後編4
感情が人の運命を大きく左右している事に気付きなさい。感情のコントロールが出来る人が人間関係の勝利者です。
――『ジョセフ・マーフィー』
先ほど叩かれた頬がひりひりと熱をもって痛覚を刺激する。普通に殴られた方がマシだと思える鋭い痛みが意識の逃避行を許さず、僕を現実へと引き戻す。
「痴れ者! あなたはどうしようもない程に悪辣な存在ですわ!」
「そうさ、僕は悪党と称されるのに相応しいやつかもしれないね」
毅然とした態度のまま、怒りを露わにする少女――瑠璃恵――は僕を糾弾していく。そんな彼女の言葉に僕は悪びれた様子もなく、薄ら笑みを向けていた。
「でも君には僕をどうする事も出来ない。仮に僕の言葉を無視してそうしたら、この情報がどうなるかはさっき話した通りさ」
僕は指で軽く摘んだ交渉材料――USB――を誇示するように見せつけた。そう、楠賀美学院の代表ともいえる彼らに起きた数々の事件の真相とも呼べる僕の犯行計画書が電子データとなって収められた物。
僕が全ての黒幕だと証明できる唯一の証拠品…。
これをこんな所で使う事になるだなんて考えてもみなかった。全てが終わったら粉々に砕いて燃やしてから廃棄してしまおうと初めは考えていたけど、妙な後ろめたさが邪魔をして捨てるに忍びないと考えてしまい、結局この時まで手元に置いたままだった。
「さぁどうするんだい? あ、言っとくけどこのデータは僕のスマホにも入っている。妙な動きをしようものならボタン一つでこのデータはネットの海に流れ込む。マスコミ関係に流れ込んだりしたら…うわぁ、考えただけでも恐ろしいねぇ」
「…要件を述べなさい。何がお望みでして?」
“ギリギリ”と令嬢に似つかわしくない悔しそうな歯ぎしりが屋上に響く。そう言い表しても大差がない表情を瑠璃恵は浮かべていた。
少し前、僕は電話した通りに屋上で瑠璃恵を待ち構えていた。予定は午後六時であるにも関わらず、彼女はその一時間前――午後五時で屋上にやってきた。
瑠璃恵は「わざわざこの私が来て差し上げたのですから手短になさって?」と心底面倒くさそうにしていた。嫌だなぁ、確かに君とは仲が良いとは言えないけどさ…露骨に見せつけなくてもいいじゃないか。
とにかく、まずは軽い話として瑠璃恵から見た絵梨菜の様子を聞かせてもらった。六割程が絵梨菜への賛辞と称賛だったが、残りでなんとか家族関係が順調に修復されつつある事が読み取れた。
こうして与太話が終わった所で僕は問うた。
「虹音百合達に起きた出来事、瑠璃恵さんはどう思う?」
今では学園の禁忌とされている話題。あえて聞いた僕に良い顔をせぬまま、瑠璃恵は静かに自分の意見を述べてくれた。
「ここまで来た以上、偶然とは考えられないのはまず必然です。ひょっとしたら、絵梨菜様の悲劇を利用して犯行を進められた組織的策略との可能性も見込みましたが、地位と財産観点で得をした人間はほとんど見られませんでしたわ。ただ、橙堂家の御子息における後継者問題を除きましては――。しかし、それならば藍染様だけを狙えば済むお話…そうなると説明がつきませんですもの……」
「もしくは、単なる『恨み』とか?」
酷い茶番だ。自分が何を言っているのか聞いた本人である僕でさえ己の正気を疑いかねない。形だけの演技とはいえ、未だに欺く手段として使っている虚言に嫌気が差してくる。
だけど、この交渉を成功させるには避けては通れない道。たとえ一分に満たぬ必要性であろうとも、可能性という名の荒い樹形図を漂う僕には滑潤油として手助けしてくれる。
――流め、流め、流め、僕が望むがままに…。
「確かに彼ら――正確には虹音さんの我儘によって理不尽な扱いを受けた被害者は少なくありませんわ。ですが、これほどまでの規模による犯行を実行するなんて被害者の方々の中では不可能に近いですわ。何せあれ程まで『偶然』としか言いようがない出来事で彼らを謀るのにどれほどの準備が必要やら…」
