後編1
たとえ他人に許されても、あなた自身には許されない。
――『ラテン語格言』
僕の登校時間は朝七時とそれなりに早い時間帯で家を出る。
そのまま歩いて十分程で最寄りの駅に到着し、電車で学園最寄りの駅へと二度の乗り換えを経由して到着。あとはまっすぐと学園を目指して歩いていく。長年持ちなれた鞄の重みはもはや身体の一部と化していて苦にはならない。
いつもの見慣れた通学路。でも、あれから一週間が過ぎた後での街にはちょっとした変化が表れていた。主にバス停の近くに立てかけられている公共掲示板に『それ』は出ていた。
普通は迷い犬や猫、もしくは落し物のコーナーが設置されていて、他はどこかの悪戯目的で綴られた落書きがある公共掲示板。これに新しく刷られたチラシが存在を引き立てるように濃い色でデカデカと張られていた。
<尋ね人 この女性を探しています 虹音百合さん(17歳)>
御丁寧に写真と特徴、おまけに服装や髪の色まで細かに掲載されていた。
僕はそのチラシを掲示板の傍に立って見つめる。
(どうやら君にはちゃんと君の事を考えてくれる人達がいたようだね)
必死で探す想いがこのチラシに込められているのが分かる。たとえ不出来な娘であっても、血を分けた肉親である以上は情を捨てる事は出来ない…か。
(良い御両親じゃないか)
君はそんな人達をちゃんと愛していた? まさか、自分の親さえもゲームの登場人物としてでしか見ていなかったのならば、君は自分が親に愛されるのは当然だと考えていたのかな?
だったら君は元の世界でも愛を知らなかったんだろうね。君の行動から予測するに、愛とは男女間に発生する性的好意の事だけと解釈していたのかもしれない。
それじゃあまるで動物だね。子孫を残すためだけに発生する発情期をただ上品に言い表しているような物だよ。君は人間という物を知らな過ぎた。
僕は人間における愛とは『心と心の触れ合い』だと思う。
誰にでも心にどこか壁を作っている。見られたくない部分がある。
だけど、それを『解放』もしくは『赦せる』と考えても良い人が目の前に現れた瞬間、受け入れる態勢が初めて生まれる。心を交じり合わせる事が可能となる。
長い年月をかけて小さい部分から少しずつ相手に明かしていき、いつしか相手も自分に対して同じ行為を自然と重ねるようにしていく。
故に愛の深さとは『どこまで相手に心を赦せるか』が基本となり、赦せない部分が多くなり過ぎるとたちまちと歪んでいく。人間の心は難解な代物であって全てを支配する事は誰にも出来ない。
同類さん、君が本当に心を赦していたのは誰だったんだい?
(あるいは、自分自身が気付いていなかっただけなのかもね…)
心が満たされないからこそ、たとえ『偽物』でも激しく一方的な愛を望んだ結果がハーレムで、完璧以外を目指さなかったのは君自身の強欲が原因だ。
前者だけでよかったんだ…後者を望んでしまったからこそ君は……。
(僕が全部悪かっただなんて思わないからね…)
結局のところ、僕と君との間で僕達が起こした数々の出来事は『卑怯者同士の共食い』に過ぎなかったんだ。強い者が生き残るという残酷で単純な結末を世界が選んだだけなんだ。
たったそれだけなんだ…。
だから、この話はもうお終いで――。
後はそれぞれに相応しい結末を迎えるだけでしかない。
(僕は一体どんな結末を迎えるんだろうね)
人の道を外れた身だ。きっと碌な結末を迎える事はないだろう。
大勢の生徒が校舎へと入っていく楠賀美学院の日常的校庭風景。
何の変哲もない光景に見えていて、実は以前よりも静かになっているのは学園の人間には共通の認識だろう。なんせ、少し前までは学園のアイドルとも呼べる人間達が通っていた風景が切り取られたかのように消滅しているのだから…。
唯一残っている柳二はもっぱら影の薄い人間として扱われているしね。
あ、そうそう。現生徒会は緊急リコール制度が実施されて選挙を介さず教師監督の元で新生徒会が設立されたそうだ。…とはいっても、まずは旧メンバーが溜めた仕事の処理やらと中々忙しいらしく、まともな態勢が整うまでは教師同伴で活動を進めていくそうだけどね。
ちなみに、新生徒会のメンバーには会計として藤和の舎弟的存在だったあの二年が続けて担うらしい。他は柳二を含めて資格不十分として権限剥奪されて下ろされたけど、意外とこの人だけは仕事の手腕が素晴らしかった。
