五話 聖女は、祈れなかった
「私、聖女なんですよね。……頑張らなきゃ」
ミアは、ぎゅっと拳を握った。
深呼吸。
悪い女の人を裁くだけ。
だって、そう言われたのだ。
あなたは選ばれた、って。
「……あなたは、聖女ですからね」
神官の声は、淡々としていた。
否定でも、励ましでもない。
事実をそのまま並べただけの言葉。
ミアは、ほっとするような、少し物足りないような気持ちで頷く。
「はい。……ですよね」
神官の視線は、彼女を越えていた。
祈りの場の奥。
本来なら、神がいるはずの場所。
――なのに。
彼は、そこを見ていなかった。
そのことに気づいた瞬間、
胸の奥が、ひやりと冷える。
え……?
理由は分からない。
ただ、いつもなら感じるはずの「安心」が、そこにない。
「……あの」
ミアは、思わず声を出しかけた。
この世界に来てから、
分からないことだらけで、
そのたびに、神官が説明してくれた。
だから今回も、
きっと、何か言ってくれると思ったのだ。
「私、この世界に来たばかりで……だから」
途中まで、言いかけて。
ミアは、自分の手が前に伸びていることに気づき、
慌てて引っ込めた。
甘えるみたいに。
頼るみたいに。
でも――違う。
……今じゃ、ない。
神官は、こちらを見ていなかった。
淡々と、もう終わったもののように、
祈りの儀式に使っていた聖物を片付けている。
その背中は、
忙しそうでも、冷たいわけでもないのに。
近づけない。
「あの……」
今度は、ちゃんと声が出た。
神官が振り向く。
視線が合う。
けれど、そこには「答え」がなかった。
ミアは、咄嗟に笑ってみせる。
「なんでも……ありません」
そう言ってしまった自分に、
少しだけ、胸が痛んだ。
……あれ?
助けてほしかったのか。
導いてほしかったのか。
分からない。
ただ、ひとつだけ分かった。
今日は、
この人に頼ってはいけない日だ。
その理由は、わからない。
それでも。
王城の広間には、すでに人が集められている。
貴族、神官補、近衛。
断罪の場に立ち会うには十分な数だった。
足りないのは、一人だけ。
「……マティアスは?」
王太子の問いに、誰も即答しない。
沈黙が、わずかに長引く。
その間に、
扉の外から、控えめな足音が近づいてくる。
「エレノア・ヴァルディス様を、お連れしました」
告げる声は事務的だった。
確認でも、配慮でもない。
広間の扉が開く。
エレノアは、ひとりで入ってきた。
侍女も、付き添いもいない。
与えられた指示はただひとつ。
呼ばれたから、来た。
彼女は中央まで進み、立ち止まる。
視線を上げない。
だが、伏せもしない。
——ここが、終わりの場所だ。
そう理解している立ち方だった。
王太子は、その姿を一度だけ見て、
すぐに文書へ視線を落とす。
感情を挟む余地はない。
「では、始めよう」
王太子は、玉座の一段下に立っている。
本来なら、神官が前に出る。
罪状を読み上げ、神の意思を確認し、断罪の正当性を整える。
だが、その位置は空いている。
王太子は一度だけ、視線をそちらに向けた。
何もない空間を確かめるように。
——いない。
それだけで、眉をひそめることはなかった。
遅延ではない。
欠席でもない。
想定外ではあるが、支障ではない。
彼は手にした文書へ目を落とす。
形式に従い、整えられた文字列。
感情を挟む余地のない、事実の羅列。
「では、始めよう」
短く告げると、広間の空気が引き締まる。
王太子は、名を呼ばない。
代わりに、罪を先に置いた。
「王国に害を及ぼす疑念」
「聖女選定への不当な干渉」
「信仰秩序の攪乱」
読み上げる声は、静かだった。
強さも、怒りもない。
——裁く声ではない。
処理する声だった。
エレノアは、その場に立ったまま動かない。
自分の名が出ないことに、違和感は覚えた。
けれど、恐怖はなかった。
……ああ。
これは、流れを変えないための順序だ。
名を呼ぶ前に、
彼女を「役割」に落とす。
「以上の点を踏まえ」
王太子は、ようやく視線を上げる。
「エレノア・ヴァルディス」
呼ばれた名は、静かに落ちた。
それだけで、
彼女が“個人”である時間は終わる。
「弁明の機会は与えられている」
形式的な言葉。
だが、待っている空気ではない。
——答えは、もう決まっている。
エレノアは一歩も引かず、
ただ、静かに頭を下げた。
その所作が、広間に小さな波紋を落とす。
感情を示さない。
抵抗もしない。
王太子は、それを正しいと判断する。
だから、続けようとした。
——そのとき。
広間の奥で、誰かが息を呑む音がした。
それは反論ではない。
異議でもない。
「何かが足りない」と気づいた音だった。
王太子は、初めて言葉を止める。
神官がいない。
その事実が、
今になって、わずかに重さを持ち始める。
広間の空気は、整いすぎていた。
儀式に必要な者は揃っている。
王太子、神官補、聖女、近衛、貴族たち。
誰もが、定められた位置に立っている。
――ただひとつを除いて。
神官の席だけが、空いていた。
それを指摘する者はいない。
不在を咎める声も、確認もない。
まるで最初から、
そこに誰もいなかったかのように。
王太子は文書に目を落とし、淡々と読み上げる。
罪状は簡潔で、感情を挟む余地はない。
秩序として整えられた言葉だった。
ミアは、その横で立ち尽くす。
本来なら、
ここで神官が祈りを導くはずだった。
裁きが、神の意思であると示されるはずだった。
――なのに。
誰も、その役割を担おうとしない。
それでも儀式は進んでいく。
神が語られないまま、
断罪だけが形を取ろうとしていた。
……婚約者、だったんだよね?
ふと、どうでもいいことが浮かぶ。
でも、それはどうでもよくなかった。
だって王太子は、
まるで書類を処理しているみたいだったから。
怒っていない。
失望もしていない。
裏切られた顔でもない。
ただ、決めていたことを、予定通りに進めている。
それが、いちばん怖かった。
「――以上をもって、断罪に足ると判断する」
ミアの背中に、冷たいものが走った。
……ねえ。
私、何を信じればいいの?
そう問いかけそうになって、
ミアは唇を噛む。
今は、だめだ。
ここは、
答えをもらえる場所じゃない。
王太子の声が、再び響く。
その音が、
なぜか少しだけ、遠くに感じられた。




