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後編8

 英雄とは、自分のできることをした人である。ところが、凡人はそのできることをしない人で、できもしないことを望んでばかりいる。


――『ローラン』

 桃山絵梨菜という少女は小さい頃では内気ながらも才女と呼ばれるに値する存在だった。


 まだ彼女の父と母が今の地位と暮らしを手にする以前からその頭角を現し、絵梨菜を目の当たりにした大人達は絵梨菜の成長を楽しみにしていた。


 反面、絵梨菜と同じ年頃の子供達の中にはそんな彼女の存在を気に入らない者が出始めた。


 時代、国柄、排他的社会…要因は考えれば切りがない。人は周りとは違う存在を自然と追いやる習性がある。そこにある感情は恐怖か、嫉妬か、はたまた不安か?


 それは『いじめ』という形で絵梨菜の身に降りかかっていった。まだ他人との接し方が良く分からなかった内気な少女にはそれに抗う術など当然持たない。


 絵梨菜は両親に一度、この事を相談した事があった。だがこの頃の彼女の両親は本当に大切な物というのを見誤っていた。


 父は家族と向き合う事を後回しにして己の地位を向上させる出世欲に囚われていた。


 母もそんな夫への寂しさから自分を支えるべく虚栄心を膨らませる事に囚われていた。


 だから安易な行動――転校という選択を半ば無理やり選ばせた。


 ――自分達の娘の周りにいる子供達がどうしようもない輩ばかりだからだ!


 決して絵梨菜を叱らず、全てその学校にいる子供の性質が悪いと言い聞かせるがまま、彼女の両親は仕事の都合に合わせて別の地へと移転していった。


 だが絵梨菜は子供ながらも分かっていた。性格故に人と向かい合って話すのが苦手な自分は他人から見れば何と無愛想な姿に映っている事か。たとえ自分が大人達に『出来の良い子供』だと評価されていても、極力人と触れ合わず、何を考えているのか分からないような態度は人によっては不快感を促す代物だ。


 …にも関わらず自分達とは違って裕福で『出来の良い子供』という評価――寵愛を受けるのを平等という浅い道徳心しか学んでいない子供心には面白くない光景だろう。


 こんな出来事を絵梨菜は転校の度に味わっていった。その都度心に小さな亀裂を重ねていった。


 自分の本当の気持ちを理解してもらえる相手がいないのは本当に地獄そのものだ。


 孤独とはいわば毒。年月を重ねるごとにその量は徐々に増していき、精神を病んでいく遅行性の毒。


 変わらぬ自分、変わらぬ周り、そんな負の螺旋に囚われた絵梨菜の心は限界だった。もしもこのまま同じ状況が続いていたら、大きくなる頃には『自分の望むもののためなら幾人もの人生を蹴落としても構わない』という冷酷非道な一面を持つ心を生み出していたに違いない。


 そうならなかったのは何者かによる運命の悪戯――奇跡が知らず絵梨菜の身に降りかかったからだった。



 ある日、絵梨菜の両親は喧嘩をした。理由は今となっては思い出すのも億劫なくらいどうでも良い事だった筈だが、当時幼かった彼女には直視できぬ程に恐ろしい光景だった。


 多大なストレスは絵梨菜の心を確実に閉ざし始めていた。普通、派手な夫婦喧嘩が目の前で始まろうものならば子供は泣きだすのが普通ともいえる。子供にとって親とは絶対的な存在であり、その影響力は計り知れない。