「…つまり?」
「完璧すぎるんですわ。まるで彼らが『これから何をするか知っていた』かのタイミングで不運が舞い降りてきたんですもの。それこそ、四六時中監視していなければ分からないくらいの精度を以てして的確な判断を犯人は下している…これがどういう意味かお分かりでして?」
「犯人はとてつもなく頭の良い人間だって事?」
「えぇ、その答えは間違いではありませんが、そも人を調べるというのはたとえ対象が一人であっても途方もない金銭と労力と時間が掛かります。それが五人となってはこれらも係数的に信じられない数値になる程…。私も密かに桜小路家の力を使って調べた事もあるのですが、彼らに対して探偵を雇ったりしたという記録はこの街を中心として調査してもまったく見つかりませんでしたわ。学園内部にも協力者があったかは私の人脈を使って吐かせ…こほん、調べてみましたが全然との事ですわ」
色々君もやっていたんだね。…というか、最後にちょっと恐ろしい言葉が聞こえた気がしたけど無視しておこう。
一応、君の家が最初にヤが付いたり、語源が『空威張り』というアラビア語から来た集団と繋がっていない事を祈りたい。調査という行動の手段が単にいちプロとしての範疇に収まっている事を願うよ。
「ここまで完璧な犯罪は見た事がありませんわ。逆に称賛を覚えてしまうくらいの手際の良さ…。ですが、私にはどうしても納得がいきませんの。『何故あんな事をしたのか』という簡単な事――動機が分からぬ限り、私は犯人に正直な言葉を送る訳にはまいりませんもの」
「それはどうして?」
「愉快犯ならば軽蔑を、覇権争いならば侮蔑を、復讐ならば…もしも『絵梨菜様のため』だとのたまう輩が現れたならば…」
瑠璃恵の表情が険しくなる。怒りを奥に溜めこみ、爆発を起こさぬように必死で耐えていた。
「その自己欺瞞に満ちた分厚い面を私自らが嗜んだマーシャルアーツで叩き潰し、それから死刑台に直接送りつけてやりますわ!」
シャドーボクシングという淑女らしくない行動を僕の目の前で披露してみせた。おぉ、怖い怖い。
いいね、その悪に対する義憤。犯人の目的がたとえ自分の望む利と一致してたとしても、飽くまで結果が良かっただけであってその思想を認めた訳ではなく、何者にも染まるつもりはないという断固たる意思。
つまり、切り捨てる物がしっかりと見えている。
だけど完璧じゃない。桜小路瑠璃恵という人間にとって桃山絵梨菜という存在は己を律する『楔』だ。
絵梨菜の不幸に繋がる事柄にはたとえ彼女が定めている善行であれ躊躇の陰を落とす。たった一点を突かれるだけで瑠璃恵の強固な意志は脆く崩れ去る完全に近くて不安定な物。
まるでダイヤモンド。完璧な宝石と謳われている反面、弱点が多くあるという事実。
もしも、瑠璃恵が望む『復讐』を目的とした…それも絵梨菜のためという大義名分を背負った犯人が彼女にとってどうでも良い赤の他人だったならば、一片の躊躇なく先ほどの言葉どおり有言実行を果たしていた事だろう。
だけど、彼女の中で構成された現実は小説よりも奇なり…それを先に果たしてしまうんだ。予想してなかった事実を僕から告げられて…。
僕は全てを利用する。
今度は僕という存在のせいでこれ以上親しい者に迷惑がかからぬように――。
『自分で自分を消す』のに効率の良い手段を脅迫して掠め取る悪役を彼女相手に最後に演じきるんだ。
僕は心の中で瑠璃恵に謝った。これからも決して言葉にするつもりはない謝罪の言葉を紡いだ。
これを最後に僕は切り替える。全ての終幕を告げる悪役へと変貌する。
