トーキヨー・タイフーン 日本バンタム&フェザー級王者 玄 海男(1917-?)
玄は小柄だったがなかなかの色男で、童顔ながらエキゾチックな容貌に育ちの良さが感じられた。ところが実際は、本場アメリカでは玄ほどももてはやされることがなかった徐廷権の方がセレブ家系の出身で、玄は労働者階級出身というところが面白い。
一九三八年九月二十三日、サンディエゴ・コロシアムのリングは真夏のような熱気に包まれていた。
主導権が目まぐるしく入れ変わり、選手も観客も息をつく暇もないこの試合、九ラウンドには目尻と口元から血を滴らせたアリズメンディが物凄い形相で左右のパンチを振り回しながら、ロープ伝いに逃げる玄を追いまわし、劣勢を挽回したかに見えたが、最終十ラウンドは玄のスピーディーなジャブと左ストレートが、果敢に攻め込むアリズメンディを的確に捉え、大事なラウンドを制した。
玄は勝利を確信していた。この試合に勝てば、偶然絶後のフェザー、ライト、ウエルターの同時三冠王、ヘンリー・アームストロングへの挑戦が限りなく現実味を帯びてくるのだ。
というのも、ベビー・アリズメンディは一九三四年から二年間ニューヨーク州公認の世界フェザー級チャンピオンに君臨していた同時代屈指の強豪で、元世界チャンピオンのフレディ・ミラーやトミー・ポール、後に世界王座に就くチャルキー・ライトにも勝っていることから、タイトルに最も近い男と言われて
いたからだ。
しかし何といってもパウンド・フォー・パウンド最強を謳われる現チャンピオンのアームストロングと五分(二勝二敗)に渡り合っている唯一のボクサーという実績が光る。
玄との試合当時、世界フェザー級一位だったアリズメンディは、ハリウッドスターの中にもファンが多い人気者の玄に勝つことで、アームストロングとの世界戦への支持を集める腹積もりだったが、逆にここで番狂わせが起これば、アームストロングが相当数の観客動員を期待できる玄を次期挑戦者に選ぶ可能性も十分あった。
しかし、ジャッジは非情だった。勝者アリズメンディがコールされると、観客席からは大ブーイングが巻き起こった。
メキシコ出身のアリズメンディにとって、メキシコ系の住民が多いサンディエゴがホームタウンに等しい。したがって試合内容が際どい場合は、地元贔屓の判定(「ホームタウン・デシジョン」が下りがちである。
ところがこの試合は、地元新聞までが玄の勝ちとしているように、アリズメンディの突進力より、それを巧くいなした玄の技巧を評価する声が高かったのだ。
この試合の判定は後にコミッショナーの調査により不当と見なされ、レフェリーは出場停止処分を受けているが、後の祭りだった。
勝者アリズメンディは、四ヶ月後にアームストロングとの世界戦に挑み、完敗している、
日中戦争が泥沼化の様相を呈し始めた中、アメリカにおける日系人排斥の気運は日増しに高まってゆき、韓国出身とはいえ国際社会では日本人扱いされていた玄も、民族的偏見による不当判定に泣くことも少なくなかったが、洗練されたリングマナーとクリーンなファイトぶりに好感を持つ大勢のファンは、親しみと敬意を込めて「ジェントルマン・ゲン」と呼び、その人気が翳りを見せることはな
かった。
玄家は済州島で海運業を営んでおり、貧乏とは無縁の生活を送っていたが、韓国籍のプロボクサー徐廷権の活躍ぶり(当時はトップアマだった)を知ると、自分も東京のリングに立ちたいという想いが募り始め、十一歳の時に密航を決行した。
日本上陸後は同胞の助けを求めて大阪に行き、市立小学校を卒業してから上京して徐のいる帝拳の門をくぐった。
昭和九年八月に十六歳でデビューすると、十一年一月五日には大津正一を破り、十八歳で全日本バンタム級の王座に就いた。
徐譲りのスピードのあるきびきびとしたファイトぶりに将来性を感じた帝拳は、トップ選手の花田陽一郎らとともに玄をマニラ遠征に送ったところ、一勝二敗と戦績は振るわなかったものの、フィリピンの軽量級ではトップクラスのスター・フリスコに勝ったことで、現地でも人気者になった。
昭和十二年三月には全日本フェザー級タイトルも手に入れ、十九歳で二冠となった。
スーパースター堀口恒男の東洋タイトルへの挑戦(同年七月二十六日)は失敗(十二ラウンド判定負け)に終わったが、この年に堀口の連勝記録にピリオドを打ったジョー・イーグル(フィリピン)には二勝一引分と負け知らずだったことは大きな自信となり、徐が成しえなかった世界タイトル挑戦を夢みてアメリカ遠征へと旅立った。
昭和十二年九月、ロサンジェルスに上陸早々に、徐廷権を破ったパブロ・ダノ(フィリピン)との二連戦を行い、一勝一敗と五分だったが、そのスマートなボクシングに注目したジェス・コルラスとマネージメント契約を結んだことが、玄の人生に華々しい日々をもたらすきっかけとなる。