 ――私、パパとママの傍にいちゃ駄目なんだ。ひょっとしたらいらない子なのかも…。



 自己肯定感が育たぬまま大きくなった絵梨菜には自分に価値を見出す事が出来なくなりつつあった。


 だから家を飛び出した。まだ引っ越して数日だった家から飛び出し、右も左も分からぬ住宅路を当てもなくさ迷った。まだ涼しさを残す初夏での出来事だ。


 たどたどしい足取りで歩く絵梨菜はこの日、『少年』に初めて出会った。


「…こんにちわ」


 不意にかけられた挨拶の声。一瞬身体が“ビクッ…”と反応したものの、その挨拶に絵梨菜は声で返す事は出来ず小さく会釈で済ませてしまった。


 そうしてしばらくお互い何もせずに静寂が保たれる中、少年が次に発した言葉は、


「…あー、せっかくだから…ビワ食べる?」


 手を(こまね)く少年に対し、絵梨菜は何の疑問も持たぬまま少年の家の敷居を跨いで彼の近くへと寄った。


 そのまま案内されるがまま軒下に腰掛け、少年が庭の木に生っていた枇杷を摘み取ったのを受け取った。


 枇杷という果物を見た事も食べた事もなかった絵梨菜は初め弄るだけだったが、目の前で少年が彼女の母がはしたない真似だとして止めさせられている大口で頬張る行為をした時、自己肯定感が薄れていた彼女は自分の家での作法も何もかも無視して同じ形で枇杷を口にした。


 その瞬間、絵梨菜の心に駆け巡ったのは歓喜。初体験という事実も絡み合って舌の上で躍る甘み。


「――おいしいっ!」


 思わず噛み千切った果肉からにじみ出る汁を啜った。そのまま少年に勧められるまま枇杷を口にしていった。


 知らず内、絵梨菜は少年の好意に甘え続けた。流されるがまま今度は少年が持ってきた子供ならば一度は口にするような市販の菓子を口にした事がない絵梨菜は楽しく味わった。


 初めての物ばかりに絵梨菜の心は久しぶりに奮えた。彼女の短い人生の中で最後にこんなにも優しくされた事も、ポカポカする気持ちが湧いた事も果たしていつの日だったか。


 気がつけば見ず知らずの目の前にいる少年に絵梨菜は自分自身が抱え込む苦しみを吐露していた。今まで溜まっていた淀みを吐き出すように、少年はそんな絵梨菜の告白を黙って聞き続けてくれた。


 全てを話し終えた時、絵梨菜の頭には少年の掌が乗せられていた。


「…頑張ったんだね」


 優しく…そっと優しく少年は絵梨菜を撫でていた。


「大丈夫だよ、僕のお母さん言ってた。今は辛くてもその分だけ後から楽しい事が待ってるって…。だからもう少し頑張ってみようよ。神様だってきっと分かってくれるから……」


「…うん、あり…が…とう……」


 我慢しなければいけなかった。耐えるしかないと思っていた。


 そんな人生ばかりの絵梨菜に一つの日差しが指した。


 ――この人は皆と違う。私の気持ちをちゃんと分かってくれる。


 だから一世一代の勇気を振り絞って魔法の言葉を紡いだ。


「…友達に、なってくれますか?」


「え、いいよ?」


 この日、絵梨菜は初めての友達を手に入れた。本当に欲しかったものの一つを…。


 もっと話し合いたいと思った矢先、母が自分を呼ぶ声が聞こえてくる。名残惜しかったけど絵梨菜は最後にお礼を言ってこの場から離れようとした。


「ねぇ、君の名前は? 僕は丹、白水丹」


 ――白水丹――


 絵梨菜は初めて出来た友達の名前を頭の中で何度も繰り返した。絶対に忘れてなるものかと意気込む勢いと共に、少年――丹――にも自分を知ってもらいたいという一心で大きな声で言った。