先ほどまで浮かべていた笑みを一切削ぎ落とし、復讐に明け暮れていた頃の冷酷な顔を久々に露わにする。
「瑠璃恵さん」
――君にこんな役回りを強要させてごめんなさい。
――君の傷や歪みを利用してごめんなさい。
「これは冗談でも何でもないたった一つの明確な真実だ。だから聞いてほしい」
――あと絵梨菜…。
――君の僕に対する好意も利用して本当にごめんなさい…。
「僕がやったんだ。赤羽藤和も、緑川葵も、橙堂藍染も、蒼井柳二も、虹音百合も…僕が全部この手で――」
――――――――――――――――――――
首都を管轄する都警察の本部――警視庁。
他道府県警と比べて群を抜いた大規模な警察機関として知られ、実質国家の最高位に与する組織機構の一つ。
独自の電波塔が附属された白を基準とした無機質な建物。普通のビルならば四角柱なのに対し、土地の有効使用上によりシンメトリーとは程遠い独特の形でそびえ立つ事でも有名だ。
「どういう事なんですか国松さん!」
刑事部捜査一課――ドラマ等でよく見る『刑事』と呼ばれる人々が担う部局であり、刑法犯罪に対する犯罪捜査を行う部署。
また捜査一課は世間一般でいう強行犯(殺人・暴行・放火など)に対する課の事を指す。
危険度の高い事件ばかりを担当する刑事達が集う部屋にて大椚警部補は今まさに“ダンッ!”とデスクを叩いて苛立ちを形にしながら上司――国松綱紀係長に不満を訴えていた。
「言った通りだよ忠ちゃん。上層部はこの件についての再捜査は認めない方針なんだ」
「そんな馬鹿な事が通る筈ないでしょう! 証拠が見つかったんですよ! 赤羽藤和の事故が故意に引き起こされたという明確な証拠が――!」
「…緊急本部はこの一連の事件の容疑者として件の虹音百合を捜索し、身柄を確保する方針に決めてある。忠ちゃんが見つけてくれた証拠は虹音百合容疑者の犯行を一層と匂わせる結果に終わってしまったんだ」
「ふざけないでください! 本部は物事を安易に考え過ぎなんだ。確かに『あんな証拠』が出た以上、その線は深いと認識していても見落としぐらい考慮するべきです!」
大椚はせっかく掴んだ唯一の手掛かりを穢されたみたいで憤慨していた。
藤和が所有していた目薬の容器。これを手に入れたのは偶然に偶然を重ねた末での結果だった。楠賀美学院への来院はおろか、その学生への聞き込みも満足に行えない状況の中、大椚は発想を一転して便宜上の『被害者』――その一人である赤羽藤和――に聞き込みの焦点を定めた。
藤和の祖父である学園長は今回の事件における真相究明について非協力的態度を示していたが、おかげで盲点となっていたその家族である藤和の『母親』を訪ねたのだった。
彼女は息子である藤和を溺愛していると言っていい程に大切にしていた。その心情を上手く突いて大椚は「息子さんは貶められた可能性があります」と暗にそう意味した言葉を吹き込んだ。桃山絵梨菜や虹音百合といった一連事件の関係者の事は一切出さずに一つの出来事として纏め上げて…。
おかげで息子をこんな目に合わせた赦しがたい『犯人』に対する義憤を燃え上がらせた母親は大椚個人にならばと協力を惜しまなくなり、藤和が事故の当日に所有していた持ち物を提出してくれたのだった。交通事故として処理され、事件性に関連ないとして科学的調査を行わなかった所持品がその時初めて内側を露見させる事になる瞬間だった。
数々の所持品の中、トラック衝突の影響によるものか容器が砕け散り、薬液が空になってしまった目薬に注目した大椚の慧眼は流石としか言い様があるまい。容器の破片に微かに付着した微量な薬液を調べられたのは大椚の知り合いである鑑識課の人間の腕と現代まで発展した科学技術の賜物と述べて良い。
