前日譚
赤い月が世界を終わらせてから長い月日が経っていた。この町もどうやら忘れてしまったらしい。とうに存在しない世界のことなんて。
あの日は突如としてやってきた。兆候と呼べるものは何一つとしてなかった。新たに始まった日常をただ歩んでいた中での出来事だ。前日の天気予報だって、雲一つない穏やかな一日だと言ってたのに。
いや、生まれ落ちた時点でもう決まっていたのだろう。皆既月食の時はやって来る。時を経ずして平穏は崩れ去る。それにどうにか抗わなくてはいけなかったんだ。
やはり眼に映るこの町は、何食わぬ顔して平然と活動を続ける。なんだか置いていかれたような気分がする。でも忘れることは無い。忘れるはずがない。
三日目の深夜、今一度あの場所へ回帰する。
仕方のないことだった。無意識にやっていることに止める方法なんてないのだから。
「るるっるー」
自分にとって幸せなことをやっていれば無意識に小躍りだってする。無意識に歌ったりもする。それがどれだけ音の外れた鼻歌であろうと気にしてはいられない。キッチンは私にとっての大舞台なのだ。
「らぁらるー」
白と黄色を混ぜた粘質の液体がボウルの中で待機してる。材料の比率はバッチリ。混ぜ具合もバッチリ。あとは焼き加減さえ間違えなければ私の勝ちである。
「本日のホットケーキ戦線、第一号!さあ行ってらっしゃい!」
舞台女優の気分で液体をフライパンへと流し込む。流し込む量も位置も我ながらパーフェクトだ。液体はフライパンの上で、綺麗な円を描いて湖となる。
お弁当のおかずたちと共に、湖が固まっていく様をじっと見守る。やがて焦げるような甘味の香りを感じ取って、ひっくり返すと、まだら模様の綺麗な焼き面が姿を見せた。
「ふっふっふ。完璧すぎて自分が怖いね」
たかがホットケーキ?されどホットケーキ。障壁もなく自然と料理出来るなら、お嫁に出ても恥ずかしくないでしょう。ほら、お弁当のおかずたちもスタンディングオベーションしてるよ。
ただ、ちょっと自分に溺れすぎていたかもしれない。この時の私は、部屋の外が騒がしくなっているのに気づけなかった。
勝利を確信して油断したまま、フライ返しでホットケーキの底面を掬い上げる。用意していたお皿に移そうとした時、彼女は現れた。
「アンナちゃぁーーーーん!!!!!」
扉からのあまりにも大きな声に驚いて手先がブレる。戦線の最終局面での失敗は一つの愛情表現を受けて生まれていた。
「おーはーー」
フライ返しがテニスラケットに変身する。テニスボールとなったホットケーキが高く打ち上げられ、すぐにくるくると落下していく。
「よぉーーーーー!!!」
戦線の敗北が確定するまであと数秒もない。しかしここで負ける私でもない。
即座に一つの想像を巡らせる。花瓶に挿された一輪のアジサイの花を。
自分の思い描いたイメージをフライ返しに託す。するとフライ返しは魔法のステッキへと変貌する。 創造力を発動させた。
先端の平たい部分が光を纏って輝き始める。それをまっすぐに床へと向けると、床もまた応えるように光り出した。
「アサガオっ!!出てきてっ!!」
床の光が蠢いた。その表面から棒状の光が数え切れないほどに生え出てくる。つるのように伸びる光たちはやがて一つの茎となる。先端が割れて大きな螺旋を描くと、受け皿のようなアサガオの花を咲かせてみせた。
さらに地面から光のつるが伸びて、ホットケーキの角度を整えようと絡みつく。うまく床と平行になったところで、アジサイの花がホットケーキをキャッチした。床との距離はわずか五センチほど、完全に落下が止まった。
お皿をアサガオへと差し出すと、つるを解いてホットケーキを上に乗せてくれた。
「…セーフ」
見事勝利を掴み取った。足の力が抜けてキッチンマットの上に座り込む。
「疲れたぁ~!」
「お疲れさまだっ!!」
先ほどの声の主がシンクの端っこから顔を見せる。天使のような小さな女の子、その満面の笑みがあまりにも無邪気でちょっと憎たらしい。
