九話 祈りのない朝 (完)
朝の光が、回廊に細く差し込んでいた。
祈りの鐘は鳴らない。
代わりに、遠くで扉が閉まる音がする。
エレノアは、窓辺で立ち止まった。
もう、今日が何の日かを考える必要はない。
「……神官様」
呼ぶと、少し離れたところでマティアスが足を止める。
振り向くまでに、ほんの一拍。
エレノアは、小さく息を吸う。
「……マティアス」
名を呼ぶのは、これが初めてだった。
彼は一瞬だけ目を伏せ、
それから、静かに応える。
「エレノア」
それだけで、十分だった。
彼は今も祈らない。
聖句を唱えず、神の名を借りない。
それでも、毎朝ここにいる。
エレノアは、まだ完全には慣れていない。
守られることにも、選ばれることにも。
だから、ときどき立ち止まる。
「私……ちゃんと、生きていますか?」
問いは、弱さだった。
けれど、逃げではない。
マティアスは否定しない。
肯定もしない。
「あなたは、ここにいます」
マティアスがエレノアに手を差し伸べる。
エレノアは迷わずその手を取った。
小さく息を吐く。
今度は、迷わない。
彼は当然のようにエレノアの手を取る。
世界の正しさではなく、
彼自身の選択として。
そのまま、手は離れなかった。
強く握られることも、引き寄せられることもない。
けれど、指先が絡められ、
逃げ道だけが、静かに塞がれる。
エレノアは、思う。
――私はもう、終わりのために生きていない。
それだけで、十分だった。
祈りのない朝は、静かで、
少しだけ、温かい。
――世界は救われなかったかもしれない。
それでも。
彼女は、生きている。
二人は寄り添った。
彼に選ばれ、
そして、自分で選び続けながら。
エレノアは、二度目の生を生きている。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。




