兎
最近よく、落ちる夢を見る。
落ちる前はとても怖い。踏み出すための足も震えてガクガクだ。産まれたてのトーマストウェイツにでもなった気分だ。
しかし一度落ちてみれば爽快になる。神経を投げ出し、僕は一時の快楽を得る。後先など考えずに、全思考が今その瞬間にのみ捧げられる。天にも昇る気分、といったところか。
そんな、夢。どんな事柄であろうと、夢ならば一編の小説に等しい。嘘、偽りだ。
一人なのだから、夢に決まってる。
さっきから騒ぎ立てていたアラームの音を止め、寝言もやめた。
「…今日を始めたくないな」
ベッド脇の眼鏡で視界をはっきりさせる。
自室の様子をざっと眺めて、自分の置かれた状況を一度はっきりさせる。日本がやけに小さく見える世界地図だとか、やけに座面の狭い椅子だとか、ザ・子供部屋である。壁紙も真っ青だ。中学二年生の部屋としては少々気恥ずかしい。
日差しを浴びようとカーテンに手をかける。しかし外を一瞥して、ため息をついた。
ハナミズキが向かいの軒先で白雪の花を咲かせている。五月には思いがけない雪だった。それを見て、溶かしたくないと誰かが思ったのか、夜と見まがうほどの暗雲で青空が隠れてしまっている。
気が晴れない。温かな光を求めて部屋を出る。下の階で弾ける油の音に耳を傾け、穏やかな日々の訪れを感じる。甘い匂いに誘われ、僕は流れるように居間の扉を開いていた。
カウンター越しに銀の絹がなびいている。僕の光がそこにいた。
彼女は丈の長いワンピースの上に水玉模様のエプロンを着けていた。リボン型の髪留めで結んだ後ろ髪から、ちらちらと細いうなじが見え隠れしていた。彼女に呼びかける。
「アンナさんおはよう!」
彼女の耳がぴくっと動き、フライパンから手が離れる。焼きあがるフレンチトーストを見ていたつぶらな瞳が、今度は僕の方を見て綻ぶ。包まれるような優しい声が返ってきた。
「おはよっ、うるうくん!」
一つの何気ない挨拶、たったそれだけで曇った心に太陽が昇った。彼女がいるからこそ、暗い日常の中に明るい日向が生まれていた。
「昨日はよく眠れた?」彼女が訊く。
「バッチリだよ!掛け布団がふわふわで気持ちよかった!」
「そっか、頑張って干した甲斐があったよー」
彼女のおっとり顔がとろけていく。甘く純粋な笑顔だ。
だからこそなのだろうか。笑顔の中についた小さなクマが気になった。
「アンナさんこそちゃんと寝た?疲れとか残ってない?」
「えっ!?へっ……平気だよっ!」
露骨に動揺する。
「本当?」
「嘘じゃないよっ!」
「無理だけは絶対しちゃだめだよ。身体だって――」
「う…うるうくんっ!!!」
彼女のエプロンが大きくなびく。彼女の身体がぐっと近くなって、押し留めるように僕の手を握った。僕から見上げたところにあったその瞳が今、僕の視線のすぐ下で潤んでいる。
「私、うるうくんよりもお姉さんなんだからっ!もっと頼りにして…いいんだよ?」
覗き込んでくる彼女はあまりにも近い距離にいた。目と鼻の先、体感ではもう触れているんじゃないかと思うくらい。
繊細な十本の指がくすぐったくも温かい。触発されてか胸の奥が温かく、熱くなってきた。
鼻先から漂う甘い香りで頭がぼんやりとしてくる。先ほどまで平気で見られたそのガーネットの瞳を直視できなくなっていた。
「そっ…それじゃあ!朝ごはん、お願いするね!」
自分でもどこを見ているかわからないくらい目を泳がせる。泳ぎながら少し彼女の表情が見えたが、きょとんとしながら笑っていた。
「うん、任せて!今、最高に美味しい朝ごはんを――ってああっ!忘れてたっ!」
急に飛び跳ねる。そそくさとフライパンの前へと戻っていくと、フレンチトーストをひっくり返す。少々焦げた焼き面が顔を見せてくれた。
「セーフっ!セーフだよねっ!」
唐突に「そうです」と言わないと部屋から出られない、ですゲームが開始した。とは言っても僕にとっては気にならない程度のものだった。逆に彼女のお茶目な焦り姿に心を落ち着かせていた。
「うん、全然セーフだよ。アンナさんの熱に焦がされて羨ましいくらい」
思わず失言するほどに。
咄嗟に出した言葉だった。本当に、純粋に、心のままに慰めようとしただけだ。
「あば…あばばばばばば」
だから、彼女が顔を燃やすまでその意味を自分で理解していなかった。
あれ、僕もしかして……すごい恥ずかしいこと言ってる?!!
