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後編7

 人間は決して経済のために一身を犠牲にしない、すなわち人間は商売のために死ぬものでなく、ただ理想のために死ぬものだ


――『アドルフ・ヒトラ』ー

「丹君、飴細工って凄く面白いよ! これをこうしてぐるぐるのにょきってして~…はい、鶴の完成!」


「おぅ…」


 この小一時間の間で何があったんだろうか。僕が嬉しそうに熱した飴を加工する絵梨菜とその隅でぶつぶつと暗い影を落としながら両手を壁につけて自身喪失気味な顔を(うつむ)ける店長さんを見て最初に抱いた感想がこれに尽きる。


 絵梨菜を店に残して適当に時間を潰してから励ます目的で絵梨菜の頑張る姿を一目見ようと帰ってきたら、絵梨菜はさも当たり前の如く飴を簡単に扱っているという現状。


 店長さんに確認を取ろうと一旦声をかけるべく近づいてみれば「私の十年が…たった十分で……」と延々と呟くハイライトの消えた目のままな顔を除いてしまっては冷や汗が流れた。


「次はこれこれ! ああして、こうして、そーっと伸ばしてここでチョキチョキってして~…お馬さん!」


 絵梨菜の手先の動きが目で捉えきれない。ネットの受け売りだけど、飴細工を造形する場合は最低でも四、五分はかかるという。絵梨菜は「慣れている」と言わんばかりな手つきで五分間の内に先ほど二つを完成させていた。


 それがどれほど凄いか絵梨菜はまったく気にも留めずに。


 うん、こりゃ店長が落ち込むのも意味が分かる。僕は無言で店長の背中を優しく撫でてあげる事にした


「そ、それにしても、大分形が出来ているね。まさか一日でここまで仕上げるとは流石の僕にも想像しきれなかったよ。」


 ステンレステーブルの上にはガラス細工と見間違えるような飴細工が外枠だけある程度完成されていた。べっ甲色の飴による飾り付け用の器がちょうど専用の機器を使って網目模様に糸飴を貼り付けられていく。


(…末恐ろしい才能だ)


 チート、チートか何かですか? こんな安っぽい言葉を使うのは僕の趣味じゃないけど、絵梨菜の能力を今一度思い返してみると凡人とはかけ離れた部分を何度も目撃していたっけ。


 小学生の時は道に迷っていた外国人に普通に英語で道案内。しかも時々英語以外の言語も話していたな。


 中学生の時は音楽の授業の際に友達とピアノを弄ってるのを見ていれば『超絶技巧練習曲マゼッパ』なんて曲を引き始めるし…。


(どういう意味なんだよ。これがAKUYAKUREIJOUの当たり前だと言うつもりなの!?)


 あ、ちなみにその時には僕の中学で一番ピアノが上手い子が聞いててさ、何でも割と難しい『幻想即興曲』を弾けるらしく周りに凄いと言われていて何というか…若干天狗になりかけていたんだけど、絵梨菜の演奏を聞き終えた途端にいきなり土下座して「弟子にしてください!」と懇願される事件が発生したよ。


 もちろん絵梨菜はその子に色々と教えてあげたそうで、おかげで現在も高校生部門でとある有名なコンクールで優秀賞を総嘗めしているとの風の噂が流れている。


 当時は絵梨菜にコンクールの参加を推薦する話が出てた時期もあったけど、本人いわく「あまり趣味じゃありませんので」の一言で白紙に戻されたんだよなぁ。この瞬間どれだけのピアニストを敵に回してんだか、と友達共々苦笑していたっけ…。


「さーてこの調子で中身の方も仕上げ――」


「はい強制終了。これ以上やっちゃったら職人さんの立つ瀬が無くなっちゃうからね。あ、そういう訳で後はそちらの御自由で注文通りの期日までにお願いしまーす」


「え、ちょっとちょっと!? あーんもっとやってみたいのにー!」


 店長のライフがゼロになる前に絵梨菜を羽交い締めして後ろを引きずり、そそくさに僕共々御退場してもらう事にした。






「君が料理好きなのは小さい頃から見てるから分かってるよ。でもさ、プロの自信を奪うくらい熱中し過ぎるのは良くないと思うんだけどなー? ああいうの何ていうか知ってるかい。空気読まないっていうんだよ。それで、何か言う事はあるかい?」


「ハイ、モウシワケアリマセンデシタ…」


 これで一人の貴重な飴細工職人が道を諦める羽目になろうものなら責任取れるのかい、えぇ?


