第17話 罠
オスカー・リンデルが辺境に到着したのは、雪の降る朝だった。
馬車は黒く、装飾は控えめだ。
だが、車輪の精度が異様に高い。揺れを最小限に抑える設計。
長時間の移動でも、書類を読み続けられる馬車だ。
エレノアは城門から、その馬車を見ていた。
降りてきた男は、三十代前半。
背は高く、姿勢に無駄がない。眼鏡をかけ、コートの下から覗く袖口にはインクの染み。
だが、指先には剣のタコもある。
「……自分で数字も斬るタイプですね」
エレノアの呟きに、横に立つカイルが短く答えた。
「数字を武器にする男だ」
(いよいよ来たか。王太子の懐刀。……厄介な相手だ)
執務室での対面。
オスカーは無言で一礼すると、まっすぐカイルを見ることなく、部屋全体を見渡した。
「辺境公爵家当主代行、カイル・アルバート殿。
王太子殿下付き特別監察官、オスカー・リンデルです」
言葉は丁寧だが、温度がない。
「遠路、ご苦労」
カイルも、余計な言葉を付けない。
オスカーの視線が、机の上の帳簿に止まった。
「グレゴール・ヴァイス殿の報告書は拝見しました。
辺境での急激な収支改善。……興味深いお仕事です」
褒め言葉。だが、声が笑っていない。
「急激な改善は、往々にして二つに分かれます」
オスカーは帳簿の縁を指先で軽く叩いた。
「本物の改革か。あるいは、巧妙な粉飾か」
(来たな。最初から疑いかかってる)
エレノアは、手元の帳簿に視線を落としたまま、呼吸を整えた。
オスカーは新しい帳簿を開き、まず形式だけを見た。
日付。分類。相手先。数量。単価。合計。承認欄。根拠。
視線が一行をなぞるたびに、指先が小さく動く。
頭の中で、別の帳簿と照合しているような動き。
「美しい帳簿ですね」
柔らかな声。
しかし、その次の一言は冷たかった。
「美しすぎる」
エレノアは顔を上げた。
「美しすぎる、とは?」
「整いすぎています。急激な改善にしては、揺らぎが少ない。
本物の現場には、もっと『乱れ方』があるものです」
(乱れ方、か。確かに、自然な数字には癖がある)
オスカーは、別の帳簿を取り出した。
先代公爵の頃のものだ。
「例えば、こちら。先代の時代の帳簿です」
彼は指で一行を指し示した。
「『教会への寄進』。毎年、相当な額が計上されています。
ですが、当時の教会の改修記録と照合すると……金額が合いません」
エレノアの心臓が、一拍飛んだ。
(盲点だった。先代の時代まで遡って調べていなかった)
オスカーは続けた。
「教会の改修費総額を超える金額が、『寄進』として流れています。
余剰分は、どこへ消えたのでしょうか」
カイルが口を開く。
「それは先代の――」
「先代の判断でも、当主代行として引き継いだ以上、あなたの責任です」
オスカーは冷ややかに遮った。
「もし、この余剰分が私的流用されていたとしたら……
公爵家の資格に関わる問題となります」
脅しではない。
事実の提示。
数字という刃を使った、逃げ場のない詰め。
(やられた。完全に、やられた)
カイルの拳が、机の下で握られる。
オスカーは時計を見た。
「夕刻まで、時間を差し上げます。
それまでに、この金の行方を証明できなければ……」
彼は薄く笑った。
「報告書には、相応の内容を記載することになります」
そして、扉に向かいかけて、立ち止まった。
「ちなみに、私は答えをほぼ把握しております。確認したいだけです」
背筋が凍るような一言。
「証明できるなら、救われるでしょう」
圧倒的な余裕。
既に裏を取っている、という絶対的自信。
扉が閉まる音が、やけに重く響いた。
オスカーが別室へ移った後。
執務室で、エレノアとカイルは向かい合っていた。
時間は残り半日。
数年前の金の流れを、今から追うのは――
「……不可能に近いな」
カイルが壁を見つめて呟いた。
「奴は最初から、この一点を突くつもりだったんだ。
俺たちがまだ整理しきれていない、過去の闇を」
(中央は、いつもそうだ。弱点を見つけて、そこだけを集中攻撃する)
エレノアは黙って考え込んだ。
(教会の改修費。余剰金。消えた金。……本当に消えたのか?)
