馬
外は雨の匂いこそないものの、いつ降り出してもおかしくない暗がりだった。そのためにちゃんと、自分が二人入るほど大きめの傘を持ってきた。
少し開いた玄関扉からアンナさんが手を振っている。僕も手を振り返しているわけだが、どれだけ家から離れても彼女は振るのをやめようとしない。
「手首耐久対決だよっ!!」
なんか始まった。
彼女の手首が高速回転をし始める。たまらず僕も手首をフル回転させるが、お互いすぐに力尽きて対決は終わった。彼女が無邪気に笑うので、僕も釣られて大きく笑った。
彼女はよく笑う。たとえやつれていても、彼女は普通の人と同じ――いやそれ以上に笑ってみせる、まるで太陽のような人だった。
それなのに、心配ないよと言っているように思えてしまう自分が少し嫌になる。
今一度別れを告げて、住宅街を進む。
僕らの住む家は、胝妬山の中腹に敷かれた住宅街の奥にある。家のすぐ横が崖になっていることもあり見晴らしもよく、爽田町の全景を望めた。
辺りを山と海に囲まれて外界から隔離されたような地形。大きなビルもなく、平坦な建物の合間を縫うように小川が流れる。その一方で電車やバスなどのインフラは整っており、ベッドタウンの一面も有していた。
とても良い町だと思う。喧騒に疲れた人々が休むには、充分すぎる場所だった。
僕は隣の家の前で立ち止まる。じゃじゃ馬を目覚めさせなければならないのだ。
ブロック塀に傘を立てかける。左手に力を込め、精神を研ぎ澄ませた。一つの想像を巡らせながら、いざチャイムを鳴らす。
ぴんぽーんと、呑気な音が二回する。直後、おぉぉぉはよぉぉぉぉおおお!!と、はちきれんばかりの声が家の中から聞こえた。
軽快な足音が徐々に近づいてくる。一瞬収まったかと思いきや、突如正面の玄関扉が蹴り飛ばされた。
現れたのは、上半身が淡く光る青年だった。
「行くぞうるうッッ!!」
彼は現れて早々に、片足を引いて投球の構えをとる。僕もまたそれに合わせて左手を前に出す。その、光纏う左手を。
少々目に悪いキャッチボールが唐突に始まる。
「サンドバルゥゥゥサンダーボルトォォオオッッ!!」
彼の右腕から閃光が放たれる。光速を思わせるほどの剛速球は空気を切り裂き、鈍い雄叫びをあげていた。
とても人間業ではない。しかし僕らにはもはや見慣れた光景となりつつあった。
僕は閃光を受け止める自分の姿を頭に想像していた。左手に纏った光がそれに呼応し、創造力が発動する。
「突風っっ!!」
想像のままに、煌々とした風が手のひらから放たれる。
風と剛速球とが正面衝突を起こす。光の膜が視界を覆い、衝突の様子は見えなくなる。しかし、風を放ち続ける左手越しに、今何が起きているかは理解できた。
僕が押し負けている。風を送り続けてもじわじわと剛速球が近づいてきていた。勢いを殺しきれていなかった。
もっと強力な風を想像し、出力を高める。余力はまだあるため、想像は現実のものとなる。ただ、あまりの噴射の勢いに、放っている僕自身が吹き飛ばされそうになっていた。
「ぐっ…!」
腰を落として姿勢を安定させ、右手を左手の裏に添え、なんとか耐えきる。ようやく勢いが落ちたのを手先から感じ取り、徐々に出力を下げる。そうして受け止めた閃光の中から、真っ黒焦げの野球ボールが出てきた。
「セト……っ」
今度は僕が投球の構えをとる。
「力込めすぎだっ!ばかっ!!」
投げたボールは明後日の方向に高く飛んでいく。それを彼は素手で華麗に取ってみせた。
「まあまあ、そういう日もあんのよ」
