11話 数字を力に変える
王都からの監査が来る前に、やるべきことがあった。
それは、数字を「力」に変えることだ。
帳簿上の黒字は、まだ紙の上でしかない。
実際に物が動き、人が動いて初めて、本当の基盤になる。
エレノアは応接室で、一人の男と向かい合っていた。
辺境最大の商会会頭、ベルン・クラウス。恰幅の良い体型、高そうな服だが袖口には擦れがある。
現場に出る商人の証拠だった。
ベルンは出された茶に口をつけず、警戒の目でエレノアを見る。
「……急な呼び出しで驚きましたよ、令嬢。
まさか、通行税を戻した件で、追加の寄付でも求められるのですかな」
皮肉な笑み。貴族からの呼び出しは、大抵が「金を出せ」か「無理を通せ」だからだ。
カイルは窓際に立ち、外を見ていた。交渉の席に着かない。
それは無関心ではない。「全権を委ねる」という意思表示だ。
(ベルン。古狸だ。先代の頃から付き合いがあるが、損得にはシビアだ。
俺が話すと『金がない公爵家』のレッテルで信用されない。……頼んだぞ、エレノア)
エレノアは、ベルンの前に一枚の紙を置いた。 寄付の要請書ではない。
発注書だ。
ベルンが眉をひそめ、紙を手に取る。
「……麦、塩、干し肉、革紐、靴底。それに工具まで……? この数量は――」
「冬を越すための備蓄です」
エレノアは即答した。
その横に、もう一枚の紙を置く。王都の相場表だ。
「これが王都での平均価格。塩一樽、麦一袋、干し肉の相場。
それぞれ、あなたの商会が今まで扱ってきた価格帯も調べました」
ベルンの目が見開かれる。
(調べてたのか。……この人、本当に準備を怠らない)
「……随分と、丁寧に」
「商談ですから」
エレノアは微笑まない。事実として提示する。
「お聞きします。王都相場に輸送費を加えた価格で、これだけの量を納入できますか」
ベルンが鼻で笑う。
「できるわけがない。辺境への輸送はリスクが高い。
関所での足止め、役人への心付け、倉庫での横流し――」
「それらは、ありません」
エレノアは遮った。
ベルンの笑いが止まる。
「……は?」
「関所の不当な足止めはない。役人への心付けも不要。倉庫での横流しも止めました。
あなたが負うリスクは、天候だけです」
(不正な中抜きを全部止めた。その分を、正当な代金として払う。……完璧な論理だ)
エレノアは三枚目の紙を置く。
先日確定した、黒字の試算表。
ただし、未来の予測ではない。過去一週間の「実績」だ。
「手数料という名の中抜きを止めた分、こちらの収支が改善しました。
その利益を、あなたへの正当な支払いに回します」
ベルンの顔色が変わった。
「……本気ですか。役人を敵に回して――」
「敵にはしません。正常化するだけです」
エレノアは言い切る。
「現に、関所は正常に動いています。荷の通行量も増えています」
ベルンはカイルを見た。
カイルは窓の外を見たまま、背中で答える。
「彼女の言葉は、俺の言葉だ」と。
(そうだ。俺は全面的に支持する。責任は俺が取る)
ベルンは再び紙を見る。
発注書の末尾。支払い条件。
「即金」。
商人の目が最大に見開かれる。
「……即金?」
「はい。品物が倉庫に入り、検品が終わった時点で、即座に支払います」
ありえない条件だった。
貴族の支払いは「掛け」が基本。半年後、一年後、時には踏み倒される。
だが、即金なら
資金繰りが楽になる。次の仕入れができる。回転率が上がる。
(即金。……これは、商人には抗えない条件だ)
ベルンの指が微かに震えた。 損得勘定の震えだ。
「……その代わり、条件があります」
エレノアは静かに言った。
「価格を、王都相場プラス輸送費実費のみにしてください。
リスク料、手数料、その他の上乗せは認めません」
ベルンが唸る。
「厳しい……輸送のリスクは――」
「先ほど申し上げた通り、リスクは最小化されています。それでも不安なら――」
エレノアは四枚目の紙を出した。
「三回に分けて納入してください。一度に全てを賭ける必要はありません」
(リスクを分散させる提案まで。……この人、商人の心理を完全に理解してる)
ベルンは長い沈黙の後、小さく笑った。
商人の、負けを認めた笑いだ。
「……参りました。いや、完敗ですな」
ベルンは発注書を懐に入れた。
「受けましょう。王都相場プラス輸送費実費。三回分納。即金払い。ただし――」
ベルンが立ち上がる。
「他の商会にも同じ条件を出すなら、事前に教えてください。我々も、商売ですから」
「もちろんです。公平に扱います」
エレノアは頭を下げた。
勝った顔をしない。商人の顔を立てる。
ベルンが扉へ向かう。
去り際、カイルに向かって言った。
「……当主代行殿。良い投資をなさいましたな」
カイルが振り返る。
表情は変えない。だが、目だけが少し細められた。
「投資ではない。必要経費だ」
(いや、投資だ。この人への投資。……一番確実な投資だ)
ベルンは満足げに頷き、部屋を出て行った。
扉が閉まる。
静寂が戻る。
エレノアは、ふぅ、と小さく息を吐いた。
緊張が解ける音。
カイルが近づいてくる。
机の上の、空になった茶器を見る。
「……疲れたか」
カイルの声は優しい。労りの響きがある。
(完璧だった。俺が出る幕なんてなかった。
……いや、俺が出てたら『即金』なんて信じてもらえなかっただろうな)
エレノアは首を横に振った。
「いいえ。心地よい疲れです。……数字が、現実に変わる音がしました」
カイルは、懐からそろばんを取り出した。
カチ、と一つ弾く。
(物が動く。人が動く。金が回る。……この音が、こんなに希望に聞こえるとは)
「……君は、商売の才能もあるんだな」
エレノアは少し驚いた顔をした。
「才能ではありません。計算です。
彼にとって、どちらが得か。それを提示しただけです」
カイルは苦笑した。
(それを才能と言うんだよ。……本人は無自覚か。そこもまた、らしいな)
「合理的だ」
エレノアは微笑んだ。
「あなたに褒められると、自信になります」
カイルの心臓が、トクンと跳ねた。
(……やめろ。その笑顔は反則だ。合理的とか言ってる場合じゃない)
カイルは咳払いをして、窓の方を向いた。
耳が少し赤いことを、エレノアは気づかなかった。
その夜。
辺境の倉庫に、久しぶりに大量の物資が運び込まれた。
荷車の軋む音。塩袋を抱えた兵の腕の震え。
麦、塩、干し肉。革紐、靴底、工具。
領民たちの顔に、少しずつ赤みが戻ってくる。
それは、ただの食事ではない。
「冬を越せる」という、確信の赤みだった。
そして、その噂は風に乗り、やがて王都へと届くことになる。
(……君となら、どんな監査が来ても怖くない)
カイルは窓の外を見ながら、静かにそう思った。
あとがき
お読みいただき、ありがとうございます。 「投資ではない。必要経費だ」というカイルの言葉に、エレノアへの信頼を込めました。 即金条件での大量発注により、辺境の経済基盤がさらに強化されました。
次話では、王都からの最初の反応と、エレノアを守るカイルの姿を描きます。
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