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中編2

 いかなる犯罪の源泉も、若干の思慮分別の欠如、理性の錯誤、情熱の爆発的な力である。


――『ホッブス』

 学園中が大騒ぎ。誰もが一つの話題に熱中し、悲壮に暮れる者や驚愕に満ち溢れる者が巨万といる。


 すなわち、『生徒会長が事故にあった』。


 学園側からは単にそう説明されているけど、『どうして事故にあったのか?』という事には一切触れないように誘導した類だった。大方、学園長が情報操作をして余計な噂を立てられないように配慮したんだろう。孫を溺愛するのもいいけど、本人の身から出た錆を『悲劇』として偽るってのはどうかと思うなぁ…。


 独自の情報ルート――うっかり教師が零した言葉を偶然聞いた生徒の噂話――によると、藤和の容体は相当重いらしい。全身複雑骨折は当たり前の事。それに頭部や頸部を激しくぶつけた事によって集中治療室が離せない。最悪、後遺症が出て一生植物状態のまま病院で暮らしかねないとの話だ。


(なーんだ、生きてるのか…)


 別に僕にとっては生き延びようがそのまま死のうが構わなかったけどね。目的は飽くまで『しばらく邪魔をされないようにする』だったし…。この結果はついでと言ってもいい。


 生徒会の方は突如として会長が事故にあったという報に慌てたそうだけど、面目上は副会長である柳二が代理を務める事でどうにか収まった。まぁ、『面目上』だしね…あいつらはいてもいなくても変わらない空気みたいな存在だともっぱら僕は認識してたレベルだし…。


 だけど僕が一番気にしているのはあの女の様子さ。


 本来なら選んだ選択肢の通りでいけば勝負には何事もなく勝利し、自分の元へと告白しに戻ってくる筈だった藤和がやって来なくてどんな気分だったんだろうね? 恐らく、藤和が何かあったのか? と心配するより『どこかで選択肢を間違えたか?』と自分本位な考えに囚われていたに違いない。


 それがいざ学校へ来てみれば伝えられたのは明日の命も分からない有様!


 信じられなかっただろうね? 凄く戸惑っただろうね?


 こんなのゲームにはなかった筈なのに!? って混乱しているだろうね?


 だけどこれが『現実』なんだよ、同類さん。


「あ、おはよう白水君!」


「おはようございます部長」


「今日の学園集会聞いた? まさか生徒会長がトラックに撥ねられたなんて私も度肝抜かれちゃったよ! こんな大事な時期だっていうのに災難だよねぇ…」


「…本当ですよね、まさかあの赤羽が……」


 部室で作業している僕の後ろから声をかけてきた黄村さんと今日のトップニュースについて語り合う。僕はこれを第三者の観点で話を合わせ、他は何も知らない風に振る舞った。


「それより部長、文化祭ではパンジーを使った花文字や金百合と銀百合の育て方といった出し物を計画しているんですけど、はっきり言って少々レパートリー増やした方が良くありませんか?」


「あーうん、白水君もそう思う? はぁーそうだよねぇ。やっぱりもう少し考えた方がいいかぁ…」


「あまりつまらないと前回みたいに人が全然集まらない事態が…」


「あーあー聞こえない! あんなトラウマ張りの孤独感を味わうなんて私はもう二度と御免よ!?」


「それなら僕からもレパートリーを追加してもいいですか? 家の庭で育ててたちょうどいい物がここにあるんですけど」


 そう言って僕は元から用意しておいた花々を公開した。


「とりあえず観賞用と飾り用の二つに分別しました」


「おーこれは見事な牡丹と薔薇とラベンダーに鈴蘭に…えっとこの二つは?」


「こっちはチョウセンアサガオとキンリョウヘンと青ケシですよ。珍しい花で特に青ケシの花は綺麗な青色の花弁を咲かせてくれるんです」


「こんなにいっぱい用意してくれたんだ。本当にありがとうね白水君」


「いえいえ、今回でどうにかしないと僕達は本気で『お終い』ですから…」


「オウ、マイ、ガットッ!!」


 僕としてもこの部は継続出来るようにしてほしい。趣味を共有し合える仲間がいるって事は本当に幸せだ。部長や紫さんも本当に良い人でこういう人達が世の中のためになる仕事に就いてくれたのなら安心して暮らせるようになるだろう。


