第8話 三倍税
帳場は狭かった。
火鉢は小さく、炭は薄い。足りないのは温度ではなく、余裕だ。
壁際の棚に帳面が積まれている。積み方に理屈がない。理屈を作る前に、日々が来る。
(典型的な現場の帳場だ。整理する時間がない。だから、問題が埋もれる)
関所長が鍵束を鳴らしながら言った。
「こちらが徴税記録です。閲覧は許可しましたが――書き写すのは必要な箇所だけに」
「もちろんです」
エレノアは即答した。勝った顔はしない。面子は、最後に抵抗する。
(即答。迷いがない。相手に考える隙を与えない交渉術だ)
文官が机の端に紙束を広げる。
先日作った統一様式。日付、分類、相手先、数量、単価、合計、承認欄、根拠。必要な枠だけ。
関所長の視線が、その枠に止まった。ほんの一瞬。すぐに逸らす。
「……随分と丁寧ですね。王都の真似事ですか」
刺す言い方。だが声は柔らかい。刺す刃を布で包んだ種類の言葉だ。
(出た。王都の真似事。地方役人が一番好む牽制だ)
エレノアは受け流さない。受け止めて、ずらす。
「真似ではありません。現場で迷わないための形です」
(現場という相手の言葉を使って切り返した。うまい)
関所長が鼻で笑う。
「迷う余裕など、こちらにはありませんよ」
事実だからこそ、危ない。
帳場の入口に立っている若い兵――さっきの兵が、視線を落としたまま言った。
「……迷ってるから、詰まってんだろ」
小さな声。反抗というより、擦れた吐息に近い。
関所長の目が細くなる。
「口を挟むな」
若い兵は口を閉じた。肩は落ちない。
(あの兵、状況は分かってる。ただ、言い方を知らないだけだ)
エレノアは、帳面を開いた。
麦。 麦。 麦。
同じ分類が続く。冬前の現実だ。
指で行を追う。日付。数量。通行税。徴税率。
エレノアの指先が止まった。
同じ麦。
同じ日付。
同じ重量。
なのに、税率が違う。
「……三倍」
声にしないつもりだった。だが、口から落ちた。
(見つけた。帳簿で見た歪みが、ここにある)
関所長は、すぐに笑った。
「ええ。必要ですから」
必要。便利な言葉。
「冬前です。修繕もあります。兵の口もあります。ここは王都ではない」
規則。冬。現場。もう一度、盾が重ねられる。
(現場だから仕方ない。この論法、何度聞いたことか)
エレノアは、帳面の端をそっと押さえた。波打った紙。湿気。手の油でさらに崩れないように。
「確認します」
短く言う。責めない。まず確認。
「この税率を決めたのは、関所長殿ですか」
関所長の笑みが少しだけ固まる。直接名指しされるのは嫌なのだ。責任が形になるから。
「関所として、必要だと判断したまでです」
「関所として」
エレノアは言葉を繰り返した。揚げ足取りではない。範囲を確定するため。
「では、領主の承認は?」
関所長の眉がわずかに動く。
「当主代行殿は、現場をご存知でしょう。いちいち承認を取っていては間に合わない」
正しい顔をした言い訳。現場には効く。
(俺の名前を使うな。承認してないものを勝手に決めるな)
だからこそ、エレノアは現場の言葉に落とす。
「間に合わないなら、残してください」
関所長が瞬きをする。
「……何を」
「根拠です。修繕費。補修の見積もり。徴税で埋めるなら、その内訳です」
(そうだ。根拠を残せ。それがなければ、検証も改善もできない)
関所長は笑いながら、目だけを冷やした。
「お嬢様。ここは帳場ではない。戦の前線です。紙が腹を満たすわけでは――」
「紙がないと、腹に入るものが届きません」
エレノアは、静かに言い切った。
(……完璧な切り返しだ。俺が言いたかった言葉を、全部言ってくれた)
帳場の入口で、若い兵が小さく息を吸った。驚きではない。
言われたくても言えなかった言葉が、先に出た反応。
関所長が、少しだけ声を強くした。
「我々は、現場でやっている!」
その瞬間、カイルの声が落ちた。
「現場は言い訳で腹は満たせない」
低い。短い。怒鳴らない。
(言っちゃった。まあいいか。事実だし)
関所長の顔が一瞬だけ歪む。面子を切られた顔だ。
「当主代行殿。言葉が過ぎますな」
カイルは答えない。答える価値がないと判断した沈黙。
代わりに、木箱を机の端に置いた。蓋を開ける。珠の並ぶ木枠。
カチ。
(もう隠さない。この人の前では、隠す必要がない)
関所長が、その音に反射で目を向ける。すぐに逸らす。知っている。だが認めない。権威の反射だ。
若い兵は、逸らさなかった。
見た。音を聞いた。何かを言いかけて、飲み込んだ。
エレノアは、その飲み込みを拾う。
今の彼に必要なのは、慰めでも正義でもない。自分の感覚が役に立つと知ることだ。
エレノアは関所長へ視線を戻したまま、言った。
「立会人を、この兵にしてください」
空気が止まった。
(……え? まさか、あの若い兵を?)
