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トイレの個室で小一時間寝てしまい、ふと目を覚ますと『聖女はどこ?』『あのポンコツ、また逃げやがった』などと物騒な騒ぎになっていたので、六歳になった第三王子を誘拐して隣国へ逃走します

作者: 藍沢 理
掲載日:2026/10/27

 王宮聖堂の北回廊にある化粧室で、聖女リネットは木製便座に腰掛けたまま眠りこけていた。


 体を〝ビクッ〟と震わせてまぶたを持ち上げると、明かり取り窓から夕暮れのあかね色が差し込んでいる。どれくらい船をこいでいたのだろう? 懐中時計を確かめれば、どうやら小一時間ほど熟睡していたらしい。無理もない話だ。ここ三日間は『筆頭聖女だから、やれ!』と、明日から始まる建国記念祭に向けて王都全域の瘴気浄化と下水網の清浄化、さらには聖堂の予算帳簿の整理まで押しつけられ、寝台に横たわる暇すら与えられていなかったのだから。


「ん、ぎぎぎぎぎぎっ……」と、伸びをしながらあくびをひとつ。立ちあがったリネットは、しわになった純白の聖女法衣の裾をペシペシと叩いて整えた。こんなに長時間個室に閉じこもっていたのだから、そろそろ小言のひとつも飛んでくる頃合いだろう。留め金を外し、木戸を押し開けようとした、そのときだ。


 化粧室の外で、荒々しい足音がいくつも駆け抜けていく。


「おい、聖女はどこだ?」


「あのポンコツ、また逃げやがった」


「とっ捕まえてこい、市中引き回しのあと、はりつけ火あぶりにする!」


 物騒極まりない怒号に、リネットは留め金をつかんだままピタリと動きをとめた。


 ちょっと待ってほしい。小一時間ほど化粧室の個室でうたた寝をした程度で、なぜ市中引き回しからの、はりつけ火あぶりという極刑に処されなければならないのか? いくら人使いの荒いバルトラム王国の神殿組織とはいえ、寝不足の職員に対する懲罰としてはあまりにも殺意が高すぎる。


 リネットが息をひそめて木戸の隙間から回廊の様子をうかがうと、槍を抱えた衛兵たちが洗面所のすぐそばで立ちどまり、下品な笑い声を交わしはじめた。


「まったく、どこに隠れやがったんだか。せっかく第一王子ギルバート殿下が男爵家のキャロライン嬢を新しい聖女としてお召しになったっていうのに」


「ああ。キャロライン嬢の祈りといったら、そりゃあ見事な火花がパチパチ弾けるからな。金色だぞ金色。それに比べてあのリネットときたら、祈っても光ひとつ出ない地味なポンコツだ。神殿長様も『あんな役立たずはさっさと始末するのが正解だ』とおっしゃってたぞ」


「じゃあ、神殿の修繕費が消えた件も、あのポンコツ聖女のせいにするんだな?」


「ああ。昨日、ギルバート殿下が第三王子に毒を盛った件もな。『聖女に呪われて倒れた』ってことにして、離れの塔に隔離してあるだろ」


「なるほどな。でも第三王子は生きてんだろ? それこそ『呪いじゃなくて兄上に毒を盛られた』って騒ぎ立てるんじゃないか?」


「だから、今夜聖女を燃やしたあとで『呪いの後遺症で病死した』ことにして片づけちまうのさ。これでギルバート殿下の王位継承の邪魔者はいなくなる」


 衛兵たちの足音が回廊の突き当たりへと遠ざかっていく。静まり返った個室のなかで、リネットは寝起きのぼんやりが跡形もなく吹き飛んでいた。


 あまりの理不尽さに怒りがこみあがってくる。リネットの魔力が光らない理由は、見世物優先ではなく、効果を優先して無色透明のまま王都全域の地脈や水源に浸透させているからだ。それをポンコツ呼ばわりしたあげく、消えた修繕費も殿下に盛られた毒も、こちらの仕業というわけか。横領や毒殺未遂の犯人を探すつもりもなく、すべて押しつけて火あぶりにするとは、あきれて言葉も出ない。


