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後編5

 我々は理性によってのみではなく、心によって真実を知る。


――『パスカル』

 僕の願望は結果だけを述べれば当然、猛反対された。

 

 中東は現在、2011年の独裁政権が崩壊して以降は新政権や反政府組織の小競り合いにより苛烈を極めた情勢が続いている地域だ。渡航延期や退避勧告など珍しくも無く、一番安全な地域でさえ『十分に注意』という事項が必要不可欠という。


 平和を噛み締めている僕達のような人間には見る物全てを疑いたくなるような出来事が日常的に起きているんだ。生きている事こそが『絶望』だと考えるのが当たり前なくらいに倫理など度外視した地獄そのもの。


 ――目的と志が立派であろうとそんな場所へ大事な一人息子を送るなんて冗談じゃない。


 むしろそんな場所に行こうと考える僕の方が正気の沙汰じゃないと捉えられても仕方がない。


 普段怒った事のない父親でさえ怒鳴り声を上げて僕を説得しにかかった。父親の激しい剣幕に母親は口を割り込む事を許さなかったくらいだ。


 でも僕だって譲れなかった。決心を曲げられない理由があった。


 反論で反論を返すという往来が延々と続き、時間切れにより一旦保留という結果で終わった家族会議。今日、朝食中における一家団欒は無言を貫き通してしまった。これほどまでギクシャクした状況なんて今まで無かったし、過去起きた親子間での喧嘩なんて可愛らしい物だ。


 胃痛持ちになるね、ストレスが半端ないよこういうのって…。


 あの二人を説得するのが僕にとって課せられた最後の試練か。肉親である以上、良心の呵責が半端なく圧し掛かってくる。冗談じゃなく本気で。


 ちなみに、絵梨菜には僕の留学は伝えていない。伝えたら伝えたで色々と面倒になるだろうし、学校側が生徒達の進学先を卒業間近で掲示板に貼り付けるだろうけどした者勝ちだ。


 そうそう、進路調査書はきちんと提出し終えたよ。担任は意外だという風な顔をして調査書と僕の顔を交互見していたけどね。ただ、まだ家族を説得出来ていないという事もあるため、完遂には程遠いって見解で再提出と提出期間が免れたくらい。


 喉元に小骨が引っ掛かっているような感覚。物事は小骨という比喩には収まらないけど…。


 おっといけないいけない、来週から期末試験の期間に入るから悩みの種は出来る限り減らしておきたい。余計な事に時間を省いている暇は無いんだ。



 スマートフォンのバイブ音がする。昼休み、この頃は同じように通学中に買う弁当で昼食をとっていた僕の箸を止めた。


 苛々が募りつつある日常を過ごす僕は煩わしいと思いながら胸ポケットからスマートフォンを取り出して画面を見てみると、『メール一件到着』の通知。


 緩慢な動作で開いてみた先には絵梨菜からのメール。内容を見ると「緊急事態発生! 至急相談したい事があるの!」と何やら慌ただしい雰囲気な物。


「…まさか、話した訳じゃないよね……?」


 予想が外れる筈がない。瑠璃恵の心理を特徴的な線で統計を重ねに重ね上げて徹底的に答えを導く計算をしたんだ。瑠璃恵から絵梨菜に『あの事』を伝えるなどと彼女の心情が許さない。