「昔馴染みなんだから加減ぐらいわかってよっ!」
「はいはい、わかったから」
抗議は念仏のようにさらっと流される。着ていたパジャマを掻きむしって、家の中へと戻っていく。
「着替えてくるわー」
なんともマイペースな男である。
彼――神奈セトは幼馴染だった。年は離れているものの、赤ん坊の頃から縁があって、ずっと付き合いがあった。腐れ縁というやつだ。
再び玄関扉が蹴り飛ばされる。扉が悲鳴をあげているが彼はそんなこと気に留めない。寝癖もそのまま、スポーツバッグのチャックも開けっ放し、制服姿もひどくだらしない。彼の気に留まるのは野球のことだけだ。
「準備万端!さっさと行くぞー!」
「…明日手加減しなかったら友達やめる」
「わかったって!今度はちゃんとすっから!」
彼は拳を突き出した。
「ひとまず今日も、無事に朝を迎えられたことを祝おうぜ。うるう」
「…もう」
拳をぶつけ合った。
僕らの学校へと足を進める。親と子ぐらいの身長差があるのに、不思議と足並みは揃っていた。
「にしても、なんなんだろうな」
「何が?」
「この世界のことだよ。なんで俺ら普通に登校なんてしてるんだろうな」
「勉強はしないとダメだよ」
「違うんだよ、もっと派手な世界をイメージしてたんだよ。俺は」
「でも、野球がある世界でよかったでしょ。そーじゃないと野球中毒で倒れちゃーー」
平然と会話して、平然と歩いていたつもりが、大きくよろけて転びそうになる。セトが腕を出してくれたおかげで怪我はしなかった。
「どうした。野球中毒か?」
「ちっ…違うよ。平気。平気だよ」
言ったそばから傘が地面に引っかかってすっ転ぶ。やっぱりセトが腕を出してくれたおかげで怪我はしなかった。
創造力を使いすぎたらしい。若干頭がぼやついていた。
「バカ、誰が平気だよ。ボロボロじゃねーか」
「む…。元はと言えばそっちが遠慮していれば無理に力を使わなくて良かったんだよ!」
「耳が痛えなぁ。まあ仕方ねえ、責任は取ってやる」
バッグを半ば無理やりこちらに押し付けてきた。彼は背中を見せつけるようにしゃがむ。
「乗れよ。学校まで運んでやっから」
「いいの?」
「俺なりの謝罪だ。俺に出来んのはこんぐらいだしな。あと筋トレにもなるし」
最後のさえなければ素直に親切心と受け入れられるのだけれど。とにかく遠慮はしなかった。
彼の肩から胸へ手を回した瞬間、身体が浮き上がる。太い腕が僕のバタつく足を捕まえると、なんだかパワードスーツでも身に纏ったかのようなフィット感と頼もしさに包まれた。
走り出してからの安定感も流石のものだった。住宅街を出て、町へと続く長い下り坂を難なく突き進んでいく。スキップする余裕さえあるようだ。
「お前軽いなあ。なんならこれから毎日おぶってやろうか?」
「やだよ、恥ずかしい…」
「気にすんなって。よしゃ!明日も全力でキャッチボールやるぞー!」
「反省していないようなので友達やめます」
振り落とされないよう、身体をぎゅっとくっつけて呟く。
「冗談冗談!頼むからやめないでくれよ!」
青々とした桜並木を抜けて、長い坂道は終わりを告げる。すぐの交差点でタイミング悪く信号が赤に切り替わった。それを確認して、セトは徐々に足を緩め――ない。
「赤信号だよっ!」
「んー?なんだって?赤信号?」
咄嗟に叫ぶも彼は聞き入れようとしない。
「わかってねえなあ。あれは歩行者用だ、空には関係ねんだよ」
「空……って、ええっ!?」
「しっかり掴まれよ?」
――閃・脚・伴・雷ッッ!!
