中編7
焦ることは何の役にも立たない。後悔はなおさら役に立たない。焦りは過ちを増し、後悔は新しい後悔をつくる。
――『ゲーテ』
煌びやかなパーティーホールを彩る豪華な装飾の数々、それに劣らない豪勢な幾多の料理。
一般人の平均年収など軽く吹き飛ぶであろう衣装を身に纏う婦人紳士達。
この日、とある会場にて蒼井家主催のパーティーが開かれていた。パーティーの内容は蒼井家の御曹司――柳二――の誕生日を祝うという年に一度だけの特別な物だ。いわば誕生日パーティーとも言う。
招待されているのはいずれも一流企業家として名高い著名人とその家族。財政界のVIPもちらほら見かけられ、まるで昔の貴族が開いていたとされる社交界と言い表してもさほど大袈裟ではなかろう。
多く人が集う場所には種類によって色んな話題もまた飛び交う。お家事情、市場事情、他にも様々な個人が有する情報を得られ、世の動きを知り――時にはそこで築いた人脈を己の血肉として今後の力へと変える。単に贅を尽くすだけのパーティーではなく、そこにはちゃんとした意味が込められているのだ。
一期一会のもたらす奇跡が生まれる会場から離れたテラス。
薄暗さの馴染む意匠を凝らしたその場にてパーティーの主役――柳二――は一人、黄昏れていた。
久々にロンドンから帰って来た親父と母さんの勧めで挨拶回りに歩いていったが、これがなかなか疲れる。これから会社上の付き合いとして大事にするお得意様や、資金管理団体を通した政治献金をしている政党や政治家の代表者の相手など、まだ高校生という若輩の身である自分には重すぎる。
だが、会社の仕事を手伝うようになってから培ってきたコミュニケーション能力で何とか乗り切り、今後の関係を良好へと導かせるような印象を与えられた。
もう昔みたいに他人に対して興味を持たずにはいられないんだ。両親からは小さい頃から会社の後継者として相応しくあれと何度も口酸っぱく教えられてきたからな。ノイローゼになりがちだった事もあるが、そういう本質は常に捉えてきた。
俺は両親から『当り前』を要求されてきたんだ。出来て当然…それが俺を縛り付ける鎖となるのは幼少期から始まっていた。
成績は学年で一位――。
ピアノコンクールで優勝――。
全国模試で全国三位――。
歳を重ねる度に増えていく輝かしい栄誉。俺自身の努力の結果。
しかし、両親はその事に対して俺が望むような反応はしてくれなかった。それどころか「もっと上を目指せ」と言われてきた。
――喜んでくれたり褒めてくれた経験がなかったんだ。
小さい頃はその言葉を真に受けて愚直に上を目指していたが、物事の捉え方を理解していく内、自分に課せられている義務がいかに終わりのない欲望であるかを思い知らされた。
辿りつく先の見えない那由他の彼方。
俺の人生はそんな彩りの存在しない荒野を進むような物だった。歩いても歩いても自分を癒す物は現れず、ただ終着点を目指すだけの陳腐な旅路。
生きているのか死んでいるのかすら自覚できなくなる自分自身に対し、俺は希望を託す事をいつの日か止めてしまった。物事を静止的に見つめるようになり、自分から動くという行動を減らし、口数もまた少なくなっていった。
その日から俺は『人形』になった。
向上心を忘れ、現状を維持するためだけに必要な事しかしない。俺のスタンスとしてそれは心に深く刻まれていった。会社の後継者として相応しく…それを普通として子供らしさを一切そぎ落とす。
つまらない、つまらない、つまらない…。
しだいにこの生き方にも疑問が浮かばなくなっていき、楠賀美学園を卒業したら決められたレールの上を変わらず走り続けるのだろうと考えていた。
――そんな時だ。俺が百合に出合ったのは…。
初めは図書室で学習していた時だった。人と極力関わるのを避けて目立たない日陰の一角にて本を広げていると、偶然にも迷い込んできた百合が現れた。あの学園の図書室は奥へ進めば進むほど入り組んだ構造をしていて、慣れない頃に入ると偶に迷って直ぐには出られなくなるからな。
自分のお気に入りの場所に他人を入れたくなかった俺は少々怒り気味に「邪魔をするな。消え失せろ」と言いつつ、脇目もふらずに百合に対し、手で“しっしっ”と払った。
それに対し、百合は素直に謝ってきた。何でも、転校したばかりで学園を見て回っていたのだと…。
別に俺を邪魔しにやって来た訳ではない。そういう事なら別に構わないと感じると共に、当時の俺は百合に対して何の興味を持たず、ここに来た理由を言われた所で大した反応を示さず無視していた。
本に集中していた俺は百合がその場から去っていく時も目で追わず、自分の世界に入り浸っていた。
だが、それは再びやってきた百合の姿で強制的に中断された。
