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死に戻る公爵令息は嘘を知らない  作者: 秋月アムリ


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4.絶望の夜会

 アシュベリ侯爵家の屋敷は、ヴァリエール家の屋敷とは対照的に、白を基調とした上品な佇まいだった。

 だが今の俺には、その白亜の壁が、狂気を隠すための仮面のようにしか見えない。


「まあ、アリシアお嬢様。本日は、どのようなご用件で?」


 出迎えた侯爵家の侍女は、明らかに戸惑いを隠せない様子で、俺の顔を値踏みするように見ていた。

 この屋敷でも、アリシアは招かれざる客なのだろう。


「リリフィエに、夜会の前に少し話があって来たの。あの子は?」

「は、はい。リリフィエお嬢様は、ただいま、夜会のためのお支度の最中でございますが……」

「ちょうどいいわ。支度が終わるまで、あの子の部屋で待たせてもらうわよ」

「えっ、しかし……」


 侍女が何か言いかけるのを、俺は遮った。


「何よ。従姉妹が部屋で待つことに、何か問題でもあるっていうの? それとも侯爵家の侍女は、ヴァリエール家の人間を廊下で待たせるというの?」

「そ、そのようなことは……! か、畏まりました。ただいま、ご案内いたします」


 侍女は、俺の剣幕に屈したようだった。


(……こんなに簡単なことだったのか)


 貴族の作法だの何だのと、息苦しい思いばかりしていた。

 だがこのアリシアの性格はある意味、どんな鍵よりも強力に、物事を強引に進める力があるらしい。


 案内されたリリフィエの部屋は、記憶にある通り、白と淡いピンクで統一された清らかな空間だった。

 ……少なくとも、扉から中を見る限りでは。


「では、アリシアお嬢様。こちらでお待ちくださいませ」

「ええ。あ、そうだわ」


 私は、部屋に入ろうとする足を止め、侍女を呼び止めた。


「リリフィエには、私が来ていることは言わなくていいわ。驚かせてあげたいから。支度が終わって、あの子が部屋に戻ってくるまで内緒にしておいてちょうだい」

「……はあ。畏まりました」


 侍女は、またしても怪訝な顔をしたが、逆らうことはできないと判断したようだ。

 パタン、と扉が閉まる。

 部屋の中に、私一人だけが残された。


(…………)


 しん、と静まり返った部屋。

 窓から差し込む陽射しが、埃一つない床を照らしている。


 一見、何の異常もない。

 だが俺は知っている。

 アリシアが、この部屋で何かを見たことを。


(どこだ)


 侍女かリリフィエが戻ってくるまでのわずかな時間で、その何かを見つけ出さなければならない。

 部屋の中央には、天蓋付きのベッド。壁際には大きな姿見と、白い木製のクローゼット。そして小さな書き物机。

 かつて目にした、清純なイメージそのままの家具。


(匂い……)


 アリシアの日記にあった。『変な匂いがした』

 俺は、部屋の空気を深く吸い込んだ。

 ……花の香りだ。リリフィエがいつも身にまとっていた、甘く、控えめな花の匂い。

 血の匂いなど、どこにもしない。


(アリシアの思い過ごしか……? まさか全て妄想だった……?)


 いや、そんなはずはない。

 アリシアの体に残る記憶が、この部屋にいること自体に、微かな警鐘を鳴らしている。

 胸の奥が、ざわざわする。


 まず、書き物机に向かった。

 机の上には詩集や羽ペンが綺麗に整頓されている。

 引き出しを開ける。

 便箋、インク、封蝋。どれもごく普通のものだ。

 一番下の引き出し。

 ……鍵がかかっている。


(これか)


 私は、ドレスのポケットに隠し持ってきた、持ち手の付いた細い針金を取り出した。

 これは、アリシアの部屋から拝借してきたものだ。

 あの女はこういう時のために、錠前破り用の道具を宝飾箱に紛れ込ませていたようだ。


(本当に何をしていたんだ、この女は)


 俺がラグナスとして生きてきた十七年間では、およそ縁のない道具だった。


 針金の先を鍵穴に差し込み、指先の感覚を頼りに、内部の構造を探った。

 どうやらこの体は、この作業に覚えがあるようだ。

 俺の意思とは別に、指先が勝手に最適な角度と力加減で動いていく。

 カチリ、と小さな、しかし確実な手応えがあった。


(開いた……!)