彼女のことを、私は“まくら”と呼んでいる。苗字の一部を抜き取っただけだけど、その呼び名に見合った弾力性が彼女にはあった。大きな瞳とまん丸とした顔の柔らかさだけでなく、小柄な体とデフォルメされたゲッコーのパジャマは小学校高学年くらいの幼さがある。但し、実際は声変りを経た正真正銘の高校二年生だ。
「もー、いきなり驚かさないでよ」
「すまなかったな。反省しているぞ」
「本当かな。にまにましてるけど」
「もほー。嘘じゃ」
まくらは高笑いしながらキッチンを去っていった。本当に、天真爛漫という四字熟語が実体を持ったような女の子だ。と思えば、すぐ戻って来た。
「私はな。死んだ母上から言われておるのだ。挨拶は元気に、とな」
彼女のおとぼけは朝聞くにはちょっと刺激が強い。
「親を勝手に殺さないの。旅行行ってるんでしょ」
「俺たちは死んだと思って一人でたくましく生きなさい。死んだ父上の遺言である」
「…家族の仲は良さそうで安心したよ」
彼女の家族が帰るまでの間、彼女とは一緒にお泊り会をしている。私の方としても、一軒家・一人暮らしの寂しさを埋められるので大歓迎だった。ただ、声と足音が常に大きいので、ご近所さんからクレームが来るのも時間の問題な気がしている。
彼女にホットケーキのお皿を見せつける。
「おぉ!美味そうじゃ!!」
ぐぅ。まくらはお腹の虫をアテレコする。
「お腹と背中と頭とお尻がくっつきそうじゃ。何か私にも手伝わせてくれ!!」
「メープルシロップが冷蔵庫の上の段にあるからテーブルに出しておいてほしいな」
「任せんしゃい!」
残りのホットケーキをぱっぱと焼き上げる。途中、反省もなしにまくらが驚かせてきたが特に動じることもなく、無事に調理を終えられた。
食卓に二人向かい合って、手を合わせる。
『いただきまぁす!!』
バターとメープルシロップの乗った二重の塔をナイフで切り崩して、口へと招き入れる。噛むごとに喜びを得られるふわふわ食感と、とろけるような甘美なスープに、自然と声が溢れた。
「うー美味しいっ!」
流石、私である。お父さんもお母さんもきっと泣いているよ。こんなに料理上手な娘がいたんだもの。
「やはり、アンナちゃんの料理は母上に並ぶほど美味だ。よし、我が嫁に来い!」
熱々の紅茶に息を吹きかける傍ら、彼女は上目遣いでプロポーズしてきた。
「運命の王子様が現れるまでなら…いいけど」
「うぅなんたる色気ぇ……罪な女じゃあ…」
他愛もない話をしたのも束の間、二つの塔は跡形もなくなった。ごちそうさまを言うと、私はからになった食器をシンクへと運ぶ。まくらはまだ熱々のティーカップをふーふーしてる。
「洗いもの終わらせちゃうね。ゆっくり飲んでていいよ」
「待て。何をするつもりじゃ」
「だから洗いものだってば」
「ふむ。ならばついでに私の穢れた心をも洗ってはくれないか」
「それは……話せば綺麗になるかな?」
「うむ、嫉妬心というやつだ!私より素敵な人間がいると思うてか?!!」彼女は小さな胸に手を当てて、目を見開く。
それ引きずるのかい。と、つっこもうとするも、目の前の小さなトカゲモドキに言葉を丸呑みされてしまった。彼女の闘志はやけに熱く燃えさかっており、恒星のごとく全身から光を放っていたのだ。
「アンナちゃんっっ!!好きなタイプを言うのだ!!当てはまる人間を今すぐこの爽田町から消し去るっっ!!!」
眩しい。あまりにも眩しかった。彼女の肌という肌から絶え間なく光が漏れている。
「そんなことに創造力を使ったら神様に怒られちゃうよ」
「いいから!!好きなタイプを言うのだ!!」
全身が光っているせいか、彼女の瞳もキラキラと輝いている。いや、これはもしや、私の好きな男性のタイプが知りたいだけなのでは。
「ほれ!ほれほれ!!私に教えるのだ!!」
間違いない。薄目で見える彼女の表情はとてもニヤついていた。
じりじりと寄って来る彼女に、私はタイムを要求した。タイプと言われましても困ってしまう。
十七年間付き合いなし、恋愛経験もなし。いつか素敵な人を見つけたいという願望はそれとなくあるけれど、具体的にどういう人と一緒にいたいとかは特に考えたことがない。
「わかんないや」
「爽田町の平穏を護るための嘘かっ!」
「嘘じゃないよ。…そっか、でも――」
