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前編5

 罪業もとよりかたちなし、妄想顛倒のなせるなり心性もとよりきよけれど、この世はまことのひとぞなき。


――『親鸞』

「そういえば、さっき赤羽を筆頭とした生徒会役員達がやってきて桃山をどこか連れていったぞ?」


 絵梨菜の教室に後ほど訪れた僕は初めは見つからず、何人か聞き回って彼女の行方を知る人物にようやく巡り合った。情報提供に感謝してから僕はその生徒会役員――ほとんど逆ハーレム勢――が集まりそうな場所を推定し、一気に早足で目指した。


 その場所とは『生徒会室』。あまり見られたり聞かれたりしたくない話をするにはうってつけ。


 特定の生徒以外はめったに通る事のない特定区域へと進んでいくと、生徒会室と記された名札が目に入り、その下には二人の女子生徒がそわそわとしながら立ち尽くす。


「あ、白水…さん……」


「なっ…!? 何故あなたがここにいるんですの!」


 絵梨菜の取り巻きとしていつも一緒にいる瑠璃恵と浅翠だった。二人は僕の登場にいぶかしげな表情を漏らす。


「絵梨菜はその中にいるの?」


「駄目ですわ! 絵梨菜様は話が終わるまで誰も中に入れるなと仰っておりますの。ですから何人たりともここへは入れる訳には参りませんわ!」


「…絵梨菜が本当にそう言ったのかい?」


「えぇ、もちろんでしてよ!」


 耳を澄ませば、生徒会室から様々な声が大小なりと聞こえてくる。訴えるような…怒るような…声に応じて口調の種類も違っていた。


「白水さん、白水さんも…絵梨菜様…疑ってる?」


 浅翠が不安そうな顔をして僕にこう聞いてきた。同時に質問の内容によるものか、瑠璃恵は一層と僕に対する警戒心を高めた。


 その行動ぶりは今まで彼女達に向けられた仕打ちが容易く想像できた。この学園での彼女達の味方はやや少ないといったところだろう。男子と女子を分ければ別かもしれないけどね。


 そこへ、ドアノブの捻る音が鳴ったと思いきや生徒会室のドアが開かれた。出てきたのは絵梨菜、どこか余裕がない俯いたままの顔で静かに出てきた。


「良く分かった! お前が意地でも犯行を認めないというならこっちもしかるべき措置を取らせてもらうぞ! 忠告はしたからな、桃山っ!!」


 僕からはドアで視界を遮られて見えなかったけど、生徒会室から柳二が叫んでいる姿が映った。


 絵梨菜はこれに何の返答もせず、静かにドアを閉めた。これによって静寂な廊下の風景が元に戻った。


「絵梨菜様、大丈夫でしたか!? 生徒会の方々に何か手を出されたりなされませんでしたか!」


「……うん」


 いつもの絵梨菜とは程遠い姿がそこにあった。あの笑顔が似合う凛とした姿がどこ吹く風。大きく見えていた姿が今や気鬱な表情を浮かべ、小さくなってしまった錯覚を覚えた。


 これを一瞬にして切り替え、瑠璃恵達を心配させないよう元気な振る舞いを見せるけど、見せかけだというのは傍から見ても分かった。自分の問題だから迷惑をかける訳にはいかないという絵梨菜の遠慮も感じ取れる。


 絵梨菜が「こんな事、大した事ありませんわ!」と瑠璃恵達に豪胆さを見せつける中、僕は彼女の気になる所を見つけた。


「ちょっと腕を見せてくれない?」


「えっ…?」


 断りを一度入れてから僕は絵梨菜に有無を言わせぬまま、先ほどから絵梨菜が手で押さえている右腕を軽く掴み、制服の袖を静かに捲り上げた。そこから現れたのは微かに『赤みかかった』肌色。素人目でもこれが『火傷』だという事がこの場にいる僕を含めた三人は認識した。