 けれど、それ以上に聞き捨てならない言葉が耳に残る。


 第三王子レナードが毒を盛られて倒れ、離れの塔に軟禁され、しかも今夜のうちに病死に見せかけて始末されるというくだりだ。


 二十歳になる第三王子レナードといえば、つややかな黒髪と金色の瞳を持つ王国随一の騎士であり、この冷酷な王宮のなかで唯一、リネットの働きに気づいていた人物にほかならない。誰も見ていない深夜、祈祷室に焼きたてのリンゴパイや温かいはちみつ入りの香草茶をそっと届けてくれた不器用で優しい彼。リネットが今日まで過労で倒れずに持ちこたえられたのは、そういった気づかいと、ときおり見せてくれる穏やかな笑顔に救われていたからこそでもある。


 そのレナードが昨日から姿を見せないと思ったら、毒を盛られて幽閉されていたとは…………毒を盛った犯人が誰であれ、このままでは第一王子派に殺されてしまう。


 リネットは個室の木戸をそろりと押し開け、だれもいない洗面所の鏡と向き合う。ぐっすり眠ったおかげか、目の下のくまは消え、体内にはここ半年でいちばん澄み切った聖なる魔力が満ちあふれていた。鏡のなかの自分に向かって決意をつぶやく。


「……決めたわ。こんな理不尽な職場、今日かぎりで退職します」


 誰に聞かせるでもないつぶやきと共に、リネットは法衣をたくし上げた。自分ひとりで逃げるつもりは毛頭ない。退職金代わりといってはなんだが、恩人である第三王子レナードを誘拐してでも、彼の母君の実家がある隣国エルメラ大公国に高飛びしよう。


*


 離れの塔は夕闇が迫る王宮の北庭に、苔むした古い石造りの塔としてひっそりとそびえていた。リネットは自身の無色透明な魔力を薄くのばしていき、気配遮断の被膜として全身にまとう。彼女はそれをまとい、屋根裏に続く点検用通路から二階へ忍び込む。リネットの魔力は光が出ず、かつ無色透明なため、誰かの隣を通り過ぎても魔力の揺らぎに気づけない、という隠密性能を備えていた。


 軟禁部屋の重厚な扉の前に、屈強な衛兵が二人いて、退屈そうにあくびを噛み殺している。リネットは足音を消して背後に忍び寄り、両手から安眠の聖気をふわりと放つ。徹夜続きの聖女が『気持ちよく眠りたい!』という執念で編み出した極上の快眠方法だ。衛兵たちはうっとりとした表情を浮かべ、ゆっくりと崩れ落ちて寝息を立てはじめた。


 衛兵の腰から鍵を抜き取り、扉をゆっくり開ける。薄暗い室内に忍び込んだリネットは天蓋付きの大きな寝台を見やり、思わず目を見張った。毒で衰弱しているはずの青年騎士が見当たらない。


 代わりに、羽毛布団をかぶって顔だけ出した小さな人影が短剣を構えていた。


 羽毛布団を強引に剥ぎ取る。


 そこにはちびっ子がいた。大人用の白い絹シャツが足首まで垂れ下がり、大きくまくった袖口から小さな手がのぞいている。羽のような黒髪と、警戒に燃える金色の瞳。面影はあるが、騎士として誉れ高き美青年であるはずの第三王子レナードが、ふっくらとした頬の幼い姿で立っていた。


「……三歳? 四歳? いや、六歳児……? にしては小さいですけど?」


「リ、リネットか……? なぜここに来た……!」


 短剣を構えたまま叫ぶその声は、変声期を迎える前の鈴を転がすような愛らしい高音になっていた。自身の幼い声に驚いたのか、六歳のレナードはみるみるうちに耳まで真っ赤になり、ぶかぶかの袖口で口元を押さえる。どうやら身体は縮んでいても、中身は二十歳の誇り高い王子のままらしい。