 僕は…僕はもう無理だよ……。


 せっかく綺麗なままだったのに…汚してしまった。


 残酷さや非情さを正真正銘の意味で理解してしまい、今でも計画のためならばと追及を続けている。


 こんな人間が人を喜ばせる事が出来るなんて誰が言ってくれるんだい? 僕みたいな人間は求めてはいけないんだ。諦めなくてはいけない。


 現に僕はそんな二人を計画の一部として利用している狡賢いやつなんだ。



 渡した多くの花の中にある一つ――チョウセンアサガオ――。


 山へ登った際、大きな樹木として生えていた物を挿し木にして持ち帰ってきた花。黄色いラッパの形をした大きな花が特徴的だけど、その実は花に反して刺々しい丸玉という不自然さ。


 そして、僕が藤和を陥れた正体でもあった。


 一般的には民家でも所々と植えられているチョウセンアサガオは実を言うと『猛毒』の薬草としても知られている。全身にその毒は含まれていて、根っこはゴボウに似ているものだから間違えて食べてしまう事件が何件か出てくるんだそうだ。葉や花も比較すれば断然少ないけど例外じゃない。


 一度口にすれば意識障害、幻覚という中毒症状を引き起こす毒薬草。


 その汁でさえ、目に入れれば『瞳孔散大』を引き起こして視界を激痛を伴って奪い去る。



 これで分かっただろうか?


 僕はこの花を科学部から秘密裏に拝借した実験器具で抽出したんだ。抽出したその毒液を藤和がバイクに乗る際は必ず付ける目薬に混ぜ込んでおいた。


 藤和はあの目薬を学園でも懐に入れて持ち歩いていたからね。藤和のクラスの授業が体育なのを見計らって、僕も移動授業というギリギリの隙をついて仕込みを完了させたんだ。


 結構焦ったよ。時間を誤れば行動に怪しい点が浮かび上がってしまうものだったから…。


 あらかじめ用意しておいた毒液を即座に目薬の入れ物へと流し込むのに一分とかからなかった。


 藤和の机やロッカーがどの位置にあるかを念入りに調べて何度もシミュレーションしておいた賜物だろう。


 事を終えてから移動授業の教室へとクラスの大勢より少し遅れてやってきて何事もなく席に着いた途端、僕は武者震いを抑えるのに必死だったくらいだ。


 そんな僕の行動結果が藤和の事故へと繋がった。あからさまに事故と見られてる現状では警察や病院も薬物反応なんて調べなかっただろう。しかもすでに全身麻酔を介した手術をしてしまった。チョウセンアサガオの毒は麻酔に近いから、いまさら調べようとしても毒物として発見される事はない。それに元々微量で全身を毒で犯すんじゃなく、眼球だけを狙った希釈濃度に作り上げたからね。


 ――ね、つまり…こういう事なんだよ。


 園芸部に僕が計画のために使った花を持ってきたのは『毒にもなる花』を単に『文化祭のために育てた』というカモフラージュだ。


 もちろん、計画用の花だけでは怪しまれる可能性があるから本当に文化祭のために育てておいた牡丹や薔薇も混ぜて持ってきたという訳だった。


 卑怯なやつだと思うかい? 何とでも言えよ…。


 全てが終わるまでは僕はどこまでも卑怯者にだってなり下がってやる。


 それこそが僕の覚悟。



 さて、そろそろ『時間』が近づいてきた。実を言うと、準備は藤和の時で一緒に済ませておいた第二のターゲットである『緑川葵』における計画を進めよう。


 いや、もう“進んでいる途中”かな…?


 僕は毒を使った計画を練ったけど、その種類は大雑把に分ければ藤和のような『時限式』と今度使う予定となる『リモコン式』となっている。


 葵に選んだのは前者の時限式。時間がくれば効果を発揮するタイプ。


 彼も僕の前世の記憶における小説からの情報によると、葵は昔から身体が弱く、特に心臓の持病を若干残しているらしい。今は定期的に薬を飲む事で発作といった症状を抑えながら学園に通っている事を主人公はある程度、好感度を上げる事で暴露するイベントに遭遇するようになっているんだ。


 最終的に好感度がある時期までに九割を超えると葵は心臓を直すためにアメリカへと旅立つイベントに入る。主人公は葵が旅立つ前夜、家を訪れてそこで告白を受ける事になる。だけど裏では葵は成功率の低い手術によって命を落とすかもしれない覚悟を胸に秘めながら手術を受ける決意をしているんだ。ここで出る選択肢が以下の通り。


 ・もしあなたが死んでしまう事になるなら私も後を追う!