藤和や柳二といった強烈なメンバーで隠れていたけど、何というか…縁の下の力持ちな活動で結構頑張っていたらしい。あの女によっておかしくなり始めた時の生徒会でも黙々と…。
それに藤和の舎弟的存在だったとしても、彼もまた兄貴分である藤和には思う所があったそうだ。新生徒会設立の際、彼自身は謹慎的な意として会計の役割から身を引く決意をしていたんだけど、新生徒会に選ばれたメンバーからの強い勧めによって謙虚な姿勢のまま続行を表明したらしい。
この学園は『傷』を負いすぎた。治るには多少時間が必要になるだろうが、良い方向に向いているのは確かだ。
そうでなくては報われない。なんせ今日は僕にとっても、彼女らにとっても記念すべき日になる。
「ねぇねぇ、まだいらっしゃらないのかしら?」
「瑠璃恵様の言葉通りならばもう間もなくの筈よ」
校舎玄関にはやけに女子生徒の人だかりが形成されていた。
登校者らの邪魔にならぬように隅でひっそりと集まっている彼女らは常に視線を玄関先へと向けていた。その瞳には大きな期待の輝きが秘められている。
そう、彼女らは瑠璃恵率いるあの団体のメンバーだ。ここまで来ると、彼女らの待ち人とは誰かはもう想像できる筈だ。
「来たわ! 瑠璃恵様の車よ!」
とある団員の一声で一斉に彼女らは我先へと玄関から飛び出していく。
――こら、人にぶつかるくらいならせめて謝っていけ!
まぁ、今日ばかりは見逃してもいいか。嬉しくなるのも無理はない。
校舎から見える校門には一台の黒いベンツが停車していた。そういえば瑠璃恵はいつも執事の榊さんによって浅翠と一緒に送り迎えされてるんだったっけ。さすがお嬢様という訳だ。
しばらくすると十数人はいる女子生徒達が一斉に歓声を上げ始める。僕は目を凝らして見てみると、その先には有名人のような扱いで瑠璃恵と浅翠に連れられてこちらへとやってくる彼女――絵梨菜――がいる。
絵梨菜は一人一人と、自分のために頑張っってくれた人達に握手をしながら何やらお礼を言っている。気付けば学園中の人間が彼女に注目していた。
「――おかえり、絵理奈」
僕はそう一言、直接伝えずにこの場でポツリと呟いた。
そして、そのまま自分の教室へと階段を上がっていく。
窓のない階段。微かに薄暗くいつもの階段が妙に涼しく感じる。日陰だからでも、冷房が利いている訳でもない。唐突に背中がぞくぞくとしたふるえが走った気がした。
「あーこれから進路希望調査をするための志望書を各自書いてもらう。期限は明日までだ、何か質問は?」
教室では僕を含め、誰も挙手する者はいなかった。
「じゃあ今日はここまでだ」
「起立! 礼!」
「「「「「ありがとうございましたっ!!」」」」」
授業がまた一日終わった。
堅苦しい姿勢を解して一斉にそれぞれが楽な態度を取り始める。今時の話題やら、これから部活でどうするかと多種多様な会話が先ほどまで静寂だった教室を支配していく。
その中、僕はついさっき渡された書類――進路希望調査書――を漫然とした表情で見つめていた。
「どうした白水、そんなもんジッと見つめてて?」
「…これからどうしようかと本気で考えてて」
「おいおい、そんなに思い悩むもんじゃねえだろ。簡単に決めればいいじゃん」
――そもそも僕にこれを書く資格があるのやら…。
「ちなみに俺は第一にはインストラクターって書いた。受験する大学の学科が健康運動科学だしな」
「あれ、てっきりスポーツ選手系の進路選ぶかと思ったんだけど?」
「無理無理、所詮俺なんか井の中の蛙だって。それなら有名選手を支える側に回った方が楽なもんさ」
「へぇー」
「それに比べて白水は選択肢が多いだろ。テストも学年三十位以内にいつも入っているくらいだし、頭使う仕事ならそれなり選り好み出来そうじゃん」
胸の奥がズキリと痛んだ。
今の僕に夢を語られるのは苦痛でしかない。夢を見る事を捨てたに等しいこの身であっては…。
「おーい、早く練習に行くぞー」
「あぁ、今行く! んじゃ、また明日な白水」
同級生はそのまま去っていった。
――ちょっとした痛みを残していくなんて…少し酷いなぁ……。
僕は心の中でそう呟く。一方的な逆恨みだから、この苦痛は自分の中でジワジワと消化していくしかない。