どうやら完璧に図書室で迷った口のようだった。申し訳なさそうに百合は俺に出口への道順を教えて欲しいと願った。二度に渡る俺の集中を妨害した百合に舌打ちしつつ、やや早口で図書室から一番早く出られる道順を教えてやり、後は徹底的に無視を決め込んだ。
なのにしばらくしたら百合はまたしても俺の前に現れた。まだ迷っていたからだった
あまりのしつこさにキレた俺は本を勢いよく閉じ、強引に百合の腕を引っ張って図書室の出口へと連れてってやった。出口が見えた途端、俺は百合の事を手荷物を放るように腕から投げたっけな…。
床に転がった百合から文句を言われながら俺は元の場所へと戻った。その時、今度からは耳栓も持っていこうと考えた事もあったな。
その日から百合は俺の元へ来るようになった。この前のお礼だと菓子を持ってきたりと色々世話を焼いてくれ、図書室だけではなく廊下や教室でも話しかけてくるようになった。
最初は迷惑だと考えていたが、知らぬ間に百合の相手をしていく俺がいる事に気づくには時間がかかった。
試験期間の時では俺に勉強を教えて欲しいと相談してきた事もあった。他人に物を教えるという自分にとって斬新な行動に興味を持った俺はそれを実践という形で百合の相談に乗った。
その際、俺は百合に対して酷い事を何度も言った経験がある。
こんな事も分からないのか――。
そんな事も知らないのか――。
まるで昔の俺を見ているような気分だった。当たり前を要求されていた俺自身を鏡で見ているような…。
口汚く罵る俺にさすがの百合も怒るだろうと予想していたが、彼女は俺の予想を超える事をのたまった。
「蒼井君って本当に凄いんだね!」
腹を立てるどころか、俺の事を尊敬の眼差しで見ていたんだ。これには俺も度肝を抜かれてしまった。両親や周りの人からは『あのAOIの次期後継者なんだからこれくらいは出来るんだろう』と偏見の目で見られ、期待、羨望、嫉妬といった感情を大いに受けてきた。
そんな俺の事を百合は…『初めて褒めてくれた』んだ。
百合から受けた言葉に俺は内側から今まで感じた事のない衝動が湧きあがって戸惑ったが、顔には出さず「そんな事言っている暇があるなら続けろ」とぶっきらぼうに振った。
本当は嬉しかったんだろう…。
だけど、この頃の俺にはそれを形として表す術を知らなかった。
そこから俺から百合への接触回数は日に日に増していった。
自分の『知らない事』を百合ならば教えてくれる…。思惑を孕んだ接触から始めたが、いつのまにか心の底から百合と話す事が楽しくなっていった。
――彼女を自分だけの傍に置きたい。
そんな邪な思考に囚われる事も何度かあったが、友人達――という名のライバル――のおかげで無茶な行動に走るのだけは抑制できた。そのうち一人は名前が俺の名字と読み方が同じで、何となく一緒にいるのは極力避けたいと思いたくなるのがいたが、お互いがお互いを高め合う仲として百合と共に関係を深めあった。
全員が俺と同じ、百合に『癒して』もらったやつらだと分かるのはさほど時間はかからなかった。あいつらからそれぞれ百合にしてもらった事を教えてもらう内に彼女の凄さを実感し、ますます俺は百合に対して特別な思いを抱いていった。
これが当初、叶う筈のない思いだと気付きながら…。
俺には婚約者がいる。いや、正確には『いた』。名を桃山絵梨菜、企業における不動産事業統合を行う際に合併したコーポレーション桃山の社長令嬢だ。早い話が俺と同じような『良い所出』のお嬢様だな。
あの女とは会社同士の縁を結ぶために両人の親から紹介されたのが始まりだった。
今でも覚えてる。最初に出会った頃は桃山社長がやけに自分の娘であるあの女を俺に強く勧めてきた事を…。
その姿には俺は見飽きていた。自分は大した力を持たない癖に、ああして媚を売る事で力の大きな者の下に、庇護下に入ろうとする輩を良く見てきた。有能ならば少しは考える所はあるが、無能ならば使い物にならないので相手にしない。
あいにく、桃山社長は前者だったそうで…どのようにして親父に取り入ったのかは俺にはまだ知る事が出来ない。まだ会社の役員程に重要なポストには位置していないからだ。会社ぐるみの取引に関する情報は提示してくれない。
父親がああならば、その娘である桃山も同じ人種だろうと考えた俺は煩わしく思いつつも、作り笑いという名のよそ行きの表情で対応してやった。大抵、女性に対してこの顔で相手をしてやると喜び、余計な事をせずに済む理由からのチョイスだ。
なのに桃山は俺より一歳年上だからか、俺の事を子供を相手にするよう優しい口調でかつおせっかいを焼きたがる事が多かった。何だか俺の事を『哀れんでいる』ような目をしていてうっとおしい事この上なく、俺はあの女の事が苦手だった。
――こんな女が婚約者だなんて冗談じゃない!