 よく見ると制服の袖に微かなシミが広がっている。僕は試しに鼻を近づけてみると、焦げ臭くてそれでかつ芳醇な香りが嗅覚を刺激した。この匂いは僕にもよく知っている。


「あいつらの誰かからコーヒーをかけられたんだね。それで火傷を負った…違わないかい?」


「なっ! なんて事を――っ!」


 火傷の原因分析を告げたところ、火傷がバレて戸惑う絵梨菜を余所に瑠璃恵が先に憤慨した。すぐさま生徒会室へと突入しようと足を向けたけど、絵梨菜から「お願い! あまり事を荒げたくないの!」と懇願された事で納得のいかない顔のまま踵を返した。


 とりあえずけが人を放っておく訳にもいかないので保健室…ではなく、園芸部の部室へと向かった。そこには僕の荷物が置いてある。


 えっ? 火傷だったら保健室が適任だろって?


 そうでもあってそうではないんだなぁ…これが……。火傷はまず水を冷やしてから消毒して包帯を巻くという治療が定番だけど、それは後々の事を考えず傷を塞ぐ場合の手法だ。このやり方だとたとえ治ってもかえって傷跡が残ってひどい有様になる。


 女性の肌と髪は命の次に大事だってどこかで聞いている。その理念に基づけば、結果が見えている治療で満足するのは僕の趣味じゃないんだ。前世の母親が薬剤師だった事もあってか、医薬系の部門に関する知識も多少ある。






 僕を含めた部室に入ってくるメンバーを見て唖然としている部長の黄村さんと唯一の定部員である紫さんを置き去りに、僕はロッカーに入っている鞄を取り出して中から常備している治療道具を取り出した。


 うん、火傷といったらこれだね。


「言われたとおり水でちゃんと洗ったよ丹君」


「じゃあ腕をそこに置いて。薬を塗るから」


 準備が整ったので僕は火傷に効く『特製軟膏』を指につけ、絵梨菜の火傷部分に塗り拡げていく。これをいぶかしげに後ろから覗く瑠璃恵から疑問の声が上がった。


「…それ、いったい何ですの?」


「蜂蜜とすりおろしたアロエを自家製軟膏に練り合わせて熟成させた特製軟膏。皮膚全般の怪我にはうってつけさ」


 もちろん、前世の母親によるプロのお墨付きな手作り軟膏だ。これには前世と現世の両方ともお世話になっている。


 さて、後は薬局で売っている少々値段が張るけど効果は抜群な密封性被膜材『キズパワフルパッド』を張ってと…。


「はい、これで終わりだよ」


「へー、丹君ってお花を育てるだけが特技じゃないんだ」


「…それは僕がお花を育てる事しか能のない男だって言いたい訳かい?」


 にっこりと『良い笑み』を向けてあげると絵梨菜は慌てて否定してきた。


 はい、言葉の選び方には気をつけようね。今回も一つ学んだね!


 とりあえず…。


「色々と大変かもしれないけど、こっちも出来る事があれば協力するよ。僕は絵梨菜が噂のような事をする人じゃないって事は知っている。だから、ちゃんと頼って欲しい…昔みたいに遠慮なんてしないでさ」


「丹君…」


 僕は噂を信じない。そこには私情が絡んで絵梨菜を優先している事に繋がるけど、飽くまで百聞は一見にしかず、だ。盲信からの感情に判断をゆだねる気はさらさらない僕は本人に事の全てを聞かせてもらう事にした。重要なのは『虐めの犯行現場』というキーワードが集中する時間帯での出来事。


 ようやく当事者側からのはっきりした情報を僕は手に入れる事に成功する。


 事の顛末は以下のような物だった。



 昨日の放課後、珍しく部活が休みだった絵梨菜はその時間を使い、受験に向けて教室で勉強をしていたそうだ。そのまま部活終了時刻になったところで勉強を終えて帰る事にした絵梨菜はいつものように下駄箱へと向かい、靴を取り出そうとロッカーを開けると一通の手紙が入っていた。


