俺たちの名古屋旅行~ノリタケの森
連休最終日、東京ビッグサイト。
俺はバイト先のティールームの店長さんと一緒に、大きな骨董市のイベントに訪れていた。お目当てはイギリスのアンティークの陶磁器だ。たくさん本物を見ることで目が養われるからと、誘ってもらったのだ。
「……すごい……」
思わず足が止まる。だだっ広い展示場に、百を超えるブースがずらりと並んでいる。人の波、人の波、人の波。刀剣、人形、絵画、アクセサリー、そして——陶磁器!
「あ!あの辺にありますよ!」
カップや絵皿が並ぶコーナーを指差すと、リッジウェイさんも目を輝かせた。
近づいて陳列棚を覗き込んだら、俺には見慣れないものばかり。
「えーと……これはイギリスので、その辺のお皿は?」
「その辺りはフランスのものだね。ぱっと見分けられるようになるには、もう少し修行が必要かな?」
「ぐ……」
悔しい。正論すぎて何も言えない。
リッジウェイさんはどこをどう見分けているのか。このカップはどこのメーカーのかと尋ねると、すぐに答えが返ってくる。
「あ!あそこにも陶磁器がありますよ!」
次のブースに踏み込んだ瞬間、リッジウェイさんが「あっ」と声を上げた。
「ダニエルのティーカップだ」
「ダニエル?」
「H&Rダニエルという名窯だよ。このデザインはシュルーズベリーシェイプっていう、代表的な形状なんだ」
俺も覗き込んで——確かに、形も絵付けも、見たことないような完成度だ。
「うわ、すごい……え、待って——たっっっか!!」
値札を見て声が裏返る。
「30万円か……」
リッジウェイさんが静かに呟く。そこへ店主が話しかけてきた。
「最近、中国でも人気が出てきて値段が跳ね上がってるんですよ」
俺たちは会釈して店を後にした。
すると、リッジウェイさんがいたずらっぽく耳元で囁いてくる。
「実は20年前は数万円で買えたんだ」
「数万って安すぎでしょ!!」
「アンティークは人気次第なところがあるからね」
「……欲しいなー……でも無理だなー……俺がもう少し早く生まれてたらなー……」
リッジウェイさんがふふっと笑う。
ズンズン歩いていくと、今度は一風変わったデザインの洋食器が並ぶブース。
「うちの店にはない感じですね。色がはっきりしてる。あ、あれ——ウェッジウッドですか?」
マットなブルーの地に、ギリシャ風の白いレリーフ。
「ノリタケのジャスパーだ。久しぶりに見た。そうか……里帰り品だな」
「じゃあ、これがオールドノリタケってやつですか?」
「そう、よく知ってたね。ノリタケは最初の頃、ウェッジウッドを模倣していたんだ。あれはその例だよ」
リッジウェイさんが、どこか遠くを見るような目をした。
「ノリタケがロンドンの店に並んだ時——品質の割にすごく安くて、イギリスの窯は危機感を覚えて……みんなでボイコット運動を起こしてね」
——すごく昔の話なのに。まるで見てきたみたいな言い方だ。
「それでどうなったんですか?」と聞こうとした——その瞬間。
「もしかして……リッジウェイさん?」
パリッとしたスーツ姿の男性が、食い入るようにリッジウェイさんの顔を見ていた。
「森村君?!」
「はい!!やっぱりそうだったんだ、お久しぶりです!えーと……隣の彼は……」
「ああ、彼は高校生の石野君。バイトの子だよ」
リッジウェイさんはコホンと咳払いして続けた。
「ハロッズ以来だっけ?随分変わったね」
「いやー、さすがに変わりますよ」
森村さんと名乗ったその人は、照れくさそうに頭をかいた。なんだか妙な懐かしさが、二人のあいだに漂っているのがわかった。何十年も前から知ってる相手みたいな空気だった。
「今は東京でティールームやってるんだ。今度来てよ」
「本当ですか!必ず行きます!あ、そういえば……うちの窯、今はもう食器はあんまり作ってなくて。全体の5パーくらいですかね。大部分は機械の部品とか工業用の砥石になってます」
「ええ?!変わり身の早さが……さすが技術立国日本」
「へへ……うちの部品、スマホや車にも忍び込んでますよ」
「まるで——」
「「忍者みたい」」
ふたりの声が重なって、どっちからともなく笑いが弾けた。
「たまに昔の作品が見たくて骨董市に来るんですよ。今度、名古屋にも遊びに来てください。案内しますから」
「是非行かせてもらうよ」
「絶対ですよ!あ、では、そろそろ仕事があるので失礼します」
「ああ、またね」