「私、絵梨菜! 桃山絵梨菜! またね丹君!」


 この瞬間、自分は生まれ変わったと絵梨菜本人にも胸を張って言える出来事。






 丹との出会いから絵梨菜は彼から多くの物を受け取った。


 特に一番大きかったのは『人との輪に交わる』というその一歩を踏み出す勇気。


 それに怯えず慈しみを以て『人の心を理解する』という親愛。


 少しずつ積み重ねていった経験は絵梨菜の性格と姿勢に大きな影響を及ぼし、多くの人間が羨み、憧れる存在として生まれ変わるにはそう時間のかかる出来事ではなかった。


 元より素材が良いのだ。一を聞いて十を理解するとは言わなくとも、一を聞いてからそれを理解する間隔は常人とは比べ物にならないのが絵梨菜というものだ。


 毎日が幸せだった。今なお両親の仲は深く入り込まない線が引かれたものであろうとも、一人ぼっちでいた昔が嘘みたいだ。


 同時にちょっとした欲求が絵梨菜の心の中に芽生えていた。別に(やま)しい類のではなく、子供…それも少女であるからこその幼く可愛らしいもの。


 ――恩人であり、憧れでもある丹から一心的な関心を向けてもらいたい。


 絵梨菜と丹は確かに友達だ。互いに親しく交じり、腹を割って話し合う事もできる一番の親友。でも丹にとっては絵梨菜の事は数多くいる友達の中でとても親しい友達の『一人』としか見ていない。


 それが絵梨菜にとって少し残念で仕方がない事柄だった。


 今だからこそ…言わずもがな絵梨菜は中学生の頃にはそれはもうモテた。先輩後輩問わず男子から告白されたのは一度や二度ではない。終いには同じ女子から告白されたくらいでその際苦笑いしたくらいだった。


 もちろん、それらはすべて断って来た。男女交際に関してはシビアな家庭に育ったのも理由だが、告白してきた相手を見ていると『違う』と異様にはっきり感じた事もあってだ。早い話が彼らの姿勢や言葉に『芯』がまったく感じられず薄っぺらさが目に見えていた。


 子供相手にそんなレベルを求めるなと言われればそれまでだが、絵梨菜にとっては子供の目からでも人間として『大きい』と感じられるのがたった一人しか浮かび上がらなかった。


 だが結局のところ、思春期特有な少女の『異性に女性として認識してもらいたい』という絵梨菜の気持ちを向ける矛先が悪かったとしか言いようがあるまい…。


 見た目は子供、頭脳は大人なリアルバージョンを体現している丹にとって絵梨菜の向ける好意など、水面に矛を突き立てようと挑むのと同じ事だ。大人が子供の好意に対して本気になるのは特殊な性的嗜好を携えているような俗にいう『変態』だと当の本人が考えている限り。


 丹の恋愛に関しての見解がそういうものとは露知らず、時折アピールしていたのに無駄足に終わったのはこの為だった。


「いい? 丹ってのは園芸馬鹿で誠意があれば困っている人には誰にでも善意を働こうとするニブチン野郎なんだから強めに攻めなきゃ気付いちゃくれないわよ。もっと肉食系で行きなさいよ肉食系!」


「た、たとえばどんなのかな雛菊さん!」


「え、そりゃもう…キ、キスを…一発……」


「あわわわ…キ、キス……ッ!?」


 中学校の頃、同性で一番の親友だった雛菊と相談したものの、お互い恋愛初心者だったために想像上の『大人の付き合い』によって羞恥心で悶えてしまったりと色々自爆を引き起こしたりもしていた。


 この当時、最終的に絵梨菜が丹に対して強くアピールしたといえる行為といえば『後ろから驚かす目的で抱きつく』余裕気な大人の女を演じる事であった。


 無論、丹にそれを決行して不発に終わった真夜中、絵梨菜はその時を思い出して酷く顔を真っ赤に染めて顔を両手で隠しながらベッドの上を“ゴロゴロ”と転がりまくったそうな…。


 …初心(うぶ)である。



 絵梨菜の満ち足りた生活はこのまま続くかに見えた。あの日が来るまでは…。



「ついにやったぞ。あの多国籍企業として名高いAOIが私の会社の主力である不動産事業を業務提携したいと名指ししてくださった。それに後々にはシステム特許関連も考えて好条件での合併提案を出してもらえる。私はこれを受けるつもりだ」


