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花畑の向こう側

作者: 山田 ソラ
掲載日:2026/04/22

 桜が散る四月の朝、田中誠一は駅前の交差点で「戦争反対」と書かれたプラカードを持つ若者たちの横を通り過ぎた。


 誠一は五十二歳。町工場の経営者だ。特別な思想もなく、選挙にはなんとなく行き、ニュースはなんとなく見る。そういう男だった。


 若者の一人が声をかけてきた。


「署名お願いできますか。戦争反対の……」


「ご苦労さん」


 誠一はそれだけ言って歩き続けた。署名はしなかった。しかし足は止まっていた。心のどこかに、小石が落ちたような感触があった。


 工場に着くと、ウクライナ人の溶接工、オレクが作業着に着替えているところだった。三年前に来日し、今では誠一の工場に欠かせない職人になっていた。


「おはようございます、社長」


「おう。どうだ、実家と連絡取れてるか」


「昨日、母から。元気だと。でも水が出ないと言っていました」


 オレクは笑っていた。笑うしかないから笑っていた。誠一はそれを知っていた。


「そうか」と誠一は言った。それ以上の言葉が見つからなかった。


 工場の機械が動き始める。鉄を削る音、溶接の弧光、金属の匂い。誠一はいつもこの時間が好きだった。余計なことを考えずに済む時間だから。


 でも今日は違った。


 水が出ない。


 蛇口をひねれば水が出る。当たり前すぎて考えたこともなかった。電気がある。飯が食える。夜に爆音で目が覚めない。それが「普通」だと思っていた。


 普通は、普通じゃなかった。


 昼休み、事務員の由美子がスマホを見ながら言った。


「ねえ社長、知ってます? ロシアの反戦デモで捕まった人、また増えたって」


「何人だ」


「数百人。プラカード一枚持っただけで」


 誠一は缶コーヒーを飲みながら少し考えた。


 今朝の若者たちのことを思った。あいつらは日本で自由に声を上げている。署名を集めて、プラカードを持って、誰にも逮捕されない。うるさいと思っていた。でも、うるさく言える国に自分はいる。


 それは当たり前じゃない。


 ロシアで同じことをやれば、翌日には消える。中国で天安門の話をすれば、消える。北朝鮮で指導者の悪口を言えば、家族ごと消える。


 戦争を起こしている国で、戦争に反対できない人たちがいる。


 その矛盾が、誠一の胸の中でゆっくりと形を作り始めた。


 夕方、仕事終わりにオレクが珍しく話しかけてきた。


「社長、今朝のデモ、見ましたか」


「ああ、見た」


「日本人、よく平和だ平和だと言いますね」


「バカにしてるのか」


「いいえ」とオレクは首を振った。「うらやましいと思っています。本当に」


 誠一は黙った。


「私の国では、戦争が始まる前、みんな普通に暮らしていました。朝起きて、仕事して、家族と飯を食って。でもある日から違う国になった。爆弾が落ちて、男は全員戦場に行かされて、子供は地下に逃げて」


「…………」


「日本人が平和のことばかり考えていると、外から笑う人がいる。お花畑だと。でも私は思います。それでいい、と」


「どういうことだ」


 オレクは少し言葉を選んでから言った。


「頭の中が戦争でいっぱいになった人間が、戦争を起こすんです」


 誠一はその夜、ひとりで缶ビールを飲みながらぼんやり考えた。


 戦争とは何か。


 難しい話じゃない、と誠一は思う。突き詰めれば単純だ。金か、意地か。資源か、権力か。歴史を振り返れば、戦争の理由はだいたいそのどちらかだ。そこに「正義」という包み紙が巻かれる。


 神の名前が使われることもある。民族の誇りが旗印になることもある。でも剥がせば、金と権力だ。


 そして、戦場で死ぬのは、金も権力も持たない者たちだ。


 色で人を分ける話も同じだ。肌の色、目の色、髪の色。それで人を殴る理由にする。でも考えてみれば、それは小学校の教室でメガネをかけた子をからかうのと何が違うのか。スケールが大きくなっただけの、ただのいじめだ。


 大人がいじめをする。国がいじめをする。それに「イデオロギー」とか「安全保障」とか難しい名前をつけるから、急に複雑な話に見える。


 でも本質は単純だ。強い者が弱い者をいじめている。


 翌朝、誠一はまた同じ交差点を通った。


 若者たちはいなかった。でも昨日の光景が頭に残っていた。


 誠一はふと思った。


 あの子たちが声を上げられる国でよかった、と。捕まらない国でよかった、と。


 日本人はお花畑だと言われる。平和ボケだと笑われる。でも誠一には今、それが少し誇らしく思えた。


 花畑を守ることは、恥じゃない。


 頭の中を戦争で埋めた人間には、花の育て方がわからなくなる。オレクの言っていたことは、そういうことだったのかもしれない。


 工場の扉を開ける。機械の音が始まる。オレクが溶接マスクをかぶる。


 今日も水は出た。電気もついた。爆弾は落ちなかった。


 それを「普通」と呼ぶのは、もうやめようと誠一は思った。


 これは奇跡だ。


 守る価値のある、奇跡だ。


 完


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