中編8
無知は無罪にあらずして有罪である。
――『ロバート・ブラウニング』
優雅で厳かな風格を漂わせ、俺の正面に佇む母さんから言われた言葉が信じられなかった。気付けば、先ほどまでの優しげな眼差しが打って変わり、俺に差し向けられる眼差しはどこまでも冷たい物へと変貌していた。
「ど…どうしてですか? 確かに彼女は平凡な家庭の生まれですが、頭は俺とは差が出ていても賢い部類に入りますし、品性も――」
「柳二…」
動揺しつつも機転を利かすように百合を擁護する発言をしていく中、俺を再び静かにさせたのはまたしても母さんの一言だった。
「これ以上、私を失望させないでちょうだい」
呆れた顔で俺を見下ろすその目に宿るのは蔑み。俺は言葉を失った。厳しく育てられたと言っても、母さんはおろか親父にもこういった態度をここまで露骨に取られた経験がなかったからだ。ましてや、母さんがこんな目を向けてくるなどと俺は考えた筈もなく、避けようのないこの場の空気に俺は怯んだ。
このまま共々一言も発せぬまま数秒が経つ。ホールの騒音が恋しく思える程にこの場で長く留まるには耐えがたい。
そこへようやく動きを見せたのが母さん。いや、母さんへと近づく者――親父の秘書だった――が何やらケースに収められたファイルを持ってきてそれを手渡してきた。母さんは秘書に「ありがとう」と小さくお礼を言った後、そのファイルを抱えるように持って俺と視線を合わせる。
「初めは絵梨菜さんの虐め騒動についての報告から始まったわ。あなたからの報告は疑うつもりはなかったけど、内容が内容だったから精査すべき事柄として仕事と同じように確認を取ったのよ」
ファイルを開いて“ぺらぺら”とページを一枚ずつ丁寧に捲っていく。
「海外を転々としていたせいで情報が中々届かなかったのも運が悪かったとしか言いようがないわ。仕事用とプライベート用の連絡先を使い分けている事も…ね。だけど届いた頃には手遅れだったのが私には苦しかった所よ」
確認を終えたのかファイルを閉じて再び抱える姿勢を取り、俺に一歩近づいた。
ここまで俺は一言も喋っていない。いや、喋る事ができない。
まるで金縛りにあったかのようだ。
そのまま母さんは丁重な手つきでファイルを半回転して俺へ受け取るよう差し出してきた。当然、拒否権などある筈がない。
それなりの厚さでファイルに収められている資料。記されている内容が何か恐る恐る吟味を始めるべく、俺は震えた手つきでファイルを開いていく。
「本当に面白い娘ね。あなたの想い人というのは…」
資料に集中する中、ポツリと呟かれた母さんの一言の意味を知るには大して時間はかからなかった。
記述されているのは俺の知らない百合の全て…。俺達が初めて出遭ったあの学園に来る以前での『記録』。
「どういう…事、ですか…これは……?」
――酷い。
これを見た後に浮かんだ感情はその一つ。
「初めて見た時は私もそう思ったわ。だけど、私が懇意にしている情報収集のプロに依頼して集めてもらったまぎれもない事実よ」
楠賀美学園への転校以前で通っていた高校での態度――。
同じく特定生徒に対する脅迫や嫌がらせの記憶――。
いつも見せていた笑顔からは想像できないような所業の数々がまぎれもない事実として俺に提示された。ファイルを持つ手がしだいに震え始めているのが分かる。
普段だったら「でたらめだ!」と突っぱねて全面否定を下す筈だが、その証明を明らかにした人物が俺にとって『偽りなき行動』を方針とする事で認識を固定されている。
…であるからにして、今の俺に『否定』という選択を下す能力はなかった。
「その娘がいかなる方法であなたの心を癒し、魅了したのかは私には詳しくは知りませんが…もっと見るべきところがあったんじゃないかしら?」
理解が追い付かなくなっていく。俺にとって衝撃的な事実を一気に突き付けられたせいで正常な思考が出来なくなりつつあった。言葉を返す余裕もない。
「学校でも面白い活動が起こっているそうね。絵梨菜さんを擁護するという友情に満ち溢れた雰囲気の中、揺るぎない理念と信念を以てして彼女達は署名活動に精一杯励んでいるそうじゃない」
「あ、あれは…」
いつもの言葉が出せない。それが目の前にいる母さんに対してはいかに無価値で無力な物であるかを思い知らされた今では…。
「本当に慕われているのね、絵梨菜さん…。初めて出会った頃もそうなるのに相応しい仁徳に満ち溢れている心が垣間見えていたわ」
母さんはその頃の光景を思い出しているのか、表情が嬉々とした物に変わっていた。
よく俺に見せてくれるいつもの表情。冷めた空気の中では俺にとってそれが安心感を与える『ぬくもり』に感じた。
「ねぇ、柳二。どうして絵梨菜さんとの婚約が両者の任意があって初めて結ばれる形という『仮』の状態にしてあったのか分かる?」
微笑んだまま母さんは唐突にそんな事を聞いてきた。
――そんなの、単なるこじ付けの筈だ…。
会社との繋がりを強固にする意味での婚約。そこに俺やあの女の意思は反映される筈がない。
便宜上で大した力を持たないあの条件にいったい何があるというんだ?