「まぁ! それはおめでとうございます!」


 唐突な父からの出世報告。


「おまけに自由に使える土地と屋敷も譲与してもらえた。敷地の広さ、名声の高さ、どれをとっても一級地と呼ぶに相応しい都市高級住宅街の物だ。これまで会社事業を通した賃貸一軒家での生活だったが、ようやく私達の安住地として暮らしていくには十分な住居を構える事が出来そうだ。さっそくリフォームを行って準備を整えている」


 その意味はこの街から離れるという決定。


「絵梨菜、そうなると久しぶりに転校の手続きを行わなきゃならないわね。明日にでも担任の方に連絡を入れておきましょう?」


「まて、そう慌てるな。リフォームが済むのは来年の初めだ。そろそろ絵梨菜は二学期を終業する筈だからこの子の時期にも合わせて予定を組むべきだろう。公立の学校だと手続きも容易で私立のように教育委員会や学校協会への問い合わせをせずに済む。お前が中学はこの土地の学校に進みたいと言った時は何を馬鹿なと考えた事もあったが、良い利点として働いたものだ」


 丹との別れを告げるという未来。


「お前には淑聖蘭(しゅくせいらん)女子高等学校附属女子中学校に転校してもらうつもりだ。あの地域でもトップクラスの学校だ。おまえなら編入試験なんぞ難なく進める筈だ。それにあそこには数多の企業の将来を担う令嬢達が集まる。これを機に縁を深めみるのもよかろう」


「それは良い事ですわ! 今後の社交にも十分影響力も見いだせる事ですし」


「良いな、絵梨菜?」


「良いですか、絵梨菜?」


 たとえ人並みの愛を向けられなくても、絵梨菜にとってこの二人は大事な両親。


 栄光への切符を手にして嬉々とした顔をこちらに向けてくる二人に絵梨菜は、



「分かりましたわ…お父様、お母様」



 作り物の笑みで嘘の返事を返した。自分がここで拒否を述べても、二人が今まさに乗りかかっている大きな流れに彼女は決して逆らえないと悟ったからだった。


 むしろよくぞここまで上手く続いたと思えた。綱渡りのような状況が絵梨菜の知らない後ろで連続し、今日の今まで幸福感を味わう日々を過ごせたのは(ひとえ)に奇跡と言っても差支えはない。


 それに虐め問題が公になったあの日、絵梨菜は初めて「嫌だ」と言葉にして母親の意見に真っ向から反対した頃とは状況は違う。たとえ歳は20歳にも満たぬ子供という認識される立場とはいえ、本人にとっては物事の決め方をその場限りの感情論に身を任せてはいられず、敢えていうなら『子供のままではいられない』という理論的な思考を板に付けざるを得ない状況。


 自分が何者になるのかをはっきりと理解した絵梨菜はその瞬間、何もかも諦めた。


 特別とまでは言うつもりはなくとも、絵梨菜は自分が他の同世代とは違う立場に就いているという責任と重圧が否応なく圧し掛かってきているのを実感した。


 だから今後のために『自分』を殺そうとした…殺すつもりだった……。


「イエーイ! サプラーイズッ!!」


「そのまま黙って転校するなんて水臭いんだから。今日は一生の思い出になるくらいはしゃぎましょうよ!」


 クラスの皆に転校の事を伝えて数日後、仲の良かった友達が絵梨菜の秘密裏に送別会を開いてくれたのだ。


 ベルを鳴らして来客を迎えた次の瞬間に鳴り響くクラッカーの音。


 鬱蒼とした自分の気分を吹き飛ばしそうな陽気な雰囲気。


 絵梨菜はまたしても救われたのだ。


 今までとは違う。誰にも関心を持たれず、見向きもされず住んだ地を転々としていたあの頃とは…。


 別れとは悲しみでしかないという考えを一掃させられる彼らのおもてなし。思わず涙が零れた。


「何かよ、丹がこのまま見送るなんてつまらないとかいって今回の送別会を提案してさ。そう言われると俺達も何か納得出来なくなっちまって…それじゃあ絵梨菜の事ちゃんと考えてやろうぜってなった訳だ」


 男友達の圭司から告げられた事実に胸が熱くなった。



 ――丹君だ! 丹君が私の事をちゃんと考えてくれた!



