中編5
『悪い』と思って行なわれる『犯罪』は存在しないのです。
――『永山則夫』
雨が降り注いでいる。
アスファルトに吸収された熱を冷ませど、ぬるい雨水ではいくら降り注いでも、伴う高い湿度は人肌を伝う汗を蒸発しにくくさせ、逆に蒸し暑く感じるという矛盾。
現代を生きる人々ならクーラーといった偉大な発明の恩恵を受けるべく、いち早く帰宅の途に就きたいと考えるだろうが、これを拒んでまで彼らは今、この学園で大きな注目を集める出来事に夢中だ。
傘を差して見物する者もいれば、濡れる事を厭わず身一つで同じようにする者もいた。僕もまた、そんな大衆の一人として遠目に見ていた。
「これで三人目だぜ…どうなってんだよ……」
「絶対おかしいって、こんな偶然ありえないわよ!」
「じゃあ誰がこんな事したんだ? 会長は交通事故、二年の緑川は心不全、今度の犠牲者となった橙堂は――」
ひそひそと話す声があちらこちらと聞こえてくる。様々な憶測を交えてこれまでの事を真剣に考えようとする者が多く出てきたらしい。元々、不自然な出来事だったから藤和の頃から疑わしく感じていた人間もいた筈だ。それが増えていく度に疑念を抱く人間も比例して多くなっていったという訳だ。
「おい、あれ百合ちゃんじゃね?」
「…何よ、あの子今さら来たの?」
「泣いてるぜ、無理もないよな…こんな事になっちゃあなぁ……」
誰かが通報した事でやってきた救急車と警察。学園内は突如としてドラマやニュースにあるような事故現場へと豹変していた。その中心となる藍染の『遺体』に駆け寄って悲しんでいるあの女…。背後には柳二がそっと肩に手を置いて何やら呟いている。
なお一層激しくなる豪雨は彼らの慟哭をかき消していく。雑音の中、ビニールシートを被せられた藍染の遺体がとうとう捜査員の手によってワゴン車へと詰め込まれていく姿を僕達は見ていた。
「ねぇ、大丈夫なの…?」
「ぁぁ…藍染様の身体が、顔が、真っ赤にぶつぶつって盛り上がって……」
「誰かこの子保健室かどこかに連れて行かせて。軽いショックを受けてるそうなの」
…どうやらあの子は藍染の変わり果てたあの姿を直に見てしまったようだね。
あれは慣れない人にとっては直視できないほどの有様だ。平気だといえる人がいるのならその人はとてつもなく肝が据わっていると言っていい。
やがて、ワゴン車は遺体を回収した途端に発車し始めた。後に残るのは事件性を調べようとする鑑識官と一部警察関係者が主だろう。あの女は柳二に優しく連れられてどこかへと消えていった。
野次馬として集まっていた僕達はやって来た先生から「もう解散しなさい、各自まっすぐに自宅へ帰るように!」と大きな声で言い渡された。欲求が抑えられない人は多少ごねたけど、最終的には渋々とこの場から離れていった。
どうやら、現時点では殺人事件とは断定しない方針にするようだね…。少々時間をかけて詳しい調査を要するのだろう。
…とは言っても、この場で殺人事件と断定されたとしても現在現場にいる『千人余り』もの容疑者を捌くなんて現在の人員じゃあ不可能に近いだろう。
それに、藍染の死因が死因だ。事件として考えられるような『刃物で刺された』とか『鈍器で殴られた』とかいう単純な物ではなく、あからさまに『怪死』と分類される死に方をしたんだから結論に迷うだろうね。
お待たせ…ここで種明かしをさせてもらおう……。
藍染は僕の計画で死んでいった最初の二人と違って明確な意味で『殺された』と言える。
念のためもう一度言っておくけど、僕は計画の概念で彼らが死ぬかどうかは視野に入れていない。あの女から削ぎ落とすのが目的だって覚えているかい?