 とりあえず中身を確認してみると、「大事な話があります。今日の午後六時に2-Hクラスへ来てください」とパソコンで打たれた文が記されていた。


 見るからに怪しい手紙だったけど、場所が教室なので危険な目に合う可能性は低いと思ったらしい。それに絵梨菜は家の意向として暴漢対策の護身術を習っている事もあってか、それなりに男相手でも対抗できる術を携えていた。


 だからこそ高を括っていたのかもしれない。


 気になって仕方がなかった絵梨菜は手紙の呼び出しにある通り、2-Hクラスへ向かった。ちなみに、三年である絵梨菜や僕が二年や一年の教室に来る事は基本ない。特別な用事がある以外は学年の違う教室に入ってはいけないと校則でも定められているしね。


 自分に手紙を送った本人が待ち構えているかと思いきや、たどり着いた2-Hクラスには誰もいなかった。夕暮れで薄く照らした暗い教室にどこからかカラスの鳴き声が響くだけの静かな光景が用意されているだけだった。


 ――相手に来いと伝えておきながら送り主本人がどこにもいないとはどういう事よ!


 無駄足をかかされたと絵梨菜は思い、待つ事はせずそのまま帰ってやろうと考えた時、ちょうど徐々に夕闇で目が慣れてきたおかげで気づく物に気がついた。


 その正体は『机』。それもただの机ではなく、「ブス」やら「死ね」やらと何やら刃物のような物で傷付けられた悲惨としか言いようのない存在だった。これには絵梨菜も目を見開いたくらいだったそうだ。ここまで露骨に悪意を形として刻みつけられる人間がこの学園にいるんだと理解したからだ。


 絵梨菜はその机を一度手で探って調べ出した。こういう問題が下級生に燻っている以上、上級生が動き出さないでいるのは生徒の倫理に反すると考えたらしい。


 椅子を引いて机の中を確認してみると、何やら中に変な物が入っている事に気がついた。手にとって机から引き抜いてみせると、所々がズタズタに切り刻まれたノート。そして、そのノートの持ち主の名前として『虹音百合』が名前欄に記されていた。


 ――ひょっとして、この机があの子の…。


 推測を重ねようとノートを捲っていると、中から細い棒のような物が零れ落ちて“カチャンッ!”と小さな音を響かせた。下を向くと転がっていたのはなんと『カッターナイフ』…。どうしてカッターナイフがノートの中から? と疑問に思いつつ拾った時、後ろから扉の開く音が突然大きく響いた。


「あれ、桃山先輩?」


 声がした方を振り向くと、机の持ち主である百合が唖然とした顔でこちらを見ていた。


「そんな…桃山先輩が…信じらんない……」


 絵梨菜は何が起きているのか訳も分からずあたふたとしている中、百合の後ろから彼女にいつも寄り添っている彼ら――逆ハーレム勢――が出てきた。


 彼らの顔に映る表情は一様に険しく、どこか軽蔑の眼差しを含んでいる。


「まさかお前だったとはな…これから百合と帰ろうと偶々教室に戻った事でこんな場面に遭遇するとはな」


 藤和が静かな怒りを含んだ声色で言う。


「学園の女子達に慕われている貴方がこんな事をするなんて…正直見損なったよ」


 続いて柳二も軽蔑の眼差しを向けて呆れた物言いを向ける。


 また続いて藍染も…またまた続いて葵も……。


 絵梨菜は混乱を極めながらも、自分は手紙で呼ばれてここに来ただけだと身の潔白を示そうと事情を丁寧に説明していった。このままありもしない冤罪に巻き込まれるのは心外だと言わんばかりに必死な思いで…。


 だけど、百合達は「嘘をつくな!」やら「騙されないぞ!」やらと一方的に自分が百合を虐めた真犯人だと押し付けるような意見を投げつけるばかり。


「桃山先輩は柳二君の婚約者ですよね。柳二君の事が好きだから…だからいつも柳二君に思われる私に嫉妬して……うぅっ! ごめんなさい! 本当にごめんなさい!」


 挙句の果てには話が飛躍していく方向へと進んでいた。目の前で涙を流す百合を「お前のせいじゃない」やら「お前は悪くない」やらと慰める柳二――自分の婚約者――の姿にますます事態が飲み込めなくなりつつあった。