 舞い上がりたい気持ちを抑えつつ、事情を聞いたらすぐさま丹へとお礼の言葉を告げに寄った。するといつも自分に向けてくれる笑顔で「喜んでくれて嬉しいよ」と返してくれた。


 絵梨菜は本気で知りたかった。丹が自分にどんな感情を向けているのかを全て。


 後に人生のほとんどを束縛される未来が待ち構えていようとも、答え次第で乗り越えられる。


 送別会もお開きになり、各々が自分の家へと帰ろうとしている中、絵梨菜は丹だけを少しだけ家に留まらせ、こんな話をしていた。


「私、向こうに行っても皆の事忘れないよ。特に今日の事は絶対――」


「そりゃあ冥利に尽きるってもんだね。絵梨菜を忘れる人間の方がむしろ希少だと思うよ。学校一のアイドルとも称された絵梨菜が転校するって事で女子はおろか男子総出で惜しんでいる事態だし」


「でもちょっと心残りがあるんだよねー。いつかはしてみようかなって先延ばして結局は叶わなかったもん」


「へーどんな事?」


「彼氏、作ってみたかったなぁ…」


 小さな前置きを出して、絵梨菜は真に聞きたい事をさりげなく迫った。


「この際、仮でもいいから丹君みたいな優しい人を求めておけば良かったかもね」


「あー止めといた方が良いんじゃない? 優しいってのが特徴な人間って裏表が激しいって良く聞くし、凝った価値観で将来の相手を選ぶのは大変危険だと思うよ?」


「えーじゃあ丹君もそうだっていうの?」


「ご想像にお任せします。僕は自分が腹黒いだなんて思っちゃいないからね!」


「くすくす、それじゃあさぁ――」



 ――丹君と付き合っておけばよかったかな?



 言ってしまった。ついに言ってしまった。


 鼓動が激しくなる。からかうような笑みを貼り付けているのがギリギリな理性。


「そりゃあ嬉しいね。でも全校生徒の嫉妬 of hell! みたいな視線を年中向けられるという代償を考えれば嬉しさ半減するけど」


「こら! 人の恋愛を悪魔の契約みたいに捉えないの!」


「ごめんごめん、まぁ相応しい相手ならば誰も文句はないだろうね。僕みたいなただ植物を育てる事が能としかいえない奴が君みたいな女の子と付き合うだなんて夢物語さ」


 相変わらずの余裕な態度。その中に含まれる自虐的思考。



 ――違う! 私を『私』にしてくれたのは丹君なの! 丹君は私なんて比べ物にならないくらいに凄い人なんだよ!?



 三年もの時間(とき)を経てようやく知った丹の本質の一部――意思の傾向――。


 それは自分自身に対する謙遜と卑下が混じり合った静寂なる価値観。『白水丹』という人間性と存在感に過度な自負心を抱えず、低い立場という客観的な目で常に見つめ続ける慎み深さ。


 絵梨菜は感じ取った。


 この人は私とは比べ物にならない物を背負っている。私の考えなんて遠く及ばない位置に立って私達を見つめていたんだ。


 絵梨菜は少し自分が浅ましく感じられた。


 丹に一方的な価値観を押し付けようとした一瞬の偏執。丹に依存していざという時は助けてもらえるという甘え。


「ずっと友達でいようね」


 憧れは憧れとして…。


 敢えて絵梨菜はそれ以上の好意を持つ事を封印し、この地を去っていった。






 それから絵梨菜は怒涛の三年間を過ごしていった。新天地となる都市での生活は騒がしい事ばかりだった。都会独特の騒音問題による物理的なものではなく、主に人間関係であった。