 俺は息を呑み、ゆっくりと引き出しを開けた。

 そこにあったのは日記帳だった。

 黒い革張りの、分厚い日記帳。

 そして、その隣に。


「…………っ!」


 俺は思わず口元を押さえた。

 声にならない悲鳴が、喉の奥から込み上げてくる。


 そこにあったのは、数十、もしかすると数百本の、金色の髪の毛だった。

 まるで宝物のように、赤いリボンで丁寧に束ねられている。


(これ、は……)


 間違いない。この金髪は。

 俺の、ラグナス・エルクハルトの髪の毛だ。


(なぜ、こんなものが)


 俺は震える手で、日記帳を手に取った。

 ページを開く。

 そこには几帳面な文字が、びっしりと並んでいた。


『ラグナス様の髪。今日も手に入れた。侍従に銀貨を握らせた甲斐があった』

『ラグナス様の金色の髪。月の光に透かすと、まるで天使の輪のよう。美しい』

『この髪は、わたくしだけのもの。誰にも触れさせない』


 ぞわり、と全身の肌が粟立った。

 次のページをめくるとそこには、俺の行動が事細かに記録されていた。


『十時。学院の中庭で、歴史学の教科書をお読みになっていた。三回、眉間に皺をお寄せになった。素敵』

『十六時。どうしても外せない来客。侍女たちに見守りを任せる。本来ならば一時も彼の側を離れたくないのに』


 ページをめくる手が、止まらない。


『九時。ラグナス様があの忌々しい女と廊下ですれ違われた。彼はあの女に一瞬、視線を向けられた。許せない。あの女の目を抉り出してやりたい』

『十四時。剣術の訓練。汗を拭う仕草がとても勇ましかった。あの汗を、わたくしが舌で拭って差し上げたい』

『十二時。ラグナス様がわたくしの持参したサンドイッチを召し上がった。わたくしが咀嚼して柔らかくしてから、わたくしの血を混ぜ込んだ挽肉。それを召し上がった。ラグナス様とわたくしがひとつになる。ああ、なんて素晴らしい』


「…………う」


 喉が引き攣った。今更吐き気が込み上げてくる。


 俺は、こんな女と、婚約していたのか。

 こんな女を、お淑やかだと信じ込んでいたのか。


(アリシアの日記の通りだ……!)


 俺はクローゼットを開けた。

 白い清純なドレスが並ぶ、その一番奥。

 他の服に隠されるように、一枚の、大きなキャンバスが立てかけられていた。

 それを引きずり出す。


「あ…………」


 俺は今度こそ立っていられなかった。

 腰が抜け、その場にへたり込む。

 それは、俺、ラグナスの肖像画だった。


 だがその顔の部分だけが、まるで狂ったように何度も何度も、執拗に切り刻まれ、抉り取られていた。

 そして顔があった場所には、別の女の肖像画の切れ端がデタラメに貼り付けられ、その全てに赤いインクで「死ね」「消えろ」「ラグナス様を奪うな」などと書き殴られている。


 貼りきれなかった断片はクローゼットの床面に散らばっていた。

 アリシアの肖像画らしきものもそこにあった。


(これが、リリフィエの……本性)


 アリシアは、これを見たのか。

 ひとりで。この、地獄のような部屋で。


 どれだけ怖かっただろう。

 俺に、どうにかして伝えなければと、どれだけ必死だっただろう。


(俺は、何も知らなかった)


 俺は、アリシアが俺のためにどれだけ傷つき、苦しんでいたか、何も知らずに。

 彼女を迷惑だと断じ、突き飛ばし、傷つけた。

 そして俺は……この狂気の女に、無防備に殺された。


(馬鹿だ……! 俺は、なんて馬鹿だったんだ!)