 ――いえ、確かに柳二君は婚約者だけど…家の方では形式上、私と彼が結婚するかは本人達に任せるって言われているし、嫉妬したから虐めるだなんて私が『一番嫌いな』虐めをする理由にもならないんだけど…。


 前者はともかく、後者は絵梨菜にとって絶対にあり得ない。絵梨菜は虐めを一番嫌っていた。いや、憎んでいると言い換えてもいい。幼い頃の経験からそんな事をする人が目の前にいたらとっちめてやりたくなるくらいだ。ましてや、自分が虐める側に回るなんて地球が裏返ってもありえない。


 しだいに学園に残っていた生徒達も野次馬として集まり始め、一方的に自分が虐めの主犯だと言い散らしている百合達の言葉を真に受けて冷たい視線を向け始める者が出てくる始末。


 後から来た教師達にこの場は解散され、当事者である絵梨菜と百合達は職員室へと呼び出された。百合達は変わらず絵梨菜がこの頃騒がせている虐めの犯人だと供述する反面、絵梨菜は正直に手紙で呼び出された事を話して誤解だと説いた。実際に証拠があるのだから仕方がなく、たとえ疑惑の目を後ろから向けられていようと、ちゃんと証拠を提出しておいた。


 その結果、今回の件は『誤解』という形で片づけられる事になった…筈だったのだが……。


 どういう訳か翌日、学園中に絵梨菜が百合を虐めていたとして話が回っていたのだった。昨日偶々鉢合わせた野次馬生徒が広げたのかもしれない。もしかしたら生徒会役員である藤和や柳二の仕業かもしれないけど、証拠が無い以上は強く批判する訳にいかない。


 彼らは飽くまで百合の『言うとおり』、絵梨菜が犯人だと信じている。これが件の騒動における根底と言って良かった。おかげで先ほども彼ら独自による追及を受ける羽目にもなったという訳だった。






 全てを絵梨菜から聞き終えた僕から出た言葉は一つ。


「馬鹿ばっかだね」


 学園側が誤解だと判断して事は収められているにも関わらず、悪徳刑事の尋問張りに勝手な事をしてるってどういう事なんだよ。


 それも特定の人間――百合――の言葉だけに耳を傾けて「さぁ、後は自白させるだけだ!」な意気込みで無罪も冤罪もへったくれもない行動に移すって…酷いにも程がある。


「やっぱり学園の方にちゃんと抗議しておいた方がいいんじゃないかな?」


 どうやら絵梨菜はそうしつつ、百合側との問題は遺恨を残さないように時間をかけて解決する姿勢を見せている。


「だけど、あまり事を大きくする前には解決したいから…」


 あぁ、絵梨菜や瑠璃恵の父親の会社における都合上とかね…。柳二も向こう側に入っているから厄介極まりないよな。


 そもそも、百合や攻略キャラ達の行動はどこかおかしい点がある。これも元々定められている流れに修正しようと世界が働きかけているおかげなのだろうか?



 すなわち、絵梨菜の悪役ヒロイン化へと…。



 迷惑な事この上ない話だよ。僕の努力を鼻で笑いかけるような出来事をそうポンポンと起こされてはたまらない。


 




 忌々しい日々が過ぎてからも絵梨菜の表情は優れない日が多くなった。恐らくあの連中はまだ何かしら追及やらと言われの無い事で詰め寄ってきているんだろう。


 そんな姿が学園内で所々と見られる事も多くなり、学園の生徒達が絵梨菜に向ける視線の色がいささか変化してきたようにも感じた。元から絵梨菜の人となりを知っている生徒からは心配だけど、憧れや好意をただ持っていた有象無象に等しい関係での生徒からは猜疑心を含んだ視線が多くあった。