どうしてそんな願望があるのか辿ってみると、確かにただ一つ小さな理想がある。幼かった頃の理想なのか、かなり夢物語のようなもの。でも、いざ叶うとなれば結構嬉しいと思う。
彼女のキラキラな瞳に応える。
「私、お姫様になりたいなっ!それでいつか、白馬に乗った華奢な王子様が私を迎えにくるの!そうしたら私本当に幸せになっちゃうかも…!!」
「なるほど。無理を言ってすまなかった。着替えてくる」瞳の輝きは消え、彼女は部屋を去っていった。
蛇口から流れる水がやけに冷たくて、大きくくしゃみをした。
体育館の上階一面に張られた窓から陽の光が差し込んでいた。その下、スポットライトを浴びるようにしてまくらが構えていた。一流選手のごとき眼差しがこちらを捉え、その身の全てを投球に捧げている。
「行くぞっ!!こぉのォッッ!!必殺のォッッ!!!まくら投げぇえええええ!!!!!!」
彼女の威勢ある掛け声は、龍の咆哮を思わせるほどに力があった。身長百四十センチにも満たない小さな体から、私なんて簡単に食らえるほどの殺気が現れていた。一瞬だけ。
コロコロと床を転げるハンドボール。今投げたはずのボールが、なぜか彼女の足の辺りを這っていた。勢いもなくすぐに止まる。
彼女は絶望的に肩が弱かった。旅館とかでやる枕投げでももうちょっと飛ぶよね、と思ってしまう。
うおおおおん、と掛け声以上に威勢ある嘆きが体育館に響く。急いでボールを拾って、まくらの肩を撫でる。
「だっ、大丈夫だって!練習すれば一流のピッチングマシンにもなれるよっ!!ほら、がんばろっ?」
ただ、ボールを受け渡すと、すぐにまくらの表情が変わった。やる気になったのかとも思ったが、何故か手招きをしている。耳を貸せ、と囁かれたので首を傾げた。
「創造力を使わせてもらうぞ。プロハンドボーラーの身体機能を想像し、それを私の身体に創造させる。そうして投げる感覚を身体に覚えさすのだ」
確かに創造力を使えばそんなこともできるだろう。端的に言えば、創造力というのは光を使った図画工作である。自分の中に秘められた光のエネルギーで、自分の身体を好きに弄ったり、好きなものを作り出したりと大抵のことはなんでもできる、とても万能な力だ。
「でも危ないよ。授業中だし、他の子もいるし」
「私は天才なのだ、力加減など造作もない。もちろん、アンナちゃんを傷つけるほどの威力は出さん。頼むっ!」
今朝のように彼女の体が光りだした。小さな両手がボールをプレスしていると、光がじわじわとボールの中へと吸い込まれていく。私の返事を聞く前に既にやる気のようだ。
「わかったよ。でも、一回お試しで壁に投げてみて」
「私を信用できんかっ」
「まくらのことは信用してる。でも創造力を受け止めるのはちょっと怖いかな。私より力あるし」
彼女は身体が小さい反動なのか光のエネルギーを人より多く持っていた。まだ創造力を使いなれていない私が相対するのはあまりにもハードルが高い。修学旅行の旅館でやるようなお気軽さはないのだ。
「まあ良い。受け止めたくなるほど素晴らしい真のまくら投げを今に見せようぞ」
ボールはすっかり彼女の光に包まれ、水風船のように膨らむ。彼女は持ち手と足を引き、数メートル先の壁に狙いをつける。何か嫌な予感がして、私は彼女と距離を取った。
「さあ、見るがいい!!!これぞぉおお!!超・必殺ッッッ!!!まぁくぅぅらぁなぁーーーー」
言い切る前に光は放たれた。それは――破裂音と共に四方八方へ。
光が分裂して飛んでいくその様は、どこからか颯爽と現れたムキムキのプロハンドボーラーたちが、一瞬で百個以上に増えた小さな光のボールを、各々テキトーな方向に投げつけたようにも、まあ……なんとか……見えなくもなかった。でもそんなこじつけも意味を成さない。光が収まった後、彼女の手にはフェイクレザーの破片が虚しく残っていた。
「破れた…天才敗れたり……」
まくらはその場に倒れ込む。耳鳴りがするけど、それ以上に彼女を案じて駆け寄る。
「だっ大丈夫っ!?」
「私の時代は終わった…。アンナちゃん…遂に君にまくら投げを継承する時が来たのだ…」
どうやら元気そうだ。
「もうっ…心配して損した」