吐露する事が出来ればいくらか気分が楽になれるのに、理性がそれを許してはくれない。
僕は愛おしそうに手に持った書類を鞄に入れた。これは今後の機会の中、唯一夢を語る事を許してくれる免罪符に思えて仕方がなかった。
「…部活行こう」
こんなにも一秒一秒を貴重に感じられるようになったのはいつからだろう。
まるで癌の末期患者だ。死を覚悟した人間は日常をこれまで以上に意識し出すと聞いた事があったっけ。僕の今の感覚もこれに類似している気がする。
諦めるという事は逆に言えば余計な事を意識せずに済むという事。
最終的に行きつくのは『生』という生物としての本能なのかもしれない。
思い悩む機会が多くなった事を自覚しながら、僕は学園生活の中で一番の楽しみといって良い部活へと向かった。相変わらず不待遇さが目立つ分、部室として使われる部屋は少し埃っぽい我が園芸部。
「用務員さん、ちゃんと掃除してくれてるのかな…」
あまり人が来ないからという理由でこのあたりだけ掃除を抜かしているものならば職務怠慢として直接抗議しに行ってやろう。
奮う気持ちを秘めながら僕は廊下を進む。
今日の活動はどうしようか? 先週は学校のごみを使った有機肥料作りだなんてじみぃーな物だったし…思い切って今度は園芸部専用の庭園で育てているサツマイモの大収穫でもしてみようかな?
それだったら後から干し芋やら焼き芋やらと色々楽しめそうかもしれない。
サツマイモの収穫なんて幼稚園の頃で数度やったくらいだったな。あの頃の感動が部長達にも再び味わえる事だろう。あれって“すっぽんすっぽん!”抜けるから意外と楽しいんだよね。
未だに廃部という危機が背後でチラついている我が部ではあるけど、新生徒会もこちらの情状を理解して判断を下してもらいたいね。むしろ部員カモン、認めたくはないけど…ゴースト部員でも可。
僕は真剣に園芸部の未来を考えていた。
「丹君」
そうやって『気を紛らわしている』僕へと彼女は声をかけてきた。
思わず足を止めて僕は瞬時に振り返る。
「やっほー、一日ぶりだね」
「どうしたんだい絵梨菜。僕に何か用?」
「うーん、用と呼べる物はないんだけど、現状報告に近いかな? それにさっき久しぶりに料理部行ったら、皆に『今は身体を大事にしていてください!』で押し切られて休みにされちゃったんだよねぇ…」
「皆心配してるのさ。しばらくは大人しく従うべきじゃない? 心配かけたお詫びの意味もかねて」
「うーん、そうしようかなぁ…。それより丹君、今日は食堂に来なかったよね?」
「そうだけど何か?」
「あーいや、いつも食堂で食事してたでしょ? なのに今日だけはいなかったのが不思議だなって思ったから」
「大した意味はないよ。今日は購買で買った物で昼食を済ませようとしただけで教室でちゃんと食べてたさ」
「ふーん…」
納得してくれたようだ。
本当は、少し顔を合わせ辛い気分だったから…。全てが終わった後もしばらくは同じように学園で絵梨菜と接する事は出来るだろうと考えていた。
けど実際は違った。顔を合わし続けようとすると『あの事』の後ろめたさが蘇ってくるようで正常でいられない。
だから避けていたくなった。最後に迎えるであろう僕の姿を直接見られたくないかのように…。
「絵梨菜様、どこにいらっしゃいますかー!?」
「あ、やっばー…瑠璃恵を捲いてここまで来てたの忘れてたわ。さぁ、行きましょう!」
「え、ちょ――」
困りつつも笑顔でそう言った絵梨菜は僕の手をいきなり引っ張っていく。目指すのはこの先にある園芸部の部室だろう。
それにしても、普通は男が女の手を引くって物じゃないか? 悪いけど僕には乙女属性は附属してないよ。単に花を育てるのが好きな精神年齢が高い青少年なだけさ。
そのまま絵梨菜と僕は部室へ突入し、以前と同じく唖然とした表情で僕達を見る部長らを置き去りに休憩室へと隠れるように入っていった。これなんてデジャヴ?
――あーもうむちゃくちゃだよ…。
僕は心の中でため息を吐いたのだった。
とりあえず休憩室に一度入った後、僕だけは作業場へと戻って未だに唖然としている部長らに『協力してください!』という手を合わせてお願いするポーズを見せてから再び引っ込んだ。
一から説明していると時間がかかるからね。長年の付き合いが成せる技って所かな?
