微笑ましく見守った。
さて、もう察する通り、クッシー君の正体はあの『橙堂藍染』だ。
経緯は長くて説明が面倒だから省くけど、不可解な過程を経てクッシー君の着ぐるみを着て学園祭の接客をする事になった藍染は適当に学園中をぶらりぶらりしていたんだ。そこへ二人の夫婦らしき男女がクッシー君扮する藍染を発見し、笑いながら近づいてきた。
藍染は若干うんざりしながら着る前に教わったチャームポイントを引き立たせる身ぶり素振りをして今までのように反応したんだ。そのまま写真を一緒に撮りたいとねだられて相手にしていたんだけど、男の顔がちょうど藍染の耳の位置に並んだ時、男がひっそりと呟いたんだ。
「初めまして藍染殿。私共、訳あってあなた様にお願いがあり今回参られた身の者です」
自分の事を知る者――丁寧な言葉遣いをする目の前の男――が何者か藍染は即座に気づいた。
自分が住まう屋敷、またはそれに連なる橙堂家の関係者だという事を…。
話は以下の通り――
今から三日後の夜に行う橙堂家の次期後継者を決める『朧夜の義』
現当主の血に連なる者が互いに武を競い、勝ち残った者がその資格を得るいわば選定の儀式。
その儀式への参加をどうか断っていただくよう自分達はここへ参った。
――早い話が橙堂家当主の正妻の息子達――具体的には藍染にとって腹違いの兄弟側が形成する派閥――からの妨害だった。
藍染は当主――父親――に養わせてもらっている身として義務的な意味合いでこれだけは出るようにと命じられる実力確認を要とする試合にだけ力を振るうようにしている。
暴力は好まずとも稽古だけはかかさず、知らぬ間に兄弟の実力を越えた力を得ていた藍染は相手の面子など考えず、ただ早く終わらせたいという願望から兄弟を叩きのめしていた。
それが相手側に後継者の選定で大きな影響を与えられると不安を覚えられ、藍染に『脅し』という形で後継者になる権利を諦めて欲しいと実力行使に出てきたのだった。
だけど、実際そんな事は藍染にとってお門違いだった。自分と母を苦しめた諸悪の根源でもある橙堂家の当主になど進んでなりたくなかった彼には言われずともそうするつもりだと男に説明した。
これで納得すればよかったのに…。
男は事もあろうに藍染へ火に油を注ぐ事をのたまった。
「あなた様からそう言ってくださるのは心強い。ですが、保険としてしばらくあなた様が『恋慕なされるお嬢様』の身柄は私共の方で預からせていただきます」
その言葉を聞いた瞬間、藍染は反射的に鍛練して磨き上げた拳から放つ正拳を男の腹に当てていた。残った女の方からは胸倉を掴み上げて聞き出せるだけの情報を手に入れ、そのまま学園を全速力で駆け回った。
クッシー君ランナー説の生まれた瞬間でもあった。
その頃、あの女はイベント通りに体育館で橙堂家の者達に誘拐されかけていた。いや、そういう風に『演じていた』。他の攻略キャラ二人が大変な目に合っているというのに、未だイベントをこなそうとする姿勢には僕もある意味驚嘆に値するよ。
体育館は演劇の真っ最中。周りはこれが劇の一環だと信じて疑わず、笑いあり驚きありといった感じでその光景を見ていた。ご丁寧に誘拐犯達は演劇部が次の劇で使う筈だった衣装を勝手に使って行動へ移していたんだからね。
あの女は本気で誘拐されかけているというのに、『すぐに助かる』という確信を胸に秘めながら『OM2』のようにいきなりの事で慌てふためる主人公を演じていたんだろうね。まったく大した役者だよ。ぜひとも舞台に上がる機会があったら悪女の役で出てみた方が良いね。仮面を被る女としてうまく表現された役が出来てきっと人気者になるんじゃない?
このまま体育館の外へと連れ出されるかと思いきや、誘拐犯の一人が突如として入り口から伸びた茶色い足で蹴り押されて転がっていった。そこにはどうにか間に合った藍染――クッシー君――の姿がいたという訳だ。
そこからは黄村さんが言った通り、辛い仕打ちに揉まれながらも猛稽古という名の英才教育を施された藍染にとって誘拐犯達は敵ではなく、すぐさま全員叩きのめされたという訳だった。
そこから藍染は主人公を守るために今まで抑えてきた自分の力を振るう覚悟を決め、向こう側の思い通りにさせないよう朧夜の義へと挑む事になるんだ。
なーんとも泣かせる話だねー。
…だけどちょっといいかい?