コルラスは腕利きだったため、著名選手との数々のビッグマッチをお膳立てしてくれたが、商売っ気が旺盛なせいか、玄が肝を冷やすようなこともあった。その代表的なものが、十一月二日にロスで行われた中国系メキシコ人、ア・マ・チューとの試合である。
日本と中国が交戦状態にある中で、日本人と中国系の選手が試合をするとなると否が応でも注目を浴びる。しかも、当時のアメリカはルーズベルト大統領が蒋介石を支援する意向を示していただけに、日系人を除くアメリカ人はチューを応援していたといっても過言ではない。
そういう不穏な空気の中で、玄がチューに勝ってしまったら暴動が起こるかもしれない。かといって排日と差別に苦しみながら応援してくれる日系人のためには絶対に負けるわけにはゆかない。
悲壮な覚悟を持って臨んだこの試合、玄は四ラウンドにチューからダウンを奪う完勝で日本人の意地を見せた。
恐れていた暴動も、この時のリングはリングそのものが昇降機になっていたため、試合終了直後にリング上の玄がそのまま地下に消えたおかげで回避できた。
玄は中国での日本軍の快進撃さながらにチューを打ちのめしたが、憎まれ役になるどころか、クリンチや反則を一切使わないクリーンファイトと少年のような童顔がうけて、メインエベンターとして引く手あまたとなった。
当時のハリウッド俳優は男優も女優も総じてボクシング好きで、試合会場には年間予約の席を取るのが通例だった。上客揃いだけに、興行主も人気カードを組む必要性に迫られ、玄は次々と世界ランカーにぶつけられた。リッチー・フォンティン、トニー・チャベスには敗れたが、ジョニー・ブラウンとは引き分け、ニック・ピーターには勝利しているように、アウェイのハンデを背負いながら、本場の人気選手とも毎回好勝負を演じる玄は、戦績以上に専門家筋からの評価が高かった。
特筆すべきは在郷軍人会が主催するハリウッド・リージョンのリングにも玄は六度も上がっていることだ。ここではランキングよりも客を呼べるボクシングができることが優先されるため、「トーキョー・タイフーン」と称されるスピーディーでアグレッシブな玄のボクシングスタイルはまさにうってつけだった。
特に注目されたのは、美しいフットワークで、これは日本で学んだ剣道と柔道の足さばきが基本となっている。帝拳では、体幹を鍛えるために武道の訓練も取り入れており、玄は武道の鋭い踏み込みがボクシングにも有用であることを自ら証明するかたちとなった。
アリズメンディとの激闘を演じた昭和十三年は玄にとって最も輝かしい時代だったのかもしれない。
ハリウッドスターがリングサイドにずらりと陣取った中での試合は、毎回とてつもない緊張感に襲われる反面、これほどの面子に注目されているという優越感もまた日本では決して味わえないものだった。
ロナルド・コールマンやジョージ・ラフト、ジョニー・ワイズミュラー夫人は特に熱烈な玄のファンで、一介の日本人ボクサーには無縁のように思われた世界的なスターが自分のためだけに送ってくれる声援が玄のエネルギーとなった。
当時の日本映画界の大スター鈴木伝明も、玄を弟のように可愛がっており、しばしばロサンジェルスまで応援にきてくれた。
試合が終われば、取り巻き連中とクラブに出かける日々。ハリウッドの社交界でもその名を知らぬ人がいないと言われた玄の周囲には、艶やかなロマンスの華も咲きほこり、戦争という名の暗雲がたちこめる日本とは別世界だった。
アリズメンディに敗れたことで一度は遠のいた世界挑戦も、コミッショナーにより不当判定が確認された後、ニューヨーク州公認世界フェザー級チャンピオン、ジョーイ・アーチボルドへの挑戦が内定したが、アーチボルトの怪我で試合が延期となったため、滞在ビザの期限が切れ、帰国を余儀なくされてしまった。(当時のアメリカ滞在ビザは二年更新だった)
アームストロングは雲の上の存在としても、アーチボルトは二流チャンプに過ぎなかったため、玄にも十分勝機があったと思われる。
昭和十四年三月に帰国した玄は、アメリカでの激戦で煩った眼疾治療にかかる予定だったが、その前に横浜港での凱旋セレモニーで、勢いにまかせて今の自分なら絶対に堀口に勝てると宣言してしまった。
渡米前の玄は堀口に敗れているが、アメリカではライト級の世界ランカーも下し、世界戦まで内定していただけに、東洋圏でこそ六十一勝一敗(四十三KO)五引分とほぼ無敵状態の堀口といえども、今回ばかりは苦戦が予想された。
