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死に戻る公爵令息は嘘を知らない  作者: 秋月アムリ


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6.真実の愛を誓う

 衛兵たちの怒号と、リリフィエの最後の甲高い絶叫が、まるで遠い世界の出来事のように響いている。

 騒ぎは徐々に屋敷の向こうへと遠ざかり、やがて生垣の裏手には、俺とアリシア、そして冷たい月明かりだけが残された。


「…………」


 俺の腕の中で、アリシアがまだ小さく震えている。

 無理もない。ついさっきまで、命の危機に晒されていたのだ。

 それも、あの狂気に満ちた従姉妹によって。


 俺は、彼女を抱きしめる腕に、そっと力を込めた。

 リリフィエは連れて行かれた。終わったのだ。


 まずは、彼女を安心させることが先決だ。

 彼女の燃えるような赤い髪が、俺の礼服の胸元で揺れた。体がひどく冷え切っている。


「……帰ろう、アリシア。ここは冷える」


 俺は、できるだけ穏やかな声で言った。

 アリシアは、俺の胸に顔を埋めたまま、小さくこくりと頷いた。


 だが、ショックから抜け出せないのか、言葉は返ってこない。

 恐怖に加え、混乱もあるのかもしれない。

 なぜ俺がリリフィエの狂気を知っていたのか。なぜ俺が彼女を助けに来たのか。


 俺は彼女の細い肩をそっと抱き、ゆっくりと屋敷の明かりが漏れる方へと歩き出した。

 侍従たちが、何事かと遠巻きにこちらを見ているのが分かった。

 だが、今は誰にも何も言わせるつもりはなかった。


「客間に、温かいお茶を二つ。それから、アリシア嬢のための毛布を。急いでくれ」

「は、はい! かしこまりました!」


 侍従たちに有無を言わさぬ口調で命じると、俺はアリシアを連れて、一番静かな客間へと向かった。

 暖炉にはまだ火が残っており、部屋の中はほのかに暖かい。

 俺はアリシアを、一番火に近い、柔らかなソファにゆっくりと座らせた。


「……もう、大丈夫だ。誰も君を傷つけたりしない」


 俺は彼女の前に膝をつき、まだ冷たいままの彼女の手を握った。

 アリシアは焦点の合わない瞳で、ぱちぱちと瞬きを繰り返している。

 まるで夢でも見ているかのような顔だ。


 すぐに侍女が、お茶と分厚い毛布を運んできた。

 俺は侍女を下がらせ、自ら毛布をアリシアの肩にかけ、温かいティーカップをその手に握らせた。


 湯気が、彼女の青白い顔をぼんやりと照らす。

 二人きりになった部屋に、重い沈黙が落ちた。

 暖炉の薪が、パチリと小さく爆ぜる音だけが、やけに大きく響く。


 何から話すべきか。

 どう説明すれば、この荒唐無稽な出来事を信じてもらえるのか。

 俺が言葉を探していると、先に口を開いたのは、アリシアの方だった。


「…………どうして」


 か細い、掠れた声だった。

 彼女は、ティーカップを握りしめたまま、俺の顔をじっと見上げていた。

 その大きな瞳には、恐怖の色は薄れ、今はただ、純粋な混乱と疑問が浮かんでいる。


「どうして、あなたが……。リリフィエが、おかしいって……気付いたの?」


 その問いは、俺の胸に鋭く突き刺さった。


「なぜ……私を、助けに……?」


 俺は、彼女のまっすぐな視線を受け止めた。

 もう、誤魔化すことはできない。

 俺は、この目の前の女性に、どれだけ深い借りがあるか。

 俺の命は、間違いなく、彼女によって救われたのだ。


「すまなかった」


 俺の口から最初に出たのは、説明ではなく、心の底からの謝罪だった。


「え……?」


 アリシアが、戸惑ったように眉をひそめる。


「君を、ずっと傷つけていて、本当にすまなかった」


 俺は、握った彼女の手に、ぐっと力を込めた。


「俺は、何も分かっていなかった。君がどれだけの恐怖の中で、たった一人で戦っていたか。それも知らずに、俺は君を……!」

「待って……。待ってよ、ラグナス様。あなたが、謝ることなんて……」

「あるんだ」


 俺は、彼女の言葉を遮った。


「夜会の夜。俺は君の手を払いのけた。学院では、君の警告を嫉妬だと決めつけ、君を突き飛ばした。俺は、君が必死に差し出してくれていた救いの手を、全部、全部、叩き落としていたんだ」


