後編3
道徳なんてものは意気地無しで社会に生存できない奴が自分を保護する武器に作ったものだ。
――『内田亀庵』
スマートフォンを弄りながら僕は朝の通学途中にて買った弁当をついばむ。
コンビニ弁当は質素に思われがちだけど、極端なメニュー以外ならば栄養面で優れた物が多い。
本当は家で自分が弁当を作った方がもっと費用を抑えられるんだけど、生憎僕は早起きが得意ではないし、母親に僕の我儘で負担をかける訳にはいかない。だから母親にはいつもどおり、学食で食べると嘘をついて昼食代を受け取っているんだ。
あ、ちなみにお釣りはちゃんと返す方さ。
時間が経って冷めてはいても、おいしく作られている筈の弁当が味気ないように感じたまま、僕は割り箸でおかずを口にしていく。
そう感じるのはスマートフォンに送られたメールのせいだ。
<最近食堂に来ないけど大丈夫? 偶にでもいいからまた一緒に昼食食べようよ>
差出人は絵梨菜。僕は彼女が退院して学園に戻ってから直接会うのを極力避けるようになっていた。
あの出来事以前から学園内でお互いの事を考えて余計な接触を控えた故にメールのやり取りをしていたけど、この頃は僕自身が絵梨菜と顔を合わせないように行動しているため、彼女との接点はメールのみになっていた。
距離を取ってたとはいえ、僕達が唯一姿を確認する事の出来る食堂も僕が行かなくなったせいで絵梨菜は僕を学園内で見かける機会が少なくなっていた。
元より二重の意味で彼女は人気者だ。学園に帰って来てからは更にその人気も拍車をかけ、絵梨菜の周りには人が集まるようになった。主に女子が中心で男子は離れた席から遠目に見るしか出来ないとの事だけど…。
無理もない。元凶はあの女だけど、その周りにいる『男達』のせいで精神的、肉体的に暴力を受けた絵梨菜のために瑠璃恵を筆頭とした女子達が気を使っているんだ。本人はもう気にしないって言っているけど過保護極まりない扱いらしく、絵梨菜に近づこうとする男子には誰これ構わず警戒心を剥き出しにしているらしい。
おかげで困っているって絵梨菜からメールを送られるくらい凄まじい勢いを見せているよ。
だから、僕には彼女が『どこにいるか』が察知出来やすいからいいんだけどね…。
「ちょっといいか、白水?」
「んっ、ふぁに?」
肩を叩かれて呼ばれたまま返事をしたけど、口に食べ物を含んだままだったので行儀の悪い声が出てしまう。
なので次に来る言葉に備えて急いで口の中の物を咀嚼して一気に飲み込んだ。
「さっきからお前を名指しで呼んでいるやつがいるんだけど…」
「僕を?」
「ほれ、あそこに――」
そう言って同級生が振り向きざまにゆっくりと指を差す。
僕はその方向を注視してみると、教室前方の開いたドアからちらほらと姿を見せる者が一人。
「まさか、お前あいつと知り合いだったのか…?」
意外だと言わんばかりの顔をしている同級生を余所に、僕は自分の目を疑っていた。
見間違いなんかじゃない。あの男の顔は忘れたくても忘れられない程に脳裏に焼き付いている。
だけど何で…。
(何で蒼井柳二が僕に会いに来ているんだっ!?)
前期生徒会で園芸部の存続に関して色々と『お世話』になったとはいえ、それ以外は直接の接点など持っていない柳二の突発的な行動に僕の思考は一瞬停止した。
数秒後に混乱の波から復帰してからは彼が何故に僕へ会いにやって来たのか考えるものの、出る答えは最悪のケースしか思いつかない。
(まさか…バレた……?)
僕の絵梨菜との接点を探り当て、あの事故について直接尋問しに来たのか!?