 怒りと後悔で体が震える。

 だが今は、感傷に浸っている場合じゃない。

 俺はこの証拠を持って、ここから出なければ。

 そして今夜の夜会で、あの凡庸なラグナスに、これを叩きつけるんだ。

「お前が愛している女の正体だ」と。


 俺は狂気の日記帳と肖像画の切れ端を、ドレスの (幸いにも、このドレスは装飾過多で、隠し持つ場所には困らなかった)内側にねじ込んだ。


(よし。あとは、この部屋を出て……)


 その時だった。

 ガチリ、と。

 背後で、静かに、扉の鍵が閉まる音がした。


「え……?」


 俺は凍りついた。

 侍女か? いや、侍女なら、ノックもなしに鍵を閉めたりしない。


「まあアリシア。きていたのね」


 リリフィエだった。


「わたくしの部屋で、一体、何をしていたの?」


 その声は、いつも俺が聞いていた、お淑やかで、か弱い声とは、似ても似つかない。

 氷のように冷たく、感情の欠片も感じさせない、無機質な声だった。


「…………!」


 俺は、ゆっくりと振り返った。

 夜会用の、純白のドレスを身にまとって。後ろ手に扉を閉めて、リリフィエが立っていた。


 その顔は、一切の感情を削ぎ落としたかのような、無表情。

 その底知れない瞳が、俺と、クローゼットと、床に転がった肖像画を、ゆっくりと順番に映していく。


「あ、あら、リリフィエ……。私、その、あなたに挨拶を、と思って……」


 俺は、必死にアリシアの傲慢な仮面を被ろうとした。

 だが、声が震える。

 目の前の女に、本能的な恐怖を抱いている。


「……見たのね」


 リリフィエが、静かに言った。


「わたくしの、宝物を」


 彼女は、一歩、部屋に足を踏み入れた。

 カツン、と、小さな靴音が、やけに大きく響く。


「……ま、別に構わないわ」


 彼女は、ふふ、と笑った。

 だが今はその笑顔が、この世の何よりも恐ろしかった。


「どうせ、あなたが誰に何を言ったところで、誰も信じたりしないもの」

「なっ……!」

「『お淑やかなリリフィエ様が、そんなことをするはずがない』、『アリシア様が、またラグナス様に嫉妬して、嘘を吹聴しているだけだ』……そう、みんなが言うわ。そうでしょう?」


(……この、女!)


 そうだ。アリシアの日記にも、そう書かれていた。

 この女は、自分がどう見られているか、完璧に理解している。

 その上で、アリシアが社会的に悪役であり、その証言に何の信憑性もないことを、分かっているんだ。


「だからアリシア。あなたに一つだけ、忠告してあげる」


 リリフィエは、ゆっくりと俺に近づいてくる。

 隠し持った日記帳がばれないか気が気でない。

 花の香りに混じって、鉄錆のような匂いがした。


「ラグナス様には、絶対に近づかないで」

「…………何ですって?」

「ラグナス様は、わたくしのもの。わたくしだけの、大切な、大切な宝物なの」


 彼女の瞳が、うっとりと、狂気の熱を帯び始める。


「あの人の、あの美しい金髪も、透き通るような青い瞳も、わたくしを呼ぶ優しい声も、全部、全部、わたくしだけのもの」

「…………」

「もし、あなたが、今夜、ラグナス様と、言葉を交わしたら」


 彼女は目の前で足を止めた。

 そしてその冷たい指先で、(アリシア)の燃えるような赤い髪を、一本、すくった。


「この忌々しい髪の毛を全部引き抜いて、抜いた数だけ針を刺してあげる」


 それは静かな、しかし、絶対的な殺意の宣告だった。


「……分かったら、お行きなさい」


 リリフィエは俺から興味を失ったように、くるりと背を向けた。

 そして、ガチャリ、と部屋の鍵を開けた。


「夜会でお会いしましょう。アリシア」


 彼女は振り返り、淑女の笑みを浮かべて、そう言った。


 俺は何も言えなかった。

 ただ、狂気の日記帳と肖像画の切れ端をドレスの内側に隠し持ったまま、逃げるように、その地獄の部屋を後にした。

 背後でリリフィエの、楽しそうな小さな鼻歌が聞こえた気がした。



 *



 ヴァリエール家への帰りの馬車の中、俺はずっと震えが止まらなかった。

 それは、この体が感じている本能的な恐怖と、俺が感じている戦慄と後悔が、ぐちゃぐちゃに混ざり合った、どうしようもない感情だった。


(あれは、化け物だ……)


