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泣き虫なお嬢様と年老いた私の最後の約束

掲載日:2026/02/22

 

「ああっ、もうこんな時間! どうしよう、絶対に遅刻する!」


 慌ただしい足音が、フローリングの廊下をドタバタと駆け抜けていく。

 毎朝のことだが、我が家の同居人である結衣は、どうしてこうも時間配分というものが苦手なのだろうか。


「結衣、走るとまた転ぶぞ。昨日の夜も、テーブルの角で足を打ったばかりではないか」


 私がソファの上から声をかけると、彼女は洗面所から顔だけを覗かせた。

 口には歯ブラシをくわえ、長い髪はまだ寝癖ではねている。

 立派な社会人になったというのに、家の中での振る舞いは子供の頃から少しも変わっていない。


「ふぁって、ひょうははいじなはいぎが……っ」


「口に物を入れたまま喋るな。まったく、レディとしての品格が疑われるぞ」


 やれやれとため息をつきながら、私は身を横たえていた特等席からゆっくりと立ち上がった。

 かつてはバネのように軽やかだった足腰も、最近はすっかり言うことを聞いてくれない。

 関節の軋みを感じながら、私は彼女のいる洗面所へと歩みを進めた。


 私が足元に近づくと、結衣は急いで口をゆすぎ、タオルで顔を拭った。


「ごめんね、朝から騒がしくして。今日もちゃんとご飯用意してあるからね」


 彼女は私の頭を優しく撫でてから、小皿に盛られた朝食を指差した。


「最近、少し食欲がないみたいだから、特別に柔らかく煮込んだスープ仕立てにしておいたよ。栄養満点だから、ちゃんと残さずに食べてね」


「ふむ……私を子供扱いするなと言いたいところだが、お前の気遣いには感謝しよう」


 私の胃腸がすっかり弱ってしまい、昔のように固いものが食べられなくなったのは事実だ。

 結衣は忙しい合間を縫って、私のために専用の流動食や、柔らかい食事を用意してくれる。

 その愛情に応えるためにも、私は出された食事をゆっくりと口に運んだ。


「よし、着替え完了! それじゃあ、行ってくるね!」


 スーツのジャケットを羽織り、カバンをひったくるようにして玄関へと向かう結衣。

 私は食事を中断し、彼女を見送るために玄関のたたきまでゆっくりと歩いていった。


「戸締まりはしっかり確認したか? 忘れ物はないな?」


「大丈夫、完璧! ……今日もお留守番お願いね」


 結衣はしゃがみ込み、私の首元に顔を埋めるようにして抱きついてきた。

 彼女の使っている、フローラル系の甘い香水の匂いがふわりと鼻をくすぐる。

 私は少しだけ身をよじりながらも、彼女の温もりを静かに受け入れた。


「やれやれ、甘えん坊なのはお互い様だな。気をつけて行けよ」


「よし、行ってきます!」


 勢いよくドアが閉まり、カチャリと鍵の閉まる音が響く。

 先ほどまでの喧騒が嘘のように、家の中は深い静寂に包まれた。


 私は玄関の冷たい床にしばらく佇んでいたが、やがて冷えを感じてリビングへと引き返した。

 お気に入りのふかふかのコートを身にまとっていても、最近は少しの冷気で骨まで凍えるような気がするのだ。


 リビングの窓際にある、日当たりの良い大きなクッション。

 そこが、私が一日の大半を過ごす特等席だ。


 よっこらせ、と心の中で掛け声をかけながら、私はクッションの上に身を沈めた。

 窓越しに差し込む柔らかな陽光が、私の白い毛……いや、白髪の混じった老体をじんわりと温めてくれる。


 目を閉じると、不意に昔の記憶が蘇ってきた。


 私が結衣と出会ったのは、もう十五年以上も前のことだ。

 あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。


 冷たい雨の降る、薄暗い公園だった。

 当時まだ小さな子供だった結衣は、ずぶ濡れになりながら、公園のベンチの陰で膝を抱えて泣いていた。

 親とはぐれたのか、それとも何か悲しいことがあったのかは分からない。


 ただ、小さな体を震わせて泣きじゃくる彼女を見た瞬間、私の胸の奥で何かが強く打ち鳴らされた。


『私が、この小さな命を守ってやらねば』


 気がつけば、私は彼女の傍に寄り添い、その冷え切った体を自分の体温で温めようとしていた。

 結衣は驚いたように顔を上げ、泥だらけの手で私を抱きしめた。


『……一緒に、いてくれるの……?』