あり得そうで恐ろしい。柳二は腐っても御曹司、前ほどは無いとは考えられるものの、一般人一人くらいを調べ上げる労力をまだ残していたのかもしれない。
「別に断っても良いと思うぜ? 大体、ここは三年のクラスだしあいつは二年だろ? いくら昼休みの時間とはいえ、他学年の教室に来るのは特別な理由以外は禁止されてるし…」
同級生は柳二が『件の男子生徒』という事もあってか僕の事を気遣っていた。
たとえ後輩に当たるとしても、問題児に関わる事は年齢関係なくやりたくはない。僕達三年生の柳二に対する総意は大半がこんなところだからか。
――断っても良い。
けど僕にはその理由を述べるには条件が足りない。
「…直ぐ行くって伝えといて」
「あ、あぁ…」
僕は真剣な顔をして同級生にそう返した。彼が僕の言葉を伝えに行く中、英気を養うように手元にある弁当を掻き込む。
まだ終わりじゃないと願いを込め、腹を満たしていくのだった。
「それで、君は僕にいったい何の用があるんだい?」
誰にも話を聞かれる心配のない場所として、僕と柳二は屋上に来ていた。道中、興味範囲で僕達が一緒に歩いているのを見かけた生徒達が後をつけようとしていたから、きっちりと巻いてからやって来た。
立ち入り禁止である筈の屋上へ僕が向かおうとするものだから柳二は躊躇してたけど、強引に連れてきたと言っても過言はないけどね。
…細かい事はいいんだよ。
むしろ変な噂を立てられてはこちらが困るしね。戻ったら教室の皆にも頼んでおこう。
「あの、白水先輩。色々と他の人達から話を聞いたんですけど、他の男子達と違ってあなたは桃山――さんと特に親しげな関係らしいそうで…」
態度軟化し過ぎでしょう…。
絵梨菜をさん付けしてるし、僕に至っては名前すら覚える気配の無かった柳二が下手に出た対応をしてるなんて斬新極まりないよ。
「…そんなの知らないね。誰かが勝手に流したデマだよ」
僕はそんな柳二でさえ、冷たくあしらう態度を露骨に示した。余計な事を聞かれる前に一刻も早く終わらせたいからだ。
「いいえ、確かに聞いてます。ちゃんと目撃していたという情報もあります」
「だとしても、君には関係の無い事だろ?」
――僕の事を調べてどうしたいんだ。せめて最初からはっきりと言え。
心の中ではそう念じて柳二と対話していく。会話が成立しているとは言い難いけどね。
しばらく同じ状況が続く中、柳二は突然頭を僕に下げてこう言った。
「お願いです。あなたの仲介を以て俺を桃山と…桃山と話をさせてください!」
――何をいっているんだこいつは…。
「俺、もう少ししたらこの学園を去らなくちゃいけないんです。だけど、その前に桃山へ一言だけでも謝りにいきたいんです!」
「…別に直接会いに行けばいいじゃないか」
「駄目なんです…前にも何度か近づこうとしても、他の女子達が邪魔をして取り合わせてくれなかった。家では両親が桃山の元へ訪れる事を一切禁じていて…この学園の中でしかチャンスはないんです」
「御両親が禁じている事なんだろ? じゃあそういう事自体無駄じゃないか」
「それでは駄目なんです! 桃山には俺からちゃんと謝らないと…でなければ――」
「『俺の気が済まない』…でしょ?」
「ぁ……」
「確かに謝罪っていうのは礼儀としては適切な行為だよ。でもね、君…どうやら自分の置かれている立場がまだ良く分かってなさそうだからあえて言わせてもらうけど……」
――あぁ、駄目だ…。
余計な刺激を与えるつもりなんて全然なかったのに…。
君が悪いんだよ? 僕の琴線に触れる事ばっかり言うんだから…。
「調子のいい事ばかりほざくな、糞ガキが――」
せっかく纏っていた歳相応な態度を剥がしてしまったじゃないか。
僕がこんな言葉を吐くだなんて想像だにしなかった柳二は思わず仰け反っていた。
「君が謝りたいのは罪の意識に駆られてなんかじゃない。もうすぐ学園から去るという理由が『ちょうど良い』から自分に心残りがないようにしたいだけのエゴそのものだ」
「違う! 俺は…そんなつもりは……」
「だったら何で今さらなの!? 絵梨菜が自殺未遂を図って病院に入院した時も、目を覚ました時も一度も姿を見せた事すらなかったじゃないか!」
「その時は…俺が馬鹿だったんです。百合のやつにいいように騙されてて――」
「へーそこでゾッコンだった彼女の名前を出すんだ? 何、自分は騙されていたから少なくとも一番悪くはないって言う気なの、ねぇ?」
僕は落ち込む柳二の言葉を鼻で笑って皮肉る。
自己満足のために謝罪を申し出るなんてくだらない行動に付き合わせようという柳二を容赦なく蔑む。
「悪い事しました、はいごめんなさい――そういうのが認められるのは小学生の悪戯程度だ。君は絵梨菜にやった事を『その程度』だと軽く見ているようにしか思えないね」
謝罪一言で世の中の悪行が赦されるというのなら、裁判なんて必要なくなるよ。
瑠璃恵達もひょっとしたら柳二の魂胆を見破ったから必死で邪魔をしていたのかもね。
「そもそも、本当に謝るつもりがあるんだったら人に助けを求める普通?」
おまけに僕が君のために動く理由もない。
「君はこうやって誰かの力を借りなければ物事を決められないの? 御両親が大企業の代表だか何か知らないけど、どうやら君は相当甘やかされて育ったんだね?」
「――親の事は関係ありません!」
関係あるだろ実質…君は本来だったら学園の皆からあの女のように非難され、軽蔑を受けている存在だ。
そうならないのは、君の後ろがAOIという名前を持つからこその事だ。間違わないように言っておくけど、皆がそうしないんじゃなくて、そう『出来ない』だけなんだからね?