 いけない、神経質になり過ぎると猜疑心ばかりが高まってしまう。ここは無難に『何があったの?』とメールで返して様子を見てみよう。


「よし来た。え~と何々…?」


 返事は一分もしない内に返って来た。


 答え次第で僕のこれからにおける身の振り方をガラッと変えなければいけなくなるんだけど、僕の心配を余所に返された絵梨菜の返事は別の意味で僕の度肝を抜く事になった。



『赤ちゃんが出来たの!!』



「ぶぶぅぅぅぅっーーーーー!!!!!」



 勢い余って口に含んでいた緑茶を机にまき散らしてしまった。商品名が『やさしい緑茶』なのに喉を強烈に刺激するというこの矛盾。






「えーっと…それで、慌てて僕の方から詳細を直接聞きに訪れてみれば君の『お母さん』の事だったって訳ね?」


「ごめーん、慌ててたから大雑把に伝わっちゃったね」


 絵梨菜のいう『緊急事態』を知ってから急いで彼女が普段居る食堂へとやって来た僕は自分の耳で真相を知った。あまり人目を気にせずに済むような場所を選んで。


 何と、赤ん坊が出来たのは絵梨菜ではなく、絵梨菜の母親――杏奈さん――の方だったのだ。


 どっちにせよ驚嘆すべき事実だ。つまり絵梨菜に弟か妹が出来る訳である。


「この頃ちょっとだけ体調悪いかなーって心配して病院に行かせて詳しい検査を受けさせてみればドンピシャ。さすがの私も耳を疑ったわ…」


「十歳以上の年齢差での新しい家族かぁ~」


「三週間前に珍しく二人だけで旅行に行かせてみたらヤル事はしっかりとヤッていたって事ね」


「こらこらこらっ!! お年頃の娘がそんな言葉使っちゃいけません!」


 感慨深い顔をしている絵梨菜の言動を僕は諌めた。下品なオジサンみたいな言葉を絵梨菜みたいな少女が使う所を見てるのはさすがにね…。


 それにしても、自分から料理を振舞ったりとここ最近は家族との時間を大事に生活していた絵梨菜の頑張りがこんな形で集大成を迎えるとは…。元々政略結婚で結ばれた絵梨菜の両親を本当の意味で相思相愛にして蜜月を迎えさせるだなんて…。


 いったい絵梨菜の人間関係修復スキルはどこまで高いのやら。小学校の頃で僕が友達の作り方を覚えさせて以降、こういう能力をずっと歳を取るに従って昇華を続けていったんだろう。


 もはや友愛・親愛の域じゃなくて一種のカリスマ。自分の親さえ絵梨菜の影響は例外ではなかったって事か。


「だからね 明日の土曜日にお母さんの懐妊祝いとして記念品を買いに出掛けようと思うの。そこへ丹君もついて来てくれないかな?」


「え、僕…?」


「うん! 前にお母さんから「久しぶりに昔の友達でも家に招きなさい」って催促されてね。でもほら、入院してた時は病院内では電子機器禁止されていたから連絡先を聞こうにも聞けないせいで丹君以外の居場所なんて今だ知らないの」


「あー中学の時は携帯なんて持ってなかったからね。よかったら後で皆の連絡先を僕のスマートフォンから渡しておこうか?」


 そういうの禁止していた学校だったしね。そもそも小中学生の時期に携帯なんて渡していたら『携帯依存症』になるのが大半だし、親も持たせる理由が防犯という頓珍漢な考え方で安易な安心感のせいで逆に危機感を損ねてるのが現実。


 教育の観点で素人目の僕が見ても子供に携帯を持たせるなんてほとんど良い事ないんだよね。むしろ携帯持たせるだけで防犯になるなんて普通に考えても無理でしょう。勘違いも(はなは)だしい


 その場で襲われたらアウト。今流行りのGPSなんか搭載してても捨てられたり壊されたりすればたちまち無力化。一昔前から売られている防犯ブザーの方がよっぽど役に立つよ。


 あ、防犯ブザーってそのまま手に持ちながら鳴らしているより、鳴らした状態で遠くに投げるのが本当の使い方なんだって。そうすれば犯人は子供より防犯ブザーの方に意識が向くからその隙に逃げ出すのが一番効果的なんだそうだ。


「だから唯一居場所が分かっている丹君を先に呼んでおこうかなって」


「…別に記念品を買いに行くための付き添いは僕じゃなくてもいいと思うんだけどなぁ。瑠璃恵さんや浅翠さんで行けば済む話じゃないか。僕は僕の方で贈り物をするだけでも十分だよ」


「瑠璃恵さんと浅翠さんの方は一家総出で懐妊祝祭パーティーの準備をしてるのよ。私の方は『私個人』として贈り物をしたいの。ねぇ良いでしょ? 人手は少しでも多いに越したことは無いし、私だけのセンスでプレゼントを選ぶのもなんだか不安だし…」


 一家総出とは瑠璃恵は大胆だなぁ。いったいどんなお祝い品を贈り届けるのやら…。さすが庶民の僕には想像もつかないような事を計画しているね。瑠璃恵みたいに恩を売るといった意図を含まず、純粋な祝福の意を以て懐妊祝いを取り行うかは別として…。


 大人の世界ってホント嫌だね~うんざりするね~。



 うん、ふざけるのはここまでにしといて…要するに一緒に買い物の催促か。


 僕としては瑠璃恵との約束がある。絵梨菜とは必要以上に関わりを持つ事を禁ずるという約束が…。


 この約束がある限り、彼女の提案は断るべきだね。というか、瑠璃恵はこの事を知っているのかな?