 俺の言葉に、アリシアの瞳が、わずかに見開かれる。

 俺が、そこまで正確に覚えていることに驚いたのだろう。


「なぜ……。まるで、見てきたみたいに……」

「見たんだ」


 俺は、意を決した。


「信じられないかもしれないが、俺の言うことを、どうか最後まで聞いてほしい」


 俺は、ゆっくりと立ち上がり、彼女の隣に腰を下ろした。

 そして、今夜、この部屋で起きた、最初の出来事から話し始めた。


 俺が、リリフィエの狂気に満ちた告白を聞き、あの銀色のナイフで胸を刺されたこと。

 意識を失い、死んだと思ったこと。

 そして、次に目覚めた時……俺の意識が、アリシア、君の体の中にあったことを。


「…………は?」


 アリシアが、間の抜けた声を上げた。


「馬鹿げていると思うだろう。俺も、今でも信じられない」


 俺は構わず続けた。


「俺は、君の体で、過去に戻っていた。あの最悪な夜会の、当日に」

「夜会……?」

「そうだ。俺は、君の部屋で、君の日記を見つけた。リリフィエの異常性に気づき、恐怖に震えながらも、俺を守ろうと決意する、君の苦悩がそこにはあった」

「…………!」


 アリシアが、息を呑んだ。

 まさか俺が、自分の日記の存在を知っているとは思わなかったのだろう。


「そして俺は、君の体で、あれを見た。君がリリフィエの部屋で見た、あの地獄を」

「あ……」

「俺の髪の毛。切り刻まれた肖像画。狂気的な日記。君があれをたった一人で見て、どれだけ怖かったか……俺はそれを、君の体で、君の心で、感じたんだ」


 俺の告白に、アリシアの顔から急速に血の気が引いていく。

 彼女は自分の秘密の、一番深いところまで、俺が知ってしまったことに狼狽えているようだった。


「俺は(アリシア)として、あの夜会に出た。君がそうしたように、(ラグナス)に警告しようとした。だがリリフィエの監視は完璧だった。俺は、何も伝えられなかった」


 俺は、自嘲するように笑った。


「そして俺は、過去の俺に、君が言われたのと全く同じ言葉を言われたよ。『君は、本当に迷惑だ』ってな」


 俺はあの時、ラグナスに手を払いのけられた、アリシアの右手をそっと持ち上げた。

 その手の甲は、今はもう赤くも何ともない。


「あの時、君が感じた絶望が、やっと分かった。守ろうとした相手に、心の底から拒絶される痛みが、どれほどのものだったか」

「ラグナス、様……」

「君の意識が、あの時どこにあったのかは分からない。だが君の体は、君の心は、俺に全てを教えてくれた。……そして俺は、あの絶望の瞬間に、刺殺される直前の、この体に戻ってきたんだ」


 俺は、自分の胸を指差した。

 服の下には傷跡一つない。


「間一髪だった。君が教えてくれた真実のおかげで、俺はリリフィエの凶行を止めることができた。君が、俺を救ってくれたんだ、アリシア。もう一度言う。本当にすまなかった。そして……ありがとう」