「はい、リネットにございます。それより殿下……そのお姿は、いったい……!?」


 あまりの事態にぽかんと口を開けたリネットに、レナードは悔しそうに眉を寄せ、小さな唇を尖らせた。


「……昨夜、兄上から賜った葡萄酒を口にした途端、体が燃えるように熱くなってな。目が覚めたら、このざまだ。命を奪う毒ではなく、肉体を退行させる呪毒だったらしい」


 大人用のシャツに埋もれながら、必死に威厳を保とうとするちびっこ王子。緊迫した状況だというのに、リネットはあまりにも愛くるしいその姿に胸を射抜かれ、大きくよろめく。「ぐぬぬ」と踏みとどまったものの、殿下のぷくぷくしたほっぺたに手を伸ばし、触れようとしたところで動きを止めた。いかんいかん、不敬罪になってしまう。それに、ほっぺたを突っついたら殿下の誇りが粉々になってしまう、と思い至り、なんとか表情を引き締めてから、寝台の横に片ひざをつく。


「そ、そういうことでしたか……。殿下、いま王宮が騒ぎになっていまして、私に殿下の毒殺未遂と横領の罪を着せ、市中引き回しのあと、はりつけ火あぶりにする手はずになっているのです」


「なんだと!? やはり兄上と神殿長が動いたか……! いかん、リネット、ここにいては捕まるぞ。俺のことはいいから、いますぐ王都から逃げろ!」


 眉をつり上げ、必死にリネットを逃がそうとするレナード。彼だって体がちっちゃくなったうえに軟禁され、今夜にでも命を奪われかねない、といい立場なのに、なによりも先にリネットの身を案じてくれる優しさに、胸がじんわりと温かくなる。だからこそ、このひとを置いていくという選択肢など、存在しない。


「いいえ、お言葉ですが殿下もご一緒していただきます。衛兵たちの話では、私を火あぶりにしたあと、殿下は病死に見せかけて始末されるらしいです。ですから……いまから殿下を誘拐して、隣国に逃げます!」


「ゆ、誘拐だと!? 馬鹿を言うな、こんな体になった俺を連れていたら、足手まといになるばかりだ。俺ならこの短剣で身を守れる!」


「その短い手でどうやって戦うんですか? それに足手まといになんてなりませんよ。だっていまの殿下なら軽いですからね。失礼します、えいっ」


 リネットは立ち上がるなり、レナードを羽毛布団に包み込んでお姫様抱っこで抱き上げた。


「ほーら、軽い軽い」


「なっ、わあっ!? よ、よせリネット! 降ろせ! 荷物みたいに抱えるな!」


 羽毛布団にくるまり、お姫様抱っこの体勢でリネットの胸元にすっぽりと収まったレナードは、すぐさま護身用の短剣をさやに収め、手足をばたつかせながら必死に抗議する。リネットを傷つけないための気遣いだろう。見上げる殿下をこうして抱き上げていると、その軽さと幼い匂いに頬が緩む。


「あばれちゃ駄目ですよ、殿下。この格好で歩けば、裾を踏んで転んでしまいます」


「転ばんし! いいから降ろせ! うおっ!? そ、その……あの……いや……胸くっつけるなよ……息が……っ!」


 真っ赤になって目を泳がせるちびっこ王子をぎゅっと抱きしめ、リネットはにっこり微笑む。


「ふふ、いまの殿下は推定六歳なのですから、遠慮なさらずに甘えてくださっていいんですよ。ほら、バルコニーから跳びますから、しっかり胸につかまっていてくださいね」


 リネットは聖なる魔力で身体強化を巡らせ、バルコニーを軽やかに蹴る。無色透明な魔力が巻き起こす風に乗って王宮庭園の木々を飛び越え、聖女と六歳児は姿を消した。


*


 王都の西門を抜けた街道を、リンゴの木箱を満載した二頭立ての幌馬車が夜の風を切って走っていく。


 馬車を駆るのは、リネットが日頃から無償で腰痛や古傷を癒やしてあげていた果物商人の老夫婦だ。『いつも世話になっている聖女様がお忍びで隣国に行かれるなら、国境の関所までひとっ走りお送りしますよ』と二つ返事で荷台に招き入れてくれたからありがたい。