ふたりのやり取りを傍で見ていた俺は、ぽかーんとしたまま固まっていた。
「……えーと、どちら様ですか?」
「昔の知り合いの森村君……ノリタケで働いてるんだ」
「ノリタケ!!俺も行きたいです!一緒に連れてってください!!」
「えっ……うん……」
リッジウェイさんが少し困ったような顔で頷いた。なんでそんな顔するんだろう、と思ったけど、すぐに旅行の日程の話に気が逸れて、忘れてしまった。
帰り道、骨董市の余韻と名古屋への期待で、頭の中はいっぱいだった。
*
親への交渉の結果、「日帰りなら」とノリタケ訪問の許可をゲット。リッジウェイさんと一緒に名古屋へ向かう日取りも決まった。
あれから、ノリタケについてネットで調べてみた。
最初の頃は「モリムラブラザーズ」という名前でロンドンに店を出していたこと。「ノリタケ」は工場がある名古屋の地名が由来だったこと。
でも一番引っかかるのは、骨董市での二人の会話の断片だ。
「ハロッズ以来だっけ?」
……ふたりは、どういう関係なんだろう。
*
今日のティールームもいつも通りの忙しさだった。閉店後、片付けが終わると、残ったお菓子でお茶の時間。これがいつも一番の楽しみだった。
「石野君、今日もお疲れ様。お茶にする?」
「はい、ありがとうございます!」
リッジウェイさんが淹れてくれる紅茶は、家で飲むやつとは格が違う。腕前が違うのは当然として、この人に淹れてもらえるってだけで、美味しく感じるんだ。
ふわっと湯気が顔を包む。知らず知らずのうちに、表情が緩んでいくのがわかった。
「いただきまーす……おいし〜」
「……石野君は、陶磁器のことを調べるときは、本で?ネットで?」
「AIに聞くことが多いですね。チャッピーとかクロードとか。あと、グーグルレンズで画像検索もできるんで、有名な作品なんかは写真から調べられます」
「え、すごい。今ってそんなことまでできるんだ」
「ただ、AIってたまに嘘つくんで、情報元までチェックしてます」
「それは感心だね」
「陶磁器のブランドや年代を正確に判別できるアプリがあったらいいなーって思ってるんですけど」
「それはあったら便利だね……石野君、進路はそういう方面にするの?」
——進路。
予想外のワードに、思考が一瞬フリーズした。
英語がまあまあ得意だから、私大文系かなと考えてた。でも、やりたいことが明確にあるかって言われると……。
アプリを作るなら情報系?陶磁器に関わりたいなら芸術系?
——俺が、大人になったらやりたいことって、何なんだ?
澄んだ瞳でじっとこちらを見つめ、静かに答えを待ってくれているリッジウェイさん。
何かちゃんとしたことが言えたらいいんだけど。今の俺には——
「……悩み中、です」
俯いた俺に、リッジウェイさんが柔らかい声で言った。
「石野君、ノリタケの工場で絵付け体験してみない?」
「絵付け……?やりたいです!」
「マスターペインターが直接教えてくれる2時間のコースがあるんだ。カップとソーサーに薔薇を描くんだけど、良かったら申し込みしておくよ」
「ええ?!す、すごい……」
「君、絵が上手だし、器用だからできると思うよ」
——想像した瞬間、手のひらからじわっと汗が滲み出てきた。
「俺も隣で一緒に描くから」
ニコニコしてるリッジウェイさん。でも俺の中では、気楽な旅行が、いつの間にか大きな試練に変わっていた。
「……っ。塗り絵で練習しておきます……!」
「ふふ、頑張ってね」
*
その夜、布団に転がったままスマホを開いた。
検索ワードは「ノリタケ マスターペインター」。
出てきた情報を読んで、思わず「え……」と声が漏れた。
―――社内認定制度で、最高位に到達できるのはほんの一握り。薔薇一輪を描くための筆の運び、絵の具の調合、焼いたときの色の変化——そのすべてを、何十年もかけて極め続ける世界―――。
一つのことだけを、ずっとやり続けた人間か……。
正直に言うと、最初は怖かった。そこまで何かに賭けられる自信が、今の俺にはまるでない。
でも。
……その人が、俺に薔薇の描き方を教えてくれる。
気づいたら、スマホを握る手に力が入っていた。
怖いとか緊張するとか、そういう話じゃなくなっていた。
やってみたい。
それだけだった。
*
東京駅のホーム。指定された車両番号のゲートの前で、俺はリッジウェイさんを待っていた。