 睨み顔を見せながら諌める僕に“しゅん…”としょげかえって弱々しい声で返事をする絵梨菜。久々に説教っぽい事をしたな。謝ってはいるけどまだまだ、ちゃんと反省するのを見極めるまではこの姿勢を崩すつもりはない。


 僕達は昼食も兼ねて偶々見つけたホットドック店のオープンテラスにいる。キャッチフレーズが『でかくてうまい!』でオマケに値段もお手軽とあっては先程高い買い物をしてきた分だけあって嬉しい。


「おまたせしました。アイスコーヒー、アップルティー、レタスドッグ二つのお客様ですね?」


「あ、どうもありがとうございます」


「ささっ! 注文も届いた事だしまずは食べよ、ねっ!?」


 …話題を強引にずらしたね絵梨菜。でもいいや、あの結果は元々絵梨菜が生来携えているスペックから引き起こしただけで悪気があった訳じゃないんだし…。必要以上に責めるのは野暮というものだ。


 とりあえずこれで許してあげるとしよう。慣れない事をしたものだから余計に疲れた気がする。その分の英気を養うように目の前のホットドックに僕は(かぶ)り付いた。


 うん、香ばしいロールパンにジューシーで旨味たっぷりなグリルソーセージを挟んでアクセントに歯ごたえ抜群なレタス、締めに甘酸っぱさで舌を躍らせる店特製ソースがますます食を進めてくれる。


「んぐ、おいしい! 偶にはこういう食事も良いものね」


「学校から帰る途中に買い食いしないの?」


「中学では皆と一緒に先生達の目を盗んで買い食いやりたい放題だったよね。初めはいけない事だって分かっていながらも朱に染まれば赤になるやらと…。だけど高校に入ってからはすんごく厳しくなって諦めていて、合併してからは少し緩くなったと思いきや思いがけない見張りが付いてきちゃって」


「なるほど、瑠璃恵さんと浅翠さんか…」


「むしろ私に完璧求めすぎよ! 現に合併前でも校則無視してジャンクフード買い食いしてた子いたのに何が「立派な淑女になるためですわ!」と勝手にプライバシーを抑制されなきゃいけないのよ! 特に瑠璃恵さんが私の学校内におけるイメージを『誰もが羨むお姉さま』キャラに定着させたってのが諸悪の根源じゃない! 無理やり私の俗っぽさを抜いていかれた感じだわ」


「きっと敬愛心が強かったんだと思うよ。でもそれで良かったんじゃないかな? 昔、隠れて買い食いを続けていたせいで若干体重が一時期増えてしまって君が思い悩んでいたって雛菊さんから聞いた事が――」


「きゃー! 言っちゃだめえぇぇぇっ!!」


 知ってるよー。ダイエットのために昼休みでランニングをしていたって事。


 継続の結果、体重は元に戻ったけど買い食いは影響のない範囲で偶にしていたんだってぇ?



 ごふぅ、直接手で口を塞がないでくれないかい? さすがの僕もびっくりするから。


「うぅぅ…だって美味しいんだもん。学食だけじゃ物足りない刺激的な味をこの身体が求めてるんだもん」


「君って意外と食いしん坊? それが理由で料理部に入ったの? …納得」


「~~~馬鹿っ! 丹君の意地悪!!」


 あぁ止めて! 拳を振り下ろそうとしないで!?


 女子といえども、さすがの僕も拳で本気で殴られるのは身に応える!


「むむぅ…」


「よし、さっさと食べてもう帰ろう! 贈り物選びも無事済んだ事だし!」


「…………」


 あの、絵梨菜さん? どうして「こいつ何言ってんの?」な顔をしてこちらを見てらっしゃるんでしょうか?


「まだ行きたい所がある…の……?」


 僕は恐る恐ると絵梨菜に聞いてみた。これで間違えたら何だかとんでもない目に合いそうな予感を孕みながらも。






 どうしてこうなった。どうしてこうなった…。


 本日二度目の不条理、理不尽に大して思わず叫びたくなる言葉ナンバーワンが僕の頭を過ぎつつも、『両手いっぱいに収まった』荷物と共に絵梨菜の姿を見守っていく。


「丹君、もう一度千円札崩してきて! 大至急に!」


「いや、そろそろ僕の手持ちが…このままだと帰りの電車賃が払えなく――」


「…何か文句あるの?」


「はい、何でもないです! すぐ両替して参ります!」


 僕達が次に来たのはゲームセンターだ。


 絵梨菜曰く、下校途中でいつも見かけてたんだけど例の如く見張り――瑠璃恵――が邪魔をして入った事がなかったらしい。いわば絵梨菜にとっての初ゲーセンである。


 まず彼女が目に付けたのがクレーンゲーム。さっきから僕のポケットマネーがどんどん百円硬貨へと変わって消費されていく。


 クレーンゲーム――値段と満足度がかみ合わないピーキーなゲーム機種として知られる。景品を手に入れられるかは操作主の腕次第であり、また“ゲームセンターといえばクレーンゲーム”と言ってもおかしくない程に意外とアジア圏で幅広く人気を誇るアーケードゲームだ。


