泣き虫なお嬢様と年老いた私の最後の約束
「ああっ、もうこんな時間! どうしよう、絶対に遅刻する!」
慌ただしい足音が、フローリングの廊下をドタバタと駆け抜けていく。
毎朝のことだが、我が家の同居人である結衣は、どうしてこうも時間配分というものが苦手なのだろうか。
「結衣、走るとまた転ぶぞ。昨日の夜も、テーブルの角で足を打ったばかりではないか」
私がソファの上から声をかけると、彼女は洗面所から顔だけを覗かせた。
口には歯ブラシをくわえ、長い髪はまだ寝癖ではねている。
立派な社会人になったというのに、家の中での振る舞いは子供の頃から少しも変わっていない。
「ふぁって、ひょうははいじなはいぎが……っ」
「口に物を入れたまま喋るな。まったく、レディとしての品格が疑われるぞ」
やれやれとため息をつきながら、私は身を横たえていた特等席からゆっくりと立ち上がった。
かつてはバネのように軽やかだった足腰も、最近はすっかり言うことを聞いてくれない。
関節の軋みを感じながら、私は彼女のいる洗面所へと歩みを進めた。
私が足元に近づくと、結衣は急いで口をゆすぎ、タオルで顔を拭った。
「ごめんね、朝から騒がしくして。今日もちゃんとご飯用意してあるからね」
彼女は私の頭を優しく撫でてから、小皿に盛られた朝食を指差した。
「最近、少し食欲がないみたいだから、特別に柔らかく煮込んだスープ仕立てにしておいたよ。栄養満点だから、ちゃんと残さずに食べてね」
「ふむ……私を子供扱いするなと言いたいところだが、お前の気遣いには感謝しよう」
私の胃腸がすっかり弱ってしまい、昔のように固いものが食べられなくなったのは事実だ。
結衣は忙しい合間を縫って、私のために専用の流動食や、柔らかい食事を用意してくれる。
その愛情に応えるためにも、私は出された食事をゆっくりと口に運んだ。
「よし、着替え完了! それじゃあ、行ってくるね!」
スーツのジャケットを羽織り、カバンをひったくるようにして玄関へと向かう結衣。
私は食事を中断し、彼女を見送るために玄関のたたきまでゆっくりと歩いていった。
「戸締まりはしっかり確認したか? 忘れ物はないな?」
「大丈夫、完璧! ……今日もお留守番お願いね」
結衣はしゃがみ込み、私の首元に顔を埋めるようにして抱きついてきた。
彼女の使っている、フローラル系の甘い香水の匂いがふわりと鼻をくすぐる。
私は少しだけ身をよじりながらも、彼女の温もりを静かに受け入れた。
「やれやれ、甘えん坊なのはお互い様だな。気をつけて行けよ」
「よし、行ってきます!」
勢いよくドアが閉まり、カチャリと鍵の閉まる音が響く。
先ほどまでの喧騒が嘘のように、家の中は深い静寂に包まれた。
私は玄関の冷たい床にしばらく佇んでいたが、やがて冷えを感じてリビングへと引き返した。
お気に入りのふかふかのコートを身にまとっていても、最近は少しの冷気で骨まで凍えるような気がするのだ。
リビングの窓際にある、日当たりの良い大きなクッション。
そこが、私が一日の大半を過ごす特等席だ。
よっこらせ、と心の中で掛け声をかけながら、私はクッションの上に身を沈めた。
窓越しに差し込む柔らかな陽光が、私の白い毛……いや、白髪の混じった老体をじんわりと温めてくれる。
目を閉じると、不意に昔の記憶が蘇ってきた。
私が結衣と出会ったのは、もう十五年以上も前のことだ。
あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。
冷たい雨の降る、薄暗い公園だった。
当時まだ小さな子供だった結衣は、ずぶ濡れになりながら、公園のベンチの陰で膝を抱えて泣いていた。
親とはぐれたのか、それとも何か悲しいことがあったのかは分からない。
ただ、小さな体を震わせて泣きじゃくる彼女を見た瞬間、私の胸の奥で何かが強く打ち鳴らされた。
『私が、この小さな命を守ってやらねば』
気がつけば、私は彼女の傍に寄り添い、その冷え切った体を自分の体温で温めようとしていた。
結衣は驚いたように顔を上げ、泥だらけの手で私を抱きしめた。
『……一緒に、いてくれるの……?』