「杞憂ですまん。ただ、ちょいとばかし休みたいな。流石に気合を入れすぎたようだ」
そう言うので肩くらいは貸そうとしたが、まくらはそこまでしなくていいと断ってきた。彼女は少し身体を起こすと、華麗な前転を披露したのち、壁に背中を預けてうたた寝を始めた。確かに私の力添えは必要なさそうだ。
取り残されて、ひとまずボールの回収でもすることにした。当然にさっきまで使ってたものは跡形もなくなってしまったので、体育倉庫へと向かう。
重い扉を引き、大量に並べられた器具を目で追う。体育館競技なら網羅できているほどの物量があるが、暗く澱んだ空気のせいか、色彩豊かとはとても言えない。小さな窓は薄汚れていて、カビの匂いも微かにしていた。光あふれる体育館に生まれた影のような場所だ。
ハンドボールの籠は探すまでもなく、入口を入ってすぐの場所にあった。多少の吟味こそあったものの、そう時間はかからずに新しいボールを手に入れられた。あとは彼女の元に戻るだけだったけど、倉庫内に気になるものを見つけていた。そっと跳び箱に近づく。
小さな風の音が聞こえる。やっぱりだ。跳び箱の中に何かがいる。段の隙間から何やら布のようなものが見えていた。
好奇心旺盛すぎるとよくないこともあるよと、かつての友人に言われたことがある。わかってる、ちゃんと忘れてない。でも、身体が勝手に動いちゃうんだから仕方ないよね。
ぱかっと跳び箱の一段目を持ち上げ、壁に立てかける。踵を上げ、恐る恐る中を覗き込む。
真っ先に目に映るのは人間の後頭部だった。色の抜けた長い髪と渦巻いたつむじ。その先で、畳んだ足を両手で結んでいる。体格はしっかりしていて、おそらく男性だ。
「死んでる?…まさか」
近頃サスペンスドラマにハマっていたせいで真っ先に死体を疑うも、息はしているようで一定のリズムで肩が動いていた。
「なんで、跳び箱の中に人が…?」
「ふぁああ」
彼が大きなあくびをした。狭い中、手を伸ばせるだけ伸ばす。跳び箱の両側に手をかけると、ゆっくりと立ち上がった。その背中は私よりも高くそびえていた。振り向きざまに顔が見える。
「おはようございます。美人なおねえさん」
第一印象としては、残念なホスト、だった。整った顔つきをしており、爽やかな声は春風のような耳当たりの良さがある。制服よりもスーツが似合いそうで、立ち振る舞いもどこか気品がある。でも、箱に閉じ込められてるせいで雰囲気全てが台無しだ。
「君は…?もしかして……おサボり?」
そうだ。きっとそうなのだろう。
「違いますよ。学校は俺のマイハウス。いつもここで寝てるのですよ」
倉庫内は真っ暗にもかかわらず、彼の笑顔は燦然と輝いていた。すぐには笑みを返せなかったが、それでも彼は依然として跳び箱の中で平然としている。
「俺はレンジ。おねえさんのお名前はなんですか?」
「成東――です」
「成東さんですか。なら、なるとさんとお呼びしてもよろしいですか」
「うん、いいよ」
ボールをお腹に抱え、ようやく笑顔を作れた。
「ありがとうございます。早速ですが、なるとさん。見てください、あの広大な海を!」
彼は小窓の方を指差す。外の景色なんてほとんど見えないし、そもそもこの町の海岸――青矩海岸とは距離が離れている。当然に海なんて見えない。
「…見えないよ?」
「あれは人類の憧憬です」
彼は当然のように話を続ける。私がおかしいのかと辺りを見回すも、やっぱりどこにも海と呼べそうなものはない。
「私たちは清き海を目指さないといけないのですよ。というわけで、これから一緒に海に行きませんか?」
第一印象は間違ってなかったみたいだ。出会って間もないのにアプローチを受けてしまった。
積極的な距離の詰め方に、乙女心は変に動揺していた。別に誘われることに不慣れなわけじゃないのに、坦々とした彼の言葉にペースを乱されてしまったらしい。これまで会った人とは違う妖艶な雰囲気に、呆気を取られていた。もしかしたら外連味のある人物像に惹かれていたのかもしれない。
でも、脳内風紀委員長がホイッスルを吹いてる。「ぴー!今は授業中です!」
「ごめんなさい、お誘いには乗れないかな。またどこかで会えたら改めて誘ってほしいな」
