中編3
明日死ぬとしたら、生き方が変るんですか?
あなたの今の生き方は、どれくらい生きるつもりの生き方なんですか?
――『チェ・ゲバラ』
今日は学生生活の中で唯一の定休日となる日曜日。
昨日、緑川葵の急変した容体を聞いたばかりだ。一時は心肺停止状態にまでなった葵の心臓はかけつけた駅員が持って来た除細動機のおかげで無事に鼓動を取り戻し、そのまま病院へ搬送されて緊急手術を受けたらしい。
手術とはいっても、葵の心臓の病を完治させられる手術法ではなく、応急処置に近い方法が取られた。まぁ、本来葵がアメリカで受けるべきだった手術法は最近海外で確立された物だから日本ではまだ医療法にひっかかるといった問題があるからね。
従来では成長に合わせて何度も手術をしないといけない葵の心臓を短期間で治せるという事は大変魅力的だろう。だけどメリットの分だけリスクも大きいという事もあって正真正銘の賭け事になる。色々と僕は葵の心臓の病や治療法について独学で調べ上げたおかげでその難しさは多少ながらも理解できた。
今頃彼は人工心肺や数多くの点滴に繋げられた状態でベッドに横たわっているだろう。心臓における治療はお金もかかるし、そのために使う器機も最先端が常となっているからね。
これで葵はアメリカへの出発を早めなくてはいけない決断に迫られるだろう。今の状態にならなければ本来していた筈の事も出来ないまま、我が子を案じる両親によって彼は選択を封じられてそうする他ない。
葵の心臓が必要とする手術形式上、入院中の面会も家族その他含めて制限される筈だ。あの女がやりたがるイベントも強制的に封じさせてもらった。もちろん、電話といった通話手段も病院内では御法度だ。
…とは言っても、それまでに葵が目覚めてくれるか僕も分かんないんだけどね?
今回、僕が葵に仕込んだのは『鈴蘭』。
これも前回使用したチョウセンアサガオと同じく毒草だ。摂取すれば激しい嘔吐や頭痛に見舞われる。しかも過剰に摂取すると『心不全』を引き起こす。
身体に影響する毒の量は体重一キロあたり0.3ミリグラム。葵の体重は五十五キロ前後だったから約16.5ミリグラム。数字からみれば簡単そうだけど、これがそう上手くいかないんだよ。僕が望んだ毒性は後者だからこの量になるまで鈴蘭から毒を抽出すればいいと素人目で見れば簡単だろうね。
だけど植物から毒を抽出するというのは原材料をかなり必要とするんだ。
たった耳かき一杯分の量を正確に集めるとしたらどれくらいになるか考え付くかい?
それじゃあ例として鈴蘭と成分の含有量割合が同じとされる薔薇のアロマ抽出方法を述べてみよう。
だった十ミリリットルのアロマを抽出するのに薔薇は何本必要になるのか考えた事があるかい? 目安として一滴で六十本以上が必要だよ?
はい、時間終了。正解は約七百本以上――重さに換算すれば四十キロ以上――も必要なんだよ?
とてもじゃないけど手作業、しかも一人作業で達成できるような代物じゃないよね。鈴蘭なんて小さいからなおさらさ。
だから応用――裏技――を使う事に決めたんだ。
葵は心臓の発作を抑えるために薬を飲んでるって事は前にも話したよね?
薬ってとっても便利だけど、結局のところは身体にとって毒物でしかないんだよね…。
使われるべき薬も効能を統一してはいるけど、少なからず副作用も起きてしまう。
安心そうな胃腸薬にだってちゃんと副作用があるって知ってた? ちなみに一部的だけど緑内障や高血圧を誘発する物もあるんだって。
あ、ちょっと怖がらせちゃったかな…。大丈夫、飽くまで副作用とはいっても薬に対する耐性が弱い人じゃない限りは上のような事は滅多に起きないから安心してこれまでどおり、用法容量を守って使用して欲しい。
それと、やる人はほとんどいないと思うけど、薬は絶対にお酒と一緒に飲んだりしないようにね!