全く勝敗の行方が分らないドリームファイトは、リングサイドが六円六十銭(新兵の月給に相当する)というかつてない高額だったにもかかわらず、あっという間に売り切れたほどの人気ぶりで、五月二十九日の両国国技館には一万五千人の大観衆が押し寄せた。
初回から全開で飛ばす堀口を玄がジャブとフットワークでさばきながらストレートを狙い打ちするという展開が続いた。ハードスケジュールが続き体調を崩していた堀口と入院治療が必要と言われていた玄はともにベストコンディションではないにもかかわらず、素晴らしい打撃戦を展開し、十二ラウンド終了のゴングまでファンの目を釘付けにした。
ゴングが鳴った後も、ファンも選手もどちらが勝ったかわからなかったこの試合、判定は二対一のスプリットで玄にあがったが、日本のボクシング史において、古今最高の技術戦として後年まで語り継がれる名勝負となった。
これがデビューから七年、堀口が初めて日本人に敗北を喫した瞬間だった。
厳密に言えば玄は日本占領下の朝鮮人であり、その後堀口に土をつけた朴竜辰、金剛巌、海童猛も朝鮮出身者だった。したがって堀口が生粋の日本人に敗北するのは昭和二十一年の青木敏郎まで待たなくてはならなかった。
一方、激闘を制した玄の代償も大きく、試合直後右目眼球の摘出手術を受け、その華麗なテクニックを再びファンの前で披露することは叶わなかった。
この試合の結果は、堀口神話に亀裂を生じさせただけに留まらず、さらなる波紋を呼んだ。
当時の娯楽イベントの興行権は反社会的組織が握っているのが通例で、堀口の所属する不二拳も例に漏れず、神戸山口組が支援団体として背後についていた。
おそらくこのスーパーファイトも闇賭博の対象になっており、玄の勝利によって、山口組がそれなりの損害を被ったのだろう。山口組は審判団を軟禁して恫喝するなどの荒療治で判定を覆そうとやっきになっ
たが、一度下した判定は覆らないのが業界の常識である。
山口組のルールを無視した暴挙は同業者の反感を買い、審判を恫喝した山口組の食客が刺殺されるという事態にまで発展した。
最終的には堀口が『拳闘ガゼット』誌上で、玄の勝利を称えるべきである、という旨のコメントを発表したことで事態は収束を見たが、それほど堀口が敗れるということは大事件だったのだ。
全盛の堀口を破った玄の株は急上昇したが、事実上のボクサー生命も終わったため、堀口を封じた本場仕込みのテクニックの継承者が現れなかったことは、日本ボクシング界にとっても痛手だった。
ライバルが不在のまま再び堀口の快進撃は続き、戦後の白井義男の台頭まで、堀口スタイルの攻撃一辺倒のボクシングがわが国の主流であり続けたからである。
昭和十五年一月七日、眼球摘出後最初の試合で玄は再び堀口と対戦するが、もはや堀口の敵ではなかった。
玄は昭和十六年を最後に長らく公式戦のリングからは遠ざかるが、戦後の二十一年六月には往年の人気ボクサー、ジョー・イーグルとのエキジビションでリングに戻ってきた。
戦後間もない物騒な時代、玄は銀座あたりでは相当暴れていたらしく、トレーニング代わりのストリートファイトのおかげで、ブランクがあってもエキジビションくらいはこなせたのだろう。
当時の銀座界隈は新興ヤクザが勢力圏争いを繰り返していたことを考えると、ジェントルマン・ゲンの異名を取った彼のこと、一般庶民に迷惑をかけるやっかいな連中を片っ端からのしていったのかもしれない。
戦後の玄は流暢な英語を生かして進駐軍の通訳を務めていた関係で、将校たちとも親しくしていたので、エキジビションはアメリカ時代の玄を知る米軍関係者あたりの依頼に応じた可能性もある。
六月から九月にかけて三度のエキジビションをこなしているが、そのうち七月十四日のジョー・イーグル戦は正式な八回戦であり、これが最後の公式戦となった(結果は引き分け)。
それから三年後の昭和二十四年、いまだ知名度抜群の玄は現役の堀口恒男とのエキジビションで再びファンの前に姿を見せたが、正真正銘これが最後のリングとなった。
西海岸でもハワイでも女性にはモテモテだった玄には、日本にもパトロンがいて、昭和二十六年に鎌倉に移住し、扇ヶ谷にボクシングジムを開設する際にも支援を受けている。
玄はプロ、アマ問わずに熱心に直接指導に当り、平成元年に土地の利権がらみのトラブルでジムを解体されるまで多忙な日々を過ごしていたが、その後体調を崩し、地元の人々の前からも姿を消した。すでに亡くなっているが、没年も墓所も不明のままである。
生涯戦績 二十二勝十九敗(二KO)十一分
玄海男は音読みでゲン・カイナンと読みがちだが、ゲン・ウミオと発音する。玄界灘を越えて来日したことから、玄界と玄海を混同してしまいがちで、私も最初はゲン・カイナンだと思っていた。