ちなみに、これまで記されていない藤和はというと…彼は未だに病院で入院中だ。命はあれども全身複雑骨折で最低でも全治一年と宣告され、現時点では指先ぐらいしか動かせない状態であり、その上『トラック』を見ると酷く怯え出すトラウマを抱えてしまっていた。
以前の猛々しさはすっかり見られなくなり、病院でお見舞いに来る母親や看護師に看護されながらぼぅっとテレビを眺めて上の空な状態がほとんどだった。彼のお見舞いに来る人間はあの『四人』を主として少なからずいたが、その四人が来なくなってからはまったく見られなくなった。元より不良として名を馳せた彼の元へ近づこうとする人間がいたとしたら…単なる『怖い物見たさ』か『お礼参り』だろう。
「嫌なタイミングで見つかったものだね…。もし『あれ』より先に忠ちゃんの証拠品が提示されていれば流れが変わっていたかもしれないのに……」
綱紀が言う『あれ』とは捜査陣営でさえ意表を突く驚くべき物だった。
それは百合が家出をする際、必要な物以外は外出用バックへ入れず学生鞄に残したままだった所を行方不明の件で尋ねていた警察が手に入れた物だった。捜索の参考資料として家族に提示を求めた際、百合の母親が偶然にも学生鞄を選んで持ってきたのがきっかけ。そのまま鞄の中身を拝見していくと――
――百合が綴っていた『OM2攻略手帳』が見つかったのだった。
丹や百合といった『転生者』とは違い、この世界の人間は自分達が存在する場はとあるゲームを元にして成された物とは露にも思わないだろう。
――選択肢、好感度、フラグ、攻略キャラ、etc…。
手帳に書かれた言葉は『ゲームのように記された百合を中心とした物事』の数々。所々と追加記入された手帳の持ち主本人による私情的内容。書いた本人は至って真剣そのものであると初めに言っておこう。
だが、事情を知らない一般人にとっては百合の手帳は俗に言う『黒歴史生産ノート』として判断されていた事だろうが…今回は相手が悪い。なんていったって警察でそれも状況が状況だ。
ノートによると、攻略キャラと称された人物達にしか知り得ない筈の情報さえも細かに記されていた事が百合への嫌疑に繋がったといっていい。
藤和のバイクレース――。
葵の心臓手術――。
藍染の当主選定試合――。
柳二の(正確には両親)帰国日程――。
それぞれが『百合以外には秘密にしていた』のと『誰にも話した事がない』事柄。他にも色々とあるが、特色すべき部分とするならばこの四つになる。
何故知っているのか?
場所も、日時も、ほとんど全てを――。
ここに警察は注目し、百合に関する詳細の情報を集めていくことになり…結果は言わずがな想像できる通りだ。転校前の学級をめちゃくちゃにした前科がある彼女に対する印象は転がり落ちていった。その上、楠賀美学院で起きた今回の出来事の数々…不穏な部分は百合が裏で糸を引いていたのかもしれないという仮説が立てられていった。
すると、突如として舞い込んできたのは大椚による藤和の事故が計画的犯行を示唆する証拠の発見。
ようするに、大椚が見つけた証拠は上層部が『意図的』に鎮静化させつつも燻っていた事件を上手く纏める指標として作り上げるために利用された訳だった。まるで小さな流れが大きな渦に飲み込まれるがごとく…。
念のため注意しておくが、百合が『未来を知っていた』なんて結論を出す人間など一人もいないからこその結末でもある。
「現時点では逮捕令状を申請するに足る証拠がないから元より御家族の捜索願に基づいた保護を名目とした確保に動いているよ」
「ほとんど犯人扱いそのものですねぇ…」
「…忠ちゃん、これ以上首を深く突っ込むのは止した方が良いと思う。ただでさえ不可解な圧力がかけられているこのヤマは私達一介の刑事には荷が重すぎる」
「ですが…」