震える声で尋ねる彼女に、私は力強く頷いてみせた。
それ以来、私たちは片時も離れることなく、共にこの家で暮らしてきたのだ。
彼女が風邪を引いて寝込んだ夜は、一晩中ベッドの傍に付き添った。
親と衝突し、部屋で一人泣いていた時も、私はただ黙って隣に座り、彼女の涙が枯れるのを待った。
私がいてやることで、彼女が少しでも安心できるのなら、それで十分だった。
「……私も、随分と歳をとったものだ」
日向の温もりにまどろみながら、私は自嘲気味に呟いた。
かつては彼女を背後から守るように、家の中を威風堂々と歩き回っていたものだが。
今は階段の上り下りすら億劫になり、こうして一日中クッションの上で居眠りをするばかり。
結衣は気丈に振る舞っているが、私の衰えに気づいていないはずがない。
最近、彼女が私を見つめる瞳に、ほんの少しの不安と寂しさが混じっているのを、私は見逃していなかった。
私が彼女を残して、先に旅立つ日が近づいている。
それは、どれほど抗おうとも避けられない、命の理だ。
「結衣……お前は、私が手放しても、一人でしっかりと歩いていけるだろうか」
独り言は、静かなリビングの空気に吸い込まれて消えた。
不安がないと言えば嘘になる。
だが、あの泣き虫だった小さな女の子は、今や立派な大人の女性へと成長したのだ。
私に残された時間は、そう長くはないかもしれない。
だからこそ、命の火が尽きるその瞬間まで、私は彼女の良き理解者であり、一番の味方でありたいと願っている。
私は深く息を吐き出し、心地よい日差しの下で、ゆっくりと意識を手放していった。
その日、結衣が帰ってきたのは、すっかり日付が変わる頃だった。
玄関のドアが重々しく開き、足を引きずるような音が廊下に響く。
いつもなら「ただいま」と元気な声が聞こえるはずだが、今夜はひどく静かだった。
私はうたた寝から目を覚まし、彼女の様子を窺った。
リビングのドアを開けた結衣は、電気もつけずにソファへと倒れ込んだ。
手から滑り落ちたカバンが、床に鈍い音を立てる。
暗闇の中で、彼女の肩が小刻みに震えているのが分かった。
「……結衣、どうした。何かあったのか」
私が声をかけても、彼女は顔を上げない。
ただ、押し殺したような嗚咽だけが、静かな部屋に響いていた。
仕事で大きなミスでもしたのだろうか。
それとも、誰かに理不尽な言葉を投げつけられたのか。
詳しい事情は分からないが、彼女がひどく傷ついていることだけは確かだった。
私は痛む足腰に鞭を打ち、ゆっくりと立ち上がった。
普段なら、彼女の方から私のところへ甘えに来るのを待つ。
だが、今日ばかりは私が傍に行ってやらねばならないだろう。
私はソファの前に立ち、よっこらせと気合を入れて、彼女の隣へと這い上がった。
昔ならこんな段差、軽々と飛び乗れたというのに。
情けないほど体が重く、自分の老いを痛感してしまう。
「ほら、そんなに泣くな。せっかくの器量よしが台無しだぞ」
私は彼女の脇腹にピタリと身を寄せ、自分の体温を分け与えるように密着した。
結衣は私の気配に気づくと、ゆっくりと体を起こした。
その顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。
「……ごめんね、起こしちゃったかな」
彼女は掠れた声でそう言うと、私の体をきつく抱きしめた。
「今日ね、どうしても上手くいかなくて……。私ばっかり、なんでこんな目に遭うんだろうって……」
ぽつりぽつりと、彼女は堰を切ったように不満と弱音をこぼし始めた。
私はただ黙って、彼女の言葉に耳を傾けた。
気の利いた慰めの言葉を返してやることはできないが、こうして寄り添うことくらいはできる。
私は彼女の涙を拭うように、自分の顔を彼女の頬にすり寄せた。
自慢のふかふかとしたコートが、彼女の涙を優しく吸い取っていく。
「ありがとう……。あなたがいてくれて、本当に良かった」
結衣は私の胸元に顔を埋め、子供のように声を上げて泣き始めた。
どれくらいそうしていただろうか。
やがて彼女の泣き声は静かな寝息へと変わり、私にしっかりと抱きついたまま眠りに落ちてしまった。