何でそんな誘拐という『犯罪』が実際に行われた事を包み隠しにしたまま、学園にも警察にも相談しないで後継者を目指すとかいうこっちの方が断然ややこしくなりそうなやり方を目指すんだよ。
一応、この学園って警察関係者にもけっこう顔が利く力持ってるんだよ? お家がどこまで力持っているのか僕には分からないけど…。
第一、家が嫌いなら何でわざわざ向こうのやり方に最終的に従うような道を選ぶ。元から一匹狼の気質が激しくてコミュニケーション能力が低下している弊害だって言いたいのかよ! もっと使うべき物とやるべき物を考えなよ!
…とは言っても、元々こういう世界だと言われればそんなのお終いなんだけどね…。
それじゃあ、僕もそろそろ…。
「最後の荷物は僕が持っていきますよ。後は休んでいてください」
「ホント!? いやー助かるわ! お願いできるかしら白水君?」
「じゃあ行ってきます」
「うん、行ってらっしゃい」
用意を始めないといけないとね…。
第三のターゲット『橙堂藍染』の計画を――。
――――――――――――――――――――
「ふぅ……」
今日は本当に疲れた。柳二の策略でこんな物を着せられて学園中を歩き回されるなんて想定外だったよ。人と接するのがあまり得意じゃない僕はただ言われた通りの事しか出来なかったけど、着ぐるみの力による物か、意外と人気になっていた。
話さなくてもよかったのが幸いだった。そうする場合だったらこの役割を放棄していただろう。
そうしなくてもこんな物を着るのは元から嫌だったけど、百合が喜んでいるんだったらこれもいいかなと考えたから何とか続けられた。
「…めんどくさいなぁ」
一部では伝説とされるこの着ぐるみ。まさかこれが体育館の裏に隣接している今はもうほとんど使われない倉庫にあるだなんて誰も思いはしないだろう。何気なく存在する物置き場にひっそりと保存されている事を知るのは僕達生徒会と先生方だけだ。
生徒会は今、会長が交通事故にあって入院しているせいで不安定になっている。柳二が急遽代理を務めて何とかなっているけど、どうやら僕達…百合の事に頭がいっぱいで仕事を怠けていた部分がある事に色々と起きてから気付いた。
学園祭に向けての手続き云々をやるよりまずはそちらからを片づける事を専念し、夜中までギリギリに生徒会室で籠っていた覚えがある。僕は書記を務めているけど、怠けていた分だけ必要な筈の記録を学園中動き回って集め直さなければいけなかった。
改めて周りに迷惑をかけていたと自覚したよ。記録の確認のために色々な人と話したけど、誰もが僕の事を冷たい目で見ながらしぶしぶと記録帳を見せてくれた。
…少しは利口にならないといけないのかもしれない。
こんなんじゃ百合を守れないよ…。今日だって僕のせいで百合を危険な目に合わせてしまった。前にやられた虐めから二度とあんな目に合わせないって誓った筈なのに何て様だろう。
今回は大事に至らなかったけど、下手をすれば虐めの時より酷い目にあったかもしれないのに…。
――力が欲しい。百合を守り抜ける絶対的な力が…。
そのためだったら邪魔をするやつらを唯一黙らせられる立場の当主にだって何だってなってやる。
柳二に「お前のくだらない事情で百合を巻き込むな」と言われた。あいつの言う通りだ。僕はこの『くだらない事情』を一刻も早く終わらせるため、自分の身を守るためだけに磨き上げたこの技を大いに振るおう。
「よいしょっと…」
一先ず着ぐるみを外に置かれている台座に残してから倉庫の鍵を開けて中に入る。蜩の鳴く時間帯もあってか、元々光を入れにくい構造である倉庫は暗黒に支配されていて、今や電気を付けないと満足に中をうろつけない。
倉庫は結構広くて所々と散らかっているから足元に気をつけながら歩いていく。随分古い倉庫だから埃が少し舞うけど気にしない。
そのまま暗闇の中、電灯のスイッチがある筈である位置に辿りついた僕は早速スイッチを押す。
「…あれ?」
おかしいな? ひょっとして蛍光灯の取り換え時だったのかな?