 それに嘗めてかかると泣きを見る事もあって敬遠される事もあるのも事実。


「丹君まだ~!?」


「待ってて! 直ぐ行くからっ!」


 だがしかし、絵梨菜は一味も二味も違っていた。


 獲り辛い事で有名なクレーンゲームの景品をさっきからバンバンと輩出しているんだ。ビッグサイズのぬいぐるみだって例外じゃない。


 現に僕の抱える景品達の中にあるヌートリアをモチーフした『ヌートン』は全長六十センチメートル弱もあって可愛げのあるぼんやりとした顔を僕に向けているんだ。


 毛並みがふさふさしてモフモフなぬいぐるみは抱き心地抜群さ。


「獲れた! はい、これも持ってて」


「うぇっ!? まだ増やすの!?」


 けどその話は飽くまで数個が限定。こうも数が多くては荷物以外のなにものでもないね。



 それからは更に僕の気苦労は拍車をかけた。


 ワニ叩きでお馴染みなあのゲームを一発満点叩きだすわ…。


 太鼓でお馴染みな人気ゲームのあれを鬼モード三曲制覇するわ…。



 き み は い っ た い な ん な ん で す か !?



 とにかく絵梨菜は遊びに遊びまくったよ。その様子を見て人だかりが出来たりと余計な注目を浴び始めたのを潮時で退散したけどね。


 凄腕プレイヤーとして注目を浴びてる絵梨菜の横で相方(2P)として付き合わされたゲームの時にはすんごく肩身の狭い思いしたけどね!


 おかげで今の僕の財布の中身が…トホホ、帰りの電車賃ぎりぎりだよ……。


「あー楽しかったー!」


「こっちは全然楽しくないよ…」


 むしろ泣きたい。この時ばかりは男女の買い物では男が払ってやるのが甲斐性という暗黙の了解をぶち壊してやりたいくらいだ。


 僕は肉体的にも精神的にも疲労が溜まった身体を引きずる様に動かす。両手にはこれまで獲った景品を運びながら。あ、気の毒に思った店員さんが紙袋を用意してくれたから多少持ち運びが楽になってるよ。


 人の親切が身にしみるね…。


「…ありがとう丹君、私の我儘に付き合ってくれて」


「ん?」


「お母さんのためって言ってたけどね、本当は丹君を元気付けたいのが本音。もちろん、お母さんの贈り物を買いたいというのは本当で丁度良かったからなの。でも結局は私が好き勝手にやってただけな気がするわね」


「…そうか」


 まぁ、薄々と感づいていたけどね。


「あーあ…せっかくの恩返しに最適なタイミングだと思ったんだけどなぁ……」


「後半は君の独断場だったしね」


「うぐっ!? それを言われると立つ瀬がないわ」


「でも楽しかったよ。ここまで馬鹿騒ぎをやったのは本当に数か月ぶりだから心が軽くなったよ」


 現にああやって思い悩む事が絵梨菜といる間は少なくなっていた。陰鬱な感情を溜め込まずに自然なままの姿でいられた。


 あぁ、こうやっていられるなんて本当に久しぶりだ。


「悩みがあるなら私、聞いてもいいんだよ?」


「そこまで深刻な事じゃないよ。つい最近、父さんと母さん相手に親子喧嘩しただけだから時間が全て解決してくれるさ」


「ふーん…」


 嘘は言ってないよ。嘘はね…。


 一方、絵梨菜は何か納得いかない様子だ。


「そうだ、最後は丹君の行きたい所に行ってみようよ!」


「無理、誰かさんのおかげで僕の財布のエンゲル係数は最底辺を突破しかけてるんだけどねぇ」


 僕は「別に怒ってないよ?」という風な口調で歪な笑みを浮かべた。これを見た絵梨菜の顔が引きつった。


「あ、あはは…ごめん! お詫びに次は私が奢るから! 何だったらこのまま夕食を食べにお店でも行ってみる?」


 唐突に御礼を言った絵梨菜の姿はどこか真剣な表情そのもの。


「じゃあひとつだけ」


 今の僕が最も欲する物。それは――。


「ジュース買ってくれない? ある意味激しく動きすぎてもう喉がカラカラなんだ…」


 水分だ。この日だけで一日分のカロリーも消費した気がする。僕はちょうど近くにあった自動販売機を指差す。距離でいえば約五メートルほどかな?


