八話 手を取る理由
エレノアは、立ち止まっていた。
広場の喧騒はもう遠い。
誰も彼女を引き留めず、追い立てもせず、
ただ道だけが残されている。
選ばれなかったのに。
救われたのに。
――生きている。
それが、いちばん重かった。
足を進めれば、戻れない。
止まれば、何も変わらない。
世界は、もう彼女に答えを与えない。
エレノアは、視線を上げる。
少し離れた場所に、マティアスが立っていた。
祈りの姿勢でもなく、儀式の場でもない。
ただ、そこにいる。
彼は呼ばない。
近づいてもこない。
それが、彼の選択だった。
――行くのは、私。
そう思った瞬間、
足元がわずかに揺らいだ。
怖い。
今さら。
断罪よりも、
救いよりも。
「……神官様」
声は、思ったより小さかった。
彼は顔を上げる。
驚きも、焦りもない。
ただ、視線が合う。
エレノアは、一歩踏み出す。
次の一歩が、出ない。
指先が震えた。
この先にあるのが、
守られる場所なのか、
縛られる場所なのか、
分からない。
それでも。
エレノアは、手を伸ばした。
掴んでほしい、とは思わない。
導いてほしい、とも違う。
ただ――
拒まれないことを、確かめたかった。
マティアスは、少しだけ遅れて、動いた。
伸ばされた手を、見る。
その迷いを、見逃さない。
そして。
何も言わずに、受け止める。
包むでもなく、引き寄せるでもなく。
逃がさない位置で。
その手は、温かかった。
一度、失われたはずの重み。
エレノアの喉が、かすかに鳴る。
「……私」
言葉は、続かなかった。
マティアスは、初めて、低く言った。
「私が選んだのは、あなたです」
救う、とも
愛している、とも言わない。
ただ、事実として。
エレノアは、目を閉じる。
まだ、怖い。
まだ、迷っている。
それでも。
その手を、離せなかった。
彼女は、選ばれてしまった。
世界ではなく、
神でもなく。
――自分が。
王太子は、広場を見渡していた。
断罪は成立しなかった。
聖女は沈黙し、民衆は熱を失い、
それでも秩序は――崩れていない。
だから、間違ってはいない。
彼は、そう理解している。
判断は正しい。
手順も、理由も、何一つ変えていない。
なのに。
視線の先で、人々が彼を見ていなかった。
歓声は上がらない。
怒号もない。
ただ、関心がない。
王太子は、初めて気づく。
神が沈黙したのではない。
民が離れたのでもない。
――正しさが、誰も導かなくなったのだ。
ふと、神官の席を見る。
そこは空いたまま。
かつて、世界を保証していた沈黙は、
もう彼の側にはなかった。
王太子は、文書を握りしめる。
それでも、自分は王族だ。
正しさを選び続けるしかない。
――ただ。
その正しさを、
信じてくれる者がいないことを除けば。