 絵梨菜が次に転校した中学校はまさに『弱肉強食・優勝劣敗』を言い表した魔窟そのもの。身分、学力、財力、ありとあらゆる要素がものをいう世界は彼女にとって悲しく見えた。


 AOIとの関係を父の会社ぐるみで手にしていた絵梨菜は初めから『強者』としての位置を手にして舞い降りていたため、余計なやっかみを受けずに済んだ。三年生――高学年であった事もこれに味方した。


 そんな絵梨菜の身の回りに集まり始めたのは打算的、損得勘定で近づく女子達。後輩ならば彼女の後ろ盾に怯え、粗相でもしたら自分の身が危なくなるという保守的な者達。


 正史ならば父の勝手な事情によって振り回され続け、母の選民思想的教育によって歪んだ性格を形成した絵梨菜はこの中学校の風習に染まり切り、『女帝』という名称が相応しい少女に生まれ変わっていく筈だった。


 だが絵梨菜はそんな昔の友達に誇れる筈もない人間像を目指すつもりなど事さらさらなかった。むしろ論外だと吐き捨てるだろう。



 ――丹君だったらこんな時はこうしているよね。



 なりたい自分がある。目標にする人間がいる。


 絵梨菜の育まれた強い志は歪んだ環境などに屈する訳がなかった。むしろこの環境へ真っ向から立ち向かっていった。


 まず賛同者を弱者の位置から募った。それから自分の立場という『道具』をここぞという所で巧みに利用し、理不尽な暴利をむさぼる輩には持ち前の知力で説得を図り続けていった。


 簡単な話だ。絵梨菜は『悪い事は悪い!』という態度をはっきりと示し、反論された相手は恨みを募らせるよりも恥だと感じさせるようにして一人一人丁寧に内面と向き合っていったのだ。あまりにも簡単な事だが、ここではその簡単な事がすっかり忘れ去られていたのだ。


 気が遠くなるような時間をかけた。一人、また一人と自分自身を省みて向き合う事の大切さを説いていった。


 嘗て絵梨菜が見てきた丹がそうしてきたように…。



 やがてエスカレーター式で高校に進学した絵梨菜はそこで会社の関係として瑠璃恵とその傍仕えの浅翠と出会った。


 今では親しい付き人――絵梨菜本人は親友と思っている――として一緒に行動する仲ではあるが、出遭った当初は愛想笑いを貼りつかせて絵梨菜に近づき、あわよくば押し退ける事も厭わず絵梨菜を通じてAOIとの繋がりを強固にしようという下剋上の()がある卑劣さを潜ませた少女だった。


 淑聖蘭では令嬢同士の付き合いとして高校生と中学生を混合し行う一種の会がある。瑠璃恵はそこで先輩から近年、この学校において異端な活動をしている人間として絵梨菜の事をまるっきり私情込みな侮蔑と貶め目的による説明を受けていたからだ。


 凝り固まった先入観が瑠璃恵の正常な評価を失わせていた。真に敬う必要のない存在だとしてへつらって我慢しておけば十分だと最初は考えていた。


 しかしそれが間違いだと気付いたのはある事件がきっかけだった。


 ある時、絵梨菜達の二つ隣クラスで窃盗事件が発生した。盗まれたのは髪飾り。それもエメラルドを使った一般庶民が簡単には手を出せないような代物。


 疑心暗鬼に覆われていく事態。学校側も調査を開始していったが、中々見つからずにそのクラスでは生徒同士の人間関係をかき乱し続けていく。


 そんな中、絵梨菜が独自で調査を始めたのだ。別クラスの問題なのに何故? と瑠璃恵が怪訝な顔をして一度問うも、絵梨菜から返された言葉は「無関係で片づけられる出来事なんてこの世の中にはどこにも無いもの」という一言。