(…とうとう死んじゃったか)
可能性にとして入れていた事柄が一つ当てはまったに過ぎない。そう言うならば、藍染は僕の計画から耐えきれる程に強くはなく、三人の中で一番『弱かった』と言い表して良いのかもしれない。
誰よりも身を守るための強さを目指して鍛錬を続けていたというのに…。
こういう虚しさを感じてみると、人間というのはいかに弱い存在であるか逆に実感出来てしまった。
(運も強さの一つとでも言うべきなんだろうか?)
相手が悪かったといっていい。僕の『協力者達』は一つの種族において『最強』を冠していたんだし…。
全世界の人間の中で強さランキング第一位に近づいてもいない若輩の身では彼らの相手は務まらなかっただけだ。別に恥じる事はないよ。僕達人間は元から自然界の中では下位に位置している。これを考えられずに「最強最強」と大手を上げて誇るのは単なる傲慢だと僕は思っているくらいだ。
知らず行われた藍染の対戦相手…その名は『オオスズメバチ』……。
ハチの中でもとびきりに獰猛で、世界で最も恐ろしい昆虫トップ5に入る危険な昆虫だ。こいつを山から捕まえてくるのには僕も死を覚悟した。一回も刺されず虫取り網で地道に巣から離れていたオオスズメバチを一匹ずつ捕まえるのはもう二度とやりたくないと宣言していい。
入れている虫籠で荒々しく動き回る音は一時トラウマになりかけた。それでも何とか我慢して仕込みを完成させたんだから誰か僕を褒めて欲しい。あ、いや…やっぱり褒めなくていいや……。
僕がオオスズメバチに仕込んだ事…それは『学習』だ。
たとえ彼らを狭い場所で放ったとしても、彼らが僕の望み通りに相手を攻撃するとは限らないだろう? 元より、スズメバチというのはミツバチと違って肉食で何回も刺せる針を持っていても、彼らだけのルールがあって刺す相手を選ぶんだ。
巣を脅かす者――。
自分を攻撃する者――。
餌として襲う者――。
大雑把に纏めればこれらが彼らの攻撃対象だ。人間をこの枠に入れれば、三番は消えて一、二番が対象者となるね。そういう中で共通するのは『こちらからは攻撃しない』って事さ。彼らが自ら敵に襲いかかる行動は滅多にないんだ。
どうして三番が消えるかなんて分かりきっている事だ。人間なんて巣には大きすぎて持ち運べないじゃないか。
だから僕は彼らにそんな『概念』を無視するよう教え込んだ。教材道具は警戒フェロモン、蜂蜜水、キンリョウヘン。
警戒フェロモンーー。
オオスズメバチを解剖して取り出した毒腺にたっぷり含まれている。たった一滴だけで多くの仲間を呼び寄せ、攻撃対象のマーキングを施してくれる。
蜂蜜水――。
市販の蜂蜜を水に薄く溶かして作り上げた物。人間と違って昆虫は鋭敏な感覚器を持っているから、たとえ誰かが道端に零したジュースであろうと探し当てられる。蜂蜜水だって例外じゃない。
キンリョウヘン――。
花から抽出した香りは蜂類が最も好む代物。現在でも養蜂ではミツバチを呼び寄せるため、巣箱の近くにキンリョウヘンを植えた鉢を置く事があるんだ。もちろん、スズメバチだって例外じゃない。
これら三つを混ぜ合わせた混合液を最初は脱脂綿、昆虫、生肉、そして…生きたマウスに塗りつけて餌として一緒に与えていった。その結果、混合液が塗り付いている物は『餌』だという事をオオスズメバチに認識させてやったんだ。
最後の段階で使ったマウスの悲鳴…あれが耳にこびり付いて眠れない日がしばらく続いたけど、計画のためならばと思う内に慣れてしまったよ。どうやら、僕の感性はどうしようもないくらいに麻痺が進行してるらしい。
これで全貌が理解できた人も多いかもしれない。
僕は藍染にその混合液を付着させてオオスズメバチに攻撃させたんだ。
彼らにとっては『狩り』だったんだろうけどね…。
でも、いつ僕が藍染に混合液を吹きかけたかは思いつくかい?