 ・大丈夫、あなたの心臓はこんな程度でへこたれるような物じゃない!


 ・私もあなたと一緒について行ってもいい?


 正解は意外にも二番。一番は日本にて主人公は葵の死亡を聞く事になり、三番は手術には成功したけど余念は許されずそのまま葵と一緒に手術先の海外で在住する事になる。


 先に聞けば三番は美談に分類される結末を迎えるけど、もしも逆ハーレムを狙う場合は条件以外なら遠距離恋愛のまま終わるこの選択が化ける。条件を満たす事によって元気な姿で卒業までに日本へと帰ってくる葵の姿を見られ、主人公の逆ハーレムの一員へと正式に加わる事になるんだ。


 欲張っちゃうんだろうな…あの女は……。


 もしも葵を選んで三番を選ぶような形だったら僕も少しは考えたかもしれない。だけどあの女は必ず二番を選ぶつもりだろうね。


 それに、僕にとって緑川葵にはちょっとした遺恨がある。


 まだ絵梨菜が学校にいて、僕や瑠璃恵達が虐めの誤解を解こうと動き回っていた頃の話だ。僕は部活でいじった土で汚れた手を洗おうと水道に立ち寄った時、偶々僕と同じように手を洗おうとしていた葵と鉢合わせたんだ。


 立場上は先輩と後輩。それもあまり親しい柄とは言い難いお互いだったけど、僕は攻略キャラとしての緑川葵を見極めようと試しに話しかけた事があった。


 一癖や二癖ある他の攻略キャラと違って気さくで真面目そうな印象の少年だったよ。相手は僕が絵梨菜と深く関係あるとは知らずに話していたけど、ふと質問した内容に「ここんところ噂になってる桃山絵梨菜っやつをどう思う?」という物を入れたんだ。


 僕が問いかけた質問に葵は――


「最初は綺麗な人だなぁ~って思ったんですけどね、やっぱり怪しいと思ってたんですよ。ほら、綺麗な花には棘があるって良く言うじゃないですか? まさにその通りな人だと思いましたよ。実をいうと俺の幼馴染の百合が虐められ始めた頃、ひょっとしたらって心のどこかで思ってたんですよねぇ…」


 ――なるほど、こういうのを『節穴』って言えばいいのか。


 当時はそう冷静に分析してたけど、今思えば分かったような口を利く目の前のガキを一発ぶん殴っておけばよかったと後悔しているよ。


 藤和や柳二のように直接的な『追い詰め』を行った人間じゃないとしても、結局はあいつらのように絵梨菜へいわれのない悪意を自ら進んで向けていた葵を僕はあの女から『削ぎ落とす』べき存在に定めた。


 こいつは僕の計画の中では一番生存率が高いかな…けど命にかかわる目に遭う可能性を携えている事は変わりない。


「…今日で二日目か」


「ん、何か言った白水君?」


「あ、いえ、何でもありませんよ?」


 おっとまずいまずい。気を緩ませてはいけない。うっかり口を滑らせるなんて馬鹿らしいミスをしたら大変だ。


 葵は今、命をかけた『ロシアンルーレット』をしている。引き金を引くタイミングは一分でも一時間でも自由自在。ただ本人がそんな事をしているなんて自覚をしないまま行っている事を除いては…。


 いつどこで葵は僕が忍び込ませた毒の凶弾に倒れてしまう事になるか…。


 まさか自分の命を握る筈の物が逆に命を脅かしているとは思いもしないだろう。


 そうだね、君は何もしなかったんだ…そう、『何も』しなかった。僕の大切な友人の悲痛な助けを求め続ける声をあいつらと同じように無視した君の事は果たして誰が助けてくれる事になるのかな?



