他人の顔(安部公房) 感想
突然だが私がかつて中学生だった頃、ハロウィンパーティをやったときの思い出を話したいと思う。
私の通っていた中学は市内でも有名な進学校で、「いいとこのお坊ちゃん」や「良家の御嬢さん」が多かった。彼らの大方の関心ごとは学校での成績と「家」の良し悪し。どこどこの子の家はお金持ちであるか、とかいう噂話に目のない、家はよくても品のない田舎のオジサン、オバサン方の影響を一身に浴びて育ったようなませた中学生に囲まれていた。
そんな中、別に金持ちの息子でもなんでもなかった私は、入学した当初特にこれといって相手にされなかった。私自身もそんなことに興味はなかったし、私も「彼ら」もお互いに無関心ということですべては決着した。
だが私が中学校三年生ともなり受験を意識して勉強に本腰を入れ始めたころ、テストの成績で学年五番以内に入るようになってから、周囲の人たちの態度は豹変する。
すなわち、私に対する過剰なまでの「えこひいき」だった。もちろんどこに行ってもいい待遇を受けられることは私にとってプラスであったことは認める。だがそれでも、当時の私にとって今まで見向きもしなかった周りのクラスメイト達が一転して「中原君は天才だ」と言い出したのは、気味が悪いとしかいいようがなかった。
さて、そんな私が軽く人間不信になりかけている中で行われたのが生徒会主催のハロウィンパーティだった。
そのとき私はコスプレする道具を何も持っていなかったので、やむなく家にあった適当な髑髏の仮面を以てきて顔につけコートを羽織り、トイレットペーパーを包帯のようにぐるぐる巻きにして「死神」のコスプレということで本番も通すことにしたのだった。
私は今でも鮮明に思い出すのだ。
仮面をつけて歩く、という感覚は、穴から外の世界をのぞきこむのに似て世間の傍観者になったようで、たまらなく孤独を感じるのだ。
でも当時周囲の評価にがんじがらめにされて身動きがとれなくなっていた私にとって、周囲から見て誰だか分からない格好して歩くというのは爽快だった。
最初クラスメイトたちは私を見とめた瞬間に「誰?」と言い、「何、このコスプレ?」というようないかにも見下げた口調で話しかけてきた。無論、コスプレが適当だったし、もちろん、私は顔を完全にすっぽり覆うような仮面をつけている以上、誰なのかは分からない。
私の格好はこき下ろされ、嘲笑された。不思議とその時は何も感じなかったのだ。
しかしそうなってから、隣にいた友人が「ああ、これは中原君だよ」と言ってしまったわけだが、この「死神」のコスプレをした人物が中原君なのだと分かった瞬間に彼らは急に態度を軟化させて、「ああ、中原君か! 彼って面白いね!」というようなものの言い方になったのだ。
……これはいったい、どういうことだろう?
その時私は、なぜかひどく裏切られたような気分になってしまった。
私は褒められたにも関わらず、生きた心地がしなかったのだ。
興味深い事実は、私が当時彼らに求めていたのは、「馬鹿じゃないの?」などと言いながら普通に笑い飛ばすような、そんなリアクションだったのだ。
しかし彼らは勉強ができる「中原君」のイメージにあくまで固執し、コスプレにも彼の知性や独創性との関連を求めるのだ。馬鹿げているとしか言いようがない。
私は正当な評価が与えられないことにひどく憤り、まるで頭から水でもかけられたような気分でその場を去った。
この小説を手にしたのは、自分がまだ高校生の時だったかと思う。
私はこの小説を読んで、一連のエピソードが真っ先に頭をかすめた。
父が熱狂的な安部公房のファンでもともと自宅の本棚に「カンガルー・ノート」といった蔵書があり、父の薦めもあって高校の教科書に載っている「赤い繭」や「棒」以外にもいくつかの作品を読む機会に恵まれた。
その中でおそらく一番、現実的な恐怖を煽るという意味で心に残っているのはやはり「他人の顔」である。ちなみに「カンガルー・ノート」に関して言わせてもらうと、これは完全にシュールレアリスムの絵画のような完全に感覚に訴えかける部分があって、私としては自分の分析や見解を述べることがおこがましいかと思うのでここでは意見しないことにする。
もともとマグリットの絵画に代表されるようなシュールレアリスムという芸術の表現形態は、意味を求めるものではない、というのがもっぱらの考えだと思う。
「他人の顔」の中で述べられている出来事、というのはいささか現実で起きうる可能性があるからこそ質が悪い。つまり顔というのはそれだけ身近でいて、普遍的なテーマなのだ。
事実、190~197Pで語られている「仮面製造株式会社」なるものについてのSF的考察は、実は昔、私はこれまた学校の教科書で似たような話に出くわしたことがあるのだ。すやまたけし著「素顔同盟」である。
中学校二年生の時国語の授業で取り扱い、内容について稚拙ながら意見をまとめて討論したことを今でも記憶している。
仮面を着用することが一般化した社会では、人間の価値というのは容姿によらず見た目による差別はなくなる。
人間社会というのはどんなに内面や性格の良さを訴えてもやはり、容姿がすべてを決定するきらいがある。
だが仮面は容姿偏重のすべてを否定し、平等な社会を築くことができる。しかしある意味それは、世界を極端な管理社会に変貌させてしまうという事態を招きうる、という警鐘を鳴らしているわけだ。
だからこそ「他人の顔」、「素顔同盟」どちらの小説でも、仮面による管理社会は結局崩壊してしまうというシナリオを描いている。
SFではこうしたディストピアを取り扱った作品が多い。一見素晴らしい社会体制も裏を返せば極端な管理社会で、人々は大きな矛盾を抱えながら生活しており、最終的に民衆が自由(=もとの現代社会に似た社会)を取り戻すために戦う、といった話は珍しくない。
だが私はあえて言いたい。
現代の我々の社会と仮面による管理社会、どちらが良いか、考えるのは読者次第かと思う。
そういった作品を読んだときに、我々の社会はやはり素晴らしいとだけ受け取ってしまっては、ある意味で大きな思考停止であり、自分たちの社会を無条件に礼賛しているようにも見える。
これらの作品が投げかけているテーマは、決して現代社会に対する無条件な礼賛ではないはずだ。
そこで私はこの「仮面製造株式会社」のエピソードが現代の社会が抱える問題を浮き彫りにするものとしてとらえたい。
つまり、人間が他人の価値を判断するとき容姿にどれだけ依存しているか、という危うさである。