その後も完全には戻らず僕は近づきつつある瑠璃恵の声を聞きながら彼女らの行動を見守る。
すると、とうとう部室にやってきたらしく、作業場にいるであろう部長達に「絵梨菜様を見かけませんでしたか?」と尋ねる声がこちらでも微かに聞こえた。
とりあえず、部長達に上手くやってくれる事を祈りつつ様子をうかがっていたけど、やがて静かになったのを確認するに一難は過ぎ去ったようだ。
――やれやれ、後から事実を瑠璃恵に知られればこっぴどく文句を言われそうだ。
一先ず嫌な事は置いといて、目の前でピースサインを作っている『悪戯娘』をどう対応すべきか僕は頭を掻きながら考えた。
「お茶しかないけど…」
「ううん、十分よ」
聞くべき事は聞いておく。次のテーマはこれに決まった。
となると、懸念を抱いていている事――離婚騒動――について思い切って切り出してみた。
絵梨菜のご両親の決断は今までをリセットするには多少役には立つ。だけど、それは単に気休めでしかない。家族の縁という物は切ろうとしても中々切れない物だ。
たかが書類一枚でのやり取りで振りきれる物じゃないんだ。
「だから、ここのところ毎日話し合ってるのよ。家族で食卓を必ずしも囲んで、料理は思い切って私が担当してみたり、ね」
「なるほどねぇ…」
「それでも凄い事なのよ、以前の私の家ではお父さんとお母さんが一緒に食事をするなんてまったく無かったくらいなんだから」
「確か家では家政婦さんが料理を作っていたんだろ?」
「ちょっと無理言っちゃったかなぁ…給金には影響ないようにしてるとはいえ……」
絵梨菜の出来事によってご両親は慎重さを優先するようになったってところかな。
僕はそれならばと絵梨菜にちょくちょくとアドバイスを入れておく。いつぞやで覚えた心理学的な倫理に基づいた夫婦の距離感の修正に関する知識を混ぜ込んだ物だ。
効果は期待できないけど、聞かせないよりはマシだろう。
「…丹君は本当に凄いね」
「えっ?」
「だって私の悩み事なんて朝飯前みたいに解決してくれるんだもん」
いきなり何を言い出すかと思えば…。
簡単な理由さ。君よりも人生を達観しているだけだ。
君もあと五年は過ごせば僕ぐらいの観点に辿りつけるさ。
「思えば、私って小さい頃から丹君に助けてもらってた。初めて会った日からずっと…」
「…その頃から君には色んな事があったね」
「そして、今度もまた…」
「いいや、今回は瑠璃恵達のお手柄さ。君の潔白を証明してくれたのは彼女達のおかげだよ。僕はその時、署名にサインをしただけだし、大した事はしていない」
――そんな目で見ないで欲しい。僕は君が思うような人間じゃないんだ。
君が思っているよりも僕は醜悪な存在だ。
こんな僕に君は特別な感情なんて抱くべきじゃない…。
「…してくれたよ。丹君だけが私の事を『叱ってくれた』のは――」
「…悪い事は悪い事だってハッキリ言っただけだよ」
あの頃の僕は――。どんなだったんだったけな?
優しさを真似たエゴを振り回していただけだったのかな…。
「ひょっとすると気付いてなかったかもしれないけど、これでも私ね…丹君を目標にして今まで頑張ってきたんだよ?」
こっちだって、僕は君を目標にしていたようなものさ。
「今回の事から考えに考え抜いて私、見つけたの…本当にやりたい事が出来たんだよ。前みたいに自分の家がこうだから、という理由じゃなくてちゃんと自分で考えて決めてみたの」
「私、将来は教師になろうと考えてるの」
――君は本当に立派だ…。
「おかしい、かな…?」
「おかしくなんかないよ。だけど、教師って君が思っている以上に大変だよ。今回のような出来事が生易しいと思える事もある。それでも君は教師になりたいと言うのかい?」
「うんっ!」
「そう…」
夢に向かって進む時の人は希望に満ち溢れている。
僕はそんな君にとって足を引っ張る存在になりたくないんだ。
だから、心配せずにありのままでいて欲しい。
「絵梨菜、きっと君が『教師になる頃』には僕はもうこんな風に相談に乗る事は出来ないと思う。だからこう言わせてもらうよ」
――どうか幸せに…。
「どうか『頑張りすぎないで』欲しい。君は君なりに頑張っていくのが一番なんだ」
それと…僕のような人間にだけはならないで欲しい。
これが僕が君に出来る最後の忠告さ。