雷鳴のごとき叫び声と共に、彼の両足が輝きに満ちる。コンクリートを強く踏み込むと、空を覆うほどの鋭い閃光が走った。すぐ下にあったはずの地面が遠く離れていく。
僕らはその一瞬、空を駆ける稲妻となっていた。
「うわああああああぁぁぁぁっっ!!!!!」
そばのコンビニも信号機も全てが身体より下にある。通り過ぎたクレーン車をハードルのように軽々と越えていく。電線に留まるカラスが正面で、アホアホと鳴いていた。
道路の向かい側へ難なく着地すると、騎馬は何事もなかったかのように再度走り出す。僕の心はまだ上の空にあるというのに。
「こ…怖かった…」
「弱気だなあ。俺の背中は他のどの背中より安全だぜ?」
「そういう強気さが一番怖いよ、僕は」
「なんだ、俺以上の背中を知ってんのか?」
「知らないよ。そうじゃなくて。力の使いすぎで急に倒れたりしないでよ」
「言ったろ、これが運動部のトレーニングなんだよ。限界まで発揮して限界を超えてもなお突き進む!そうじゃねえと強くはなれねーのさ」
それは安全とは言えないのでは。急にたくましいパワードスーツが恐怖のジェットコースターへの拘束具に思えてきた。
暴れ馬は止まらない。人がまばらな商店街を駆け抜けると、表通りでは原付バイクと並走し、狭い横道では家の塀の上を飛んでいく。恐怖のアトラクションを体験しているうちに僕らの通う学校に到着した。
爽田高等学校・付属中学校、通称、爽田中高だ。
「教室まで送ろうか?」
校門の前でようやく立ち止まる。なぜか彼より僕の方が息切れしていた。
「…だいじょうぶ。一人で行けるよ」
疲れは収まるどころか悪化している気さえするが、早々に背中を降りた。校外と校内ではおんぶの恥ずかしさ度合いに雲泥の差があった。
自分の高度を取り戻すと、見える景色がすべて大きくなる。
「そうか。そんなら朝練行ってくるわ!!」
「うん、頑張ってね」
彼はまだまだ元気そうにグラウンドの方へと走り去っていった。
本当にスタート地点が一緒なのか、疑いたくなる。彼はもうこの世界に馴染めているようだった。野球部に入部して、友達と話している姿も見かける。
「僕は…」
彼の後姿を見送って、自分の教室がある西棟に向かった。
爽田中高は中学校と高校が文字通り繋がっている。校舎がU字型になっており、高校の入った東棟と中学校の入った西棟が平行に並び、それを南側の中央棟が繋ぎ止めている構図だ。
下駄箱で靴を履き替える。早朝の廊下は制服姿の生徒よりもジャージや自前の体操服を着た生徒が多かった。
建てたばかりなのか建て替えたのかは知らないが、校舎は新しく清潔感に溢れていた。壁沿いの自動販売機は最新鋭のもので、タッチ決済やら非常時対応やら機能が充実していた。天井の照明もLEDのようだ。床だけは多少汚れているが、多くの生徒が行きかうと考えればご愛嬌だろう。
二階、自分のクラス教室には誰もいなかった。誰か荷物だけ置いてどこかへ行ったような跡はあるも、カーテンは閉め切っており明かりも点いていない。教室の前方、壁と一体になった箱型スピーカーの真上で、時計の短針が七と八のちょうど中間を指している。
横六列の窓から三列目、その一番後ろが僕の席だ。
座って早々に強い眠気を感じた。セトに振り回された疲れが大きかったのかもしれない。暗く空っぽな教室の中、一人っきりの静けさが眠るのにはちょうどよかった。
弁当箱をリュックから取り出すと、その上に額をくっつける。保冷材の冷たさが気持ちよく、そのまま夢境へと旅立った。
まただ。また落下している。
凝りもせず、僕は一体何度落ちているのだろう。得られるはずの緊張と解放感も徐々に薄まっている。
悪夢にしては力不足だ。僕一人が落ちるだけの、ただそれだけの夢だ。着地するわけでもなく、景色が変わるわけでもない。強いて言うならば、動きのない時間が続くことへの不安があるくらいだ。
退屈を覚えて、僕は何気なく空を見た。今まで眼下の河しか見ていなかった。河以外はすべて、余計に思えていた。
空を見上げた瞬間に、夢ははっきりと悪夢へ移り変わる。
最悪な気分だ。変わるはずもないのに身体を捩る。
だって。
君と一緒にはなりたくないのだから。
机の足を蹴り飛ばす。その痛みで目が覚めた。
ジャーキングが起きたのだとすぐ気づいた。やはりひどく疲れていたようだ。
幸い、教室の誰もこちらを気にする様子はない。教室全体の騒がしさに腹を立てて蹴った、とでも思われているのだろうか。この教室だと別におかしなことではない。
頭の上で、他人の想像が飛び交っていた。その形は様々で、靴下だったり、ナイフだったり、バスケットボールだったり、ナイフだったり。殺傷能力の高い魑魅魍魎が蔓延っていた。
とっさに弁当箱を抱えて、教室を飛び出す。道中、人が何人も倒れていたように見えたが気のせいだろう。
「相変わらずだな…」
窓から中庭の時計が見えて、ホームルームは既に終わっているのだと悟った。思った以上に寝てしまっていたようだが、別にあの担任なら見逃してくれているだろうと心配はしなかった。
廊下を歩いていくうちに中央棟に行き着いていた。中学と高校を繋ぐ、幅の広い連絡通路がまっすぐ伸びていた。僕は一番手前のベンチに腰を下ろした。
「早くお昼にならないかな」
中庭の巨木を眺めながら、授業開始時刻の寸前まで時間が過ぎるのを待つ。まだ、雨は降っていなかった。