 甘酸っぱいリンゴの香りが満ちる荷台で、リネットは木箱に背中を預け、レナードを膝の上にのせていた。レナードは最初『膝の上など言語道断だ、隣の木箱に座る!』と意地を張っていたものの、『しー、静かにしてください』とリネットが法衣をかぶせた途端、声がしなくなった。リネットはしばらくして下着を着けずに法衣を着ていたことを思い出したものの、『まいっか……』と、ほんのり頬をピンク色に染めていた。


 外の景色がいっそう暗くなってきた。夜の冷気を防ぐためにリネットが両腕を回して抱きしめると、レナードがびくりと肩を揺らす。


「……リネット。先刻から思っていたのだが、俺が縮んだことをいいことに、ずいぶん楽しんでいないか?」法衣から顔を出すレナード。


「めめめめ、めっそうもありません。あくまで、大切な第三王子殿下が風邪をひかれないように筆頭聖女としてお守りしているのですわ」


 リネットはスンとした表情でレナードの黒髪をそっと撫で、顔を近づけてスンスンと匂いを嗅ぎ始めた。ついでに柔らかそうな頬をむにっとつまむ。驚くほどすべすべで、プルプルの弾力がある。普段は近づくことすら恐れ多い氷の美青年を心ゆくまで堪能できるとは、呪毒もあながち悪いことばかりではない。あ、不敬罪……とよぎるも、今さら気にしてどうにかなるものでもない。


「ひゃっ……!? お、おい、つまむな! 変な声が出ただろうが!」


 涙目になって両手で自分の頬を押さえるレナードが可愛すぎて、リネットはおもわずくすくすと笑い声を漏らす。するとレナードはぶかぶかの袖の中で拳をぎゅっと握りしめ、悔しそうにうつむく。


「……情けないな、まったく」ぽつりとこぼれた幼い声に、二十歳の青年の深い苦渋がにじむ。


「水源が汚染されて疫病が広がるのを防いでいるのも、農地で毎年豊作が続くのも、リネットが寝る間も惜しんで魔力を注いでいたからだろう。それを、光らないから『ポンコツだ』などと……。おまえの働きは知っていたのに、兄上たちにこき使われるのをとめられなかった。あげく、毒を盛られてこの姿だ。結局、守られて逃げることしかできない」


 小さな肩を震わせるレナードを見つめていたリネットはからかうのをやめて、背中をそっと抱きしめた。


「殿下に守られてばかりいたのは、こちらのほうですよ」リネットが穏やかに語りかけると、レナードが顔を上げた。「三日前の夜も、その前の週も、祈祷室の床で凍えながら作業していたとき、誰にも気づかれないように温かいリンゴパイと毛布を置いていってくださったでしょう? あの甘いリンゴの香りと、添えられた励ましの書き置きがあったから、今日まで心を折らずに笑っていられたんです。私にとって、レナード殿下はずっと憧れの騎士様です」


「リネット……」


「だから今夜は、私が殿下の騎士になります。隣国のエルメラ大公国に着けば、殿下の叔父上でいらっしゃる大公閣下がいらっしゃいますし、あちらの聖域『星見の泉』の水を使えば、浄化魔力でその退行呪毒もきれいに解呪できます。絶対に元の格好いい殿下に戻してみせますから、安心してくださいね」


 リネットがにっこりと微笑むと、レナードはしばらく呼吸を忘れて彼女を見つめ、やがて頬を真っ赤にしてぷいっと横を向いた。小さな手でリネットの手をしっかりと握りしめたままで。


「……隣国に着いて元の身体に戻ったら、誰にもポンコツなどと呼ばせんし、毎日昼過ぎまでふかふかの寝台で眠らせてやる。一生かけて、リネットを甘やかしてやるからな」


「まあ、それはとっても魅力的な雇用条件ですね。毎日お寝坊できるなんて、いまから元の姿に戻られるのが楽しみです」


 解呪の仕上げには、口づけが必要。むむ、どうしよう……いや、いまの殿下なら、なんとかなる気がした。


 小さな騎士様の熱烈な誓いに胸をときめかせていると、後方から幾重にも重なるひづめの音が迫り、幌の隙間に赤々と燃えるたいまつの列が見えた。数十騎もの追手が街道を埋めている。