――閑話休題。
おっと、話が逸れたね…。
出来る限り山から採取してきた鈴蘭から抽出できた毒の量は到底心不全を引き起こすには足りなかった。よくて気分が悪くなったり気持ち悪くなるくらいの量でしかなかった。
でも、僕はそれで構わないと判断した。言った筈だよね、僕はどんな物でも利用するって…。
実は鈴蘭は昔、『強心剤』の薬として使われた事もある薬草でもあるんだ。今は危険性を考慮して使わなくなっているけど、毒も使い方を間違えなければちゃんと薬になる。
逆に言えば『薬も使い方を間違えれば毒になる』からね。
葵はいつも薬のケースを持ち歩いていた。中に入っている薬はカプセル型で朝昼晩の三日分。一度に一錠づつ飲む習慣があった。数で言えばケースに入っていたのは九錠ほど…。
僕はその一錠に細工をしたんだ。濡らさないようにハンカチで覆ったままカプセルを開けて中身を露出。その中にあらかじめ用意しておいた粉末状の毒薬を詰め込む。それを元のケースに収めて何事もないように鞄へと戻しておいた。
人間の身体というのは本当に不思議でね…習慣という物を体内で本人の知らぬまま形成しているんだ。
たとえば普段運動していない人がちょっと運動しただけで身体を壊す事もあるし――。
いつも運動している人がちょっとサボっただけで太りやすくなる事もあるし――。
不思議なバランスを誰もが持っているんだ。
僕が細工した葵の薬には今までの物より心臓をさらに活性化させる効能があった。普通の人が飲めば心拍数が上がったりしてしばらくすれば何事もなく元に戻る代物。
だけど葵は心臓そのものに異常がある。そんな壊れたポンプが身体中に早く血液を送ろうと稼働すればどうなってしまうのか考えるには難しくないだろう? 見事、心臓そのものを悪くしてしまい、心臓を停止する結果に繋がったという訳だ。
それに、使った鈴蘭の毒は元より心臓用の薬としても使われていた代物。元々の葵の薬と絶妙に混ざり合ったせいで身体を犯す意味での毒としては検出される事はないだろう。
良くて所持していた薬の中に『不良品』があったぐらいにしか検査結果を出す事が出来ない。
薬は身体に完全に吸収されるには時間をかけるんだ。葵は下校途中で倒れたから多分昼間に飲んだ薬が当たったんだろうね。
ロシアンルーレットというのはこの事さ。約九分の一を葵は二日目の昼に当てたから確率的には良く持ったと言っていい。
こういう場所は中学三年の頃にインフルエンザで行ったきりだったよなぁ…。
それが時間の許す限りは行っておこうと思うようになるなんて、有用性という価値観は状況によって一気にひっくり返る物なんだって改めて認識したよ。
「あのーすみません。電話した通り、面会希望の白水なんですが…」
「はい、白水さんですね? 少々お待ちください」
看護師が僕の書いた面会の希望届を受け取り、パソコンを使って確認を取る。
「承りました。初回ではないようですのでそのまま真っすぐ三階の三〇七号室へとお向かいください」
「ありがとうございます」
僕は慣れた足取りでエレベーターへと向かい、目的である三階のボタンを押した。
そう、僕が今いる場所は病院。彼女が今だ眠り続けたままでいる場所…。
エレベーターはすぐさま三階へとたどり着き、乗る際には必ずしも足にかかる重力の負担から解放された僕はそこから出てくる。清潔感ある病棟の構造は自然とリラックスさせてくれる。
僕はこの階での最後の受付を済ませ、ようやく目的の三〇七号室の前へと立つと、まず三階ノックをして入室の確認を取る。だけど返事は返らない…この病室は個室だけど、その主はまだ僕が来た事はおろか、自分が今どこにいるのかさえ認識できない状況だ。
『今まで通り』に僕はノックの後にドアを開いて中に入った。
「やあ、また来たよ。今日は調子はどうだい…絵梨菜」
視界の先にいたのは人工呼吸器に繋がれ、腕に点滴を付けたまま眠り続ける絵梨菜の姿があった。
彼女は入水自殺未遂から発見された後、緊急搬送でこの病院に来ていた。容体はたいぶ時間が経っていたせいで絵梨菜の身体に流れる血は出血性ショック死を引き起こしても仕方ないくらいに失っていたんだ。風呂へと移行して真っ赤に染まった現状がそれを物語っていたと救急員が言っていたくらいだったそうなんだって。
あともう少し、病院での輸血が間に合わなければ絵梨菜は後から多臓器不全を引き起こしかねなかったくらいだった。本当にギリギリの状態だったんだよ…本当に間に合って心の底から良かったと感じたね。