 それと同類さん、残念だったね? あと数日で緑川葵の『最後のイベント』だったのにね…。


 悪いけど先を越させてもらう事にしたよ。



――――――――――――――――――――



 今日も授業が難しかったなぁ。復習は面倒くさいけどやっておかねえと次の授業についていけなくなるもんな…。


 なんで俺ってあんな難関校わざわざ受けたんだろう。元々勉強なんてあんまり好きじゃないのに両親の勧めで試しに受験してみただけだったのに…。絶対に受かる訳ないと高を括っていた偏差値が十も離れた楠賀美学院に運良く合格しちゃったのが運の尽きだったのかもしれない。


 授業についていくだけでも精一杯だというのに、今までの人生の中でこれ以上ないくらい頑張っていると思うよ、俺。周りのエリートなんかと違って凡人だし、特に秀でた特技も持ってないもん。


 そんな周りのプレッシャーに押しつぶされそうになりつつあった俺をいつも支えてくれるのが幼馴染の百合。俺はもしも百合が二年生の時に転校して来なかったらストレスで持病がかなり悪化していたかもしれない。


 近々、アメリカの方で俺は心臓の持病を根治出来る医師から手術を受ける事になった。


 そうなる以上、ここ日本にはしばらく戻って来れない。親父の話によれば春頃には退院できるそうだけど、やっぱり知り合いと長い間離れて暮らすのはいささか寂しくなる。


 この事はまだ誰にも話していないけど、せめてあいつだけでも伝えておこうと俺は思う。だってこれが最後かもしれないんだからな…。ただでさえ難しい手術を受けるには、それ相応の覚悟をしなくちゃいけないって否応でも理解してしまう。


 ――怖い…。


 自分の命を賭けるのは相当の勇気がいるって本当だな。


 そういや俺って子供の頃は本気で弱っちかったっけなぁ…。


 あの頃で付けられたあだ名が『男女』だったし、当時は今みたいに物事に対して耐性がなくて直ぐにぐずり出すような子供だったなぁ。そこへいつも百合が助けに入ってきてくれて「そう簡単に泣いちゃだめ!」って叱ってもらったりもした。


 そんな姿に憧れていたっけ…。子供だった俺は百合の事をヒーローみたいな女の子だって羨望の眼差しで見ていたな。女の子なのにヒーローって今思えばどこか変だよな。本当ならヒーローは男がなる物なのに、聞いたら百合が怒るかもしれないが、ヒロインという器には当てはまらなかったんだ。


 そんな百合は久しぶりに学園でバッタリと出会えば誰もが見惚れるほどの可愛い女の子に成長していた。彼女を見ていると、俺の胸は不思議と高鳴っていった。一時期はそれを持病による心臓の異常かと勘違いしちゃっていたんだよな…恥ずかしいぜ……。


 百合に興味を持ったのはもちろん、俺だけじゃない。学園中の男が百合の事を隙あらば狙おうと影ながら奮闘している程だった。


 だけど、百合の傍にいられる特権を得られたのは学園の中でも頂点に居座る男達。



 学園長を祖父に持つ生徒会長の赤羽先輩――。


 大企業の御曹司でもある副生徒会長の柳二――。


 複雑な事情を持つけど武術の名高い名家の子息である藍染――。



 とてもじゃないが俺みたいな凡人には敵う筈のない相手ばかりだった。俺は百合から望まれているとはいえ、三人と同じように傍に立てても彼らみたいに百合へ特別な事が出来る人間じゃない。


 それでも俺は百合から離れたくなかった。幼馴染という唯一の取り得をみっともなく振るって三人に自分も百合の傍にいられる権利があると強調してまで俺は執着していた。


 ――あの笑顔を俺だけに向けて欲しい。


 たとえ叶わぬ願いだとしても、俺は四人の中で目立たぬ位置にいたまま百合とは可も無く不可も無いような関係を続けていた。


 俺は無力だ。百合が危機的状況下に置かれてても赤羽先輩や柳二のように強い力で百合を助けられる訳も無く、ただ励ましの声をかけてやれるだけだった。


 でも、百合は「それだけでも嬉しいよ!」と言った。あの時ほど力を求めた日は無かったんじゃないかと思う。ひそかに泣いている百合を見ていて願わくば二度と彼女を泣かす事のないような男になりたいと切実に思ったよ。