「いたぞ、あの荷馬車だ! 囲めっ!」


 御者台の老婦人が悲鳴を上げ、馬車が急停車する。ここは隣国エルメラとの国境を隔てる石造りの大橋のたもとだ。先回りした近衛騎士隊二十騎が抜き身の剣と槍を構え、行く手を塞いでいた。


 後ろから追いついた騎士たちに取り囲まれ、馬車の幌を乱暴に引き剥がされる。そこに立っていたのは、第一王子ギルバートの側近、近衛隊長ダグラスだ。


「見つけたぞ、ポンコツ聖女め! 火あぶりから逃げ出したばかりか、第三王子を誘拐するとは万死に値する大罪だ! ギルバート殿下のご命令により、貴様ら二人はこの橋の上で串刺しにしてから灰になるまで燃やしてくれる!」


 残忍な笑みを浮かべるダグラスに対し、六歳のレナードがリネットをかばうように飛び出そうとする。しかしリネットはその小さな肩をそっと抱きとめて制した。


「殿下、ここは私にお任せください」


 リネットは荷台からゆっくりと地面に降り立ち、夜風に純白の法衣をなびかせた。橋を塞ぐ二十騎も、後ろから囲む騎士たちも、すっかり勝ったつもりらしい。リネットは涼しげに微笑む。


「はっ、観念したかポンコツ聖女! 貴様ごとき、火花ひとつ出せない無能が抵抗したところで……」


「ええ、火花は出せませんけれど。小一時間ほど化粧室で熟睡し、さらに馬車のなかで可愛い殿下を湯たんぽ代わりに抱っこして休んだおかげで、私の魔力、三年ぶりに満タンなんですよね」


 リネットが両腕を優雅に広げる。


 大気が震え始め、周囲に青色の奔流が渦を巻く。普段からリネットが地脈に流していた規格外の魔力がこの場に顕現したのだ。


「な、なんだこの魔力は!? 馬が怯えて動かんぞ!」


「まず退職の手続きとして、王宮と聖堂の浄化結界、それから両方に送っていた魔力も、いまここで解約(﹅﹅)しますね」


 空中に浮かび上がった金色の契約紋を指先でパチンと弾くと、はるか彼方、王宮と聖堂の明かりを映していた守護ドームがガラス細工のように砕け、しばらくしてからドォンと大きな音が響いた。リネットがこれまで王国と聖堂を守るために消費していた魔力がなくなり、これからは男爵家のキャロライン頼みとなる。


「ふふっ…………さぞや、狼狽(うろた)えていることでしょうね」


 聖堂の金庫室に施していた防護封印も、これでお役御免である。火あぶりにしようとする連中の金庫まで守ってやる義理はないのだから。


「さあ、お次はあなたがたの番です。徹夜明けの聖女がどれほど恐ろしいか、夢のなかでたっぷり反省してくださいな。極大聖域おやすみ浄化波を喰らいなさい!」


 リネットが両手を打ち合わせると、青い魔力の衝撃波が突風となって前後の近衛騎士たちに直撃。すさまじい風圧に剣と槍はすべて空高く舞いあがり、騎士たちも馬ごと押しやられていく。そこへ超高濃度の安眠聖気が降り注ぎ、橋を塞いでいたすべての追っ手を馬もろとも包み込んでいく。


「あれ? なんだか急に、まぶたが、重く…………」


 近衛隊長ダグラスをはじめ、殺気立っていた騎士たちは馬からずるずると滑り落ち、街道の両脇に転がって大イビキをかきはじめた。リネットが手を打ってから五秒も経たないうちにみんな眠りこけてしまい、通り道がひらく。