インバウンドの外国人観光客でごった返すホームの中でも、リッジウェイさんの姿はすぐに見つかった。端正な顔立ちに、どこか絵になる佇まい。それに——俺に気づいた瞬間、ふわっと崩れる笑顔。
「石野くーん!ごめん、待った?」
「俺も今来たところです」
テンプレみたいな会話で、なんか照れる。
「それなら良かった。実は……新幹線、初めてで迷っちゃって」
「え?初めてなんですか?」
「うん。というより……そもそも東京から一度も出たことがないんだ」
「ええ?!」
思わず声が出た。リッジウェイさんは苦笑するように目を細める。
「長い休みが取れないから、旅行って発想にならなくて。今回は石野君が背中押してくれたから……良い機会になったよ」
初めての国内旅行が俺と、か。
——本当に良かったのかな、という気持ちと、なんか嬉しいという気持ちが、胸の中で同時に存在している。
「電車は時間通り来そう?」
「はい。そうですね」
「そうなんだ。イギリスだと遅延や運休が頻繁にあるから、つい確認したくなって」
「あ……これが当たり前だと思ってました」
「そう思えるのはすごいことだよ」
リッジウェイさんが、しみじみと言う。当たり前のことを当たり前だと思えるって、そういうことなのか。
ホームに「のぞみ」が滑り込んでくる。
その瞬間、リッジウェイさんが目を大きく見開いた。あの長い鼻先に驚いてるんだろうな、というのはすぐにわかった。
指定席の車両に乗り込み、窓側の席を勧める。この向きだと富士山が見えるはず。
新幹線がスーッと走り出した。
「……揺れない」
小さな呟き。リッジウェイさんはしばらく無言で、食い入るように窓の外を見ていた。
俺は横顔を、ちらっと盗み見る。
不意に、こちらを振り向いた。上気した頬。目がキラキラしている。
——遠足に行く子どもみたいだ。
「すごいね!こんなに速いのに、揺れないし静かで」
「俺も初めて乗った時、感動しました。……あ、窓に飽きたら車内限定のエンタメコンテンツもありますよ」
スマホを取り出し、『推し旅』のサイトを開く。
「色んなアニメやアイドルのボイスドラマや動画が配信されてて……これは、俺がやってるゲームので」
コンテンツのページを開いて、イヤホンを取り出す。一つは自分の耳に、もう一つをリッジウェイさんの耳に——そっと、差し込む。
再生ボタンを押した。
女の子の声。「ここ、空いてる?隣……座って良い?」
リッジウェイさんがキョロキョロと周りを見渡す。俺は吹き出しそうになるのを必死でこらえた。
「そういう……設定、です」
「あ、そうなんだ……」
女の子のキャラクターは、これから名古屋へ旅行に行くと言って、気になっている名所やグルメの話を始めた。
「こうやって観光案内と、鉄道の旅の宣伝を兼ねてるというわけで」
「なるほど。面白いね」
リッジウェイさんは静かに聞きながら、窓の外に目を向けた。
「イギリスの窯を巡る旅を、紹介したらどうだろう……」
女の子の声に混ざる小さな独り言——つい、そっちに意識がいってしまう。
ラジオドラマが終わった。
「他にも色々ありますけど、まだ聞きますか?」
「うん、聞いてみたい」
車内の時間が、穏やかに流れていく。
*
名古屋に着いた。
目的地の『ノリタケの森』までは、駅から歩いて二十分ほど。高層ビルが立ち並ぶ駅前を抜けて、雑居ビルの隙間を縫うように歩いていくと——突然、視界が開けた。
木々と煉瓦造りの建物に囲まれた、広い庭園。
「ここが……ノリタケの森か」
リッジウェイさんが足を止めて、ぽつりと呟いた。
池と芝生。手入れの行き届いた花壇には、季節の花々が咲いている。ベンチで缶コーヒーを片手に休むサラリーマン、ベビーカーを押してのんびり歩く母親。隣のイオンモールへの通り抜けに使ってる人も多いみたいで、賑やかなのに、どこか穏やかな空気が流れていた。
「リッジウェイさーん!」
声がして振り向くと、森村さんが手を振りながら駆け寄ってくる。俺たちは軽く挨拶を交わした。
「ようこそ、はるばるお越しくださいました。お疲れではありませんか?」
「ありがとう、大丈夫だよ。……美しい所だね。人々の憩いの場になっているようだ」
少しかしこまった言い方に、思わずちょっと笑ってしまった。さっきまで新幹線にはしゃいでた人とは思えない。
「おかげさまで。地元の方々には愛されています。それに、遠方からもたくさんのお客様が訪れてくださいますよ」
森村さんは笑顔で敷地を指し示しながら説明してくれた。