 本当は虐めてたんじゃないか――。


 ひょっとして嘘をついているんじゃないか――。


 知りもしない事をベラベラと並べ、多く集まったのが真実と化す集団心理にはまっていった生徒達が学園には大多数。男子に人気な百合と女子に人気な攻略キャラ達の言葉による組み合わせだというから余計性質が悪い。


 僕達は出来る限り絵梨菜の誤解を解くように回っていったけど、なんだか効果が薄い。水に溶かした黒い絵の具に別の色の絵具を少しづつ混ぜている感じだ。言い変えるならば『焼け石に水』だ。



 ――だって他の人や生徒会長達が強く言っているし…。



 仲間外れにされればどんな仕打ちをされるか堪ったものじゃない。暗にそう意味する言葉は僕達の周りには仲間がいない事を意味していた。






 やがて、絵梨菜はとうとう学校へ来なくなってしまった。


 周りは騒動の種がいなくなって一安心と考えている薄情者ばかり…。


 本格的にこの学園はおかしくなってしまっている。これに気づいているのは果たして学園に何人いるのだろうか。固唾を呑んでても始まらない。


 念のため、連絡をとってみたけど短い文章でのメールで返事が返るだけでどうも元気な様子とは言い難かった。


 瑠璃恵達は生徒会室へこの事を抗議しに行ったようだけど、聞く耳持たず。だけど代わりに重要な情報を引っ張り出してくれた。


「大変ですわ! 蒼井様が絵梨菜様との婚約を破棄したとの宣告が出されたそうなんですの!」


 彼女達の話を聞く度に恐ろしくなっていった。


 ここまでゲームの通りに『ある意味』正しい方向へと進んでいく展開に…。


 学園は相変わらずだし、絵梨菜とは満足な連絡もつかないし…。


 しだいに僕の中で焦りが生まれてくる。何か嫌な事が怒る予兆だったのかもしれない。






 この日の夜、絵梨菜から電話がかかって来た。心配する言葉をかけても今までのような張りのある声は無く、僕の質問にただ相槌を打つだけだった。


 大丈夫、大丈夫――。


 僕が言うこの言葉が何だかとても安っぽく感じられるようになってしまった。


 何を根拠にその言葉が言えるのかも…。


 婚約破棄の出来事によって父親から酷い言葉を投げつけられただの、友達から縁を切りたいと言われただの、どこにも自分の味方がいないという状況に絵梨菜の心は蝕まれていた。


「傍についているから!」


 強く言ってあげても絵梨菜の心にはもう満足に届かない。むしろ、傍にいて僕が出来る事はいったい何だというんだろうか? 攻略キャラ達の行動を止める事もできないし、僕自身に影響力がある訳でもない。


 ――あぁ、考えてみたら僕ってどこまで頼りない存在なんだろう。


「ありがとう」


 絵梨菜からはそう一言、これだけ返された。感謝に値する存在でもあるのか疑わしくなっている僕にはどんな気持ちでこの言葉を言ったのか目録検討が付かなくなっていた。


 麻痺してきている。当たり前が非日常へと変化したおかげで僕もまたどこかしらおかしくなっているのかもしれない


「さようなら…」


 電話の最後に言った絵梨菜の言葉。


 いつもの僕ならばこの言葉の違和感にすぐさま気が付いた筈だった。


 どうして今までのように「またね」と言ってくれなかったのか。



 答えは翌朝、浅翠から息を切らして言われた言葉にあった。



「絵梨菜様が…絵梨菜様が…手首を切って入水自殺を図ったんです!」 


 僕はこの時、持っていた植木鉢を手放した。


 植木鉢が割れる音が重く耳に響き渡った。






 何の変哲もない空を見上げる。分厚いコンクリートで出来た塔屋に背を預けて腰を下ろしながら…。


 本来なら食堂にいる時間帯。だけど僕の身体は食欲を湧かせるには乏しい程に冷えていた。風邪を引いている訳でもなく、気だるい訳でもない。ただ、活動的になろうという意欲が限りなくゼロに近かった。