 荷台から顔を出していたレナードが口を半開きにしてその光景を見つめていた。


「これほどの魔力があったとは……さすがと言うべきか」


「ふふ、お待たせしました殿下。邪魔者は全員お休みのようです。さあ、橋を渡りましょう!」


 国境の石橋を渡り切った先に隣国エルメラ大公国の国境警備隊が待機していた。


 事情を聞いた警備隊長は、大公の甥にあたるレナードと、隣国までその名を轟かす聖女リネットの亡命を歓迎し、聖域「星見の泉」に案内してくれた。


「殿下、準備が整いましたので、こちらへ」警備隊長が示すほうへリネットとレナードが進んでいくと、背後から「では、のちほど参りますゆえ!」と警備隊長の威勢のいい声が聞こえてきた。


 満天の空を映し出す神秘的な泉のほとりで、リネットとちびっ子レナードは二人きり。周囲には誰もいない。


「これを飲めばいいのか……?」というレナードに「これをどうぞ」とリネットが銀のコップを手渡す。


 泉の霊水をひとくち飲んだレナードの身体から、黒い呪毒の煙が少しずつ立ちのぼってゆく。呪毒を完全に解くには霊水のみでは足りず、口づけで聖女の純粋魔力を直接送り込む必要があった。そうすれば数秒で元の身体に戻せる。レナードにも説明は済ませたが、いざ実行となると落ち着かない。


 泉のほとりで、リネットはレナードの前にしゃがみ込み、胸元を押さえて深呼吸を繰り返す。


「あ、あのですね殿下。これはあくまで神聖な解呪の医療行為といいますか、人工呼吸のようなものですから! それにいまの殿下は六歳ですし、お姉さんがちいさな男の子におまじないをすると思えば、ちっとも恥ずかしくなんてありませんよね!」


 早口でまくし立てるリネットに対し、大人用の白シャツを引きずるレナードは月明かりの下で耳まで真っ赤になりながら、険しい表情で片手を上げた。


「ま、待てリネット。数秒で元に戻ると言ったな? それなら口づけの途中で、俺の身体は二十歳になるんだぞ。だから、その、えーっと…………心の準備というか……」


「大丈夫です、六歳の殿下のお顔なら緊張せずにできますから! ほら、目をつぶっていてくださいね」


 二十歳の殿下にキスなんてしたら気絶してしまう。ちびっ子のうちにサクッと済ませてしまおう。リネットは意を決してまぶたを閉じ、レナードの肩にそっと手を添え、その唇に優しく口づけを重ねた。


 唇から伝わる温もりと甘いリンゴの香り。リネットからあふれ出した清らかな魔力が口づけを通じてレナードの身体に一気に流れ込んでいく。泉の水面(みなも)が銀色に輝き、光の粒が渦巻いて二人を包み込む。


 魔力を注ぎ終え、リネットがゆっくりと顔を離そうとしたそのときだ。


 つかんでいた肩がてのひらの下でみるみる逞しく強く硬くなっていく。


 リネットがまぶたを開けると、すぐそばにあった愛らしい幼児の顔はどこにも見当たらない。見上げるほど高い位置に、月光を浴びてつやめく黒髪と、熱を帯びた金色の瞳がある。ぶかぶかだった白い絹シャツも、長身に戻った彼の引き締まった胸板と長い腕にぴたりとなじんでいた。


「あ、あれっ……はやっ!? で、殿下、もう戻られたんですか!? そ、その、解呪は終わりましたので、これで失礼を……」


 大人の男性との圧倒的な体格差と、その色気を急に突きつけられ、リネットは一気に顔から血の気が引き、次いで沸騰したように真っ赤になった。慌てて後ろへ下がろうとしたリネットの腰を、レナードの腕が逃がさず引き寄せる。