「それとね、上層部が証拠を見つけた忠ちゃんの事を聞いたら「余計な事をしないよう言い聞かせろ」と伝えてきたんだ。ここまでになると私はもう忠ちゃんの味方にはなれそうにない、本当にごめん…」
大椚と国松は警察学校からの同期だ。現場派と指揮派という型式に沿って警察官を全うしてきた二人は時の運も重なって今や部下と上司の関係だ。それでも友好的な関係を崩さないのはお互い信頼と協力の絆でしっかりと結ばれているおかげといえる。
だがしかし、法と権力を背負うと同時に彼らは方と権力に縛られる存在。
「気に入りませんねぇ、こちとら必死扱いて掴んだ小さな手掛かりをこんな形で使われるとは…。ようやく始まりを迎えるかと思いきや、勝手に結果の分かり切った捜査をやらされるなど刑事生活の中で初めてだ」
「君の意思に反するかもしれない。でも忠ちゃん、ここはひとつ奥さんのためにも意思を曲げて欲しい。どうか決定された方針に沿って捜査を進めてくれないか? もし懲戒免職にでもなって退職金がふいにされる事態に進むのは友人としても心苦しい」
「…香奈子の事ですか」
定年後には今まで仕事ばかりで家をまかせっきりだった妻――香奈子には楽をさせてやる生活を送りたい。そのためには退職金はかかせない…かといって自分の信念を曲げるのは……。
大椚の心の天秤はゆらゆらとどっちつかず。
『家庭』かそれとも『刑事』か――。
彼にとって究極の選択が迫られていた。
「私は――」
この日、大椚は一世一代の決断を果たしたと言うべきだろう。
後にこれがある二人の人生の大きな岐路になるとは――。
…まだ誰にも知らない。
――――――――――――――――――――
僕と瑠璃恵の裏取引から早一週間。僕はパソコン画面に映る一通のメールから仕上げは終わりを迎えつつある事を悟った。
送られた資料には必要事項を記入すれば直ぐにでも申請を受諾してもらえるだろう。今まで進路希望調査書を提出していたなかったものだから、担任にようやく渡した時には目を見開いていたものだ。
意外だ、とか本気か? とか考えているのが丸解りだったしね。
そのために必要な物は全部揃えたし、条件も問題なかった。優等生やっておいて初めて良かったって思うよ。ただ、必要な物の内一つだけが不足していたからあの裏取引で何とかしたんだよなぁ。
「丹、早く降りてきなさい」
「分かった、直ぐ行くよ!」
今、僕の家ではちょっとしたお祝いムードに包まれている。
主役は僕の父親。内容は異例の出世によるお祝い。
現世の父親もサラリーマンで係長を務めていた。家族のために良く働いてくれる良い父親さ。母親――妻には尻を敷かれてるし、夫婦喧嘩なんて一度も勝てた試しが無いけどね…。
優秀なんだけど、上昇意欲がないもんで係長止まりでいる事に甘んじていた父。
そんな父が『どんな幸運』か部長補佐という役職である次長に選ばれたのだ。課長を通り越して二階級特進…間違えた、二階級特進は殉職で使う言葉だった。
「遅いわよ丹! さぁ早くテーブルについて!」
「ははは、母さんそんなに急かさなくてもいいじゃないか。ほら、丹もこっちに来なさい」
もう分かった筈だ、この幸運が引き起こされた原因というのが…。
僕はあの取引でまず、父親の会社における一定の地位を求めた。これは別に名誉や収入といった物が目的じゃない。
「いやぁー本当に驚いたよ。新プロジェクトを進める要として重要視されている大阪支部へ次長として来年春頃に赴任してくれなんていきなり言われるもんだからね」
「今までの頑張りが認められたのよ、もっと誇っていいわ。それに大阪かぁ…」
「会社から良い不動産を紹介してもらっているよ。そこは安心してくれ」
僕達一家は父親の仕事の都合上、関西都市と呼ばれる大阪へ来年の春に引っ越す事が決まった。