「まったく、世話の焼けるお嬢さんだ。……だが、安心しろ。私がずっと傍にいてやる」
私は彼女が風邪を引かないよう、自分の体でしっかりと温め続けた。
この温もりが、少しでも彼女の心の傷を癒やしてくれることを祈りながら。
しかし、その平穏な日々は、唐突に終わりを告げることになる。
あの夜から数ヶ月が過ぎた、木枯らしの吹く冷たい朝だった。
私はいつものように目を覚ましたものの、体にまったく力が入らなかった。
「……なんだ、これは。どうして立ち上がれないんだ」
手足が鉛のように重く、感覚すらも薄れている。
無理に体を起こそうとすると、激しいめまいが襲ってきた。
異変に気付いた結衣が、慌てた様子で駆け寄ってくる。
「どうしたの!? ねえ、大丈夫!?」
彼女の顔が、みるみるうちに青ざめていく。
私は「心配するな」と伝えたかったが、声すら上手く出すことができなかった。
結衣は震える手でスマートフォンを手に取り、職場へ電話をかけ始めた。
「すみません、今日……いえ、しばらくお休みをいただきたいんです。家族が、倒れてしまって……!」
電話を終えた彼女は、私の傍にへたり込み、ボロボロと涙をこぼした。
その涙を見て、私は悟った。
どうやら私に与えられた時間は、もう残りわずかになってしまったようだ。
あんなに泣き虫だった彼女を置いていくのは、ひどく心残りなのだが。
迫り来る別れの足音は、決して待ってはくれない。
私はただ、結衣の温かい手の感触を確かめるように、静かに目を閉じた。
気がつけば、私の世界からは少しずつ色と音が失われつつあった。
重い瞼をわずかに開けると、結衣の泣き腫らした顔がぼんやりと映る。
彼女はこの数日間、仕事にも行かず、ずっと私の傍についていてくれた。
「……ごめんね、何もしてあげられなくて。ずっと一緒にいるって約束したのに」
結衣の手が、私の痩せ細った体を優しく撫でる。
その手は微かに震えており、ぽたぽたと温かい雫が私の頬に落ちてきた。
泣かないでくれ、愛しいお嬢さん。
お前の笑顔こそが、私にとって一番の報酬だったのだから。
私は必死に声を振り絞ろうとしたが、喉の奥がヒューヒューと鳴るだけだった。
かつては家中に響き渡るような、威厳ある声を出せたというのに。
今はもう、彼女の名前を呼んでやることすら叶わない。
「無理しないで。……ここにいるから、ずっとここにいるからね」
結衣は私の顔に自分の頬をすり寄せ、子供のようにしゃくり上げた。
ああ、本当に世話の焼ける娘だ。
十五年前、冷たい雨の降る公園で出会ったあの日のままだ。
だが、私は知っている。
お前がどれほど強く、優しい女性に成長したかを。
仕事で理不尽な目に遭っても、決して逃げ出さずに立ち向かっていったその背中を。
だから、もう私が守ってやらなくても大丈夫だ。
お前は一人でも、しっかりと自分の足で歩いていける。
私の体から、ゆっくりと熱が引いていくのが分かった。
痛みも苦しみも、不思議と消え去っていく。
ただ、結衣の温かい手のひらの感触だけが、唯一の確かなものとして残っていた。
『泣くのは今日でおしまいにしろ。立派なレディになったのだから、胸を張って生きるんだぞ』
声にならない言葉で、私は彼女に最後のエールを送った。
私の想いが伝わったのか、結衣はふっと顔を上げ、涙まみれの顔で、少しだけ微笑んだ。
「ありがとう、私のおじいちゃん。私の、たった一人の家族」
結衣は私の耳元に顔を寄せ、震える声で、けれどはっきりと言葉を紡いだ。
「……私の大好きなレオ。ずっとずっと、愛してるよ」
ああ、そうだ。私はレオ。
お前がその温かい手で抱き上げ、名付けてくれた、誇り高きお前の相棒だ。
私は残された最後の力を振り絞り、彼女の言葉に応えようとした。
気の利いた別れの挨拶はできない。
だが、今の私にできる、最大の愛情表現を。
喉の奥を鳴らし、ゴロゴロと小さく、しかし確かな音を立てる。
それが私の答えだと伝わったのだろう。
結衣はポロポロと涙をこぼしながら、今日一番の優しい笑顔を見せてくれた。
その美しい笑顔をしっかりと心に焼き付けながら。
私はゆっくりと、静かに目を閉じた。
今日は猫の日だそうです。
記念の短編です。