「聖女様、どこへ逃げる気だ?」


 耳元をくすぐるのは、鈴のような高音ではなく、夜の泉に響く甘くつややかな青年の美声。息をつく暇もなく、リネットの身体がふわりと宙に浮き上がった。


「ひゃっ!?」


 リネットがちびっ子レナードにしたのと同じお姫様抱っこ。今度は長身のレナードの両腕に、リネットが軽々と抱き上げられていた。


「ででで、殿下っ、なにをなさるんですか!? 私は重いですから降ろしてくださいっ!」


「いいや、降ろさん。それに驚くほど軽いぞ、ちゃんと食事をとっていたのか?」


 レナードの歯がキランと煌めく。その腕のなかで真っ赤な顔でもがくリネットを愛おしそうに抱きしめ直すと、金色の瞳がいたずらっぽく細められた。


「俺を布団ごと抱えて塔のバルコニーから跳び、馬車のなかでは髪を撫でて頬までつまんでくれたな。ひとつ残らず覚えているぞ」


「そ、そんなに細かく覚えていらっしゃるんですか!?」


「ああ。胸元に顔を埋めさせられたときの鼓動も、さっきの口づけの柔らかさも、すべてこの身に焼きついている」


 レナードが顔を近づけ、リネットの頬を、先刻のお返しとばかりに指先でそっと撫でた。それひとつで背筋に甘いしびれが走り、リネットは顔を覆いたくなる。


「あのときは、その、殿下があんまりちいさくて可愛らしかったから、つい調子に乗ってしまって……」


「ならば、元の姿に戻った俺に遠慮なく甘えてみろ。いいぞ、赦すとも」


 本来の姿に戻った殿下。そのぶ厚い胸板に抱き寄せられ、レナードの顔が近づいてくる。六歳の姿だから平気だ、めっちゃかわいい、と容赦なく突っつきまくった。なのに、憧れの騎士様だということをすっぽり忘れていた。元に戻ったら仕返し、いや、ご褒美がもらえると、逆に照れくさくてたまらない。力が入らない。もう降ろしてほしいとは言いたくなかった。


「さっきの口づけは、解呪の医療行為だったのだろう? ……なら今度は、恋人としての礼を返させてくれ、リネット」


「……はい。医療行為は、もう終わりましたものね」


 月明かりが降り注ぐ泉のほとりで、今度は背の高いレナードのほうから甘い口づけが落とされた。医療行為などと言い訳のできない熱烈な口づけに、リネットは彼の襟元に両腕を回しギュウッと力を込めた。


*


 それからひと月後。


 バルトラム国王から何通も届く嘆願書を読んで、リネットは故国のその後を知った。キャロラインの火花魔法では王宮と聖堂の浄化を引き継げず、建国記念祭は汚水と悪臭で台無しになったという。


 その後の調査で防護封印の解けた聖堂の金庫も調べられ、裏帳簿や証拠書類から神殿長と第一王子ギルバートの横領、レナードへの毒殺未遂が明るみに出たそうだ。激怒した国王は第一王子から王位継承権を取り上げ、神殿長ともども辺境の鉱山送りの終身刑に処したと書いてある。そのうえで『どうか戻ってきてほしい、報酬は十倍払う』なんて頼まれても、もう遅い。


 隣国エルメラ大公国の次期大公として正式に迎えられたレナードと、王子を救った筆頭聖女として国賓待遇を受けたリネットは、大公国の華やかな大聖堂で盛大な結婚式を挙げたのだから。


「ねえ、レナード様。今日も小一時間ほどお昼寝してしまってもいいですか?」


 陽光が差し込む新居の広々とした寝室で、天蓋付きのふかふかな特大寝台に転がりながら、リネットは気怠げに問いかける。


 机から立ち上がったレナードは苦笑いを浮かべながら寝台に歩み寄り、リネットの隣に滑り込んでそのほっそりした身体を腕のなかにすっぽりと抱き寄せた。


「ああ、心ゆくまで眠れ。小一時間と言わず、明日の朝まで寝ていても誰も文句は言わん。……ただし、化粧室の個室ではなく、俺の腕のなかで眠るのが条件だ」


「ふふっ、最高の職場環境ですわ」


 愛する夫の温もりに包まれながら、かつてポンコツと呼ばれた聖女は、世界でいちばん幸せな二度寝に落ちていく。


(了)

甘々ハピエンでした!

ほんわかしたら、ブクマしたり下のほうの★バチバチしたりしていただけると大喜びします!

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