…と言うのも二人にはこの地域から離れてもらうため、瑠璃恵の会社を通じて父親の勤める会社に働きかけてもらうよう瑠璃恵に取引したからだ。
表裏のない誠実な理由による転勤に付随した引っ越し。取引は別に大人だけの特権じゃないのさ。まぁ、僕は精神年齢は大人そのものなんだけどね。
それにしても、瑠璃恵には辛い思いをさせてしまったな…。
犯人が僕だと伝えれば戸惑い信じられぬ顔――。
犯行内容を伝えれば僕に自首を勧めてきた――。
ここまでは良い、でもその後は全て僕自身の本心から遠ざかった虚実ばかりを述べた。
犯行理由が「絵梨菜の自殺未遂がちょうど良いし、あいつらをめちゃくちゃにするのが面白そうだったから」と伝えればうろたえた――。
絵梨菜の事は正直どうでもよく、変な疑いを向けられぬため態々お見舞いに来ていたと伝えれば小さな憤怒――。
犯人が自分だと知らず好意を抜けてくる絵梨菜の姿が滑稽だと伝えれば感情を爆発――。
極めつけはあのUSB。世の中にあの事をばら撒けば絵梨菜は僕の暗躍と世間に弄ばれてもう二度と立ち上がれなくなるだろうと脅しを仕掛ければ憎悪を向けられた。
頬を叩かれたのはこうした理由だ。僕は見事に悪役を演じきってみせた。だから瑠璃恵に対して僕は二つの取引を持ちかける際、『もう二度と絵梨菜の前には姿を現さない』という瑠璃恵の要求を呑んだ。実際には「要求を呑む必要なんて別にないんだけど~?」などと悪役よろしくな天の邪鬼風な演技で素直に応じないように見せてからだったけどね。
警察を動かせる程の力は瑠璃恵の一族にはない。秘密裏に僕を逮捕する事はできないし、たとえ掴まっても後に待っているのは公開裁判。
そこでは必然的に僕の事は証人として迎える可能性がある絵梨菜や警察からの発表によってマスコミに伝えられる筈だ。
「丹、お前はどうするんだ? このまま街に残ってもいいし、大学も別に関西のを選ばなくても良いんだぞ?」
「そうよ丹、よかったらお母さん一緒にここへ残ってもいいわよ? あなたの自由にしてもいいわ」
「丹なら安心だからなぁ…男ながらもしっかりしているし……」
「子供の頃、たった二日だけ一人お留守番させてて帰って来てみたら掃除や洗濯も全部やってくれてた事もあったわねぇ…」
信頼されてる。二人にとって僕は『誇れる一人息子』なんだろう。
だけど僕はあなた達を利用している。僕の勝手な計画のために知らず『隔離』をされたと知ったらどんな顔をするか…。いっそのこと全てを話して殴りつけてもらった方が気が楽だった。
「――お父さん、お母さん、僕…やりたい事が見つかったんだ」
僕はこうして引きずっていくんだろうか。数え切れぬ『何か』をいくつもいくつも――。
「けどね、そのためにはやらなきゃいけない事が一つあってね…まずこっちを果たさないといけない」
「何だい、言ってみてごらん?」
崇高な思想に燃えてる訳でもない。嘘を重ねていった僕の人生の先に待っているのはいったい何なんだろうか?
「僕、海外の大学に進学しようと思うんだ。高校と海外進学における英語学力と成績基準値は達しているから二つの条件は果たしてある。だけどあとは…お金の事なんだ。貯金で一年分くらいは少し出せるとして、後の残りは僕じゃ足りないから必然的に親の協力じゃないと…」
「海外の大学だって!? そりゃまた大きく出たなぁ…」
「どうしてそんな事を決めたの?」
「実は、ある団体に入るためには少なくとも海外の大学で最低三年は在学しないといけないって分かって…書類もついさっき届いてあるんだ。もう自分の名前とかを書き込めばいい状態になってる」
「ある団体?」
僕は一人の友達を失った。
何かを得るには何かを見限らなければならなかったから――。
「僕は将来、中東で活動しているNGO団体の所で働いてみたいんだ」