彼女は、カイルに尋ねた。
「先代公爵は、どのような方でしたか」
「厳格な人だった。不正を許さない。
だからこそ、俺を厳しく育てた」
(不正を許さない人が、私的流用? 矛盾している)
「なら、私的流用はありえません」
エレノアは静かに言った。
「性格と行動は一致します。特に、金銭に関しては」
「だが、数字は合わない」
「数字が合わないなら、前提が間違っているのです」
エレノアは立ち上がった。
「『教会への寄進』という名目が、そもそも実態と違っていたとしたら?」
カイルが目を見開く。
「実態と違う?」
「はい。先代が、別の目的で金を使う必要があった。
でも、それを公にできない理由があった」
エレノアは、記憶の中の地図を広げた。
領内の地図。
教会のある場所。
その周辺にあるもの。
「教会の裏手に、小さな建物があったはずです」
カイルが眉を寄せる。
「……孤児院だ。
古い施設で、公的な支援を受けていない。
だが、確かに子どもたちがいる」
エレノアは息を呑んだ。
「孤児院……かもしれません」
断定しない。
できない。
「ですが、証拠はありません。
もし違っていれば、明日の報告は終わります」
カイルの手が止まる。
そろばんの珠が、一つだけ強く弾かれた。
カチッ。
乾いた音が、部屋に響く。
いつもより強い音。
(賭けだ。外せば、全てが終わる)
その夜。
エレノアは自室で、古い地図を広げていた。
教会の周辺。そこに何があるのか。
ノックの音。
カイルが、そろばんを抱えて入ってきた。
「……一緒に考えよう」
二人は机を挟んで座る。
地図の上に、数字を重ねる。
寄進の金額。時期。頻度。
カチ。カチ。
そろばんの音が、思考を整理する。
「パターンがある」
エレノアが気づいた。
「寄進の時期が、特定の季節に偏っています。
春と秋。種蒔きと収穫の時期」
カイルが珠を弾く。
「農業関連か?」
「可能性があります。でも、教会は農業をしていません」
エレノアは地図の一点を指で押さえた。
「孤児院。そこなら、季節ごとに支援が必要です」
カイルは頷いた。
「筋は通る。だが、数字だけでは証拠にならない」
「はい。明日、現場を見て、記録を確認しなければなりません」
エレノアはペンを置いた。
「オスカーは、『答えをほぼ把握している』と言いました。
もし彼の把握した答えと、私たちの仮説が違っていれば――」
「俺たちが負ける」
カイルは静かに言った。
(そして、負けた瞬間に全てが終わる)
エレノアとカイルの視線が交差する。
確信はない。
あるのは、細い糸のような可能性だけ。
「明日、確認しに行きましょう」
「ああ。だが――間に合わないかもしれない」
その言葉に、エレノアは頷いた。
「はい。間違えれば、終わります」
それでも、二人とも机から離れなかった。
その頃、王都では。
王太子レオンハルトが、オスカーからの中間報告を読んでいた。
『辺境の改革は本物と思われる。ただし、過去に不審な金の流れあり。
明日、決定的な証拠を掴む予定』
レオンハルトは側近に尋ねた。
「証拠が出た場合、どうする」
側近が、オスカーからの追伸を読み上げる。
『公爵家資格剥奪の上、当主代行および関係者の拘束が妥当かと存じます』
拘束。
単なる失脚ではない。
物理的な拘束。政治的な死。
レオンハルトは、報告書を握りしめた。
(エレノア……お前は、本当に清廉なのか?
それとも、俺が見抜けなかっただけで……)
疑念が、胸の奥で渦巻いていた。
認めた瞬間、王太子は弱者になる。
父王の前で。貴族たちの前で。あの聖女めいた少女の前で。
だが、もしエレノアが本当に清廉なら――
俺は、何を捨てたのか。
夜は深い。
明日、証明できなければ終わる。
孤児院が外れだったら、全てが崩れる。
それでも、二人は机に向かい続けた。
カチ、という音だけが、静かに響いていた。
蝋燭の火が、小さく揺れる。
嵐は、もうすぐそこまで来ていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
「私は、答えをほぼ把握しております」というオスカーの余裕と、「孤児院……かもしれません」という不確かな希望。
明日、証明できなければ全てが終わります。
次話では、運命の朝。孤児院での真相発見と、カイルの「瞬間計算」が炸裂します。
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