 震える声で尋ねる彼女に、私は力強く頷いてみせた。

 それ以来、私たちは片時も離れることなく、共にこの家で暮らしてきたのだ。


 彼女が風邪を引いて寝込んだ夜は、一晩中ベッドの傍に付き添った。

 親と衝突し、部屋で一人泣いていた時も、私はただ黙って隣に座り、彼女の涙が枯れるのを待った。

 私がいてやることで、彼女が少しでも安心できるのなら、それで十分だった。


「……私も、随分と歳をとったものだ」


 日向の温もりにまどろみながら、私は自嘲気味に呟いた。


 かつては彼女を背後から守るように、家の中を威風堂々と歩き回っていたものだが。

 今は階段の上り下りすら億劫になり、こうして一日中クッションの上で居眠りをするばかり。


 結衣は気丈に振る舞っているが、私の衰えに気づいていないはずがない。

 最近、彼女が私を見つめる瞳に、ほんの少しの不安と寂しさが混じっているのを、私は見逃していなかった。


 私が彼女を残して、先に旅立つ日が近づいている。

 それは、どれほど抗おうとも避けられない、命の理だ。


「結衣……お前は、私が手放しても、一人でしっかりと歩いていけるだろうか」


 独り言は、静かなリビングの空気に吸い込まれて消えた。

 不安がないと言えば嘘になる。

 だが、あの泣き虫だった小さな女の子は、今や立派な大人の女性へと成長したのだ。


 私に残された時間は、そう長くはないかもしれない。

 だからこそ、命の火が尽きるその瞬間まで、私は彼女の良き理解者であり、一番の味方でありたいと願っている。


 私は深く息を吐き出し、心地よい日差しの下で、ゆっくりと意識を手放していった。





 その日、結衣が帰ってきたのは、すっかり日付が変わる頃だった。


 玄関のドアが重々しく開き、足を引きずるような音が廊下に響く。

 いつもなら「ただいま」と元気な声が聞こえるはずだが、今夜はひどく静かだった。


 私はうたた寝から目を覚まし、彼女の様子を窺った。


 リビングのドアを開けた結衣は、電気もつけずにソファへと倒れ込んだ。

 手から滑り落ちたカバンが、床に鈍い音を立てる。

 暗闇の中で、彼女の肩が小刻みに震えているのが分かった。


「……結衣、どうした。何かあったのか」


 私が声をかけても、彼女は顔を上げない。

 ただ、押し殺したような嗚咽だけが、静かな部屋に響いていた。


 仕事で大きなミスでもしたのだろうか。

 それとも、誰かに理不尽な言葉を投げつけられたのか。

 詳しい事情は分からないが、彼女がひどく傷ついていることだけは確かだった。


 私は痛む足腰に鞭を打ち、ゆっくりと立ち上がった。


 普段なら、彼女の方から私のところへ甘えに来るのを待つ。

 だが、今日ばかりは私が傍に行ってやらねばならないだろう。

 私はソファの前に立ち、よっこらせと気合を入れて、彼女の隣へと這い上がった。


 昔ならこんな段差、軽々と飛び乗れたというのに。

 情けないほど体が重く、自分の老いを痛感してしまう。


「ほら、そんなに泣くな。せっかくの器量よしが台無しだぞ」


 私は彼女の脇腹にピタリと身を寄せ、自分の体温を分け与えるように密着した。

 結衣は私の気配に気づくと、ゆっくりと体を起こした。

 その顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。


「……ごめんね、起こしちゃったかな」


 彼女は掠れた声でそう言うと、私の体をきつく抱きしめた。


「今日ね、どうしても上手くいかなくて……。私ばっかり、なんでこんな目に遭うんだろうって……」


 ぽつりぽつりと、彼女は堰を切ったように不満と弱音をこぼし始めた。

 私はただ黙って、彼女の言葉に耳を傾けた。

 気の利いた慰めの言葉を返してやることはできないが、こうして寄り添うことくらいはできる。


 私は彼女の涙を拭うように、自分の顔を彼女の頬にすり寄せた。

 自慢のふかふかとしたコートが、彼女の涙を優しく吸い取っていく。


「ありがとう……。あなたがいてくれて、本当に良かった」


 結衣は私の胸元に顔を埋め、子供のように声を上げて泣き始めた。


 どれくらいそうしていただろうか。

 やがて彼女の泣き声は静かな寝息へと変わり、私にしっかりと抱きついたまま眠りに落ちてしまった。


「まったく、世話の焼けるお嬢さんだ。……だが、安心しろ。私がずっと傍にいてやる」