非日常体験はここで堪能し終えることにした。私には待たせている人がいるのだと思い出していた。風紀委員長の隣で、まくらが落ち着きをなくして暴れまわっている。「私のような乙女を一人にするでない!」、とお怒りの様子だ。
それじゃ、と残し彼に背を向ける。暗い倉庫を抜け出して、まくらの元へと足を急がせる。
出ようとしたところで、いきなり扉が動き出す。誰の手にも触れられることなく、独りでに。
両腕が巻き込まれて押しつぶされる。二の腕から肩にかけての筋肉が捻じれ、骨が質素で味気ない鳴き声をあげる。勢いに乗っていた頭は扉に打ち付けられ、頭蓋骨がひび割れるのがわかる。指先が脳の命令を拒み、身体から切り離されてぽたりと落ちていった。
妄想で良かった。すんでのところで止まれなかったらきっと現実のものとなっていただろう。
体育館からの木漏れ日が途絶え、辺りは闇に覆われる。過剰なまでの猫だましに気圧されて、私はその場で尻もちをついていた。
「待ってくださいよ、なるとさん。折角のピクニック日和なんですから」
五月の微かな冬が肌を冷やす。妙に落ち着いた声色に怯える。
恐怖に押されながら、声のする方をちらと覗く。自分の頭の真上、箱から解放された彼と目が合う。常人とはかけ離れた背丈を持つ彼と。
「お茶でも飲んでゆっくりしていってください」
そばにお茶を入れるような器など何一つとしてありはしない。彼の口から出る言葉の何もかもがデタラメだ。
洞窟に迷い込んだ小動物になった気分だ。私は、出口が崩落して閉じ込められた一羽の兎だった。中に住まう獣に目をつけられても、逃げ場はどこにも存在しない。きっと奥に進んだとしても深く、深くに入り込むだけで状況は悪化していくだけ。
ほら、そこに蝙蝠だっている。逆さまになって、じっと私を観察してくるんだ。
「海は素晴らしい。多くの秘密が未だに残るミステリアスな風貌!!多少身体に触れられようとも動じない寛容さ!!にもかかわらず、数えきれないほどの人間を喰らってきた暴食さまで秘めているなんて!!憧れざるをえませんよ!!ですから――」
彼は一層、頬を緩ませる。
「俺と一緒に、海になりませんか?」
口が裂けそうなまでに不気味な笑みだった。
ふと、気道を通る危険な匂いに気づく。なんだろう、大根、みたいな。収穫したばかりの大根をかじったような、無垢な辛みが喉に触れる。但しぴり辛どころではなく、焼けるような痛みまである。
料理人の興味が湧いた。
「レンジ君は…この世界が嫌いなの?」私は対話する。
「はて。まさか、あり得ませんよ?心の底から愛しています。もちろん、なるとさんもですよ」
状況が状況なのに照れて笑いがこぼれる。口先だけのデタラメだとしてもまっすぐに言われるとくすぐったい。
「なら、危ないことしようとしたらダメだよ。…何をしようとしてるかわからないけど、自分のことも、他人のことも大切にしなきゃダメだよ」
「分け隔てのない優しさをいただき、まことにありがとうございます。ですが、切ない感情の灘は未だ大きいままでございます」
彼が顔を萎ませる。初めて見せた悲しげな表情はとても渋く人間的だった。
彼が手を差し伸べてきた。遠慮せずに手を借りて立ち上がると、彼は棚の方へと近づいていく。そこで小さなデジタルカメラを手に取ると、愛おしそうに撫でまわした。
「最近、綺麗な写真を撮れないのです。風景を写そうとも、生物を写そうとも、植物を写そうともいまいち心がときめかないのです。当然、海を写したとしても、です。そこで俺は考えました。俺の思うがままに“被写体そのものを加工してしまえばいい”。自然の中に俺の求める像がないのであれば自分で作ってしまえばいい。足りなければ付け加えて、要らなければ壊す。理想的な景色を俺自身の手で描いてしまえばいいと!…気がついたのです」
彼は、まくらとは違うタイプの純真な人間に思えた。目指しているものははっきりしているのに、その過程には抜け目があって危険な節を残している。
材料はいいのに、きっと調理の仕方を間違えてしまったのだろう。レシピを読み間違えたまま突き進んでしまって、あと一歩で取り返しのつかないところまで来ている。そんな状況だ。