「実はね、初めは現時点で完全に婚約は結ぶという形にしていたのよ? ほら、絵梨菜さんと初めて会った頃ではそのような取り決めで話を進めていたでしょう。覚えているかしら?」
…そんな話をしていた気がする。あれ、それならあの条件はどうして出来上がったんだ?
「私達はその方向で完璧に決めていたんだけど、これを考え直したのはそれからしばらく経ってからの事。私は親交を深める意味としてお茶会に彼女――絵梨菜さん――を誘ったのよ」
――母さんとあの女が!?
初めて知る事実に俺は目を見開く。これまで礼儀として蒼井家と桃山家の交流は特別な場でのみに抑えてしていると思っているばかりだった。親父と母さんが大抵は事業の海外展開における検討と実施で忙しい身であるがための機会設けだからだ。
個人での付き合いまではさすがの俺も把握できる訳がない。特に親父と母さんは立場が立場なので秘匿すべき部分も多く、おいそれと踏み込める事柄ではない。大事な話をするならばなおさらでもある。
「そこでね…絵梨菜さんは私にお願いをしたのよ。婚約に関して少しだけ条件を加えて欲しいってね……」
何を言ったんだ? まさか、あの条件はあの女が実は『俺との婚約には否定的』であるからこそ定められた? だからあんな紛らわしい条件を…。
なんだよ、それなら俺にはっきりと言ってくれた方が良かったのに…。
しだいに自虐的になっていく感情。あの女にさえ初めから求められていなかったという事実が俺に重くのしかかる――が、それは勘違いだった。
「将来の伴侶くらいはあなた自身で決めさせてあげて欲しい――ですって。絵梨菜さん、あなたの事を良く理解していたわ。そうね…私達はあなたに蒼井家の人間として相応しくあるようにと大きな物を背負わせ続けてしまった。その経験がいつしかあなたにとって役に立つ物だと信じ続け、あなた自身を良く見てなかった所もあった。彼女はその事を私に真正面から説いたのよ」
――嘘だ…。
「それを聞いた時、私は思ったわ…。あぁ、この子は他人の幸せを望めて、逆にその不幸を悲しむ事が出来る人なんだって……」
――嘘だ、嘘だ、嘘だ…。
「だからこそ、私は婚約にあの条件を付けたのよ。でも、実際の所はあなたと絵梨菜さんがもし良い仲になってくれたらば…と心の隅では願っていたわ。なのに、柳二…あなたは……」
――嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だっ!!