 私は彼女が風邪を引かないよう、自分の体でしっかりと温め続けた。

 この温もりが、少しでも彼女の心の傷を癒やしてくれることを祈りながら。


 しかし、その平穏な日々は、唐突に終わりを告げることになる。


 あの夜から数ヶ月が過ぎた、木枯らしの吹く冷たい朝だった。

 私はいつものように目を覚ましたものの、体にまったく力が入らなかった。


「……なんだ、これは。どうして立ち上がれないんだ」


 手足が鉛のように重く、感覚すらも薄れている。

 無理に体を起こそうとすると、激しいめまいが襲ってきた。


 異変に気付いた結衣が、慌てた様子で駆け寄ってくる。


「どうしたの!? ねえ、大丈夫!?」


 彼女の顔が、みるみるうちに青ざめていく。

 私は「心配するな」と伝えたかったが、声すら上手く出すことができなかった。


 結衣は震える手でスマートフォンを手に取り、職場へ電話をかけ始めた。


「すみません、今日……いえ、しばらくお休みをいただきたいんです。家族が、倒れてしまって……!」


 電話を終えた彼女は、私の傍にへたり込み、ボロボロと涙をこぼした。

 その涙を見て、私は悟った。


 どうやら私に与えられた時間は、もう残りわずかになってしまったようだ。

 あんなに泣き虫だった彼女を置いていくのは、ひどく心残りなのだが。


 迫り来る別れの足音は、決して待ってはくれない。

 私はただ、結衣の温かい手の感触を確かめるように、静かに目を閉じた。







 気がつけば、私の世界からは少しずつ色と音が失われつつあった。


 重い瞼をわずかに開けると、結衣の泣き腫らした顔がぼんやりと映る。

 彼女はこの数日間、仕事にも行かず、ずっと私の傍についていてくれた。


「……ごめんね、何もしてあげられなくて。ずっと一緒にいるって約束したのに」


 結衣の手が、私の痩せ細った体を優しく撫でる。

 その手は微かに震えており、ぽたぽたと温かい雫が私の頬に落ちてきた。


 泣かないでくれ、愛しいお嬢さん。

 お前の笑顔こそが、私にとって一番の報酬だったのだから。


 私は必死に声を振り絞ろうとしたが、喉の奥がヒューヒューと鳴るだけだった。

 かつては家中に響き渡るような、威厳ある声を出せたというのに。

 今はもう、彼女の名前を呼んでやることすら叶わない。


「無理しないで。……ここにいるから、ずっとここにいるからね」


 結衣は私の顔に自分の頬をすり寄せ、子供のようにしゃくり上げた。


 ああ、本当に世話の焼ける娘だ。

 十五年前、冷たい雨の降る公園で出会ったあの日のままだ。


 だが、私は知っている。

 お前がどれほど強く、優しい女性に成長したかを。

 仕事で理不尽な目に遭っても、決して逃げ出さずに立ち向かっていったその背中を。


 だから、もう私が守ってやらなくても大丈夫だ。

 お前は一人でも、しっかりと自分の足で歩いていける。


 私の体から、ゆっくりと熱が引いていくのが分かった。

 痛みも苦しみも、不思議と消え去っていく。

 ただ、結衣の温かい手のひらの感触だけが、唯一の確かなものとして残っていた。


『泣くのは今日でおしまいにしろ。立派なレディになったのだから、胸を張って生きるんだぞ』


 声にならない言葉で、私は彼女に最後のエールを送った。

 私の想いが伝わったのか、結衣はふっと顔を上げ、涙まみれの顔で、少しだけ微笑んだ。


「ありがとう、私のおじいちゃん。私の、たった一人の家族」


 結衣は私の耳元に顔を寄せ、震える声で、けれどはっきりと言葉を紡いだ。


「……私の大好きなレオ。ずっとずっと、愛してるよ」


 ああ、そうだ。私はレオ。

 お前がその温かい手で抱き上げ、名付けてくれた、誇り高きお前の相棒だ。


 私は残された最後の力を振り絞り、彼女の言葉に応えようとした。

 気の利いた別れの挨拶はできない。

 だが、今の私にできる、最大の愛情表現を。


 喉の奥を鳴らし、ゴロゴロと小さく、しかし確かな音を立てる。


 それが私の答えだと伝わったのだろう。

 結衣はポロポロと涙をこぼしながら、今日一番の優しい笑顔を見せてくれた。


 その美しい笑顔をしっかりと心に焼き付けながら。

 私はゆっくりと、静かに目を閉じた。



今日は猫の日だそうです。

記念の短編です。

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