 俺は、すべてを話し終えた。

 客間には、再び沈黙が落ちる。


 アリシアは、その大きな瞳で俺をじっと見つめたまま、何も言わない。

 燃えるような赤い髪が、暖炉の火に照らされて、きらきらと輝いている。


 俺は、急に不安になった。

 この突拍子もない話を、彼女が信じてくれるはずがない。


 いや、仮に信じてくれたとして、秘密を暴かれ、さらにはその体まで、男である俺に勝手に使われていたのだ。

 軽蔑されても、罵られても、当然だ。


「男の俺が、君の体に入っていたなんて、気持ちが悪いだろう。不快にさせたことも、謝らなければならない。本当に、申し訳……」


 俺が頭を下げようとした、その時。

 アリシアが、その冷たかった手で、俺の手を、逆に強く握り返してきた。


「……そうじゃないの」


 彼女は、静かに首を横に振った。

 その声は、もう震えてはいなかった。


「気持ち悪いなんて、そんなこと、思ってないわ」

「え……?」

「……私も、夢を見たの」


 俺は、顔を上げた。

 彼女は、まっすぐに俺の瞳を見つめ返していた。


「夢……?」

「ええ。昨日の夜。あなたがリリフィエに胸を刺される、とても鮮明で恐ろしい夢を見て、飛び起きたの」

「……!」

「だから胸騒ぎがして……学院で、あの子の監視を厭わずあなたを呼び出したのも、その夢のせいだったのよ」


 息を呑んだ。

 あの時の彼女の必死な形相が蘇る。

 あれはただの警告ではなかった。

 彼女もまた、俺の死を予感していたんだ。


「でも、あなたは信じてくれなかった。だから不安で不安で……。リリフィエの様子も一段とおかしくなっていたから……あなたが心配で屋敷まで来てしまったの」


 彼女は、恥ずかしそうに視線を伏せた。


「リリフィエと違って、あなたのお屋敷に忍び込んだり、私室に勝手に入る度胸もなかったから……屋敷の周りで、どうしようかって、うろうろしてたのよ。そしたら屋敷からリリフィエが、狂ったみたいに飛び出してきて……」