何も分かっちゃいない。守られている事も知らず、自分があたかも悲劇の人物のように考えているその腐った根性には反吐が出るよ。
「どうせ退学した後も親がどうにかしてくれる訳だ。良かったね、まだまだ君には希望がある…卑怯者め」
「違う…違うっ……!!」
「じゃあ御両親の事なんか関係なく謝れば? 言っておくけど君が謝るべき対象って本当は学園にいる全部の生徒や先生も含まれているんだよ?」
絵梨菜の件だけじゃなく、君が副会長の役職に就いていた頃も多くの人に散々迷惑をかけたんだ。これくらい妥当な判断だと思うよ。
――さぁ、やってみろよ。一人一人の負の感情を真っ向から受ける勇気があるならね…。
「…薄っぺらいんだよ、君の感情は。だからあんな女なんかに簡単に騙される」
「ぁ…ぁぁ……」
「御両親も大変だ。こんなのを息子になんか持ったりしたばかりに…」
「…うるさい、俺は、俺は……」
「失望したんじゃない?」
「黙れえぇぇぇぇーーーーーっ!!!!!」
煽ってみたら案の定、化けの皮が剥がれたか…。
君は僕達が想像だにしない努力を続けてきたんだろう。いつかは報われると信じて何日も何日も――。
それがあの女との出会いだと勘違いしてしまったのが運の尽きだったのかもしれない。そこから君は苦労した分の反動を抑えきれず、あの女に影響されて欲望に忠実になっていった。
それはさながら、朱に交われば赤くなるように…。つまり、君は自分を見失ったんだ。
『蒼井柳二』として守るべき物を忘れてしまった…ただそれだけなのかもしれない。
僕は振りかぶってきた柳二の拳を――そのまま顔に受けた。
皮膚の上から叩かれた左頬の骨に鋭い痛みが走る。だけど耐えられない痛みじゃない。
(…柔な拳だ)
人なんて殴った事がなさそうな殴り方だ、固さが感じられない。子供の頃、悪戯したせいでもらった前世の父親の方が全然マシだ。
柳二は息を荒げつつ、拳をもう片方の手で押さえていた。素人が慣れない事をするから拳を痛めるんだよ、まったく…。
自分が何をしたのか信じられないって顔をしてるよ。あー顔に痣出来てたら嫌だなぁ…。
「…正当防衛だ」
「えっ…」
唖然としている柳二に対し、僕は一言そう言って――
「ふんっ!!」
「あがっっ!?」
――柳二の腹めがけて鋭いパンチを放った。
これで痛み分けだ。おまけにちょうど良かった。
「げほっ! げほっ! うえぇっ!!」
僕の拳は柳二の腹に重く響いたらしく、その場で嘔吐した。そんな姿を見下ろす。
「…今のは君がさっき殴った分を含めたこれまで絵梨菜を傷つけてきた君へ僕からの『怒り』だ。全然足りないけど、これで手打ちにしてやるよ」
けど、赦すつもりはないけどね…。借りは返すという意味だからね?