 リリフィエは、俺の想像を遥かに超えた化け物だった。

 彼女は自分の狂気を自覚し、それを完璧に隠蔽し、さらには、それを武器として脅迫してきた。

『誰も信じない』その言葉が、頭の中で何度も反響する。


(どうする? 俺は)


 ドレスの内側で、日記帳の硬い感触が、現実を突きつけてくる。

 ……彼女の余裕は、(アリシア)があの肖像画を見ただけだ、と思っているからかもしれない。

 たしかに、断片を持ち出したところで、彼女がやった証拠にはならない。


 しかし彼女の筆跡で書かれた日記帳は?

 日記帳は鍵付きの引き出しの中にあった。彼女は、アリシアに錠前破りの技術があることまでは把握していないはず。俺がこれを持ち出したことは、少なくともすぐには発覚しないだろう。これは切り札になり得る。


 だがこれを、どうやってラグナスに渡せばいい?

 リリフィエは、アリシアがラグナスに近づくことを、あれほど強く牽制してきた。

 今夜の夜会で、俺がラグナスの前にこの日記を突き出そうものなら、リリフィエがどう反応するか。


(……その場で殺しに来るかもしれない)


 いや、それはないか。

 彼女は、周りの目を異常に気にする。

『お淑やかなリリフィエ』という仮面を、自ら剥がすような真似はしないはずだ。

 だがその後、俺がどうなるか。想像するだに、恐ろしい。


(だが、やらなければならない)


 俺は、あの凡庸なラグナスが、あの狂った女に殺される未来を知っている。

 それを変えなければならない。

 俺が生き延びるためにも。

 そして、この体を勝手に借りてしまっている、アリシアのためにも。


 馬車がヴァリエール家の屋敷に到着した。

 マリーが心配そうな顔で出迎えてくれる。


「お嬢様……! 顔色が真っ青でございますが……」

「うるさいわね。少し馬車に酔っただけよ。それより夜会の準備は?」

「は、はい! すぐに、王宮へと向かえるよう、手配は整っております!」

「そう。なら、いいわ」


 俺は震える足を叱咤し、馬車を乗り換え、王宮へと向かった。

 もう、後戻りはできない。

 今夜、全てが決まる。



 *



(今夜、俺は、()に会う)


 鏡で見た、この燃えるような赤い髪。アリシア・ヴァリエール。俺が心の底から疎んでいた女。

 その体で、俺は、過去の俺と、その隣でか弱く微笑むリリフィエに対峙しなければならない。


 アリシアの部屋で見つけた、あの鍵のかかった日記帳。乱暴な筆跡で殴り書きされていた、断片的な恐怖。


 俺は、あの日記の全てを信じたわけじゃない。

 だが俺は知っている。 俺が、リリフィエに殺されたという事実を。

 あの時の、狂気と恍惚に満ちた顔。


(俺は、どうすべきだ?)


 馬車が、王宮の車寄せに、ゆっくりと停止した。

 降り立った瞬間、夜会の喧騒と、むせ返るような貴族たちの香水の匂いが、一斉に俺の五感を殴りつけた。

 この体の感覚は、男だった俺のものより、やけに鋭敏だった。


「まあ、アリシア様だわ」

「今夜も、ずいぶんとお派手なドレスで……」

「リリフィエ様が、また何か嫌がらせを受けなければよいのですが……」


 聞こえてくる。リリフィエの隣で、同じように聞いていたひそひそ話だ。

 あの頃は「アリシアも懲りない女だ」と他人事のように、むしろリリフィエへの同情を募らせるスパイス程度にしか思っていなかった。

 だが今、その悪意の矢面に立っているのは、俺自身だ。

 この赤いドレスは、まるで「私を的にして」と言わんばかりに、周囲の悪意を吸い寄せている。


(……これが、アリシアの日常だったのか)