「…どうにでも良くなっちゃった」


 絵梨菜はこれから病院で目を覚ました後も悲惨な運命が待っているだろう。だったらそのまま夢の中で眠り続けた方が幸せなのかもしれない。


 結局、僕一人の力では無意味なくらいに事態は進んでいき、絵梨菜はこの学園で『悪役』に相応しいまでの人間として見られるようになっていた。自殺未遂を図った事も「逃げられないと思って自滅した」という解釈で見られる始末。ほとんどの人間が彼女を『哀れむべき』少女ではなく、『蔑むべき』少女として陰口を叩く日々。


「結局、モブキャラなんかじゃ駄目だったのかもしれない」


 この世界(ゲーム)は史実通りに進めようと不思議な力が働いていった。たとえ断片的な未来の知識を持つこの身であっても、完全に全てをどうにかできる訳でもない。その時点で悟るべきだったのかもしれない。


 ――僕なんかじゃ誰も救う事は出来やしないって…。


 この世界は現実だって考えてたけど、そんなの実際は単なる現実派気どりな妄言でしかなかったのかもしれない。見事なまでに、面白い程に主人公を引き立てるために世界は手助けしていったんだからね。


「…悔しいなぁ」


 負けたんだ…僕は……。


 いや、ひょっとしたら初めから僕の負けは決まっていたのかもしれない。なのに僕は勝手にその舞台で一人踊っていたのだろうか?


 何とも虚しい事なんだろうか…。


 膝を抱えて震える身体を固定する。だけど、心から溢れる感情は抑える事が出来ず、それは結晶――涙――として僕の目から流れ落ちた。


(――んよ、救ってあげられなくてごめんよ。本当にごめんよ…)


 絵梨菜へ心の底から謝罪を想う。嗚咽が漏れてもそれは止めず、膝で受け止められた涙が膝を濡らしていく。


 ――さぁ、誰かこの無様な弱者を笑ってくれ。そして罵ってくれ。


 自虐的な負の感情に囚われつつある中、屋上のドアが開く音が突如響いた。これに僕は“ハッ!”として顔を上げ、恐る恐る僕の次に入ってきた人物を確かめるべく、塔屋の壁から少し顔を覗かせた。


 なんと、そこにいたのは虹音百合だった。


(嘘だろ!? なんでここに!)


 思わず姿を隠してしまった。再び気付かれぬよう顔を覗かせると三メートル程近くに彼女は立っていた。


 何をしにこんな場所へ来たのだろうか? 自分が言うのもなんだけど、ここ屋上は一般生徒は立ち入り禁止にしている区域だ。今は誰にも見られたくない姿でいる僕のような変わり者が来るような場所だと言っていい。


 そんな僕の考えも露知らず、百合は持っていた鞄から何やら手記を取り出した。そのままペラペラとページを捲り、選んだページに附属のペンで何やら書き記していた。


 僕は何を書いているんだろうと思いながらもじっと百合の様子をうかがっていた。


「やった! ようやく桃山絵梨菜のイベントが達成できたわ!」


 この時、僕は一番の『謎』を理解する瞬間に出くわした。


「これで次は蒼井柳二のお家騒動のイベントをクリアすればその家族に関係を認められるし、最後の攻略キャラの黒部竹浩(くろべたけひろ)とのイベントが進められる! ぬふふ、あと一歩で逆ハーレムエンドは目前よ!」


 息を殺して僕は信じられない物をみるかのように百合の言葉を聞き続けた。


「それにしても桃山絵梨菜のイベントってあんなに手こずるなんて考えてなかったわよ。まったく、虐め発覚イベントが起きないからかなり焦っちゃった。あれをやらないと蒼井柳二を攻略する基盤が揃わなくなっちゃうからね~。少し細工をしただけでちゃんとイベント進められて本当に良かった~!」


 …何を言っているんだ? お前は一体何を言って――。


「それに桃山絵梨菜ってあんなキャラだったっけ? ゲームと全然違うから驚いちゃったし、あ…ひょっとしてあのキャラにも私と同じように『転生』した人が中に入ってたりして……。うわーありそう! だとしたらざまーみろよ! 主人公である私の邪魔をするなんてずうずうしいにも程があるのよ!」