「ふふ、はいは~いお安いご用!」


 絵梨菜はそんな僕を面白そうに見てから自販機へと歩いていった。


 ほっと一息ついた僕は電柱に背中を預ける。汚いと言われようが気にしないね。


 絵梨菜がジュースを買い終えるまでぼぅっと商店街の景色を眺めた。それだけの筈だった。


「―――――?」


 耳鳴りのような空気の圧迫感。


 真昼に感じた物と同じ違和感と既視感が身体を通り過ぎる。自販機の前に立ってジュースを選んでいる絵梨菜の後ろ姿を映す僕の光景に何者かが真横から侵入してきた。


 姿は女性。髪はぼさぼさで来ている服はどこかよれよれ。


 世間一般でいう女性の私服姿とは程遠い恰好をした女性が絵梨菜の横に位置付く。


 二人は何やら話し始める。絵梨菜が何やら戸惑った様子だ。


 その内に女性の声が大きく――荒んできたと言っていいかな?――なっていく。


「――して」


 僕の耳にも聞こえてくる。ここでようやく僕は二人の元へと近づこうとした。


「私の人生を返してよっ!!」


 この場にいる人間全員にも聞こえるくらいのボリューム。いよいよもって怪しさが増した。


 女性はその場で数度激しい身振り素振りを見せた後、ポケットをまさぐり出す。


 その時、風によって彼女の髪が揺れて見えづらかった顔を露わにした。



 ――虹音百合だった。

 