「奥が無料のビジターセンターで、窯の歴史を紹介しています。それからショップ、その隣がクラフトセンター。クラフトセンターは一階が工場見学エリア、二階が絵付け教室、三・四階がミュージアムです」
「随分充実してるね。見どころがたくさんだ。時間は大丈夫?」
リッジウェイさんが確認するように聞いた瞬間、森村さんの顔が微妙に曇った。
「実は……ちょっと外せない用件が入ってしまって。ご案内できなくなってしまったんです。お詫びと言ってはなんですが……あちらのレストランでランチをご用意しましたので」
「ええ?!そんな気を使わなくていいのに」
「せっかくですから、自慢の料理をご賞味ください。十一時半で予約をお取りしました」
「かえって申し訳ないね……でも、ありがとう」
「石野さんも、楽しんでいってくださいね。では、失礼します」
深くお辞儀をして、森村さんは建物の中へ消えていった。
その背中を見送りながら、なんとなく違和感が残った。外せない用件って、何のことだろう。
俺とリッジウェイさんは、しばらく顔を見合わせた。
「……じゃあ、まずビジターセンターから?」
「うん、そうしよう」
ビジターセンターでは、ノリタケの歴史が紹介されていた。
大きなお皿型のスクリーンが並んでいて、手をかざすと映像が浮かび上がる仕組みになっている。これなら、子どもでも楽しめそうだ。
ふと、リッジウェイさんが足を止めた。古い写真―――日本髪に着物と割烹着の女性たちが並んで絵付けをしている。
「……着物の女性だね」
「俺もびっくりしました。職人のイメージと違って」
でも昔の人にとっては、これが普通の格好。
展示の後半に差し掛かると、いきなり巨大な砥石が目の前に現れた。技術を応用して、戦後は様々な工業製品を作っていたらしい。ヘルメットの模様、ICの基板……
―――へぇ、こんなものまで。
俺が感心して眺めている横で、リッジウェイさんは難しい顔で何かを考え込んでいた。
―――同じものを見ているはずなのに、見えてるものが違うんだろうな。
*
気がつくと、もう十一時半だった。
工場の入り口近く、案内された場所にレストランがあった。看板には「キルン」という文字。
「キルンは、磁器を焼く窯のことだよ。ボトルオーブンとも言うけど」
「そうなんですね」
中に入ると——予想の三倍くらい高級そうなフレンチレストランだった。
窓際の席に案内される。真っ白なテーブルクロス。ナイフとフォークが何本も並んでいる。
「フルコース……ですか?」
「うん、そうみたいだね。森村君、一体いくら払ったんだろう……元々カフェの方に行こうと思ってたから、調べてなかったよ」
「俺も、予算的にそっちだと思ってました」
二人して静かにメニューに目を落とす。
「……石野君、バイト頑張ってもらってるのに、時給上げられなくてごめんね」
「いえ!謝らないでください!楽しいですし、それ以上のものをもらってます!」
言い終わった瞬間、リッジウェイさんがぱあっと破顔した。
釣られて、俺も笑ってた。
ベージュを基調とした上品で穏やかなインテリア。紙ナフキンには、キルンの絵が丁寧に印刷されていた。
前菜は、蟹のムースにキャビア添え。小さな白いカップの下には、水色の縁のノリタケのお皿。
「……あ、うちのマグカップと同じ柄です」
「え!すごい偶然だね」
リッジウェイさんが目を丸くして笑う。
次の前菜は、花びらを添えた鮭。焼きと生の中間くらいで、めちゃくちゃ柔らかい。豪華な金縁に花の絵が描かれたお皿で、一気に華やかな空気になった。
スープは玉ねぎのポタージュ。俺のカップは金のエンボスのダブルハンドル、リッジウェイさんのは色違いの銀だった。
「料理、すごく美味しいですけど——良い食器で食べると、また一段と美味しく感じますね」
一口飲んで、リッジウェイさんがゆっくり頷く。
「うん、食器は料理の引き立て役って言うからね。でも……ここでは……お互いが引き立て合ってるというか、食器がより素敵に見えるように料理をデザインしてる気がする」
——言われてみると、そうかもしれない。
シンプルで落ち着いたインテリア。色を合わせたり抑えたりしている料理。全部が、ノリタケの食器の良さを存分に味わってもらうための演出なんだ。
「うわー、絶対そうだ……」
「このレストランだからこそ、かな」
リッジウェイさんが静かに微笑んだ。
次の料理が運ばれてきた瞬間、俺はちょっと固まった。
——たい焼き?