「いやー今度の土曜日はちょっと…ぉ……?」


 そう結論づけた僕は遠慮しがちな顔をして絵梨菜の催促に断りを入れようとしたけど、言葉がつまってしまう。


 顔だ、今の絵梨菜の顔を見れば何と言うかその…寒気を少し覚えるような感じがする。いつものように笑みを浮かべているのに、どこか別の感情を隠しているような…。


 彼女の静かな怒りを僕は捉えた。


「…この頃そればっかりだよね、丹君ってば」


 無言のままな僕に絵梨菜は語り出した。


「ひょっとして私の事、煙たがってるの? 言いたい事があるならはっきり言ってちょうだい」


「そんな事ないよ。君の思い過ごしだって――」


「それじゃあどうして普段とは違う事ばっかりしてるのよ。あからさまに私を避けてる事に気が付かないとでも思ってるのかしら? 私に非があるんだったらちゃんと話して。言ってくれればちゃんと直そうとするからさ」


「だからそれは…」


 誤魔化す理由が思いつかない。


 人が『誰か――個人』の接触を避けるのは<相手側に原因がある以外>はほとんどこちら側に後ろめたい理由しかないからだ。


 無論、絵梨菜には全く原因はない。嘘の理由をでっち上げれば済むかもしれないけど、絵梨菜はあの出来事以降そういう事に関しては敏感だ。余計な刺激を与えて思い詰めらせたくない。


 僕の海外進学の事を理由に言い出す訳にもいかない。余計な荒波は極力立てないようにと瑠璃恵とは約束を交わしている。絵梨菜がこの事を聞いて『教師を目指そうとする意思』に揺らぎを芽生えさせるなど言語道断。


 難しい問題がここで現れたかぁー。


「本当に何でも無いんだったら土曜日一緒に出掛けようよ。別に用事なんて何もないんでしょ?」


 バレてるか。いや、読み取られたというべきかな。


「瑠璃恵さんや浅翠さんはこの事知っているの?」


 ここで僕は最後の抵抗をしてみる。


 二人には僕を誘う事に同意を得ているのかを聞いた。


「…なんでそこで二人の名前が出てくるのよ? 私のやる事には一々二人の許可を貰わなきゃいけないとでも言うつもり?」


「あ、いや…そういう訳じゃ……」


 失敗、かえって機嫌を悪くさせたようだ。


「と・に・か・くっ! 行くの? 行かないの? どっちかはっきりして!」


 顔を“ずぃっ!”と近づけて僕の事を至近距離で見据える絵梨菜。


 普段の僕だったから軽く受け流していたに違いない。でも、詰み将棋のような手順で追い込まれていった僕は文字通り逃げ場を失っていた。


 少しでも粗暴な心が僕にあれば、突き放すという行動が出来ればよかったのになぁ。


「行かせて…もらいます……」


「うん、よろしい!」


 僕からの了承を得た絵梨菜は今までの威圧的な表情を一転させていつも通りの笑みを浮かべた。相変わらず見惚れたくなるような笑顔をしてくれるよ君は。


「念のため言っておくけど、あの二人には絶対内緒だからね! もし話したりなんかして台無しになるなんて事になれば…後が酷いわよ?」


「…そんな訳ナイデスヨ?」


 まずい、絵梨菜を怖いだなんて感じるのは何年ぶりだろうか。


 中学校の頃、掃除をサボる男子を何とかするためにクラスの全女子を扇動して無言の圧力をかけて掃除をするように脅迫していた日以来だ。


 元が付くとはいえ、さすが悪役令嬢――。


(あれ、ちょっと待てよ?)


 最初から考えてみればなんかおかしいな? メールの件にしても、あの優等生な絵梨菜が『断片的な情報で見るからに誤解を招くような』内容のメールをそう簡単に送るヘマをするのかな?


 あり得ないよね…? これってつまり、ひょっとしちゃったりして――。


「どうしたの、難しそうな顔なんかしちゃってて?」


 いつもニコニコ、あなたに笑顔をお届け!