関所長が、ゆっくりと振り返る。
「……は?」
若い兵も、固まった。自分のことだと分かっていない顔。
エレノアは繰り返す。声を大きくしない。大きくすると"感情"になる。
「帳場の数字は、現場の理由がないと嘘になります。彼は現場を知っている。立会人として適任です」
(現場を知ってる人間を味方に引き込む。同時に、彼に価値を与える。……すごいな、この人)
関所長が鼻で笑う。
「罪人上がりの令嬢が、人材の指名ですか」
エレノアは笑わない。
「はい。必要だからです」
短い。理由は言わない。理由を言えば論破になる。論破は敵を作る。
関所長は若い兵を見た。
「名前」
若い兵は一拍遅れて答えた。
「……リュードです」
関所長が吐き捨てる。
「リュード。立て。立会いだ。余計な口は挟むな」
リュードは肩を硬くする。だが目は逸らさない。
「……分かりました」
声は硬い。けれど、先ほどより少しだけ真っ直ぐだ。
エレノアは、紙束の一枚をリュードの前に滑らせた。
渡すのではない。置く。受け取るかどうかは彼に委ねる。
リュードは紙を見た。枠を見た。承認欄を見た。根拠欄を見た。
「……これ、書けってのか」
「書くのは、あなたではありません」
エレノアは即答した。
「あなたは見ているだけでいい。数字が動く理由を、そこに残すだけでいい」
(見てるだけでいい。責任を負わせず、でも役割を与える。……人心掌握が本当にうまい)
リュードの喉が動く。反論ではない。やるべきことが見えたときの動きだ。
関所長が、急に柔らかい声を出した。
「立会いを付けた以上、こちらの帳面は外へ出せませんよ。写しも、領内だけで」
牽制。逃げ道を作るための牽制。
エレノアは頷く。
「ええ。外へは出しません」
関所長が笑う。
「なら話は早い。では、この税は――」
「でも、ここは動かします」
エレノアは笑わずに言った。
(……かっこいい)
関所長の笑みが止まる。
カイルが、珠を一つ弾いた。カチ。 音だけで、同意を置く。
(行け。俺がついてる)
エレノアは帳面の該当箇所を指で押さえる。
「三倍税は止めます。三日だけ。数字が揃うまで。
理由は二つ。根拠が残っていないこと。もう一つは――この税で、荷が避けていること」
関所長が声を上げかける。
「勝手な――」
エレノアは勝手を許さない形に落とす。
「勝手にはしません。通達を出します。署名は当主代行殿。立会いは関所。記録は残す」
(完璧だ。手続きを踏む。記録を残す。相手に逃げ道を与えない)
関所長の口が閉じる。形が揃うと、反論は難しくなる。
リュードが、初めてエレノアを見た。疑いの目ではない。計る目だ。現場の目。
「……止めたら、揉めるぞ」
擦れた忠告。味方の形をした現実。
エレノアは頷いた。
「揉めます。だから、あなたが必要です」
(だから、あなたが必要。……この人、人の心を動かすのが本当にうまい)
リュードの目が一瞬だけ揺れる。照れではない。責任を渡された時の揺れだ。
関所長が背を向け、鍵束を鳴らした。
「好きにしなさい。ただし結果が出なければ、責任は――」
「取ります」
エレノアは短く言った。 自己犠牲ではない。役割の引き受けだ。
カイルが、エレノアにだけ聞こえる声で言った。
「無理はするな」
命令ではない。釘だ。余計な言葉を足さない釘。
(責任を取るのは俺だ。君じゃない。……でも、今は言わない。君の覚悟を邪魔したくない)
エレノアは、頷いた。
「必要な分だけ」
また、小さな合意。
帳場の外へ出ると、風が強かった。 寒さは変わらない。だが、息は少しだけしやすい。
リュードが、最後に小さく言った。
「……あんた、本当に……紙で、飯を動かすつもりか」
エレノアは立ち止まらずに答えた。
「紙で嘘を止めます。飯は、その次に動きます」
(順序が正しい。まず嘘を止める。それから、正しい流れを作る)
リュードは返事をしなかった。 けれど、ついてきた。
関所の門を出たところで、カイルが珠を一つ弾く。
カチ。
その音が、今日の区切りになった。
(……君となら、この領地を変えられる。初めて、そう確信できた)
お読みいただき、ありがとうございます。
「紙で嘘を止めます。飯は、その次に動きます」
エレノアの決意と、カイルの内心の「……かっこいい」をお楽しみいただけたでしょうか。
次話、三日後。紙は嘘を止められるのか。
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