一応、親父と母さんからこの婚約は当事者双方の任意によって完全に結ばれる形となると説明されてはいるが、そんな物はこじつけに過ぎないと解っていた。あの女は蒼井家に嫁ぐ者として資格があると見られている。
そんな貴重な人間を易々と手放すつもりなどないだろう。
俺はこういう身である以上、百合と結ばれる事はありえないと考えていた。あの女が百合を虐める出来事が起きるまでは…。
俺にとっての大切な人を傷つけたあの女にはまず初めに怒りを湧き上がらせたが、逆にこれはチャンスだと考えた。あんな女をこのまま婚約者として留まらせるよりも、百合をその後釜として座らせるよう動けば夢物語も叶える事が可能になる!
さっそく俺はあの女を糾弾する活動に入った。活動には俺と同じ怒りを抱いた友人達も志を共にして協力してくれた。百合の証言を元に調査を進めていくうち、あの女がいかに狡賢い女であると知るのに時間はかからなかった。
活動の間、外野からあの女を擁護したり百合を逆に非難する連中が出てきた事もあったが、邪魔をするのであればそれ相応の処置を施してやった。百合のように俺達みたいな心に影を持つ人間を癒やす事も出来ない有象無象からの嫉妬や喚きなど聞くだけ時間の無駄だ。
ついにはあの女を婚約者としての立場から追いやる所まで来た時、俺達にとって予想外の事が起きた。まさか、あの女が自殺を図るとは思いもしなかった。
確かに追い詰めた俺達にも原因の一端は担うが、最後まで百合に謝らず、自分の仕出かした罪を認めないまま逃げようとしたあの女の性根にはほとほと呆れたよ。せめてそういう事をするなら本当にやるべき事をしてからにしてもらいたかった。
この出来事は藤和先輩が学園の学園長である祖父に頼んで世間一般には放映されるような心配事は起きなかった。よく虐めで自殺した人間の事をニュースで取り上げる事はあるが、虐めていた人間が自業自得で自殺未遂した出来事などニュースにする価値もないと俺は思う。
なのに百合はあの女の自殺未遂を悲しんでいた。
「私のせいだわ、私が虐められる原因を作ったばかりに絵梨菜さんは…」
虐められた自分の方が悪いと言っていたんだ。俺達は揃って「気にする必要はない」と説いたが、最後まで絵梨菜は自分を責めていた。
本当に優しいんだなって俺は考えたよ。
こうなった今、目の前にいる天使のように清純な彼女を俺達は支えるべきなんだって相談し合ったな…。
だが、それを実現できるのはもはや俺だけになってしまった。
初めは藤和先輩、次に葵、その次に藍染…。
あの女が自殺未遂をしてから奇妙な出来事に彼らは襲われ、一人また一人と百合や俺の目の前から消えていった。藍染など本当に『この世』から消えてしまった。
――俺達の知らない所で何かが起きている。
ひょっとすると次は…。
「調子はどう、柳二。人酔いでもしたのかしら?」
思い悩みながら夜風に当たって涼んでいる中、後ろから声をかけられる。
「…母さん」
振り向いた先には控えめな服装でありながらも隠しきれない成熟した美貌をさらけ出す俺の母さん――菊江――が優しそうな笑みを浮かべて立っていた。
そのまま母さんは俺が手をかけている柵に寄るや、同じように片手で柵に手をかけた。
「こういう場所はやっぱり慣れない?」
「えぇ、恥ずかしながら…。だけどやりたくないという程ではありません」
「うふふ、それなら良かったわ」
俺の両親は厳格な所が目立つものの、母さんの性格は温和な部分が多い。普段は何を考えているか分からないようなゆったりとした雰囲気を纏っているけど、中身はさすが蒼井家の伴侶だと周りを言わしめる高等な女性だ。
親父を大黒柱と呼ぶならば、母さんは縁の下の力持ち。会社関係を抜きにして、蒼井家の人間関係といった小さな部分――それでも重要だ――を支えている。問題ごとが起きた場合、そこで力を貸してもらえる人が集まる現象も単に母さんの人望によるおかげだと言っていい。
「この頃、あなたは大丈夫? 無理をしている所はない?」
「全然問題はありません」
嘘だ、本当は色々と悩んでいる事が多くある。
学園で桃山の元崇拝者達が傍人の桜小路による先導の元、百合にあの女の事で謝罪や処分を要求するといった活動を繰り広げている。