 胸が、チリリと痛んだ。


 俺はマリーを下がらせ、一人でホールへと足を踏み入れた。

 煌びやかなシャンデリア。軽やかなワルツの調べ。

 全てが記憶と寸分違わず同じだった。

 退屈な背景だ。だが今の俺にとっては、全てが地獄への舞台装置のように見えた。


(いた)


 視線が、自動的に吸い寄せられる。

 ホールの隅。装飾用の観葉植物の隣。俺が、いつもいた場所だ。

 そこに()がいた。


 ラグナス・エルクハルト。

 凡庸で、何も知らない、十七歳の俺。

 紺色の礼服は、我ながら悪くない。

 手にしたグラスを無意味に揺らし、いかにも退屈だという顔をしている、あの頃の俺。


(本当にいた……)


 俺がアリシアとして過去に戻ったことで、ラグナスという人物が消えてしまったのではないかと密かに心配していた俺は、内心ほっとしていた。

 それに見た限りでは、あの()に余程演技が達者な人物が入っているのでない限り、過去の俺そのものだった。


 その時だった。

 ふわりと、甘く、それでいて控えめな花の香りが、ラグナスの元へと吸い寄せられていく。

 リリフィエだ。 純白のシルクが月の光を反射するかのように輝くドレス。

 彼女の清純な雰囲気を完璧に引き立てている。かつて俺が心から綺麗だと思った、あの姿だ。


「ラグナス様」


 鈴を転がすような、しかしささやくように小さな声。

 記憶の中の、俺が好んだ声が響く。

 振り返ったラグナスは、寸分違わず、俺の記憶通りの反応をした。


「やあ、リリフィエ。今夜もとても綺麗だ」


 心からの言葉だった。あの頃の俺は本気でそう思っていた。

 彼女の頬が桜色に染まり、長いまつ毛が伏せられる。

 完璧な淑女の演技。

 俺はその光景を、身の内側で燃え盛るような焦燥感と共に睨みつけていた。


(今だ。行くしかない)


 リリフィエが、俺の存在に気づいている。

 ドレスの内側に隠した証拠の束が、やけに重い。

 彼女の脅迫が脳裏をよぎる。


 だが、ここで怯むわけにはいかない。

 俺はこの夜会の結末を知っている。

 俺が彼女を突き放し、リリフィエの嘘に満ちた涙を拭う、あの最悪の結末を。


 俺は、わざと靴音を高く鳴らし、二人の間に割って入った。


「ごきげんよう。ラグナス様。それから……リリフィエも」


 甲高く、耳に突き刺さるような声。

 我ながら実にアリシアらしい、完璧な登場だった。

 ラグナスが億劫そうに顔を上げ、不快感でぐっと眉を寄せるのを、真正面から受け止める。

 この顔。俺は、ずっと、こんな顔をアリシアに向けていた。


「アリシア……」


 リリフィエの声が、怯えた小動物のように震える。

 彼女は反射的に、ラグナスの腕にしがみついた。

 だが、今の俺には分かる。

 あの細く白い指は、怯えているのではない。

 ラグナスをアリシアから遠ざけるための、強烈な所有の意思表示だ。


「まあ、相変わらずですわね。リリフィエ」


 俺は、唇の端を意地悪く吊り上げた。


「そんなにラグナス様の後ろに隠れて。か弱さを強調したいのかしら?」


 リリフィエの目が一瞬だけ憎悪に歪むのを、俺は見逃さなかった。

 思わず震えそうになるが、ぐっと足に力を入れて耐える。


「そ、そんなつもりは……私は、ただ……」

「やめないか、アリシア」


 ラグナスが、苛立ちを抑えた低い声で言った。


「リリフィエが怖がっているだろうが」


(ああ、くそっ! この鈍感男が!)