目の前に、どう見てもたい焼きが鎮座している。お皿は豪華な金のエンボス模様にジュエル装飾で、そのインパクトに全然負けていない。
「わー」とリッジウェイさんが呟いた。「面白いね。……たこ焼きはタコの形じゃないのに、たい焼きは鯛の形なんだ?」
「いや、それはですね……驚くポイントが違うと言いますか」
「??」
キョトンとするリッジウェイさんに、俺はたい焼きとは何かを説明した。庶民のお菓子がフレンチに変身したんだってことを理解すると、恥ずかしそうにくすっと笑った。
中身は桜鯛の身がソースと一緒に入っていて、もちろん美味しかった。
メインの肉料理は、ラム肉のキャベツ包みとラム肉のトマト煮込み。トリュフの薄切りが添えられている。
お皿は、今までとは打って変わったマットな黒一色。
「雰囲気がガラっと変わりましたね」
「締まるね。黒。……そう言えば、ウェッジウッドが『黒は最強』って言ってたな」
遠い目。
たまにするやつだ。その先に何が見えているのか俺には分からないけど——今のはきっと、あの漆黒のシリーズのことだ。名前は確か……
「ブラックバサルト、ですか?」
一瞬の間があって——パッと笑顔が弾けた。
「そう!よく知ってたね」
思わず頬が緩む。
——同じものが見えてる、って嬉しい。
リッジウェイさんは、ブラックバサルトの話を続けた。俺はフォークを置いて、その声に耳を傾けた。
デザートは、ティラミスにアイスクリームとフルーツ添え。
お皿は、これでもかというくらいラブリーな薔薇と金彩。テーブルが一気に華やいだ。
「最後は、パレードって感じですね」
「パレード?」
「はい。ディズニーランドのフィナーレみたいな——キラキラした、甘くて幸せな世界というか」
「なるほどね。最後を飾るのにふさわしい演出だ」
紅茶のカップは、リッジウェイさんが金とコバルトブルーに葉の模様、俺はクリーム色の地に唐草模様。添えられたレモンは、皮が丁寧に剥かれていた。
「全部美味しかったし、食器もいっぱい見られて……すごく良かったです」
「うん、堪能したね。森村君には後でしっかりお礼しないと」
紅茶を一口飲んでから、俺は言った。
「あの、リッジウェイさん」
「何?」
「うちのティールームも、たまには全部ひとつのブランドで統一して世界観出せたらカッコいいかもな……と思いました。でも、アンティークだから、そんなに集められないですか?」
「うーん……ブランドによるけど、大きな窯の有名な作品ならできるかな」
「本当ですか?」
「うん。良いアイデアだと思う。作品の個性に合わせてインテリアも工夫して、コンセプトに沿ったお菓子も作って」
「やりましょう!推し窯のティールーム!」
「そうだね!みんなも喜ぶし……って、あ……」
咄嗟に、口を手で塞ぐリッジウェイさん。視線が泳いでいる。
——みんな、って誰だろう。
聞きたい気持ちが、ちょっとだけ膨らんだ。でも、言わない事は聞かないのがルールだ。
共有できないのは寂しいけど——困らせたくない。
レストランを出ると、リッジウェイさんがふとスマホの時計に目を落とした。
「あれ?もう二時間以上経ってる。二時から絵付け体験なんだけど」
「うわ、急ぎましょう!」
クラフトセンターの二階。手前の作業机では、子どもたちが親に見てもらいながら、お皿に好きな絵を描いている。でも、俺たちがチャレンジするのは、マスターペインターが直々に教えてくれるプレミアムコース。
受付を済ませると、メガネのおじさんが現れた。
——この人が、マスターペインター。
心臓が早鐘を打つ。
「こんにちは」
「こんにちは。よろしくお願いします」
柔らかく微笑んで挨拶してくれた。……思ってたより、優しそう。
でも、フロアの端の半個室に通されると、空気がすっと変わる。向こうのお子ちゃまたちとは違うんですよ、という無言のプレッシャーがかかってくる気がした。
「今までに絵付けの経験はありますか?」
「いえ、初めてです」
リッジウェイさんは、「少しだけ」と答えた。
四人がけのテーブルに着くと、平筆と丸筆が何本か、ゴム先のペン、絵の具が載ったパレットが用意されていた。
今から作るのは、薔薇のティーカップとソーサー。
先生は「デモ用」と書かれたお皿を手に取った。
「では、私が最初に描いてみせますから、見ていてください」
先生を挟んで両側に座り、視線を手元に集中させる。
「西洋の方では丸筆を使いますが、ここでは平筆を使います。手描きのことを、そがきと呼んでいます」
幅三ミリほどの平筆を、透明な液体にちょんと浸した。
「この液体って、何ですか?」
「オリーブオイルです」
「え?!」
「僕らは溶剤を使いますけど、お客さん用に安全なものを……色々試して、ちょうどいい粘り気のを使っています。筆が乾いたときに少しだけ付けてください」
「なるほど…」
先生はパレットの左端にある赤黒い絵の具を筆先で差した。
「赤はマロンと呼びます。金が含まれているんですよ」
筆の一方の角にほんの少し絵の具を付けて、左右に動かして馴染ませる。筆をひっくり返して、また左右に。それを繰り返してから筆を縦にスーッと動かすと——綺麗なグラデーションができた。
「片ぼかし、と言います。このグラデーションで花びらを描いていきます」
……不思議な筆の動き。
俺にできるのか。
俺たちは、斜向かいに座りなおした。
目の前に用意されたティーカップには、うっすら赤い線で薔薇の輪郭が描かれている。筆を取り、先生と同じようにパレットの上で……
むむ……ムズイ!