僕はスイッチを“パチパチ!”と何度も往復して押しても一向に灯が照らす事はなかった。
そんな時、外で風が強く吹く。そういえばこれから豪雨が来る可能性があると天気予報が出てた気がする。この時期は気候の変化が著しいんだろう。
おかげで倉庫のドアが激しく左右に動きだすと、ついには風の力に押されて勝手に閉じてしまう。いきなりしまったドアが大きな音を響かせ、僕は一瞬驚いてしまうけど、そのまま何事もなく入り口へと元に戻ろうとした。暗闇は慣れている、大丈夫、怖がる事は何もない。
“ぶぶぶぶっぶっ!”
倉庫に奇妙な音が聞こえてくる。それは昆虫が鳴らす羽音と同じ…。
(カナブンか何かが紛れ込んでいたのかな?)
僕はそう考えつつ、羽音が響く倉庫を歩いていく。足元に気をつけなければいけないからその足取りはいささか遅い。
恐怖による緊張もないまま、僕は普段通りに歩く。
――そこへ、僕の背中に何かが止まる。
「うわっ!?」
想像できた。たぶん偶々虫が僕の背中に当たったんだろう。慌てて僕は身体を大きく揺さぶってその虫をふるい落とす。
また止まられては敵わないと考えた僕は一層と入り口へ急いだ。
そんな僕に待っていたのは…。
「うわあぁぁぁぁっ!!」
――突如として足に襲った鋭い『激痛』だった。
僕はたまらずその場で倒れ込み、足に走り続ける激痛に悶えた。
(何が起きたの!? 僕の足に何が――!?)
理解しがたい現象の中、倒れながら戸惑う僕に次に待つのは…。
「ぎゃっ――!!」
――腕に襲った同じ鋭い激痛。
腕にも足と同じ激痛が絶え間なく走り続け、どういう訳か満足に動かせない状態に陥った。
まるで筋肉や関節が錆付いてしまったかのように僕の片腕と片足はガチガチに固まる。
それでもまだ動かせる方の腕を振り回し、正体不明の襲撃者を僕は探ろうとした。
すると、またあの羽音が近づいたかと思いきや…。
「~~~~~っ!!」
もはや僕は叫ぶ声さえ失っていた。頬に走ったあの激痛に耐えようと必死で歯を食いしばった。
そして、死ぬ気で倉庫から逃げ出そうと思い通りに動かない身体を引きずりながら入口へ戻る。
逃げている間にも激痛は与えられた。一度や二度なんかじゃない…。
全身を激痛で犯されていく度、僕が気が狂いそうになった。みっともない叫び声をあげながら倉庫から飛び出した。激しく暴れたせいで倉庫の中から“がらがら”と何かが崩れていく音が聞こえてくる。
(――逃げなきゃ、逃げなくちゃっ!!)
アスファルトの道を這ってでも倉庫の傍から離れようとする僕の近くにまたあの“ぶぶぶぶっぶっ!”と鳴らす羽音が聞こえてきた。
この時、今まで暗闇に包まれていた倉庫にいたからこそ気付かなかったけど、学園の電灯が僕の辺りを照らしていたおかげでようやく『そいつら』の正体が分かった。
「あ"あ"あ"あ"あ"あ"っ!! う"あ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"っ!!」
そいつらは僕を狙ってこっちへと猛スピードへ近づいてきた。その恐怖に負けた僕は死に身体を気力だけで立ちあがらせ、多少ぎこちなくとも全速全力でそいつらから逃げ出した。
走る、走る、走る…絶対に後ろを振り返るな!
やがて、学園の広い敷地へとたどり着いた。まだ片づけを続けている他の生徒の姿が見える。人の姿が見えた事で安心し、僕は彼らに助けを求めた。
「だず、だず、げ…ずげ…で……!」
あれ、こんなに枯れた声だったかな、僕って…。
皆、どうして僕の事を見てそんな目をしているの…?
僕の顔に何かおかしい所があるの…?
何だか頭がくらくらする。視界もぼやけて見えずらい。
あぁ、何か…もう…だ、め……。
「ぜひっ…ぜひゅー…こひゅー……」
熱い…身体がすごく熱い…もう晩夏で夜になるというのに……。
誰か、水を…水を飲ませて――。
朦朧とした意識の中、藍染の額に生温かい物が落ちた。
それは今の藍染が求めて止まない水――雨――だった。
天気予報通り、夜に集中するとされた豪雨が今まさに降り始めた瞬間であった。
(あぁ…気持ちいい……)
唯一叶えられた願望。
藍染は落ちてくる恵みの雨を全身で味わい――。
(…ありがとう、神様)
信じた事のなかった神様に感謝を述べた後――。
二度と覚める事のない眠りにつくのだった。