「わ…わわ…私……うるうくんの心も…焦がしてみせるからっ!!」
顔を真っ赤にした彼女からの強烈なカウンターを食らい、とうとう胸が大爆発を起こす。全身が熱く燃えあがる。いや、“萌え”あがっている。
「かっ…顔洗ってくるっ!!」
急ぎ、消火しに洗面所へ走った。溜めた水を何度も顔に当て、鏡の中の自分と対峙する。
眉を覆う前髪もレンズの奥の眼も、右目の下の泣きボクロも、よく見知った島波うるうの顔がそこにある。でも、絵の具で塗りたくったように真っ赤になった頬や耳は、熱の時くらいしか見たことがない。異変を必死にタオルで拭ってみても、まったく消えそうになかった。
「なんで僕、こんなにもドキドキしているんだろう…」
胸に手を当てずとも鼓動のリズムが聞こえる。とても早く、とても苦しい。でも不思議と心地よく、もっとこのリズムに振り回されていたいと思える。
彼女の笑顔を初めて見た時からずっとこの調子だった。胸の奥に秘められた何かが僕自身を壊していく。彼女から離れたくなかったり、無意識のうちに彼女のことを考えていたり、こうしてドキドキが止まらなくなったり。前はこんな経験なかった。
この気持ちは――なんなのだろう。
近くでビープ音が鳴る。かき乱されていた心を深呼吸でほぐしていく。そうすると、顔に付いていた絵の具も綺麗に落ち着いていった。徐々に肌寒くなってきて、和やかな太陽の下にいたくなってくる。
洗面所を後にすると、既に料理は運び終えてあった。三角形に切られたフレンチトースト二枚と甘い香りの沸き立つ紅茶が置かれている。鼻につくような焦げ臭さなど全くなく、見た目も輝いて見えた。
彼女は壁掛けのカレンダーをじっと眺めていた。部屋に入ると、彼女はすぐに僕に気づいた。
「朝ごはんの準備できたよ。片面は綺麗に焼けたから、どうか裏面は見ないで、ねっ?」
「う、うん。大丈夫。絶対見ないよ」
彼女からの、ですゲームを受け入れて、壁側の席に着く。
テーブルの向かい側には一回り大きな彼女の椅子があった。不思議と彼女はそこへは座らず、椅子の隣を陣取るように仁王立ちしていた。胸に手を当てると、何やら力を溜め始める。
「たぁーーんと!めしあがれっ!!」
溜め込んだ力を解き放つように、元気いっぱいに両手を前に出す。それは、彼女なりの“料理がさらに美味しくなる魔法”だった。
当然、美味しくならないはずもなく、一口食べた瞬間に身体が宙に浮いた。その浮き度合いは噛めば噛むほどに大きくなってゆき、すぐに家の屋根を突き抜ける。それどころか、町を飛び出し、日本を飛び出し、すべて食べ終える頃には大気圏をも飛び出していた。
そのほとんどを闇が占める宇宙で、僕は大いなる青き光の地を見ていた。あの海のように広大な甘味、あの山のように歯ごたえのある食感。熱すぎる太陽によって焼かれたこのフレンチトーストはまさに――地球であった。
紅茶を飲んで一呼吸。その身を居間に戻す。
「ごちそうさまでした!宇宙に行っちゃうくらい美味しかったよー!」
「宇宙?…ともかく美味しかったならよかったっ!」
彼女は両手で頬を覆っては、後ろを向いてしまった。長いポニーテールを靡かせ、スリッパで軽やかなステップを踏む。小さく「にへへ…」と呟き、嬉々としたご様子だ。
僕にはとてももったいないくらい可愛らしい女性が、僕の何気ない言葉で小躍りしてくれていた。
もっと褒めてみたら彼女はどうなってしまうのだろう。そんないたずら心がふと芽生えた。
「アンナさんの料理は宇宙一だね!」
「そっ、それほどでもないよっ」
小躍りのテンポが早まった。謙遜こそするがやはり嬉しいようだ。
「アンナさんならきっといいお嫁さんになれるよっ!」
「…………っ!」
ぴたりと小躍りが止まってしまった。ただその隠しきれていない顔は、今までにない程赤らみ、喜びに満ちていた。僕自身、口にした褒め言葉の意味をよく理解していなかったが、とても効いたらしい。
「こんなにも美味しい料理を毎日食べられて僕は本当に幸せ者――――」
「う…うるうくんっ!!!」
たまらず彼女が動く。テーブルに半身を乗り上げて、僕の口元に人差し指を添えた。
真っ赤に染まった顔がぐっと近くに寄る。困った眉とふやけた頬で必死に言葉をつづる。
「これ以上はダメっ…!!これ以上褒められたら私……おかしくなっちゃうからっ…!」
絞り出したような声で注意される。そうなのだがどこか艶っぽく、反省どころではなかった。
やりすぎた。そしてやられてしまった。
きゅうと締めつける胸。鷲掴みされたハートはまたもや爆発する。
「はっ…歯磨いてくるっ!!」
再び脱兎の如く洗面所に駆け込む。この感情との付き合い方がまだわからない以上、今の僕にはひとまず逃げることしか出来なかった。
でも確かに幸せだった。彼女と不器用ながらに話し合って、新しい日々を紡いでいく。まだまだ慣れないところもあるけれど、とても愛おしく、大切にしたい時間だった。こんな日々から逃げたいとは全く思わない。むしろずっと続いてほしかった。
叶わないのだろう。
幸せになんて、なれるはずがないんだ。
どうあがいたって、僕は正規のルートを外れたことに違いなどない。このままで居られるはずがなかった。
それでも、彼女と離れさせられるのなら、あんまりだよ。神さま。
アンナさんの身体には栄養が足りていない。ワンピースからはみ出る足首も、料理を作る指先も、にこりと笑う頬でさえも、骨の形がわかってしまうほどにやつれている。彼女は平気だと言うが、とても健康な状態には見えなかった。
アンナさんは僕と一緒にご飯を食べない。彼女と過ごす間、彼女が何か口にするのを見たことがない。代わりなのか、水を飲む頻度は高かった。
僕はそれを深く問い詰められないでいた。問い詰めた瞬間に、僕らを取り巻く幸せが全て消えてしまうような気がしていつまでも踏み込めなかった。
パンドラの箱は今日も開けるつもりはない。自分から開けに行くようなことはこの先ずっとないだろう。そんな勇気など持ってはいない。
でも、もしその時が来てしまったなら。不可抗力でもその場面に立ち会ってしまった時は、僕は全身全霊をかけて彼女の味方になろうと思う。