向かいのリッジウェイさんをちらっと見る。
——見たことのない、真剣な目。引き結んだ口元。怖いくらいの集中力。
綺麗なグラデーションを描き終えると、筆を置いた。
フッと——いつものリッジウェイさんの表情に戻る。俺の視線に気づいて、ニコっと微笑んでくれる。
……ギャップがヤバい。
「それでは、下の花びらから描いていきましょう」
先生の右手の小指には、白いテープのようなものが巻かれていた。カップを持つとき小指で固定して、器用に筆を使っていく。
俺も何度か試して、ようやくグラデーションが作れるようになってきた。
でも——小さい花びらの中に収めるのが、至難の業だ。
花びらの端は平筆の幅より狭くなるから、どうしてもはみ出してしまう。先生はその都度チェックして、はみ出た部分を筆でそっと拭き取ってくれた。
うまくいかないたびに、変な汗が出てくる。
——できなかったらどうしよう。
リッジウェイさんは、俺が器用だからって誘ってくれたのに。適当なことを言う人じゃないから、ガッカリさせたくない。
……ダメだ。目の前のことに集中しろ!
なんとか薔薇の花が完成した。次は葉っぱと茎。
先生は黄色に緑と青緑を混ぜ合わせ、黄緑色を作った。葉っぱ全体を薄く塗ってから、平筆のグラデーションで葉脈を描いていく。
葉の真ん中まで描いて止めて、反対側から描いて真ん中で止める。行き過ぎると、せっかく描いた反対側が消えてしまうから要注意。
集中、集中。
そこへ、もう出来たのか、リッジウェイさんが先生に話しかけた。
「なぜ、ノリタケでは平筆を使うようになったのですか?」
「最初の頃、洋画の先生たちに教わったことで、油絵の技法を取り入れたんですよ」
「ああ、なるほど。日本画からきたのかと思いました」
「いえ。でも日本画にも——墨絵などには、このぼかしの技法がありますね」
「そうなんですね。……こちらの、白い細長い毛の丸筆は珍しいですね。何の毛でできているのですか?」
「猫のお腹の毛です」
「猫?!」
思わず声が出た。
「最近は材料が手に入りにくくなって、いつまであるか分かりませんが……」
「猫かあ……」
三味線も猫の皮だっていうし。家畜用の猫って、いるのか。——いや、考えても答えが出る話じゃない。
葉っぱの先は少し色味を変えるため、先生はマロンと黄色を混ぜ合わせた。
「オレンジ色にならないんだ……」
思わず呟く。
ピンクと黄色と、ほんの少しの緑が混ざった、不思議な色。これを葉先にちょんと載せる。
水彩絵の具とは全然違う。くすんだ赤のマロンは、焼いたら鮮やかなピンクになるらしい。混ぜ合わせてどんな色に変化するか——それを知るだけで、どれだけの経験が必要なんだろう。
葉っぱが終わると、いよいよ猫の筆で茎を描く。
スーッと縦に抜いて、終わり——のはずが、先生みたいにはいかない。絵の具切れでプツっと途切れた茎を、ゴム先のペンで拭き取って、もう一度。
リッジウェイさんはもう出来たみたいで、先生から「いいですね。綺麗」とお褒めの言葉をもらっていた。
「マスターペインターの方は、現在何人いらっしゃるんですか?」
「二人です。それに見習いが二人です」
——たったそれだけ?!
思わず叫びそうになった。
「じゃあ、もし弟子入りしたいって言ったら?」
「その時会社が必要としていれば、ですから……それに、絵のテストもあります」
頑張って絵の練習をして上手になっても、なれるかどうかわからない。
俺はそんな不確実性に賭けられるのか?
もし仮になれたとしても―――
二時間ぶっつけの絵付け。要求される集中力が、ハンパない。
それを、マスターペインターは、毎日、毎日。何十年。
——うわー!
ソーサーの裏に名前と日付を書いて——完成!
