二話 彼は、終わりを覚えている
目を覚ましたとき、空はまだ暗かった。
祈りの時刻だ、と身体が先に思い出す。
マティアスは静かに起き上がり、寝台の脇に置かれた聖印に手を伸ばした。
冷たい金属の感触。
それは昨日と同じはずなのに、どこか違っていた。
指先に感じるはずの、熱がない。
――いや。
正確には、失ったものを、彼は覚えていた。
祈る言葉を選ぼうとして、息を吸う。
けれど、続くはずの聖句が浮かばない。
言葉が欠けているのではない。
ただ、必要だと感じられなかった。
不思議と、焦りはなかった。
神が遠いとも、消えたとも、思わない。
ただ――
世界が、少し静かすぎる。
彼は聖印を握ったまま、目を閉じるのをやめた。
祈りたくないわけではない。
祈る理由が、見つからなかっただけだ。
それでも、胸の奥には確かな記憶がある。
あの手の温度。
失われた重み。
マティアスは立ち上がる。
今日、あの儀式が行われる。
――だが。
彼は、何も語らないと、静かに決めていた。
王城の広間は、朝の光をまだ抱いていた。
磨かれた床に、列をなす影。
貴族たちの衣擦れと、低く抑えられた囁きが、空間を均一に満たしている。
1度目と同じ人間が、必要な位置に立つ。
神官の席も、そこにあった。
マティアスは定められた位置に立ち、視線を伏せている。
誰も、彼が何を考えているかを気に留めない。
神官とは、そういう存在だった。
やがて、王太子が一歩前に出る。
声はよく通り、感情の起伏を含まない。
決定事項を告げるための、正しい声だった。
「本日、王族の判断として告げる」
広間が静まる。
誰もが、その続きを待っている。
「エレノア・ヴァルディスを、王太子妃候補として選定する」
一拍。
それは祝福ではなく、確認に近かった。
「彼女は冷静で、聡明だ。
王族の判断を理解し、感情に流されず、
与えられた役割を最後まで果たす資質を持つ」
理由は、十分だった。
異論を挟む余地もない。
「――以上の点から、彼女を選ぶ」
言葉が終わる。
それだけで、決定は成立する。
視線が、自然と神官へ向けられた。
マティアスは、顔を上げない。
肯定も、否定も、付け加えない。
一度目と同じように。
しかし、一度目とは違って。
沈黙が、広間を覆う。
それは承認だった。
神の名を借りないまま、確かに通された。
王太子はそれを当然のように受け取り、次の議題へと進もうとする。
誰も、気づかない。
その沈黙が、
祈りではないことを。
誰も知らないまま、会議は解散した。
貴族たちは、それぞれの役割へ散っていく。
王太子は次の判断を胸にしまい、神官たちは聖堂へ戻る。
マティアスもまた、静かに歩き出した。
廊下は冷たく、朝の光が高い窓から斜めに差し込んでいる。
足音だけが、やけに響いた。
――彼女は、まだ生きている。
それを思い出すたび、胸の奥が微かに疼く。
安堵でも、喜びでもない。
ただ、確かめるような感覚だった。
聖堂へ向かう途中、回廊の角で足を止める。
そこに、エレノアがいた。
彼女は、通達を受け取ったはず。
ひとり。
侍女もつけず、柱の影に身を寄せるように立っている。
喪に服す前の、静かな装い。
視線は伏せられ、手は胸の前で重ねられていた。
――ああ。
彼女は、覚悟を崩していない。
マティアスは、そう理解する。
彼女はまだ、
終わりを見ている。
足音に気づき、エレノアが顔を上げる。
一瞬だけ、驚いたように目を見開き、すぐに微笑んだ。
丁寧で、距離を保った笑み。
「神官様。お時間を、取らせてしまいましたか?」
いいえ、と答えるべき言葉は、喉で止まった。
彼は、何も言わない。
それでも、エレノアは気まずそうに視線を逸らし、続ける。
「……先ほどの件、ありがとうございます。
王族の判断に、異論が出なかったのは……」
言葉が、そこで途切れる。
自分が何を言おうとしているのか、
彼女自身、分からなくなったようだった。
マティアスは、一歩だけ近づく。
距離は、まだ遠い。
けれど一周目より、確実に近い。
「エレノア」
名を呼ぶ。
それだけで、彼女の肩が僅かに揺れた。
「準備は、整っています」
それは、彼女が聞き慣れた言葉。
断罪へ向かう者にかけられる、儀式前の確認。
エレノアは静かに頷く。
「ええ。問題ありません」
強がりではない。
逃げる気もない。
その在り方が、彼を痛ませる。
マティアスは、手を伸ばさない。
触れない。
約束もしない。
ただ、低く言った。
「……まだです」
エレノアが、わずかに目を見開く。
「まだ?」
「終わるには、早い」
それ以上は言わない。
言えないのではない。
言わないと決めている。
沈黙が落ちる。
その中で、エレノアは不思議そうに彼を見つめていた。
困惑と、かすかな期待が、入り混じった視線。
――この人は、何かを知っている。
けれど、それを差し出さない。
「神官様……」
呼ばれた声は、かすかに震えていた。
マティアスは、視線を逸らさない。
逃がさないように。
それでいて、縛らないように。
「行きましょう」
それだけ告げて、歩き出す。
エレノアは一瞬、躊躇い、
それから静かに、その後ろを追った。
彼女はまだ、死ぬつもりでいる。
だが――
彼はもう、同じ終わりを選ばない。
選ばせない。
回廊で足を止めた瞬間、距離が詰まった。
触れてはいない。
けれど、空気が変わる。
エレノアは思わず視線を落とす。
胸の前で重ねた指が、わずかに強張っていた。
「……神官様?」
呼ぶと、彼は一歩も引かなかった。
「まだです」
それだけ。
終わりを示す言葉ではなかった。
けれど、続けさせない声だった。
沈黙が落ちる。
エレノアは理由を探し、見つけられないまま、頷く。
歩き出すと、彼の歩幅は自然に合わされた。
触れない距離のまま。
――離れない、という選択だけが、そこに残った。
彼女はまだ、死ぬつもりでいる。
だが、その覚悟は、もうマティアスの前提ではない。
彼の背を追いながら、エレノアは思う。
おかしい。
断罪へ向かうはずなのに、
胸の奥が、いつもより静かだった。
神官マティアスは、何も言わなかった。
慰めも、拒絶も、約束もない。
それなのに――
彼は、離れなかった。
触れてもいない。
けれど、置き去りにされる気がしない。
……まだ、終わらない?
そんな考えが浮かび、
すぐに打ち消す。
終わるのだ。
私は、世界のために死ぬ。
それは、変わらない。
けれど。
彼の沈黙だけが、
その前提を、どこかで拒んでいる。
胸の奥が、理由もなく温かい。
その感覚を、エレノアは見なかったことにした。