 だけど俺には時間が無い。だから明日分からぬ日々を何気なく過ごしていくんじゃなくて、せめて後悔しない生き方が出来るくらいにはなろう。


 今、百合は赤羽先輩が事故にあった事を聞いて落ち込んでいる最中だ。吊り橋効果を狙う訳じゃないが、この機会だけが俺の正直な気持ちを伝えるには絶好なチャンスだと感じる。


 そうして俺は一世一代の決心を決めて明後日ぐらいには百合を家へ呼ぶ事に決めた。久しぶりにお袋も百合と顔を合わせる事になるから喜ぶだろうな。


 ――あ、念のため部屋の掃除も念入りにしておくか。




 葵は腰かけていた席から立ち上がり、もうまもなく到着する駅を待ち構えた。


 微かな刺激…こんな誰にでも起こるような事柄がスイッチと化すとは思いもせずに…。




 初めは小さな痛みだった。痒みに近い違和感は小刻みに俺の身体を内側から揺さぶっていく。


(い"っ…!)


 しだいに呼吸が乱れてくる。息が浅くなってじわりと顔から汗を流す。


 頭もぼぅっとなるのに気付いた頃にはもう遅かった。足はふらついて真っ直ぐ立つには頼りない支えと化していた。


(まさか、うそだ…こんな時に……!?)


 ついには膝をつき、とっさに掴んだ手すりが俺の意識をぎりぎり保つのに役立つが、時間の問題だろう。身体の不調を覚えた次の瞬間、電気が走ったように俺の胸には激痛が走った。


「ぐうぅぅぅぅっ!!」


 俺は胸を抑えて悶え始める。この痛みは良く知っていた。


(そん…な、薬、飲んでる…のに…なん、で…発作が……)


 心臓の薬は毎日、朝昼晩と一日三回飲んでいた。おかげで日常で発作が起きる事は微塵もなかった。突如の出来事に俺はただ胸の苦しみに必死に耐えながら意識を保とうと努めた。


「おい、大丈夫か!?」


 ようやく異変を心配して駆け付けた同じ電車の同乗者が近寄ってそう尋ねてくる。


 だが俺は何も答えない…いや、何も答えられなかった。



 心臓の発作で一番苦しいのは胸の痛みではない。実を言うと呼吸困難に陥る方だ。



 息も満足に吸えない条件下で俺が返事を返すというのは無理な話だった。やがて手すりから手を放して完全に床へと横たわってしまう。身体は必死に生きようと…俺に息を吸わせようと緊急活動に移っているものの、正常に戻すには力不足だった。


(死ぬのか、俺は…ここで死ぬのか……)


 苦しみで朦朧とする意識の中、俺は唐突に訪れた死の恐怖にうろたえる。だが胸の痛みはそんな思考を少しづつ中断させていき、考える暇などないと言わんばかりに俺の身体を制御不能にさせていった。


(嫌だ、嫌だ、まだ死にたくない! やり残した事がまだあるんだ!)


 想いが俺を留まらせる。


 電車がようやく駅に到着し、かすかに残る聴覚にドアの開く音が聞こえてくる。うっすらと映る視界に見えたのは自分の姿を見てざわめくホームに立つ人々。


 慌ただしい人の群れから浴びせられる視線が俺の身体に突き刺さっていく。


(助けて…誰か……)


 知らずに俺は助けを求めていた。自分を救ってくれる人を――。


 そんな俺を見ているのは…。



「すっげー事故だ事故! 写真撮ろうぜ!?」


「早くしろ! この場面を動画撮って投稿したら結構再生数いけるぞ!」


「えっと、ただいま事故遭遇なう。写真アップするからリツ求む――っと!」


 

 病的にまで多く存在する『傍観者』達だった。


(百合、やだよ…百合、ゆりぃ……)


 治ったとばかり思っていた泣きべそを心の中でかいた。だがそんな姿も彼らは娯楽として捉えていく。



(しにたくないよぉ…) 






 …皮肉な物だ。


 傍観者でいる事から抜けだそうとした彼を最後に見守るのが傍観者であるなんて――。


 運命という物は誠に不思議な物だ。


 そして、時として恐ろしく残酷な牙を向けるのだろうか。


 たとえ仕向けられた物だとしても…。

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