百合の虐めが自作自演だって? 馬鹿を言うな、俺達は実際に見ているんだ。それなのに後付けみたいな理由を並べていかにも自分達が正しいと吹かしやがって。
今は大事な時期なんだ。そんなくだらない事で邪魔をされてはたまらない。
「もうすぐ学園も卒業ね。それにしても昔は会社を継ぐ事に何というか、積極性があまり見られなかったのにどうして心変わりしたのかしら? 卒業後は大学に進むつもりでいたというのに突然早めてくれだなんて…」
「…俺にも守りたい者ができたんです。そのためには力が必要だと考え、少しでも早く身につけようと結論に至ったまでです」
「一昨日、あなたが屋敷に招いたお嬢さんの事ね?」
そうだ、実は一昨日、百合を両親がちょうど帰国する日時に屋敷へと初めて招いたんだ。百合は子供のように屋敷内の造形に目を輝かせていたっけな。それを見ていると俺もなんだか微笑ましく感じた。
両親が屋敷へ戻ってくる合間を縫うように招待したが、百合にはそんな事を知らせずにいたものだから、彼女は俺の両親に出会うだなんて思いもしなかっただろう。親父と顔を初めて合わせた時ではもの凄く緊張してかじかじが聞こえていたくらいだしな。
まぁ、親父の眼力を真正面から受けて動揺しない方がおかしいか。俺だって昔はそのおかげで親父と言葉を交わせにくい状況を何度作り上げたことやら…。
時間もちょうどよかったので夕食にも誘ったんだよな。そこで百合は親父と母さんに色々と聞かれたんだが、さすが百合だった。元々の人の良さを体現した態度での接し方で二人に好印象を与えていった。
そこから初めの堅苦しい会話はどこ吹く風か、俺も参加して家族全員で楽しい団欒が繰り広げられた。あの親父が笑う所を久しぶりに見たり、母さんが恥部というべき俺の昔話をしたりとこれまでした事のなかった『家族での時間』がそこにあった。
やっぱり百合は凄い…。
「おもしろい子だったわ。あんなに楽しい時間を過ごせたのはいつ以来かしら」
「彼女は人を笑顔にする力があるんだと思うんです。だからこそ、俺もあいつのおかげで変わる事が出来ました」
「…そうかもしれないわね」
「あいつには『貰って』ばかりな事が多いです。ならば、次は俺の番だって…俺が考えつく限りの礼を彼女に尽くしてやりたい」
「恋をしたのね、あなたは…」
「――はいっ!」
今なら言える。俺は…蒼井柳二は虹音百合を愛している。初めてこの先の人生を一緒に歩みたいと考えられる相手に出会えた事を母さんに直接伝えた。
「彼女を――百合さんを本当に愛している?」
「えぇ、愛しています。だから母さん、あいつを…百合を蒼井家に迎え入れる事に賛成してください!」
電話越しでロンドンにいる両親へあの女との婚約を破棄したいと伝えた時、初めに認めてくれたのは母さんだった。会社の都合上、この婚約を破棄した場合に両親へ迷惑をかける事を考慮し、婚約破棄を反対されるのを覚悟で挑んだ筈だったが拍子抜けとなった。そこから詳しい理由を話した後、母さんは「あなたが考えた末の結論ならば否定はしないわ」と優しく諭してくれた。
それから俺は会社を通して桃山社長にちょっとした圧力をかけたりとした事はあったが、普通に仕事を回す分なら優秀な社員が解雇になる心配はないだろう。まぁ、桃山社長には出世街道から多少離れてもらうようにしたがな…。
図々しいのは分かっている。せっかく家を更に切り盛りするにはうってつけの御縁を独断で拒否し、挙句の果てには庶民的な地位でしかない百合を嫁入りさせたいと二度に渡る『我儘』を伝えているんだ。反対されたって仕方がない。
だがあいつなら…百合ならば認めてくれる……。
可能性を期待し、俺は母さんに頭を下げていた。
「分かりました」
「えっ…?」
「柳二、あなたと百合さんの関係を認めましょう。あの人には私からも言っておきます」
「――っ!!」
信じられないといわんばかりに目を大きく見開いて母さんの顔を見た。その目は優しく俺の事を見つめている。
俺は嬉しさを抑えきれないと言わんばかりに笑みを浮かべ始め――。
「そのかわり、あなたは蒼井家とは縁を切って二人だけの力で暮らしていきなさい」
――直後に予想だにしなかった一言を贈られた。