 あぁ、全部分かったよ…。


 好き勝手に独り言を呟いた百合は手記に記すのを終えたのか、鞄に戻して「よし、まずは赤羽藤和の最後のイベントを達成しちゃえ!」と意気込みながら屋上から出ていった。


 その場に残った僕は何とも言えない感情を抑えるのに必死だった。


 悲しみ、怒り、笑い、憎しみ、etc…。



 それら全てが分量を揃えぬままごちゃごちゃに混ぜ合わせた感情――。


 百合という主人公が僕と同類だという衝撃的事実――。



 劇薬の調合のようにこれらは化学反応を起こし、普段は表に出る事はない衝動を何倍にも増幅していった。


 すなわち“殺意”が…。


「下衆めぇ…」


 自分でも驚くほど低い声が出る。このまま百合を追いかけて嬲り殺しにしてやりたいくらいに僕の頭は煮立つように熱くなっていた。


 百合…いや、もはや名前で呼んでやる必要も無い。『あの女』は自分が興味を持つ事以外では周りがどうなろうと気にしない。だけど、自分の思い通りにならなければ気に喰わない駄々っ子のような感性を持っている。


 早い話が享楽主義者というべきだろう。


 あの女にとって自分はこの世界で『主人公』という中心的人物。


 ゲームのように倫理を介入させる必要も無く、自分が幸せになるためならば何でもしても良いという反省も後悔も持たない『プレイヤー』だ。


 だから、蒼井柳二というキャラクターを攻略するためには必要な桃山絵梨菜の『虐め反抗現場の露見イベント』を強引に起こした。自作自演という形を使って…。


「許さない…絶対に許さない……」


 あの女は絵梨菜の想いを踏みにじった。


 あの女は絵梨菜の幸せを奪い取った。


 あの女は絵梨菜の人生をめちゃくちゃにした。



 あの女は――。



 …もうたくさんだ。僕は…あの女が……。


 これから先に幸せな人生を送る事を断じて認めはしない!


「壊し尽くしてやる――」


 もうゲームだとか現実だとかは関係ない! 僕は大切な友人を理不尽にめちゃくちゃにした諸悪の根源であるあの女に報いを受けさせる事を願う!


 そのためならば全てを利用してやる。前世の記憶だろうが何もかもを…。


 謝罪も受け入れる気は毛頭ない。あの手の輩は因果応報が成立してこそ初めて謝罪を口にするのが相場だ。そんないつ来るかも分からない言葉を律義に待ってやる配慮も持ち合わせてないんだ。


 あの女は道端に転がり、誰にも見向きされない虫の死骸のようになるのがお似合いだ。



 ――さぁ、破滅の道へと誘ってやる。



 まずはあの女の回りに群がる少しの言葉にしか耳を傾けず、良いようにあの女に尽くし続ける余分な『贅肉共』を削ぎ落としてやればいい。


 騙されただなんて開き直らせる隙も与えない。お前達がやった事は誰も猶予などくれてやらないさ。


「今は束の間の幸せを噛み締めていればいいさ」


 あの女のような人間が絶望を感じる瞬間ってどういう場面だか知ってる?


 自分が積み上げてきた物が音を立てて壮大に崩れ落ちる瞬間だろうね。


 ねぇ、ハッピーエンドをこれから迎えるつもりでいる同類さん。ひょっとして、ハッピーエンドの後が必ずしもハッピーであると考えているのかい? そんなのいつ誰が決めたんだろうね?


 シンデレラでいられるのはたったの二時間だと言われているけど、君はやり過ぎた。もはやシンデレラになる資格さえ、とうの昔から失われていた。ルール違反ばかり犯した君には僕自らペナルティーを与えてやらなければいけない。


 これは復讐であって逆襲でもあるんだ。


 ゲームがそんなに好きならば、僕とゲームをしようじゃないか…。


 この醜くも美しい世界は僕と君のどっちを助けてくれるのかという一発勝負な物当てゲームをさぁっ!!


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