思えば、直接手を出したのはこれが初めてだ。少し、気が晴れた…。
仕返しなんか考えないよね? おそらく、彼の両親が子供同士のいざこざに横槍なんか入れるつもりはさらさらないとは思うけど、今の柳二には自由に使える力は存在しないのは確かだ。
僕は蹲る柳二を屋上に残したまま、自分の教室へと帰っていった。
帰って来たらクラスの皆から質問攻め。
それはそうか、柳二は善悪両方の意味で有名な生徒だからね。
ただ、僕の頬には殴られた痕特有の擦り傷が出来ていたらしく、大半が僕と柳二が何をしていたか察した。
「ただ話をしただけだよ」
僕はその一点張りで詳しくは語ろうとしなかった。余計な問題を起こすつもりはない。真実は胸の中に仕舞っておく方がいいんだ。
否定する人がいる場合はちょっと僕から『オ ハ ナ シ』をしたので物分かりを良くしておいた。
あと、クラスの皆は僕が柳二と何かしていた事は黙ってくれる事になった。決して僕が怖かったからじゃないよね…うん。
でも全員が必ずしも僕との約束を律儀に守る筈もなく、それに屋上へ向かう途中の僕らを目撃した人達はどうにも出来なかった。自前の軟膏で次の授業までにどうにか傷を隠して安心したのもつかの間、部活で庭の山茶花を剪定していると、スマートフォンが震えた。
バイブの感覚からして着信だと気付いた僕は脚立に座ったままスマートフォンを手に取り、画面に表示されてる着信者を見るや動きが止まった。
「はぁ…」
溜め息を吐く。どうして電話が来たのか分かってしまったからだ。
僕は情報を流したであろう不確定の人間に悪態を付きつつも、電話に出た。
「丹君、大丈夫!? 柳二君に殴られたって聞いたから、その…」
――ほら、やっぱり…。
「大した事じゃない。絵梨菜が心配する事は何もないよ」
「だって友達に顔怪我してるって――」
「もう治った。ちゃんと軟膏塗ったから。君もあの軟膏の効力は知ってる通りだろ?」
以前、火傷の際もお世話になった筈だし。
「だけど――」
「あ…悪いけど話は今度にしてくれない? 僕、今は部活中で忙しいし……」
「あ、待ってあか――っ!」
有無を言わせず、僕は電話を切った。絵梨菜には悪いけど、そのままスマートフォンの電源までもオフにする。
本当に心配するような事は何も無いって言うのに…。
誰だ、さっそく情報を流したのは…。文句を言ってやりたい。
「どうしたの白水君。誰かと電話してたようだけど?」
「大した事ないですよ部長、母親から今晩夕食は何か聞かれたくらいです」
「そうなの? ならいいけど…あ、山茶花終わったら次は金木犀だから頑張ろうね」
「了解です」
黄村さんと紫さんは今、僕と同じようにジャージ姿で作業していた。
楠賀美学院のジャージは黄緑色をしていて目に優しいから一部には人気だ。もう暑いから上着は脱いで体操着を晒しているけどね。
よし、あと一か所を――これで山茶花は終了。
「うわー見事な楕円形! 白水君ってカッティング上手いよね!」
「慣れてますから」
得意げに高枝切りバサミを“シャキン! シャキン!”と開閉させる。
こう見えても、家では植木を動物の形に刈り込む『トピアリー』を披露している。様々な動物を象った植木は御近所でも人気な僕の力作だ。
実を言うと、学園祭でも色んな植木でトピアリーを披露しようと頑張ったんだけどチョイスがちょっとまずかった。
なんせ『某夢の国でお馴染なマスコットキャラ』勢揃いを調子乗って披露してしまった物だから泣く泣く普通のカッティングに直したね。
同級生から「いかん! あれはさすがにまずい!」とか「著作権が! 著作権が!」と慌てられ、先生からも急遽やり直しの指示を出されたから二日前の夜時間を一気に使って剪定し直したのは良い思い出…な訳ないでしょう。
とにかく、園芸に関しては僕の右に出る者はいない筈だ。
「それじゃあ、金木犀も一気に済ませちゃいますか」
こうして、また一つの決着がついた。
今回のは予期しなかった出来事だったけど、ちょっとしたけじめが付けられたから満足している。
この出来事からしばらくして――。
僕は浅翠から絵梨菜の元に大椚さんが訪れた事を聞かされる。
それを合図に僕は夜、ある人物に電話をかける事になる。
「もしもし? こんな遅くで申し訳ないけど、どうしても君に話しておかなければならない事があるんだ。場所は明日の放課後の屋上…正確な時間は午後六時。うん、あの二人には内緒で一人だけ…。そうだ、君だからこそ伝えられる『真実』がある。何でかって? …今は何も聞かずに来てほしい。頼むよ――」
「――瑠璃恵……」