正直に言うよ。僕は藍染には混合液を『浴びせていない』。だって、訳の分からない液どころか、水さえかける真似をしたら、怒られたり不審に思われてしまうじゃないか。運良く気付かれずに浴びせても少ない量でしかないから、効果を発揮するか怪しくなるしね。
今の季節が夏で本当に良かったよ。あんなに濡らしても、すぐに乾くんだから…。
それに、僕はイベントという物はあの女と同じようにそれなり詳しい。特徴的な物ならば、準備のためにどこにどう置かれているのかも分かる。
そう、『クッシー君』さえも…。
着ぐるみの中は空洞だから、夏みたいな暑い日に着ればそれはもう蒸部屋のように蒸れる。汗も蒸発する勢いだ。今時の着ぐるみにはひざ裏部分に吸風口があってある程度温度を調節できるけど、クッシー君にはそういった機能を持たないという事を『OM2』での藍染のセリフで知っていた。
だから僕は満遍なく着ぐるみの内側に混合液を大量に吹きかけておいた。
これを知らぬまま藍染は着ぐるみを着ていく内、自分の汗と共に蒸発して混ざり合っていく混合液を身体に少しづつ付着させていった。普通に着こんでても蒸れる代物なのに、あんなイベントが発生したら更に暑くなった筈だ。
少しづつ、少しづつ…。それはさながら肉が熟成して独特の香りを放つように…。
橙堂藍染という生き物は僕が学習させたオオスズメバチにとって極上の餌になっていったのだった。
本人は単なる着ぐるみの芳香剤と勘違いしていたかもしれないね。蜂と人間の嗅覚は似ているらしく、蜂が好きな匂いは人間にも好ましい種類だって聞いた事がある。
あとはたっぷり混合液の匂いを付着させた藍染が最後に向かうであろう着ぐるみをしまうための倉庫にあらかじめ、隙間風が入る穴からオオスズメバチを仕込んでおけば…。
念のため、蛍光灯がつかないようコードがショートを起こして焼き切れたように細工をしておけば…。
藍染が入った倉庫は彼らの『狩り場』に早変わりだ。
甘味という名の麻薬を口にし続けた彼らにとっては食欲を抑えきれぬ程に極上な餌だって思っただろう。
直ぐにでも口にしようと、獲物を仕留めるべく自慢の毒針で何度も刺して刺して――。
一匹だけでも何度も刺すのに、十匹余りものオオスズメバチに襲われたらひとたまりも無かっただろう。
スズメバチは『二度目に刺された方が危険』だって良く呼びかけられているけど、あれは実際嘘っぱちに近いんだって。二度目で発症するとされるアナフィラキシー・ショックが本当に発症する確率は実を言うと限りなく低くて、蜂毒にとても敏感な人ぐらいにしか起こり得ない事柄だ。
だけど、スズメバチの毒が危険な事には変わりない。二度目とは言わず、一度目で大量に刺されたとなれば、命の危険性は飛躍的に上がるんだ。これを直接作用と呼ぶけれど、命を落とす確率はまだ少ない。せいぜいしばらく身体を満足に動かせなくなるくらいだと考えてたよ。
――死んじゃったけどね…。
毒によって身体中を腫れあがらせ、息も詰まり、頭痛にさい悩まされ、熱にうなだれて…。証拠も全て雨によって流されてしまう中、
(君は最後に何を考えていたんだい?)
死を目前にした瞬間、人は本心を漏らす。僕は計画の犠牲となった藤和、葵、藍染が最後に何を考えていたのかは知る由も無い。でも、同じ事だ…誰も絵梨菜に謝る言葉を持っていた筈がない。
だって、今だって騙されているから…。
最後の攻略キャラ『蒼井柳二』だって。
とうとう追い詰めたよ、同類さん。君がこれまでお姫様のように振舞っていたこの学園は逆に牙をむき始めるだろう。君にとって攻略キャラ達は絶対防御の『盾』だった。その盾が三枚も外された今、防いでいた物をどうにか出来るかい?