結局、ところどころ先生に手直しされてしまった。
俺が描いた部分は全体の何割くらいだったんだろうか。
これはもはや合作と言っていい。
「すごく楽しかったです!ありがとうございました!」
「良かったです。私が少し手直しをして、金を縁とハンドルに塗って、一か月後に郵送しますね」
――え?まだ直すとこある?
俺たちはマスターペインターに挨拶して、クラフトセンターを後にした。
「これだけ濃い時間と、マスターペインターとの合作を手に入れられるなんて、お得ですよね?」
「そう?良かった。俺も楽しかった」
リッジウェイさんが、穏やかに笑った。
*
その足で、上の階のミュージアムへ向かう。
——そこは、オールドノリタケの宝庫だった。
「すっげえ……」
煌びやか、重厚、圧倒的。どんな形容詞を並べても足りない。
俺は、『色絵薔薇文金盛パンチボウルセット』と書かれた作品の前で、足が止まった。
大きなボウルの内側に、いくつもの大輪の薔薇が咲き誇っている。その上に、金とターコイズのビーズを散りばめたレースのような模様が覆い被さっていた。
さっきまで絵付けをしていたから分かる。平筆で描いた花びらのグラデーション。
——俺が描いたのと、同じ技法だ。でも、次元が違う。
百年以上前の日本。職人たちは、こんな立派な薔薇を見たことがあったのだろうか。
——夢を描いていたのだろうか。
「名品揃いだね」リッジウェイさんが言う。「モリアゲって呼ばれる金の立体的な装飾が、人気を博したんだ。高さがあるから、豪華に見えるよね」
「そうですね。これでもかってくらいに」
「ノリタケがアメリカやイギリスに進出した時、中産階級の人々は、憧れの豪華な手描き磁器が手頃な値段で買えると分かって飛びついたんだ。イギリスでは絵付け師の人件費が高いから、そんな商売はできなかった」
「……それが、ボイコットの話に繋がるんですか?」
「ああ。そんな話もしたね」
作品を見て回りながら、話を続けた。
時代によってデザインはコロコロ変わる。アールヌーボーの優美な曲線に飽きて、直線的なアールデコが生まれて、斬新すぎたから、その反動でおとなしいディナーセットが流行る。
人々が欲しいものって、容赦なく変わっていく。置いてきぼりにされたら——と思うと、なんか怖くなった。
「ねえ、リッジウェイさん」
「うん? 何?」
「これから陶磁器業界って、どうなると思いますか?」
「……」
またあの、遠くを見るような目になった。
「ノリタケみたいに……工業用セラミックや窯の技術を応用して他のことができたら、良かったのかもしれない」
俺は頷いて、次の言葉を待つ。
「食器を作るにしても、何か付加価値がないと安物に負けてしまうから……ブランドのようなストーリー性があるもの、個性的なデザインや、希少性があるものは残るのかな」
「結局——推せるかってことですよね?」
リッジウェイさんがキョトンとした。
あ、雑だったかな。
「あー、えーと。俺だったら……合わせ技で……歴史あるメーカーが作った、人気ゲームとのコラボで、限定何個とかだったら、買っちゃいますけど」
「そう!そういうことだよ」
「本当にそれでいいんですか?!」
顔を見合わせて、笑った。
結局、時代が変わっても、お金を動かせるのは推し活なんだ。
*
閉館ギリギリの五時まで粘って、名古屋駅に着く頃には、辺りはすっかり薄暗くなっていた。
駅で、家族へのお土産に海老煎餅を買った。新幹線で食べる味噌カツ弁当も。
リッジウェイさんは、味噌カツ弁当を買った後、お土産を探していた。
——え? ぴよりん? 並ぶの?