「絵梨菜さんも…この私も…ありとあらゆる人々を見事に裏切ってくれたわね……」
俺はこの日見た母さんの顔を一生忘れる事は無いだろう。
喜怒哀楽という三次元を超えたその果てにある『何か』が乗り憑った存在に思えて仕方がなく、まともに直視する事すらままならない。
「こっちを見なさい」
今すぐにでもこの場から逃げ出したい。だが、無理だ。
むしろ逃げたら『確実に終わる』。
「人と話をする時は目を合わせなさいっ!! それが基本だと教えた筈よ柳二っ!!」
母さんの怒号によって俺は反射的に逸らしていた視線を合わせてしまう。たとえ辛くてもこの視線を一時も逸らす事は許されない。
冷や汗や動悸が止まらない。このまま心臓を停止し、意識を失ってもいいと切実に願う程に…。
だが、現実ではそんな上手い事などそう安々と起こる訳もない。
「信じる物の基準、判断の慎重さ、あなたは全てを見誤りました! その結果が今こうしてあなたに振りかかっている業である事を自覚しなさい! 少ない言葉を盲目的に信じたからこその禍根を引き起こした恥を知りなさい!」
子供のように泣き喚きたい。謝罪の言葉を止めどなく漏らし続け、耳を塞いでいたい。
「さぁ、あなたはこれから何をすべき!? もしも申し分があるなら今ここで聞かせてもらうわ」
剥き出しにされていく。俺の全てが剥き出しにされていく。
尊厳も自信も取り払われ、自分が犯した罪を責められ続ける。
「…謝罪を」
「…今のあなたにそれを行える程の徳があるとは到底思えません。それに、そうする場合だと向けるべき人数が大多数になるから単に時間の無駄にしかなりません」
今の自分に唯一出来る事を述べてみれば冷たく一掃された。
「あなたには責任という物を背負うには幼すぎるわ。だから、今の立場を全て降りてもらいます。これが最低限よ」
――つまり、俺は蒼井家にとって…。
もう考えたくなかった。全てを理解したら俺そのものが壊れてしまう気がした。
いっそのこと、本物の『人形』になってしまいたい。何も言わず、何も考えず、ただそこにいるだけの存在…。
忌み嫌っていた筈の存在意義を手探りで求めていく。
しかし、それすらも掴む事は許されなかった。
しばらくして、全てが終わった…。
俺は相変わらず煌びやかなパーティーホールの中には戻らず、テラスで呆然と佇んでいた。
抜け殻――今の俺の姿をたとえればまさにその通り。
何もかも失った…。
蒼井家での居場所、学園での居場所、他にも色んな物を…。
色々と聞いたが、俺の行動はかなり根深く影響を与えていたようだ。会社で桃山社長に圧力をかける際、俺の味方になっていた人々にも『責任』を取るとして辞表を自ら提出している者もいれば、ただ「命令されたから」と責任逃れしようとした者には左遷や解雇が下されていたそうだ。
他にも俺の知らぬ所で親父と母さんは桃山家へ先に謝罪をしに訪れていた事を聞いた。本来ならば訴えられても仕方がない程の事をした俺を告訴しないままなのはきっと取引的な事が…。いや、考えるのは無粋だ、止めておこう。
俺にはそれを咎める権利すらないんだから…。
母さんから言い渡された事。それは何もするな…つまりじっとしていろという事。
『後の事はまかせなさい』という優しい意味ではなく、『俺に出来る事など何もない』という意味。次の処分が下されるまでただ大人しくしていなければいけない。
だが、一つだけ…。もう一度だけ確かめたい事が俺にはあった。
散々言われた後だというのに、まだ疑わずにはいられない自分がもどかしい。そう思いつつ俺はスマートフォンを取り出し、自動ダイヤルでかけた相手からの通話を待つ。
二、三度とコール音が耳元に押し当てているスマートフォンから鳴り響く。
そして、『彼女』は直ぐに出てきた。
「あ、柳二君! こんな時間にどうしたの? 電話をかけてくるなんて珍しいね!」
「あ、あぁ…ちょっとお前の声が聞きたくなってな……」
「わー嬉しい! 柳二君からそんな風に言ってくれるなんてちょっと意外~!」
相変わらずの高く元気なテンションが特徴的な百合の声が透き通るように響き渡る。
声が聞きたくなったというのはあながち間違ってはいない。だが、俺と百合による捉え方はまったく正反対だろうな。
しばらく他愛ない話をだらだらと続けていき、俺は意を決して本当に言いたい事を言う。
「…なぁ、百合」
「ん、なぁに?」
これまでの俺だったら発する事のなかった言葉。
今ならば言う決心がつけられる。いや、言いたくて仕方がない。
緊張の中、ややゆっくり且つはっきりと言葉にする。
「お前、本当に桃山に虐められてたのか?」
言った、言ってしまった…。不思議と後悔はない。
ただどう答えるか結果が待ち遠しいだけだ。
「えぇっと、それはどういう事…かな?」
「変な意味じゃない。学園で変な活動が広まっている訳だし、生徒会側として動くには確実な意思表明のためにだな…」
動揺している事を悟られないよう適当な理由を取り繕って質問の本質を引き出していく。
