第10話 初の黒字
黒字は、勝利ではない。
ただ「次を選べる」状態に戻るということだ。
執務室の机の上に、ノアがまとめた薄い束が置かれていた。
昨日までの帳簿の山と違い、紙は軽い。軽いのは中身が少ないからではない。
余計な重複が削られているからだ。
(ようやく、「数えられる量」になった。これなら、俺一人じゃなくても回せる)
エレノアは一枚目をめくった。
日付。分類。相手先。数量。単価。合計。承認欄。根拠。
作った枠が、そのまま形になっている。
(枠が生きている。机上の理屈じゃない。現場が使って、初めて仕組みになる)
ノアが言う。
「……通行税を通常に戻してから、南経由の荷が二本増えました。一本は麦。もう一本は塩です」
塩。冬に必要なものだ。保存のため。兵のため。領民のため。
(塩が動いた。これはでかい。冬の死亡率が、目に見えて変わる)
リュードが壁際で腕を組んだまま、鼻で息を吐いた。
「二本で何が変わる。……って言いてえところだが、変わった」
擦れた声。けれど、否定ではない。現場の言葉としての「認めた」だ。
(そうだ。二本で流れが変わる。兵がそれを言ってくれるのが一番嬉しい)
エレノアは数字の欄を指でなぞり、次の紙へ移る。倉庫。湿気。袋の水分。破損率。
「倉庫の乾燥は?」
ノアが即答する。
「風の通り道を確保しました。
床板の隙間を広げ、濡れた袋を先に出す順番に変えています。破損率は、半分になりました」
半分。派手な奇跡ではない。けれど、冬を越すには充分な差だ。
(やっぱりノアは有能だ。最初から経路しか見てなかった男だもんな。
俺が一人で計算していた時は、誰も動かなかった。でも、この人は届かせた)
カイルが窓際で、そろばんの珠を一つだけ弾いた。
カチ。
いつもの計算の音ではなく、区切りの音。
「続けろ」
それだけで、部屋の速度が揃う。
(今は計算じゃない。区切りだ。ここまで来たという印)
エレノアは、文官たちの表情を見る。
昨日までの「言われたことをこなす顔」ではない。今は「明日を考える顔」になっている。
これが黒字の意味だ、とエレノアは思った。
数字が増えたからではない。息ができるようになるからだ。
「支出の方は?」
ノアが紙を一枚差し出す。兵站の欄に、赤い印が二つだけ付いていた。
「無駄が二つありました。ひとつは運搬の重複。もうひとつは、南関所の手数料の名目」
手数料。便利な箱だ。
(やっぱりな。手数料という名の中抜きだ)
リュードが小さく舌打ちをする。怒りの舌打ちではない。 悔しさだ。
自分の場所で起きていたのに、止められなかった悔しさ。
(責めたくはない。あの状況で、全部を止められるやつなんていない)
エレノアはそこで、言葉を柔らかくする。
現場に必要なのは断罪ではない。
「あなたのせいではありません。仕組みのせいです」
リュードが黙った。黙り方が、昨日と違う。逃げる黙りではない。受け取る黙りだ。
(仕組みのせい。……本当に、そう言ってくれる人は少ない)
カイルが言った。
「で、黒字か」
エレノアは頷く。
「はい。小さいですが、黒字です」
その瞬間、文官の一人が息を吐いた。涙ではない。呼吸だ。呼吸が戻った音。
(……ようやくだ。ようやく、この領地が息を吹き返した)
エレノアは、黒字の紙を指先で揃えた。紙の端が揃うのは、世界が少しだけ揃った証拠だ。
「次は、この黒字を備えに変えます。炭と塩を先に確保。兵の靴と革紐の補修を優先します」
リュードが、反射で自分の手袋を見る。擦り切れた片方。誰にも言わなかった不足。 言わなくても、見られていた。
「……それ、ほんとか」
疑いの形をした希望。
エレノアは頷いた。
「はい。優先順位に入れます。根拠は――あなたの指先です」
(よく見てる。本当に、よく見てる。俺だって気づいてやれなかった。すまん、リュード)
リュードは笑いかけて、やめた。笑うと裏切られる気がする人の笑い方だった。
その時、扉がノックされた。いつもより強いノック。
伝令の兵が入ってくる。息が上がっている。急ぎの距離を走った息だ。
「当主代行殿。王都より、報が」
カイルは視線だけで続きを促す。
「……辺境の収支が改善したと。通行税を止めた件も含め、監察局が確認に動くそうです」
文官たちの顔色が変わる。
黒字が出た瞬間に、中央は動く。
それは当然のことだった。
(来たか。予想より早い。さすが嗅覚だけはいい連中だ。……でも、もう怖くない)
エレノアは、驚かなかった。むしろ自然だ。
カイルが、そろばんを閉じた。木箱の蓋が静かに鳴る。
(隠すか、見せるか。選ぶなら――もう隠さない。この人がいるから、隠さなくていい)
そして言った。
「来るなら、来い」
短い。だが、隠す癖のある人間が"隠さない"と決めた声だった。
エレノアは、黒字の紙束を取り上げるのではなく、机の上に置いたままにした。
見せるためだ。守るためではない。
「監査が来ても、やることは同じです」
文官が怯えた声で言う。
「で、でも……王都の監察官が来たら……」
エレノアは答える前に、リュードを見た。
現場の目。擦れているが、逃げない目。
「来たら、見せます。形にした記録を」
(そうだ。俺たちがやったのはごまかしじゃない。整理だ。正面から、数字で戦える)
カイルが一拍置いて言った。
「君は、合理的だ」
(合理的。……好きだ。この言葉を、こんなに誇らしく言える日が来るとはな)
エレノアは頷いた。
「あなたが合理的だから、こちらも合理で戦えます」
(ずるいな、その言い方。……君がいなければ、俺は一人で抱え込んで潰れていた)
小さな信頼の交換。
言葉は短い。けれど、互いの基準を渡し合っている。
その夜。
兵舎で、久しぶりに湯気が立った。
薄い粥に塩が入り、硬いパンが「食べられるもの」になった。
誰かが小さく笑って、すぐに真面目な顔に戻る。
笑うと、明日が怖くなる。
エレノアはその笑いを、窓越しに聞いた。
数字より先に、これを守りたいと思った。
カイルも、同じ窓を見ていた。
(これを守る。この笑いを、この領地を。……君と一緒に)
黒字は、勝利ではない。 けれど――守る理由には、十分だった
お読みいただき、ありがとうございます。 小さな黒字が出た瞬間、王都が動き出しました。 「来るなら、来い」というカイルの覚悟と、二人の静かな信頼をお楽しみいただけたでしょうか。
次話では、王都からの監察官が到着します。最初の「ざまぁ」が始まります。
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