 そこからの出来事は、俺が目撃した通りだ。


「あなたの話がもし、全部本当なら……」


 アリシアは再び俺の顔を見た。

 その瞳には、もう戸惑いはない。

 何か大きな、温かいものでも受け入れたかのような、穏やかな色が浮かんでいた。


「私のしたことも……意味があったのかな……」

「ああ……ああ」


 俺は、息を吐いた。

 奇跡、と呼ぶにはあまりにも過酷で、荒唐無稽な出来事だ。

 だが俺たちは間違いなく、魂のどこかで繋がっていた。


「俺はずっと君に助けられていたんだ。俺が気づかないところで、ずっと。……俺が君を誤解していた、あの時も、今、この瞬間も」


 俺は彼女の手を握りしめたまま、ソファから立ち上がり、彼女の前にもう一度、深く膝をついた。


「アリシア」


 彼女の燃えるような赤い髪も、その気の強そうな瞳も、俺を守るために必死に戦ってくれたその不器用さも、その全てが、今は愛おしくてたまらなかった。

 俺は、彼女をまっすぐに見上げた。


「今までの俺は、公爵家の嫡男として、家柄のため、ただ流されるままに生きてきた。リリフィエとの婚約も、家が勝手に決めた、ただの義務だった」


 彼女の瞳が、わずかに揺れる。


「だが、もう違う」


 俺は、彼女の冷たかった手を、自分の両手で包み込み、温めるように握った。


「俺は、君が俺の知らないところで流した涙も、俺のために抱えてくれた恐怖も、その全てを知った。その上で、俺自身の意志で伝えたいことがある」

「ラグナス、様……?」

「君があの孤独な戦いの中で俺を守ってくれたように、今度は俺が、君を守りたい。君の隣で、これからの未来を、一緒に歩みたいんだ」


 俺は一度言葉を切り、深く息を吸った。

 これは、俺が俺の人生で初めて、自分の意志で下す、最大の決断だ。


「アリシア・ヴァリエール。どうか……どうか俺と、結婚してくれないか」


 静寂が、部屋を包んだ。

 暖炉の火がぱちりと高く跳ねた。


 アリシアは、目を見開いたまま固まっていた。

 その大きな瞳が、何度も、何度も、瞬きを繰り返す。

 やがてその美しい瞳の縁に、透明な雫が、みるみるうちに溜まっていくのが見えた。


 ぽたり、と。

 彼女の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

 それは、俺が屋敷の裏手で見た、恐怖に濡れた涙ではない。

 俺が夜会で見た、リリフィエの嘘に満ちた涙でもない。


「…………馬鹿ね」


 彼女は、しゃくりあげながら、そう言った。

 泣き笑いの、ひどく不器用な顔だった。

 こんな泣き笑いなら、何度でも見たいなどと場違いな感想が浮かんだ。


「あなたって、本当に……鈍感で、馬鹿なんだから……」

「ああ」


 俺は、心の底から同意し、微笑んだ。


「違いない。俺は世界一の馬鹿で、世界一の鈍感男だ。君がいなければ、あの狂った女に殺されて、何も知らずに終わってた」

「ふふ……っ、うう……」

「だから……だからそんな馬鹿を、これからは君が、隣で支えてくれないか。君のことは、これからは俺が守るから」


 アリシアは、もう何も言わなかった。

 ただ、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、何度も、何度も、深く頷いた。


 俺はそっと立ち上がり、彼女の細い体を、優しく引き寄せた。

 今度こそ、俺自身の、はっきりとした意志で。


 彼女の震えが、ようやく止まったのが分かった。

 俺の腕の中で、彼女はまるで子供のように、声を上げて泣いていた。

 俺はその燃えるような赤い髪を、何度も、何度も、優しく撫で続けた。



 *



 その後、リリフィエ・アシュベリの凶行は、王都を揺るがす大スキャンダルとなった。

 公爵家嫡男である俺の殺害未遂、そしてヴァリエール家令嬢アリシアへの殺害未遂。


 アシュベリ侯爵家は、取り潰しこそ免れたものの、その権威は失墜した。

 リリフィエの部屋から押収された、あのおぞましい証拠品の数々――俺の髪の毛、切り刻まれた肖像画、そしてあの狂気の日記――が明るみに出ることはなかった。

 公爵家とヴァリエール家の圧力、そして王家の威信にかけて、それらは全て闇に葬られた。


 リリフィエは、公式には「病による精神の錯乱」と発表され、人里離れた北の修道院に、生涯幽閉されることになった。

 二度と、彼女が表舞台に戻ってくることはないだろう。


 そして、俺とアリシアの、あまりにも早急な婚約発表は、社交界で新たな憶測を呼んだ。


「リリフィエ嬢の事件を隠蔽するための、政治的な取引だ」

「ヴァリエール家の悪評を、公爵家の力でねじ伏せたのだ」

「所詮はあの悪名高きアリシア嬢。公爵令息を誑かしたに違いない」


 好き勝手な噂が、嵐のように吹き荒れた。

 だが俺たちはもう、そんな周囲の雑音など、一切気にしなかった。


「なあ、アリシア」

「何よ、ラグナス様。……あ、いや」