だけど絵梨菜はまだ目を覚ます事はない。それが血を大量に失った事によるものか、はたまた心が『目覚める事』を拒絶しているのか…。
「もうすぐ学園祭だよ、二年の頃もかなり派手な出し物が多かったけど今度はどうなるだろうね? 君も中学と同じように学園で料理部に入っていたから様々なバラエティーでの料理を来校客に振る舞って大盛況だったよなー。僕も休憩時間の時に来たんだけど、先に来ていた男子達が我先にと群がっていたせいで諦めようとしてたっけ。だけど帰ろうとした時、絵梨菜が特別に裏で僕のために作った料理を持ってきて食べさせてくれたよね? 本当においしかったからビックリしちゃった…正直店を出してもいいくらいさ」
聞こえてるのかもしれないし、聞こえてないのかもしれない。
そんな事は僕にはどうでもよく、何も返さない絵梨菜を相手に話かけていく。僕は考えつく限りの楽しかった思い出を物語り、少しでも絵梨菜が目を覚ましてくれるように手伝った。たとえ効果がまったく無いとしても、僕はそれを続けた。
いや、僕が『続けたかった』んだ…。
「今は学園がおかしくなっているせいだけど、本当は学園の大勢が君の元気な姿を待っているんだよ?」
だからさ…。
「早く…目を覚ましてくれよ…絵梨菜……」
知らず手に力が籠もり、ズボンの内もも部分に皺が寄った。
――このままだなんて…嫌だ。
僕は神様なんかに祈らない。この世界を作ったであろう神様を…。
元々理不尽な境遇を経て悪役ヒロインへと昇華させられる配役を下した『原作』でさえ僕は到底認められなかった。幸せをつかむ事を許されない孤独な少女の結末には賛同を拒んだ。
僕は絵梨菜の本当の姿――ありのまま――を引き出したかっただけなのに…。神様はこれを認めてくれはしなかった。
たとえあの女があんな風になるよう裏で操っていたとしても、報われるべき絵梨菜に味方してくれなかった神様には僕は絶対助けを求めるつもりはない。
今後も祈るべき相手は『お前』なんかじゃない。
そうするくらいなら僕は自分自身に祈って困難を達成するための勇気を湧き出たせる方がマシだ。
僕は若干冷えた絵梨菜の左手を握りながら、そんな事を考える。
そこへ、後ろから誰かの話し声が聞こえてくる。絵梨菜に面会へ来るのは圧倒的な『力』に怯えて決心が付けられない弱者とは違う者だけだ。僕はそれに当てはまる人物を何人か知っている。
「あら、あなたも来てたのですの?」
「あ、こんにちわ…」
ドアを開けて入ってきたのは絵梨菜の親友である瑠璃恵と浅翠だ。
いつも絵梨菜に付き添っていたという理由で少なからず影響を受けているかもしれないのに、二人は僕と同じように変わらず絵梨菜へ面会しに来る数少ない人物だった。親御さんの仕事に余計な茶々を入れられてるかもしれないのに、彼女達は自分の決意を決して曲げようとはしない
すなわち、絵梨菜の『親友』である事を――。
「ささ、『おばさま』もどうぞこちらへ」
この日、僕は同じように来たのはこの二人だと考えていた。そこへ予想だにしなかった人物が一緒に面会へ来るとは思いもせずに…。
瑠璃恵に案内されて病室に入ってきたのは――
「…あなたは?」
「…お久しぶりです桃山さん。中学まで絵梨菜と同級生だった白水丹です。覚えてらっしゃいますか?」
「ひょっとして、あの白水さんの?」
――絵梨菜の母親だった。
さすがに三年も経てばパッと見では分からないよね。若干歳を取ったけどその容姿は昔の面影がある絵梨菜の母親に僕は改めて自己紹介をした。絵梨菜の母親――杏奈さん――は僕の名字――白水――に反応してどうやら思い出してくれたらしい。
「あなただったのね、絵梨菜が中学の頃と同じ同級生が学園にいるって話してくれた事があったわ。その話題になるとあの子、嬉しそうに話してたわ…」
「恐縮です」
ゆっくりと杏奈さんは用意された椅子へと座って絵梨菜を見つめる。
「杏奈様、失礼ですが、その…旦那様の方は……」
そんな杏奈さんへ浅翠は今だ面会へ来た事のない絵梨菜の父親について失礼を承知で尋ねた。
「「仕事で忙しいので後にしてほしい」――あの人は毎回同じ事を行って断るの…だけど、あの人は自分の会社をズタズタにした原因だと考えているこの子に対して怒りを感じてるみたい」
「ご自身の娘を信じなさらなかったのですか!? 旦那様は!」
「あの人は私達より仕事を優先してきた人だから…そういう人なのよ……今さら悩んでも仕方ないわ」
虚ろな目をして顔を伏せたまま言う杏奈さんがかつて社長夫人として張りのある態度をしていた頃と違って弱々しく感じられた。
「でも、私も人を悪く言える立場の人間ではないのかもしれないわ…」