「も、もちろんだよ! やだなー柳二君もちゃんと見ていたでしょ? 桃山さんの犯行現場をしっかりと皆で一緒に確認したじゃないの」
「そうだよな…」
飽くまで味方。飽くまで味方であるように…。
「虐めは具体的にどんな物だったか覚えているか」
「うん! えっとね…まず初めは……」
そこから百合により受けた虐めの数々をスラスラと述べられていく。
俺はこれに簡単な相槌を打ちながら淡々と聞いていた。
そのおかげで、今まで分からない事が分かる様になってきていた。
「でね、四回目の時には運動靴が――」
――なんで…。
「見つけた時には中まで泥が――」
――なんでそんな風に平気で『語れるんだ』。
「あとはお弁当に虫が――」
――なんで辛い出来事をそんな簡単に『覚えていられるんだ』。
「…もういい」
「――にそうになって…えっ?」
「もう、十分だ」
「柳二、君?」
「…夜遅くで電話して悪かったな。じゃあお休み、また明日」
一方的に電話を切った。二度と電話がかからないように電源を切った。
しだいに自分が馬鹿らしく思えてきた。百合という少女の価値観が一気に変わった事で伴うように自分自身の評価が転がり落ちていく。
思わず、手にしていたスマートフォンをテラス奥に広がる雑木林へと思いっきり投げた。闇に消えていくスマートフォンがどこかの樹にぶつかって“ガチンッ!”と硬い音を響かせた。
「…はは…あははは……」
乾いた笑い声が零れる。パーティー用で着てきた一張羅が汚れる事もいとわずその場で座り込み、力無くうなだれた。
「優しい言葉をかけてくる人間が善人であるとは限らない…小さい頃に散々聞かされたっていうのになぁ……」
会社での仕事を手伝うようになった時、親父から人付き合いにおける注意として教えられた言葉が俺の肩に重く圧し掛かっていた。
――――――――――――――――――――
「はい、はい、どうかよろしくお願いします。そちらの裁量にお任せ致します」
一人の男が自身を道化そのものだと自覚している一方、その男の母親である菊江はある場所に『終わった事』を伝えていた。
「今後とも、そちらとは良い関係を築いていければと…はい、えぇ、そうですわ…では、これで失礼いたします」
ようやく終わった電話を通じての密談に満足げな顔をして菊江は傍にあった椅子に腰を下ろしてリラックスする。
「済みましたか?」
付き添っていた夫の秘書から問いかけられる。
「これで後はどうにか『子供のいざこざ』で片付きそうだわ。絵梨菜さんの虐めにおける件が世間に回らぬようあの学園で息子を含めた四人が動いていたのが不幸中の幸いだったわ」
淡々と話す顔にはどこか憂いを含んだ物が浮かんでいた。
「それに絵梨菜さんも無事に目を覚ましてくれた事だし、署名活動団体であるお嬢さん方には色々と“通し”を施しておく手間が随分と省けるわ」
「その割にはあまり安堵なされてないようですが?」
「当たり前よ。こんな面倒な立場でなければあの馬鹿息子を引きずってでも全ての被害者の方々に直接謝罪を申し出るべく赴きたいくらいよ。この事で夫の会社で働く何万人もの社員を路頭に迷わせる訳にはいかないからって贖罪とはいえ、その代わりとして息子の人生を生贄に捧げるというのは母親としては苦しいわ」
「…残念です」
「母親失格ね。息子の辛さを理解しているつもりが全然理解していなかったなんてお笑い草だわ」
自分を皮肉るように菊江は言った。
「でも、そんな柳二の辛さを利用してそこに『付け入った』娘がいるのが何より許せないわ」
共犯者が捕まったとしても、主犯が許される事は到底ありえない。
「…手を下しますか?」
「いいえ、あのままにしておきなさい。どちらにしろ、彼女は普段通りの生活を送れる事はないと思うから。それに…」
「どうなさいましたか?」
「いいえ、何でもないわ。さぁ、パーティーも終盤に差し掛かる頃だろうし、最後の挨拶の準備に取り掛からないとね」
もう一息と言わんばかりに椅子から立ち上がり、控室から秘書にエスコートされながら菊江は出ていった。
菊江は感じているのだ。この一連の出来事には自分達のような地位や経済力を持つ人間とは無縁な第三者が蠢いている事を…。
数々の不審な事故にはその『何者か』の関与が働いている。
おそらく向こう側もそうだろうが、こちら側(企業)としても警察にあまり大きく動かれるのは好ましくない。だだ、捜査の方向を『絵梨菜の虐め』というスタンスからは離れた物として続行はさせていくつもりだ。
図らずも両者の間では『利害の一致』が成立していた。
これまでによる学園で起きた出来事の影響は最小限に抑えられる事になるだろうが、『この次』からはこちら側は一切関与しない。
学園を騒がせた諸悪の根源をどうするかはその『第三者』に任せる事に決める。
煮るなり焼くなり好きにすればいい…。
その報いを受ける覚悟があるというのなら…。
菊江は知らない。
暗躍する『彼』がこの世にとって理解しがたい奇跡によって産み落とされた産物である事を…。
その片割れが『虹音百合』である事も…。
――何も、知らない…。