「何でもありませぇん…」


 思えば最初の謝罪の時の雰囲気もあまり悪びれた様子がなかったね。僕に対しても断り辛い状況へと持ってくる言動がやけに多かった気もする。


 ひょっとして、全て君の『計画通り』って訳なのかな。


 そうなると僕が浮かべる感想はただ一つだ。



 ――絵梨菜…おそろしい子!



 君って腹黒い部分もあったんだね。なんせ悪役令嬢の資質だけは表に出てないだけで十分に所有してるんだし…。


 

 そうして何事もなく部活も終わり早一日過ぎての翌日――土曜日――。


 昨日の夜の食卓では僕と両親の間には冷戦状態の続きを迎えていた。


 黙々とご飯を口に運び、どこにでもあるような麻薬押収や銃刀法違反の事件を流すテレビの音だけが無情に響く中、僕は明日――土曜日――は出掛けに行くと唐突な事前報告を父親にした。これに対し、父親は「そうか…」と軽く返事を返すだけでそれ以上は何も言わず、これまで通りの無口な状態に戻った。


 夕食が済んだ後はすぐさま自室に籠もったっけ。それからパソコンのネットで明日購入するかもしれない品の下調べを十分に行ってから珍しく床に早く就いたんだよなぁ。


「ごちそうさま、今日は多分昼食はいらないと思うから。よかったら二人も別でどこかへ出かけてみたらどう?」


「……ん」


 父親は新聞を手にして僕との間に壁を作りながら相槌をした。


 せっかくの会話のきっかけさえ受け入れるつもりはなさそうだ。頑固さもここまで来れば芸術と言うべきか…ってその原因である自分が何を言っているんだか……。


「…じゃあ、行ってきます」


 浮かない顔はしない。僕は微笑みを最後まで向ける事にする。


 他人が見ればいかにも無理してる顔だって指摘される代物だ。喧嘩をしたとはいえ、自分の思い通りにさせてくれないという事で両親に恨みといった感情を向けるのだけは僕はどうあってもやりたくはない。


 玄関で遠出用の靴を履き、靴紐をぎこちない手で結んでいく。


 小物入れとするボディバックを背負い、具合を確かめてから姿見で最後のチェックをした。


 何も問題はないと判断する中、静かに近寄る人影が一つ…。


「丹、ちょっといいかしら?」


 いつもの勇ましさが目立たず、寡黙的な態度を昨日から続けていた母親。


 そのまま誘われるがまま僕は外へと出た母親の後をついていき、玄関外にて二人きりで立った。


「いいよ、でも出来れば手短にしてね?」


 母親が言いたいのは大方ああだこうだと予測を付けて漫然と話を聞こうとする今の僕は相当ささくれていたに違いない。つまり、真剣味がない。


 人の気持ちを深く理解しない奴は報いを必ず受けるのだと僕は初めて実感する事になる。


「お父さんの事、あまり悪く思わないで上げてね。親として子供の安全を考えるのは普通の事だから」


「…分かってるよ。分かってるけど、僕は僕のやりたい事をしたい。ただそれだけの事なんだ。お母さんもやっぱり反対する気?」


「正直言うなら反対したいわ。でも、丹が選んだ事には相当な覚悟を決めているってお母さんは顔を見ただけで気付いたわよ。だからあなたの全てを否定してまで反対する訳にはいかないと考えてみたの。でもね、お父さんはたとえあなたに嫌われる事になっても必死で止めるつもりよ」


 新しい事に出遭うのは大切な事。けど覚悟しておくといい。


「もう『二度と』自分の子供を失いたくないと必死だから…」


「えっ…?」


 母親の言った事の意味が良く分からない。


「丹の気を重くさせないように成人するまでは伝えるべきじゃないって二人で決めていた事があるの。こうなった以上はもう伝えておくべきなのかしらね…。実はね、丹には本当は『お兄さんか弟』がいた筈だったのよ」


 ほんの少し得意な事があるだけのどこにでもいるような家族。


 僕は知っているつもりだった。いや、つもりな“だけ”だったんだ。。


「二卵性双生児…同じ胎盤の中に二つの受精卵が着床して出来た双子が十七年前の私の子宮(なか)にいたの。お母さんの妊娠を知った当初、お父さんは本当に嬉しそうでね…全ての知り合いに電話して伝えなきゃ気が済まないくらい喜んでいたわ。おまけに名前も一カ月かけたって未だに決められないくらい慎重さを発揮したくらいだもの。あの頃は今までの人生の中で一番楽しかった……」