それに、敵は学園だけじゃない。これからもどんどん外から増えていく。
感謝してよね、わざわざ一番出来のいい盾を残してやったんだから。もう縋る物がそれしかないんだって考えてるよね? 来る筈だった補充の盾――黒部竹広――はもうこの学園に来る事はないよ。あんな事件が起きちゃったら教育実習先を変えざるを得ないだろうしね…。
――嘘つきな羊飼いは最後、誰にも助けられずにオオカミに喰い殺される。
物語を贈ってあげよう。君も良く知ってるであろう童話を…。オオカミが君にとって何なのか、これに気づく事が出来るのはいつになるんだろうね?
稲妻が空を裂く。
僕の怒りを彼方へと伝えるように――。
雷鳴が頭上で轟く。
僕の咆哮を具現化するように――
――――――――――――――――――――
何でよ、どうしてなのよ…。
赤羽藤和も、緑川葵も、橙堂藍染も…。
皆、あんな風になっちゃうなんて知らないわよ。こんな事、ゲームのイベントに無かったわ!
せっかく好きな乙女ゲームの世界に転生したのにこれじゃあ意味がないじゃないのよ! ちゃんとイベント通りに全部こなしたじゃない!
「百合、心配するな。俺はあいつらのようにはならない」
「柳二君…」
えへへ、やっぱ恰好いいな柳二君…。って、そんな事を考えてる場合じゃないのよ!?
何を間違えたの。ひょっとして、私と同類の疑いがあった桃山絵梨菜をあんな風にしたのが原因?
ううん、違う。あれはちゃんと逆ハーレムに進行させるために必要なイベントだったのよ、間違いないわ! 現にちゃんと皆イベントの通り、私に対する好感度が大幅に上がった実証があるんだから。絵梨菜の金魚のフンである桜小路瑠璃恵と柊浅翠からも何の干渉を受けてないもの。しっかりとゲームの通りに進んでいたんだから!?
これから黒部竹広の攻略へと入る大切な時期だっていうのに、ここまでめちゃくちゃになったらどうすればいいのか分かんなくなっちゃうわよ。
「――ですから、お引き取りを!」
「先の二人も同様な事が起きてるんですよ! 今回の事故も何か関わりがあるんじゃないですか!?」
「その事を警察に今まで届け出なかったのは何故なんですか、学園側による隠蔽工作ではないんですか?」
何やら廊下側が騒がしいわね…。ちょっと様子を見てみようかしら?
そう思って部屋から出ようとしたけど、柳二君に止められる。
「出ない方がいい。マスコミの連中が駆けつけてきたようだ」
「マスコミ…っ!?」
何でマスコミなんかがやって来てるのよ! 根掘り葉掘り聞き出すくせに碌な事をしない連中なんだから私、大っ嫌いなのよ!
ちょっと、変な事まで調べられたらまずいじゃない…。あいつら、情報収集に関しての腕だけは一流だから余計な事まで暴かれたら大変よ。私が逆ハーレムを目指して柳二君達を学園内で侍らしていただなんて事が世間様に流されたらどんな目で見られるか分かったもんじゃないわ!?
それに、『あの嘘』がバレたりなんかしたら…。
「俺の方がなんとかしておく。大丈夫だ、すぐにこの騒ぎも収まっていつもの学園に戻る」
…そうよ、柳二君だったらこんな事、どうにかしてくれるわ!
なんたって大企業の社長の息子さんだし、学園と通じて警察といった色々な方面に顔が利くんだから!
ふふっ、やっぱり私ってばツイてるわね。元より主人公として転生できた身だもの。他のモブなんかと違って私は特別な存在なんだから!
あ、でも逆ハーレムはもう無理かも…。この際、柳二君のルートを集中して攻略するようにしようかな?
それなら、次に柳二君のお母さんに気に入られるイベントをこなさなくっちゃ! ちょっとやそっとの弊害なんかで私の幸せを壊されてたまるもんですか!
そう考え、私は不敵に笑う。主人公である限り、私は最強なんだって…。
だけど、私は気付いてなかった。
よく漫画やゲームの中に『絶対怒らせたくないキャラクター』がいるように…。
この世界にも『怒らせるべきではない人間』がいたという事に…。
これを知るのは、全てが終わってからだった。
そう、何もかもが――。