じゃあ。私が調理してみよっか。
「危険なことはやっぱりさせない。でも、レンジくんの手は取りたいんだ」
彼の右手を掴む。さっきも触れてわかっていた。一回り大きくて温かみのある立派な手だ。粗雑に使った形跡もなく、まだ綺麗なままだった。
「君と友達にならせてよ。私にできることがあれば手伝ってあげたいんだ。撮りたい景色を教えてよ、レンジ君の理想に近づけるように導いてみせるから」
意外にも彼は恥ずかしそうに目線を逸らす。じっと考え込むような素振りを見せながらも、首は次第に赤く染まっていった。
まさか変なことでも考えているわけじゃないよね、と心配になるものの、すぐにその必要はなくなった。彼は、左手に持っていたカメラを棚に置く。溜めに溜めて、ゆっくりと顔を上げると、ようやく彼の口が開いた。
「――人間模様、ですよ」
強引に引っ張られる手。気づけば私は彼の胸にいた。
凍りついたように冷たい左手が、背中を回って私の喉を掴む。
彼の顔が首元の死角に入る。直後、首筋に突き刺すような痛みが走った。
フラッシュを焚くデジタルカメラ。シャッターが切られた。
包み込んでくれるはずのお布団が遠くに行ってしまったようで。むぅ寒い。そんなに寝相悪かったかなぁ、としょぼくれてしまいそうだ。どうやらマットレスからも身体が離れたようで、頬に触れる床の感触もいつもと違う。なんだか、ざらざらしてる。寝心地自体は悪くないかも。
外もやけに騒がしい。窓が開いたままなのか、人の声が直に耳に入ってくる。そもそも窓を開いた覚えはないけれど。…そもそも部屋で寝た覚えもないけれど。
ともかく。きっとまだ夜だ。試しに瞼の隙間から光を入れてみる。
やっぱり夜だ。見える光なんて、街灯と空のお星様くらいだ。
…ここはどこだろ。
「アンナちゃあんっっ!!!!アンナちゃああんっっっっ!!!!!!」
ようやく騒がしい音の正体がわかった。夢にまで出てくるようになっちゃって。
「もー、まくらー。まだ夜だよー」
「よかった…。無事で…よかった」
なんだか声色が湿っぽい。私の持ってる彼女の印象とは程遠く、夢にも思わず驚いた。
すぐに身体を起こす。寝ぼけ眼に映ったのは、大粒の涙を流すまくらの姿だった。
「…まくら?どうして泣いてるの?」
「嬉しいからに…決まっておろう!」
いきなりまくらに抱きしめられる。胸の隙間に顔を埋めて、ぶつぶつと何やら卑しい言葉を垂れている。
「アンナちゃんの良い匂いじゃあ……ぐへへ…」
「もうっ、変態さんならお断りだよっ」
「良いではないか、良いではないか。…無事だとわかったのだからな」
顔は見せてくれない。だからぎゅっと、彼女の寂しさを埋めた。
「ごめんね。なんだか心配かけたみたいで」
何が起きているのかわからないけれど、私の身を案じてくれていたのは明らかだった。
「アンナちゃん、帰るぞ……っ!一緒にお風呂入るんだ……!」
「…うん。そうしよっか」
後ろ髪を引かれながら、それでもまくらに付いていくことにした。
起き上がろうとした手前、波の音が耳に入ってきた。静謐な夜に一つだけ奏でられた音は妙に心地よくて、気が早い夏の気配を感じ取れた。
私は無意識に音の鳴る方に視線を移していた。ただ、なんとなく。もしかしたら、ここがどこなのかをちゃんと確かめたくて動いたのかもしれない。
大きすぎる間違いだった。
ソレと目が合う。
「キィ。キィ。キィ」
ソレが話しかけてくる。
ソレは、まんまるで、色がなくて、かわいいいいいいくて、いっぱい詰め込まれている。息をする隙間もなく、みんな死んでいた。死体が波打って、じわじわと迫って来る。
ソレの擦れあう音が甲高い泣き声に聞こえた。
腐敗臭に乗せて形のない刃が降り注ぐ。雹。針。槍。――何物にも喩え難い猛烈な痛みが襲う。
私は水の抜けたナメクジだった。全身が溶けて、悲鳴を上げるような口もない。ひたすらに声にならない声をただ上げるだけ。
疑いの余地もない。自分の死を悟った。間違いのない死を。間違いのない死を。間違いのない死を。間違いのない死を。間違いのない死を。間違いのない死を。間違いのない死をーー