 母親は懐かしい記憶にしみじみと思い拭けている。だが、顔は一瞬にして悲しみを浮かべた。


「けどね、五週間程経ったある日に病院へ検査をしに行ったらお医者さんに言われたわ。「片方のお子さんは心臓が動いていません」って…」


「それって――」


「流産、してしまったの。おまけに不幸はそれだけじゃなかったわ。「流産した胎児がもう片方の胎児に影響を及ぼす可能性が大きく、このままだと母子共々命に危険を及ぼしかねない。子供を産むのは諦めた方がいい」って言われもしたわ。今思えばとんだ疫病神よね、あのお医者様ったら!」


 ブラックジョークを言うように当時の事を語っていく母親。


「わんわん泣き散らしたわ。あの人からも自分の命が大事だって諭された事もあったけど、私は断固として堕胎(おろ)すのは否定したの。そのためには逃亡して誰にも知られぬように身を潜めた事もあったわ。結局二週間くらいになって実家の両親に連れ戻されちゃったんだけどね」


「と、逃亡…っ!?」


 ――本当にアグレッシブな人だったんだね。


「散々説得されて落ち着いて…再検査を提案された頃には既に二週間も経っちゃってたから子供の状態も変な事になってるかもしれないって思うと怖かったわ。でも逃げてばかりじゃ駄目だって分かって、意を決して再検査に挑んだら…信じられない光景が目の前にあったの」


「…何が起きたの?」


「赤ちゃんがね、一人だけになっちゃったのよ」


 言葉の真意がいまいち掴めなかった。先ほどの説明から胎児が一人流産したという事は聞いている。


 そんな母親の言葉の意味は実にシンプルな物だった。


「正確にはもう一人の方に『取り込まれて』しまったのよ。その赤ちゃんこそがあなた――丹――なの」


 聞いた事がある。双子が成長過程でごく稀に成長力が強い胎児の方が片方の胎児を吸収してしまう現象がある事を――。


 確かその名を『バニシングツイン』…。


 確率としては十パーセントというやや低確率。普通は母胎の方に吸収されるけど、胎児の方に吸収されるのはさらに稀なんだそうだ。


「奇跡としかいいようのない出来事の後でもあなたは私達の希望に沿うようにすくすくと育っていき、無事に私達の息子――丹――として産まれてくれた。お父さんも私もあなたの顔を初めて見た時は一緒に涙を零したわねぇ」


「…………」


 そんなドラマみたいな出来事を介して僕が生まれたなんて初めて知った。


 同時にこの頃、自分の命を軽んじる僕自身の決断を恥じた。


 なんて矮小な意思。僕が思うよりもこの命は途方もなく重い。これでいい、これでいいと命の行く末をそう簡単に決める僕はなんて驕り高ぶった存在なのだろうか。


「お父さん、出世の話が出てきた時はこれで私達を今よりも楽にしてやれるって喜んでたわ。そんなチャンスを手に入れたのに、丹はそれよりも先の事を考えて私達の元から立派に巣立とうとしている。あの人は認められなかったのかしらね…丹の決断だけじゃなく、自分のこれからが少しでも無駄になってしまう可能性が……」


 ――立派なんかじゃない。


 敵わない、あなた達には一生をかけても到底敵わない。それほどまでに『大きすぎる』。


「…丹。あなたの中東での支援活動という夢が単なる興味本位や適当合わせの将来設計じゃないかぎり、私はどんな事があろうとも応援するわ。だから、あなたは犠牲にする物をしっかりと決めて後悔しない事。忘れちゃだめ、切り捨てる事は恥じゃないわ」


 賽はすでに投げられているのかもしれない。


「入学金の事は気にしないでいいわ。秘密にするのは最後の手段として考えておけばいいのよ」



 真実と善意を犠牲にして僕は進むしかない。


 血を流し続けても、心を欺き続けても――。



 僕という名の特急列車はもう、止まれない。 

次の話はいつになるのか…いやマジで切実に……。

本当にいつ投稿できるか分からない現状です。

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