「様なんて付けなくていいと言っただろう? 俺たちは、もうすぐ夫婦になるんだから」


 俺がそう言うと、彼女はまだ慣れない様子で「う……」と言葉を詰まらせ、俯いてしまった。

 事件が解決し、婚約者として過ごすようになってからも、彼女の根本的な不器用さや、気の強そうな物言いは変わらない。

 だが俺は、そんな彼女が素直になれない照れ隠しをしていることを、もう知っている。


「……わ、わかったわよ、ラグナス」


 小さな声でそう言い直す彼女の燃えるような赤い髪が、春風に揺れている。

 その愛おしさに、俺は思わず口元を緩めた。


「それで、何よ?」

「ああ。……君は、今日も情熱的だなと思ってな」


 俺は、彼女がまとっている鮮烈な真紅のドレスに、わざと視線を送った。


「なっ……! なによ、文句あるの!? これが私の勝負服なのよ!」

「いや、知っている。君に一番似合っている」


 今日も彼女はあの真紅のドレスによく似た、派手なデザインの服を着ている。


「でも君にはもっと淡い色の……そう、白とか、水色とか、そういう色も似合うと思うんだが」

「……それってリリフィエ(あの子)の好みじゃない」


 彼女は、少しだけ、拗ねたように唇を尖らせた。

 俺は、慌てて首を横に振る。


「そうじゃない! 君は何を着ても綺麗だ。だがこのデザインは……その、他の男の目を引かないか、心配でな」


 俺が素直にそう言うと、アリシアは、一瞬きょとんとした後、顔を真っ赤にしてそっぽを向いてしまった。


「…………馬鹿じゃないの。今更なにを言ってるのよ」

「馬鹿で鈍感なのは、君が一番よく知っているだろう?」

「……うるさいわね!」


 彼女はそう言って、俺の腕を軽く叩いた。

 だがその瞳は、嬉しそうに細められている。


「……そういえば、あの香水は、最近つけていない気がするな?」


 俺の言葉に、アリシアの肩が、びくりと小さく跳ねた。

 彼女は気まずそうに視線をそらし、早口で答える。


「……あ、あれは! もう、つけてないわよ! あなたが、あの夜会で……すごく、嫌そうな顔をしたから……」


 俯いた彼女の声が、かすかに震えている。

 俺は立ち止まり、彼女の手をそっと取った。


「アリシア」


 彼女が驚いて顔を上げる。


「すまなかった。……あの時の俺は、何も見えていなかった。君が、あの香りでどれだけ必死に自分を奮い立たせていたかも知らずに」

「ラグナス……」

「正直に言えば、あの時は、むせ返るような匂いだと感じた。だが……」


 俺は、彼女の手を握る手に力を込めた。


「この間、君の部屋の化粧台で、あの香水瓶を見かけたんだ」

「えっ!? ちょっと、勝手に人の部屋を……!」

「侍女に許可は取ったさ。……確かめたかったんだ」


 俺は彼女の赤い瞳をまっすぐに見つめ返す。


「あの時はあれほどきつく感じた香りが、ほんの少量、布に含ませただけだと……驚くほど、甘くて、心を惑わすような……とてもいい香りだった。俺はまたもや何も気づいていなかった、と心底思ったよ」

「…………っ!」

「だから、というわけじゃないが、君はそのままでいい。無理に武装する必要はもうないけれど、好きなドレスを着て、好きな香りをつければいい」


 俺はアリシアをそっと引き寄せ、その細い腰を抱いた。


「ただ……俺の前でだけは、君が一番リラックスできる姿でいてほしい。……まあ、あまりいい香りをさせすぎると、俺が我慢できなくなるかもしれないが」

「な……っ!」


 アリシアが、今度は抗議の声を上げようと口を開いた。

 俺は、その言葉を、自分の唇で優しく塞いだ。


「ん……!?」


 彼女が驚きに目を見開く。

 だが、俺が逃がさないとばかりに深く口づけると、彼女はやがて諦めたようにそっと目を閉じ、俺の礼服の胸元をか弱い力で掴んだ。


 ようやく唇を離すと、彼女は潤んだ瞳で悔しそうに俺を睨み上げていた。

 その頬は、彼女の髪の色に負けないくらいに、真っ赤に染まっている。


「……本当に、馬鹿で、鈍感で、スケベね、あなたは」

「ああ。世界一の馬鹿で、鈍感で、君に夢中な男だ」


 俺は、彼女の赤い髪に顔をうずめた。

 香水の匂いではない、彼女自身の、陽だまりのような甘い香りがする。


「俺は、君の本当の香りも、大好きだ」

「……知ってる」


 俺の背中に、彼女の細い腕が、ためらいがちに、しかし強く回された。


 かつて俺がリリフィエと歩むと信じていた、穏やかで平凡な未来ではない。

 きっと、予想もつかない波乱がこれからも待っているのだろう。

 でもそれが、不器用で、真っ直ぐで、そして誰よりも温かい心を持った女性と共に歩む未来だ。


 俺の命を救ってくれた、この燃えるような赤い髪。

 彼女のその不器用な笑顔こそが、俺があの不思議な体験を経て、命懸けで手に入れた、何よりも大切な宝物だった。



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