「落ち着けアンナちゃんっ!!」
突如、月光が辺りを照らす。
「全て勘違いだっ!!目の前にあるのはただの海に過ぎないっ!!思い込みに惑わされてはダメだっ!!!」
感覚を覆っていた濃い闇が、光に照らされて薄まっていく。現実のものとは思えなかった光景は、やっぱり現実ではなかったらしい。目の前にはただ、鉛色の海が広がっていた。
「安心するのだ。心強い美少女がここにいるのだからな」
まくらの輝いた笑顔に心が落ち着く。苦痛の波も既に収まった。
ぐぅ。
空気の読めないお腹の虫が鳴いた。
「よしっ、飯じゃ!今からファミレス行くぞっ!今日は私がおごってやる!」
「いいの?」
「遠慮するな、金ならある!親の金がなっ!!」
「ちょっと遠慮しちゃうなぁ……」
彼女のおとぼけに釣られて、自然と笑みがこぼれた。彼女の温もりがしみじみと不安をほどいていく。
借りた手を今一度ぎゅっと握って、その中を流れる温かい血を感じる。
彼女に導かれながら砂浜を駆けていく。私たちの街の方へ、転ばないように気をつけながら。
ぐぅ。
またお腹の虫が鳴く。よほどご立腹なようだ。
「お腹空いたなぁ…」よだれが口の中に湧きはじめる。
「……今は我慢だ。ご飯は逃げないぞ」
まくらの言う通り、焦っても仕方がないのはわかっていた。それでも喉がカラカラと渇ききっており、何でもいいから今すぐに潤いが欲しかった。
「まくら…お水持ってたりしない?」
「水か……っ。…純粋な水はすぐに出せん。海岸入り口の水場に飲める場所があったはずだ、そこへ寄ろう。だから今は――じっと耐えるのだ」
ぐぅるるるるあああああああああああああああああああああああああああああああ。
腹の獣が雄叫びをあげる。首元の腫瘍が疼きだす。
だからこそ、私は彼女の小さな手を強く握る。
彼女はずっと私に話しかけてくれた。何も、聞こえなかった。
随分とお腹が空いた。もう、今すぐ何か食べないと死んでしまうほどに。
そこに温かなスープがあった。神秘さえ感じる美味しそうなスープだ。まるで、生きているようにすら思える。
私はもうじき、間違いなく死ぬ。それを食べなければ、間違いなく死ぬ。
もう、我慢できなかった。
本能が、その赤いスープを食らった。
―――――――――――――――――――――
苦い鉄の味がした。最初、それが一体なんなのかわからなかった。
――私は今…何をしてた?
口は開いているのに、発声が出来ない。太い棒状のものが詰まっている。何かを噛んでいる?
「あぁぁぁ…!」
まくらのうめき声が響く。すぐ、口元で。
血の気が引くのがわかった。それは彼女の血の気でさえも。
私が噛んでいたのは、彼女の首だ。
何よりも先に、自分の身体を彼女から遠ざける。砂塵が舞い、気づけば倒れ込んでいた。さっきまで右手に残っていた温もりが砂に埋もれていく。
見上げた先で、月明かりに照らされた赤い液体を目の当たりにした。
「…ご………」
ごめんなさい。そんな謝罪もはっきりと口に出来なかった。全身の震えが止まらず、そのまま固まって動けなくなる。
私は、私が怖い。彼女に襲いかかった瞬間の記憶は確かにある。しかしその間の思考がとても、人間のものではなかった。
血管に食欲を覚えた。彼女が意思のある生物であることを忘れた。彼女の手を掴んで、捕まえたと思った。本能のようなものが、それを好機と捉えていた。
これが本能だと言うのなら……私は一体何なんだ。
「安心…しろ……アンナちゃん…。これで傷つくような…私ではないのだ…」
涙を押し殺した彼女の声は、今まで聞いたことのないほどに力が込められている。
彼女は自身の首を鷲掴むが、指の隙間からぼたぼたと鮮血が溢れて落ちる。すぐに首周りを光が包むがひどく弱々しい輝きだった。
「やはり海は綺麗ですねぇ。それに加えて皆既月食とは!いやあ、良いものを見させていただきました!ありがとうございます!なるとさんっ!」
陽気な拍手が耳に刺さる。一眼レフを引っ提げ、何もない闇を切り撮りながら、背丈の高い彼が歩み寄ってくる。
「記念にもう一枚」
向けられたレンズが私を嘲笑った。