 苛立ちが頂点に達する。

 怖がっているのは、演技だ!

 お前の隣にいるそいつが、どれだけ恐ろしい化け物か、お前は何も知らないんだ!


 俺は苛立ちを、アリシアの傲慢さに変換してぶつける。


「怖がっている? 私が何かいたしました?」

「……!」

「ただ、ご挨拶をしただけですのに。ねえ、ラグナス様?」


 俺は、証拠を渡す隙を窺うため、ラグナスに一歩近づいた。

 だがその一歩は、リリフィエによって完璧に阻まれた。


「きゃっ……!」


 リリフィエが、まるで俺に殴られるかのように、大げさに肩を震わせ、ラグナスの胸に顔を埋めたのだ。

 ラグナスは完全に俺に背を向け、リリフィエを庇う体勢になる。


(しまった……この女……!)


 これでは、ポケットに証拠をねじ込むどころか、触れることすらできない。


「リ、リリフィエ。その純白のドレス、とても素敵だわ」


 俺は、動揺を隠し、会話を続けるしかない。


「でも残念。貴女の控えめな顔立ちには、白は膨張して見えるだけじゃないかしら? まるで仔牛みたいだわ」

「ひっ……!」

「アリシア! 言葉がすぎるぞ!」


 ラグナスが、我慢ならずに強く非難する。


(そうだ。もっと怒れ。そして、俺を見ろ)


「あら、ラグナス様は仔牛がお好みでしたの? 私はただ、事実を申し上げて……」

「余計なお世話だ」

「そうかしら? ねえ、ラグナス様も、こんな影の薄い女より、私のような華やかな女の方が、よっぽど似つかわしいとは思いません?」


 俺は、ぐいと一歩踏み出し、リリフィエを庇うラグナスの肩越しに、その顔を覗き込んだ。

 むせ返るような、濃厚で甘ったるい香水。アリシアの匂い。

 ラグナスが、その匂いから逃れるように、一歩後ずさった。

 リリフィエごと、俺から距離を取った。


(駄目だ……! 隙がない……!)


 リリフィエは、ラグナスの腕を掴んだまま、決して(アリシア)とラグナスを二人きりにさせない、という強い意志で、彼に張り付いている。

 彼女の監視がこれほどまでに厄介だったとは。


「冗談はよせ。俺にはリリフィエという大切な婚約者がいる。君が入り込む隙など、どこにもない」


(大切な、婚約者……)


 その言葉が、今のアリシアの体には、あまりにも重く響いた。


「つれないのね」


 俺は、クスクスと喉を鳴らして笑う。

 もうこうなったら、過去アリシアが取った行動を、そのままなぞり続けるしかない。


「でも、婚約者なんて、所詮は家の都合で決められたものじゃありませんの。そこに、貴方自身の愛なんて、本当にあるのかしら?」

「…………君に、俺たちの何が分かる」


(何も分かっていなかったのは、俺の方だ)


「あら、図星でした? まあいいわ。そんなことより、リリフィエ」


 俺は、視線を、ラグナスの影で震える (ふりをしている)リリフィエに戻した。

 そして彼女の髪に留められた、あのサファイアの髪飾りに、視線を注ぐ。


「貴女、その髪に挿している飾り、とても素敵ね。それ、この間王都の店に入荷したばかりの新作でしょう? 私もそれ欲しかったのよ」

「あ……これは、その……先日、ラグナス様に、いただいたもので……」

「ふーん。ラグナス様から。ますます欲しくなっちゃった」


 俺は、無邪気で、残酷な笑みを浮かべた。

 そして、なんの躊躇もなく、リリフィエの髪に向かって、その手を伸ばした。


(来る)