「ど、どういう事ですの、おばさま!?」
「あの日、あの人が絵梨菜を叱り上げた日――私は逃げてしまったの…。娘がそんな事をするはず無いって大声で反論する勇気が持てず、ずっと私は絵梨菜が悲しむ姿を見ているだけでした。その後もあの人は「放っておけ!」と私に命令し、それに愚直に従った私は絵梨菜がこのようになるまで励ましの言葉をかけてやる事も出来ずにいた愚か者なのです」
「それは…」
「もはや母親を名乗れる資格もないの…私には……」
自分自身を嘲笑するような笑みを浮かべながら語る杏奈さんは酷く悲しみを抱いていた。
――あの日、屋上で泣いていた僕と同じだ…。
自分の無力さを嘆き、罰を求める自分自身を苦しめている『囚人』。
「それは違います…桃山さん……」
だけど、この人は僕と違う部分がある事を知っていた。
僕からのいきなりの否定に杏奈さんは訳が分からないという顔を上げた。
「絵梨菜は…あなたの事を尊敬できる母親だって僕に電話で何度も話してくれた事がありました。厳しいけど、自分が必要とする時にはいつも傍にいてくれる人だって…。父親と違ってあなたはちゃんと自分の事を褒めてくれるのが何よりも嬉しかった…そう楽しそうに言ってました。」
「そんな事を…あの子が…だって、私は……」
「俺にも理解できました。絵梨菜はあなたの事を――母親としてちゃんと愛していて、彼女もまた母親としてあなたに愛されているんだってはっきりと気付いていると…。あなたが気に病んでいるその日だって、絵梨菜はあなたが後ろから心配そうに見守ってくれている事を知ってました」
「嘘よ…嘘よ! あの子はきっと私の事を怨んで――」
「あなたまでもが彼女の想いを偽ってどうするんですかっ!!」
突如として叫んだ僕の大声に病室にいる全員が黙った。
「あなたは誰だ! 絵梨菜の母親じゃないか! だったら今するべき事は何か理解しなければいけない!」
病院では大きな声を出すのは厳禁。だけど今の僕にはそんな事は頭の外に置いていた。
「頼れる人がいる事! 頼ってくれる人がいる事! そんな二つの幸せを自分の娘と一緒に感じ取りたいとは思わないんですか! 子供にとって親は特別なんです! 困った時、本当に助けてくれると切実に考えられる最後の拠り所なんだ! あなたからそれを放棄したらあなたは本当に駄目になってしまう!」
気付けば、僕は膝と手を床につけていた。そして、頭を額が床に着くまで下げていた。
――土下座をしたんだ
「お願いです! これであなたがたとえ絵梨菜の母親としてもう振る舞えないと考えてしまう事になっても、『もう一度』絵梨菜の母親になろうと頑張ってください! やり直せるって事を分かってください! どうか、お願いしますっ!!」
廊下の方が騒がしい。僕の声に誰かが集まってきているようだ。
後ろで瑠璃恵達がドアを少し開いて「何でもありませんからどうかお引き取りを!」と言っている。
「本当に…やり直せるの…こんな私でも……?」
「……はいっ!」
「あなたは、許してくれるの…」
「……許しますっ!」
今だ土下座を続ける僕は杏奈さんの顔を見る事は出来ないけど、聞こえてくる嗚咽からどんな風になっているのか大体想像できた。
その後、ベットに横になる絵梨菜の毛布へすがりつき、泣きながら「ごめんなさい…本当に、ごべん、なざい絵梨菜……っ!!」と謝罪を繰り返す杏奈さんの姿があった。
――しばらく二人だけにしよう。
そう考えた僕は病室から出ていった。もちろん、同じ意を汲んだ瑠璃恵と浅翠もだった。
瑠璃恵は「絵梨菜様がいるというのに、おばさまに向かってあんな事を言うなんて不謹慎ですわ!」と文句を後から言い始めたけど、最後には「…ですが、その…あのようにしてくださって本当は私も感謝してますわ……」とどこか照れくさそうにしながら言った。
これをからかってやれば「せっかく人が感謝を述べてなさるというのにっ…!!」と眉間に皺を寄せて苛立ち、いつもの瑠璃恵に戻った。
うん、やっぱり瑠璃恵はこういう感じじゃないとね…。
さて、つかの間の休みはこれで終わりだ。
次のターゲットまで少し時期を要する。あの女達が変な事をし始める前に監視をしておかなければいけない。そうしないと計画の工程を一部変更せざるを得ない場面を見逃す事になる。
あと、次にここに来る時は昔の友達も呼んでまた絵梨菜に会いに行こう。
警察に絵梨菜の関係者という枠で捜査される際の集中を分担させる意図はあっても…。
彼女が病院にいる間、寂しくならないようにしたいのは僕の本心なんだ。