途中で崩れるよ、たぶん。
……あ、二個買った……
こうして、俺の名古屋旅行は終わろうとしている。
新幹線の中で聞いたボイスドラマの女の子は、名古屋の名所とグルメを楽しそうに語っていた。
行ったのはノリタケの森オンリーなんて、ダチに話したら、絶対引かれる。
でも、これは推し旅なんだ。
*
旅から1か月が経とうとした頃、ティールームの閉店後の片付けをしていた俺を、リッジウェイさんが弾んだ声で呼んだ。その手には届いたばかりの小包がある。
「石野君、ノリタケからカップが届いたよ!」
「えっ! 本当ですか!?」
胸の高鳴りを抑えきれず、俺は作業の手を止めて駆け寄った。リッジウェイさんも子供のようにワクワクした顔で包みを開けていく。普段はもっと落ち着いてるのに、こういう時は年相応な顔をするんだな、と思う。
二つの箱を並べ、「せーの」で同時に蓋を開けた瞬間――「おお〜っ」と二人分の歓声が重なった。
焼成前はくすんだ赤だった絵の具が、深みと透明感のある見事な薔薇色に変わっている。器の縁とハンドルには、マスターペインターの手による繊細な金彩。仕上がりの気品が、ぐっと引き立って見えた。
「すっげえ……」
思わず息を呑んで呟くと、リッジウェイさんが嬉しそうに目を細めた。
「本当に、素敵な作品になったね。君が描いた薔薇の方が、少し丸みがあって可愛らしいよ」
「そうですか……?」
自分の薔薇とリッジウェイさんの薔薇を見比べる。同じように見えても、彼のはどこか洗練されていて、俺のは妙な愛嬌がある――何かが少し違う。でも、どちらも世界に一つだけの、素敵なカップだ。
「これでお茶、飲んでみませんか。今日は俺が淹れますから」
いつも「お疲れ様」と紅茶を淹れてくれるリッジウェイさんに、たまには俺だって恩返しがしたい。
「家でも練習してるんで……たぶん、美味しく淹れられると思います!」
リッジウェイさんは一瞬きょとんとしてから、ふわりと微笑んだ。
「ありがとう。すごく嬉しいよ」
「こちらこそ、です!」
自分たちで絵付けをしたお揃いのカップで、二人でお茶なんて、これ以上ないほど幸福な時間だ。
俺は気を引き締め、慎重に準備を進めた。届いたばかりのカップを丁寧に洗い、水分を拭き取る。ポットとカップに熱湯を注いでしっかり温める。茶葉はアッサムのリーフをティースプーンで三杯。やかんは強火にかけ、大きな泡がボコボコと立った瞬間、ポットへ一気に注ぎ込む。タイマーをセットし、三分間、じっと待つ。
――よし……これでどうだ
ふと振り返ると、席についたリッジウェイさんが、優しい眼差しでこちらをじっと見つめていた。
――か、監視されてる……? いや、心配されてるのか……?
チラッと視線を送ると、バッチリ目が合ってしまう。ちょっと口の端が上がった気がして、心臓が跳ねた。俺は慌てて手元のポットへ視線を戻す。
時間が来た。温めておいたカップのお湯を捨て、ゆっくりと紅茶を注ぐ。抽出された色も、立ち上る芳醇な香りも、たぶん完璧だ。
ソーサーにスプーンを添え、ミルクピッチャーとシュガーボウルと一緒にトレーへ乗せてテーブルへ運ぶ。
「お待たせしました」
「ありがとう」
リッジウェイさんはふんわり微笑み、カップを口元へ運んだ。一口含み、一瞬の静寂のあと、パッと顔が綻んだ。
「美味しい……!」
うわっ、嬉しい。
「よ、良かったです……!」
「石野君、すごく上手に淹れてくれたね。今度から、お客様用の紅茶も任せてみようかな」
「ええ!? 俺なんかが淹れていいんですか!? ……でも、絶対頑張ります!」
「うん。きっとお客様にも喜んでもらえるよ」
リッジウェイさんは深く頷き、温かい目で見つめてくれた。
「旅行から、もう一ヶ月経つんだね。陶磁器の知識も増えたし、ティールームの仕事も任せられるようになった。……本当に、頼もしいよ」
ヤバい。
一気に胸が熱くなり、涙腺がゆるゆるに緩んでいくのが分かる。
「……っ、ありがとうございます……!」
それだけを絞り出し、溢れそうになる涙を瞼のふちで必死に押し留めた。誤魔化すように、自分のカップを持ち上げて紅茶を口に含む。
はあ……喉の奥で涙の塩味が少し混ざったけれど、今まで淹れた中で一番美味しい。
――と、その時だった。
「あれ? このカップ……こっちが石野君のじゃない?」
その一言に、俺は固まった。
二人の手元を見比べる。あ――俺の描いた、少し不器用で丸みのある薔薇。それが今、リッジウェイさんの手の中にある。俺が手にしているのは、繊細で完璧なラインの、リッジウェイさんの薔薇。
「え!? う、あ!?」
顔が火で炙られたみたいに、かーっと熱くなる。
「す、すみません! 俺、間違えてリッジウェイさんの使っちゃいました……!」
「あはは、俺も口をつけるまで気付かなかったよ。後で洗えばいいよね?」
「は、はいっ!」
(って、洗わなかったら……それって実質、間接キスじゃん!?)
(いやいやいや何考えてんだ俺! アホか! 落ち着け!!)
頭の中が大パニックを起こす。今の爆発しそうな顔と、あつあつのカップ、一体どっちが熱いんだろう。
動揺のあまり、飲んだ紅茶の味なんて、もう全く分からなくなっていた。