 パシン。


 乾いた、場にそぐわない音がホールに響く。

 予想通りの衝撃。

 ラグナスが、俺の手を、強く払い除けた。


 じわり、と手の甲が赤く熱を持つ。

 あの時、俺が、アリシアに与えた痛みだ。


 一瞬、夜会のざわめきが止まり、音楽さえ遠のいた。

 俺は目を見開いた。

 それは、演技ではなかった。

 自分がしたことの報いを、自分が受ける。

 その事実に、そして、この体の奥底から込み上げてくる、アリシア自身の悲しみに、俺は打ちのめされそうになった。


「…………っ!」

「ラグナス様……?」


 呆然とした声で、ラグナスを呼ぶ。


「もういいだろう。俺たちに二度と構わないでくれ。君は、本当に迷惑だ」


 心の底からの嫌悪感を込めた、吐き捨てるような言葉。

 俺が、彼女に放った、決定的な言葉。


(違う……! お前が、何も知らないから……! 俺が……俺が、馬鹿だったから……!)


 俺は、何も言えなかった。

 ただ、じっと、ラグナスを見つめ返す。


 その瞳に宿っていたのは、アリシアが、あの時、浮かべていた色。

 驚きと、悲しみと、そして俺には到底理解できなかった、激しい感情がごちゃ混ぜになった、不思議な色。

 今なら分かる。これは、絶望だ。

 助けようとした相手に、心の底から拒絶された、深い、深い絶望だ。


「…………そう。迷惑、ですか」


 俺は、それだけ言うと、ふっと自嘲するように笑った。

 アリシアがしたのと同じように。


 荒々しい動作でドレスの裾を翻し、俺は、二人の前から足早に去った。

 背後で、リリフィエが堰を切ったように泣き出す声が聞こえる。


「す、すみません……! 私のせいで、ラグナス様に、あのような真似を……!」

「君のせいじゃない。君は何も悪くない。悪いのは、全てアリシアだ」


 ラグナスの、優しい声。


(違う……! 違う、違う、違う……!)


 俺は、ホールから逃げ出すように飛び出し、人気のない王宮のテラスへと駆け込んだ。


「はあっ……はあっ……!」


 冷たい夜風が、燃えるように熱い頬を撫でる。

 俺は、テラスの冷たい大理石の手すりにすがりつき、その場に崩れ落ちた。

 ドレスの内側に押し込んだ、リリフィエの日記と肖像画の切れ端が、ごそりと虚しい音を立てる。


(駄目だった……! 結局、何もできなかった……!)


 リリフィエの監視は完璧だった。

 俺は、ラグナスに証拠を渡すどころか、まともに話しかける隙さえ作れなかった。

 そして俺はまた、ラグナスに迷惑だと一蹴されてしまった。


(俺は、また、アリシアを傷つけた……!)


 この体で、アリシアの絶望を、寸分違わず追体験してしまった。

 手の甲が、まだ、ジンジンと痛む。

 だが、それ以上に、胸が痛い。


 アリシア……すまない。

 俺が、馬鹿だったせいで。俺が、何も見ようとしなかったせいで。


(このままじゃラグナスは殺される。そして俺は……このアリシアの体で、どうなる?)


 リリフィエは俺を、最大の害虫として認識している。

 ラグナスが俺を拒絶したことで、彼女は一時的に満足するかもしれない。


 だが俺は、彼女の秘密を知っている。

 俺も、いずれ、リリフィエに消されるかもしれない。


(どうすれば……。どうすれば、良かったんだ……)


 絶望が、全身を包み込む。

 あの時、俺がアリシアの警告を信じていれば。

 あの時、俺がアリシアの必死な瞳の奥にある真実を、見抜く聡明さを持っていれば。


 アリシアの絶望的な戦い。

 彼女が、どれほどの恐怖と孤独の中で、たった一人で、俺を守ろうとしてくれていたか。

 その全てを俺は今、この体で、骨の髄まで理解した。


(アリシア……本当に、すまなかった……)


 後悔と謝罪の念が、胸の奥から込み上げてくる。

 その瞬間。

 テラスの冷たい床も、夜風の冷たさも、何もかもが、急速に遠のいていく感覚に襲われた。


(ああ……また、意識が……結局、何も変えられないまま……終わるのか……?)


 視界が、急速に黒く塗り潰されていく。

 アリシアの体で感じた最後の感覚は、深い、深い、絶望だった。


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