「これにて決着だとはお思いになりませんか、“天使”様?」
「お前が身に宿しているのは…吸血鬼か?」
“天使”への呼びかけに答えたのはまくらだった。
「ご明察でございます」
「ふざけるなッ!!特異点と違――」
「逆転の発想というものですよ。俺が当人に対する脅威を演じるのではなく、当人が友人の脅威になるのです。そのための一工夫ですよ。とても良いアイデアだとは思いませんか?」
首を抑えながら、彼女のもう片方の手が光を纏う。間髪入れずに青年に殴りかかるが、二の腕で軽々と受け止められた。
「そんな妄言がまかり通ってたまるものかッッ!!」
「ですが、残念なことに。どうやら世界は天使様の味方ではないようですよ」
青年は街の方角に首を向ける。視線の先で、街は街路灯と共に光り輝いていた。
それが直視できないほどに眩しくて、何度も瞬きをする。しかし、不思議と、瞬きのたびに光が減っている感覚に陥った。
ようやくまともに直視できるほどになった時、街の明かりは全て消えていた。街が映らなくなる。何かに阻まれていた。
見えたのは、巨大な闇だった。噴煙の勢いでこちらに迫ってきている。
「嘘だ……」 まくらが目を見開く。
「お別れを言うのなら今しかございせんよ。今後二度と会えないのでしょうから。どうぞ、俺のことなどお気になさらず」
「…この“悪魔”め」
力なく拳は下ろされる。彼女は重たい足取りで、ゆっくりと私に寄ってきた。
彼女の顔を見られなかった。しかし彼女は構うことなく私の頬に指を添えた。そこに力も怒りも籠もっておらず、そっと優しかった。
「すまない、アンナちゃん。君を護りきれなかったのは…私のせいだ」
「どうして――」
言葉を出そうとして喉を開くと同時に、あらゆる感情が込み上げてきた。人間としての自分を失った悲しみ、自分に抗えなかった悔しさ。そして、友達に大きな傷をつけてしまった罪悪感。
感情は涙として頬を流れる。それを彼女の手が受け止めていた。
悪いのは私なのに。どうして私が慰めてもらっているのだろう。
足らずの舌に絡むのはひたすら苦い鉄の味。
「違う……私が……」
「私がもっと早く状況を理解していれば……この男を近づけさせてなければ……こんなことにはならなかったのだ……!」
遥か上空に広がっていた星々が次第に闇に呑まれる。すぐそこにあった青年の不敵な笑みも見えなくなる。
彼女の姿までも闇に押しつぶされる。触れている温もりでさえも闇に覆われて伝わってこなくなる。
近くにあるはずの声が、遠くで呼びかけてくるように小さく聞こえた。
「たとえどんな姿になろうとも、私はずっとアンナちゃんの友達でいるからな――――」
やがて、身体は重力を失い、世界を離れ、私は――天に導かれた。
“Judgement Days”。それは神による慈愛の地。
人は死ぬと生前の行いの積み重ねによって天国もしくは地獄へ進むレールに乗せられる。しかし時として善行と悪行のバランスが拮抗し、いずれのレールに乗せるのも相応しくない彷徨い人が存在した。彼らへの神の私審判の場として、Judgement Daysは設けられている。
彷徨い人はJudgement Daysにて数日から数年の間、特異な日々を過ごす。地獄からは悪魔、天国からは天使が派遣され、そこで数々の困難を恣意的に引き起こす。そうして姿を現した生の姿勢により、彷徨い人は進むべき地への切符が切られるのであった。
「ご苦労だった、まくら」
また一つの役目を終えた帰路、大先輩が話しかけてきた。
「…私はどうすればよいのだろうか」
「神の判断とは絶対であり間違いなどありえない。ならば彷徨い人に対して過度に情を持つな。私たちは人間の導き手ではない、神の審判を助く者だ。それを決して忘れるな」
「うむ…」
「君の“即興劇”は高い評価を得ている。しかし休みが欲しければ好きなだけ休め」
「………」
私の行動は、はたから見れば劇と扱われてしまうか。望んだ響きではないが、悪意でなければ善意で応えよう。
「…ありがたいな。お言葉に甘えて少し休みをもらおうか。せっかくの天国なのだ、幸せを目指さんとな」
――前日譚 終幕――