 手柄や名誉を望む訳ではなくて『自分がしたいからやる』という単純な理由。絵梨菜は単純だからこそ多くの物が含まれているとしてそれを大事にしていた。


「桃山先輩! その日でしたら――」


「絵梨菜様、これはあまり口にしてはならない情報なのですが…」


「お役に立てて嬉しいです絵梨菜さん!」


 瑠璃恵は絵梨菜を見ていった。絵梨菜が独自の人脈を通して調べていき、協力してくれる人間とは対等な立場を以て接していく姿。情報提供者の中には教えると自分の立場が危うくなるにも関わらず、絵梨菜を信じていると言って情報を託してくれた光景。


 瑠璃恵は自分の価値感をまるっきりひっくり返された気がした。人との付き合いなど損得でしかないと考えていた自分がいかにそういう事の努力を怠っていたかというちっぽけさ。


 ――近づきたい。この方の傍に相応しい者として共に歩みたい。


 この日、本当の意味で瑠璃恵は絵梨菜の付き人となった。単なる取り巻きとしてではなく、絵梨菜の助けになるべく存在として彼女から学び、己を磨いていこうと誓ったのだった。傍仕えの浅翠にもこの気持ちを決して偽るまいとして目の前で宣誓するほどだ。


 事件の結末だが、髪飾りの所持者から虐めを受けていた経験があった一生徒が仕返しによって隠したものだった。絵梨菜は犯人を誰にも知られぬ内に見つけ出し、まず事情を良く聞いてから加害者と被害者だけの謝罪の場を見繕った。


 絵梨菜が転校する前に起きていた出来事とはいえ、虐めを何より忌み嫌っていた絵梨菜は所持者――被害者に己がした事の残酷さを『良い笑み』を浮かべながらトラウマ寸前まで問い詰め、ちゃんと理解し反省した後にお互いの謝罪会と化した。


 その光景を傍で見ていた瑠璃恵と浅翠は絵梨菜の事は絶対に怒らせまいと誓ったとか…。


 園芸大好きっ子なあの男の影響が一番の原因である。



 こうして絵梨菜は自分の知らぬ所で広告・宣伝な役割を担った活動する瑠璃恵によりますますカリスマ的存在へと認識されていった。


 嫉妬の感情は多少向けられる事はあったが、その奥も羨望から来るもので嫌らしくはなかった。


 絵梨菜もそれに相応しい人間としてあろうと努力を怠らなかった。


 その結果が蒼井柳二との婚約に繋がるとは思いもせず…。


 こういう日がいつか来るとは覚悟していた。ならば将来の伴侶となる相手を知るべきだとして、向き合おうとしたが、柳二の抱える闇は中々深かった。


 ならば出来る所から少しずつ…少しずつと時間をかけていく事にした。


 焦るのは何よりの禁物だとして…。






 唐突に行われた学校合併。これもまた絵梨菜の転機となった。


 合併によって入ってくる男子生徒達。共学の中学に通っていた経験者として男子禁制を貫き通してきた他の生徒達に注意すべき事と心配ないと宥める活動が続いた。


 一度男子と女子の代表がお互いの取り決めをどうするかとして話し合いの場に選ばれ、無事に済んでから教室を退出して数秒後、絵梨菜は目を疑った。


「丹…君……?」


 届かないと昔は諦めていた。そんな彼がこうして手を伸ばして触れられるくらいの距離にいる。


「丹君だよね! 覚えてる? 私だよ、絵梨菜よ! 中学生の途中まで一緒だった桃山絵梨菜! わ~こんな所で会えるなんてすごい偶然!!」


 人付き合いの都合上、上品な口調をしている絵梨菜。彼の前ではいつも心の中では決して変えるまいとして覚え続けていたあの頃の自分を露わにした。


 封印していた絵梨菜の中にある『何か』が開き始める。



 彼女の物語が始まった――。


珍しくヒロイン(主人公じゃない方)の視点から書いてみたけど意外と長くなってしまった。次で後半です。


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