 顔はあの頃とは比べて蒼白が目立ち、死人と比喩されてもおかしくない程に悪く、一瞬見ただけでは本人とは信じられないくらい変貌していた。


 百合は弄っていたポケットから光物――ナイフ――をおもむろに取り出して絵梨菜へと向けた。


 僕は無我夢中に駆け出し、自分が出来る最優の選択を弾き出した。


 手にしていた紙袋を思いっきり百合目掛けて投げつけるという選択を…。


「っ!?」


 ぬいぐるみのぎゅうぎゅうに詰まった紙袋は一種の鈍器そのもの。割と力のある僕が投げると勢いに比例して衝撃が増す。


「何をしているんだ!!」


 姿勢を崩した百合に急接近し、彼女と絵梨菜の間に割って入った僕は急いでナイフを手にする方の腕へと掴みかかる。


 当然の如く百合は抵抗を始める。あの細い腕のどこに一体そんな力があるのか。全力で押さえようとしても振り回そうとする動作を完全には止められなかった。


「邪魔しないで! この女さえいなければ私は、私はっ!!」


 ナイフを奪い取ろうとしても一向に離す気はない。憎悪に染まった顔から百合の必死さがまるで手に取るように分かる気がする。


 …が、所詮は見当違いの逆恨みに過ぎない。おまけに僕の目の前というのが悪かった。


 残り火を見逃した責任を取る。僕が今やれる事はそれだけだ。


「離せ、離せえぇぇぇっ!!」


 我慢が切れたらしく叫び声を上げ、僕が掴んだ手ごと百合は乱暴に腕を振り回した。刹那、右目尻に銀閃が掠めるや鋭い痛みが顔面に走った。


 右頬に温かい物が(つた)るのが分かる。


 ――もはやなりふり構ってはいられない。


 人に…ましてや女性にこんな真似をするのは気が引けたけど緊急手段として妥協した。


 勝負は一瞬、僕は数秒もかけぬ内に右手に力を溜めて握り拳を作るや、



 暴れる百合の腹目掛けて“本気で殴りつけた”。


「いぎぃっ、ぁ…ぁ……っ!?」


 百合の動きが止まった。数秒固まった後、ゆっくりと地面に膝を落としていく。その隙にナイフを没収して手に届かぬ場所へと放り投げた。


「だ、だれか警察呼んで来い! 急げ!」


 今まで様子を見守っていた野次馬の一人がそう叫ぶや、周りの動きに進展が見られた。何人かが地面に蹲る百合へと伸しかかり、身動きを封じる手助けを買って出てくれていた。


 罵声と怒号。様々な感情が混ざり合い、その中で百合の言葉にならぬ慟哭に似た怨嗟の声が聞き取れた。振り返る勇気は沸いてこなかった。


 いや、直視したくないのかもしれない。


 今の百合の姿は悪意そのものであり、僕の罪そのものが形となって現れた存在。


 心のどこかで彼女の事を『怖い』と感じる僕がいた。


「絵梨菜!」


 いきなりの出来事で尻もちを付いたまま呆然としている絵梨菜に無事を確認した。


「ぁ……」


 怪我はない、どこも傷付けられた様子は見られない。軽いショック状態といった所だね。


「大丈夫、大丈夫だからね! 何も心配する事はないんだ!」


 親が泣き喚く子供をあやすように力強く抱擁で言い聞かせた。


 もう危険はない。誰も自分を傷つける存在はいない…暗示をかけるように何度も絵梨菜の心を癒そうと頑張った。


 せっかく上手くいっていたのに…。最後の最後で台無しにしていきやがったよ。


「ぁ、血が…」


 絵梨菜に指摘されて改めてはっきり調べてみると、頬に触れてみた掌が自分の手でべったりと真っ赤に染まった。顔や頭は血管が集中しているから出血すると派手に見えると聞いた事がある。少し深くやられたようだ。でも命に支障はない。


 そこへ柔らかい感触が伝わる。いつの間にか絵梨菜がハンカチを出して僕の頬に押し当てていた。


「ごめん、本当にごめんね…ごめん、ね……」


 絵梨菜は唇を固く閉じて決して泣くまいと言わんばかりな悲痛そうな顔をして僕に謝罪を繰り返した。


 彼女にとって百合の事は自分に関する事。僕はいわばその問題に巻き込んでしまった被害者。


 勘違いしている。それも知らず責任を重く感じているんだろう。


「謝る事は別に何もない。君は悪くない、悪くないんだ…」


 優しく絵梨菜のハンカチを抑える手を握ってあげた。精神的ストレスと軽い強迫性障害による手の震えが僕には痛々しく感じた。


 全て僕の落ち度だ。まさか最後の最後でどんでん返しを喰らわせられるとは…緩くなったものだ。


 考えを定着させておくべきだった。この世界――『OM2』はまだ終わってないってね。


 もうこれ以上は失敗しないと心の中で固く誓った僕は絵梨菜を立たせ、一緒にこの場から避難しようとした。



 そこへ、炸裂音が響き渡った――。



 耳を軽くつんざく音響。一瞬何が起きたか分からなかった。


 数秒の静寂が不気味に続く中、僕は憶測で音が響いた方向――後方へと向いた。


 そこには小さな煙を上げる白い台形の形をした物を手にする百合の姿。近くには激痛に身を強張らせるかのように足を抑える男性の姿。拘束していた筈の百合から怒号と悲鳴を上げて一斉に離れていく人達。


 横たわる男性に目もくれず、百合は幽鬼の如くゆらりと身体を揺らしながらゆっくりと立ち上がり、手にしていた物を今度はこちらに向け始めた。


 考える暇はなかった。ただ、朝のニュースを見ていた僕は偶然にも百合が持つ物体の正体にいち早く気が付いた。この頃話題に出ていた代物だったから覚えといて良かったよ。


 そうと決まれば身体が自然と動いていた。肩を貸していた絵梨菜を思いっきり“突き飛ばしたんだ”。


 周りの音が消えていく。僕の目に映る百合が何やら叫んでいるようだけど、もはや何も聞こえない。一通り叫び終えた途端、彼女の手元から光が発したかと思うと僕の胸に衝撃が走った。


 視線を下へと向けた先には…花が咲いていた。



 ――バラとは比べ物にならない程に赤い赤い花が見事に咲いていたんだ。



 その花は触ってみると火傷するくらいに凄く熱くて…。


 鼻を刺激するほど鉄臭い匂いを(かぐわ)かせていて…。



 ――不思議にも綺麗だと思えたんだ。


(…あれ、絵梨菜?)


 何でそんな悲しそうな顔をしてるんだい? それに僕を見下ろせる程に君はこんなにも背が高かったっけ?


(あぁ、そうか…僕が低くなっているんだ)


 いつの間にこんな恰好してたんだろう。早く起きなきゃ駄目だよね。恰好悪いよね。


 でもどうにも力が湧かないないなぁ…。今日は体調なんて崩していない筈なのに…。


 それに何だか頭がぼぅっとする。表現しようのないくらい眠いんだ。


 

 だめだなぁ…こんなことじゃ……。



 ほん、とうに…だ、め…だ……。


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