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死に戻る公爵令息は嘘を知らない  作者: 秋月アムリ


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3/6

3.目覚めの時


 …………。

 ………………。


(……寒い)


 最初に感じたのは、それだった。

 まるで氷水の中に突き落とされたかのような、突き刺すような寒気。


 そして次に、全身を襲う鈍い痛み。

 まるで硬い石の床の上で、一晩中眠っていたかのような、体の節々の(きし)み。


(俺は…………)


 リリフィエに、ナイフで。

 そうだ。あの自室で、俺は確かに。


(ここは……?)


 俺は、重く張り付いたような瞼を、必死にこじ開けた。

 ぼやけた視界が、徐々に、徐々に、焦点を結んでいく。


 まず目に飛び込んできたのは、見慣れた公爵家の自室の天井――ではなかった。


 それは豪奢な、しかしどこか悪趣味とさえ言えるような、けばけばしい装飾が施された天蓋だった。

 全体的に、赤と黒を基調とした、やけに攻撃的なデザインだ。


「どこだここ…………んぇっ!?」


 俺は喉の奥で、カエルが潰れたような奇妙な声を上げた。

 声が、違う。

 高く、細く、まるで、女のような……。


(まさか)


 俺は恐怖と混乱でほとんどパニックになりかけながら、ベッドから転がり落ちるようにして、体を起こした。

 軋む体に鞭打って、よろよろと立ち上がる。


 部屋の中は薄暗かった。分厚いカーテンが閉め切られ、外の光をほとんど通していない。

 だがその薄闇の中で、俺の視界は、信じられないものを捉えた。


 部屋の隅に置かれた、豪奢な装飾の鏡。

 そこに映っていたのは、金髪碧眼の公爵令息の姿ではなかった。


 鏡の中に立っていたのは。

 燃えるように鮮やかな、ウェーブのかかった赤い髪。

 その髪に負けないほど、気の強そうな、吊り上がった大きな瞳。


「…………アリシア?」


 鏡の中の女が、俺が声を出すのと同時に、その唇を動かした。

 俺は、信じられないというように、自分の頬に、そっと手を触れた。

 鏡の中のアリシアも、全く同じ動作で、自分の頬に手を触れる。


 俺が触れているのは、男の、少し硬い肌ではなかった。

 信じられないほど滑らかで、きめ細かく、柔らかな、女の肌の感触。


「う…………そだろ…………」


 俺は自分の身に起きた、あまりにも非現実的な出来事を、全く理解できなかった。

 俺は、ラグナス・エルクハルトだ。

 それが、なぜ、アリシア・ヴァリエールの姿に?


 ここはどこだ? アリシアの部屋か?

 俺は、リリフィエに殺されたんじゃなかったのか?

 これは、夢か? 死後の世界か?


 俺は、混乱する頭で、必死に記憶を手繰り寄せようとした。

 リリフィエの狂気。銀色のナイフ。胸を貫く激痛。そして、アリシアの最後の警告。


「うわあああああああっ!!!」


 俺は、たまらず絶叫した。

 だが俺の喉から迸ったのは、男の野太い絶叫ではなく、甲高い、女の、ヒステリックな悲鳴だけだった。


「どうしよう、どうしよう、どうしよう……!」


 俺は、いや、「アリシアの姿をした俺」は、頭を抱えて、その場にうずくまった。

 訳が分からない。アリシアの姿をした俺ってなんなんだ。何が何だか、さっぱり分からない。


 俺は、アリシアになってしまったのか?


 ぐるぐると視界が回る。まるでひどい船酔いだ。

 俺はラグナス・エルクハルトだったはずだ。公爵家の嫡男で、平凡で、波風を立てるのが嫌いな男。

 それが、なぜ。

 鏡に映る、この燃えるような赤い髪の女になっている?

 俺が、心の底から疎んでいた、あの、アリシア・ヴァリエールに?


「落ち着け……落ち着け、俺……」


 俺は必死に自分に言い聞かせようとした。

 喉から漏れる女のか細い声が、さらに俺の正気を削っていく。

 ここはどこだ。アリシアの部屋か。

 赤と黒を基調とした、趣味が悪い部屋。鼻につく、むせ返るような甘い香水の匂い。


 俺は、リリフィエにナイフで刺された。

 あの純粋で、か弱いはずの婚約者に。

 あの時の狂気と恍惚に歪んだ、泣き笑いの顔。

 胸を貫いた灼けつくような痛み。遠のく意識に、熱の抜けていく体。


(そうだ。俺は、死んだはずだ……!)


 だとしたら、これは何だ? 冥界か?

 それともあの女の呪いか何かで、俺は一番嫌いな女の体に閉じ込められたとでもいうのか?


「…………なぜだ」


 俺はアリシアの姿のまま、床に座り込み、自問自答を繰り返した。


(なぜ、リリフィエが、俺を?)


 あんなに健気で、お淑やかだった彼女が。

 俺の腕の中で、アリシアの嫌がらせに怯え、涙を流していた彼女が。

 なぜあんな恐ろしい顔で、俺にナイフを突き立てた?


(俺が……彼女を追い詰めるようなことをしたのか?)


 そうだ、あの直前。俺はアリシアと会っていた。

 古い東屋で、二人きりで。

 リリフィエは、それを密会と呼び、俺を(なじ)った。


(だが、それだけで?)


 それだけで、人は、婚約者を刺し殺すものか?

 あの時の彼女は、嫉妬や怒りというよりも、もっと別の、何か得体の知れない狂気に満ちていた。

 俺の知らない、リリフィエだった。


「…………!」


 俺は混乱する頭を無理やりねじ伏せ、よろよろと立ち上がった。

 まず、状況を把握しなければならない。


 今は、いつなんだ?

 俺が死んだ後なのか? それとも……。


 俺は、部屋の中を必死で見渡した。

 服が脱ぎ散らかされ、宝飾品がテーブルにごちゃごちゃと置かれている。

 いかにも、あのアリシアらしい部屋だ。

 その乱雑な机の上に、一通の、やけに上質な封筒が置かれているのが目に入った。


 俺は、それに(すが)るように駆け寄った。

 それは、王家からの正式な招待状だった。


『隣国の王太子殿下を歓迎する夜会』


 俺はその文字を見て、息を呑んだ。


(これ、は……)


 これは俺が、リリフィエと穏やかに話し、そして初めてアリシアに公然と「迷惑だ」と言い放った、あの夜会じゃないか。

 俺がアリシアの手を強く払い除けた、あの夜だ。


 震える指で、招待状に記された日付と、机の暦を照らし合わせる。

 心臓が嫌な音を立てて跳ねた。

 日付は……今日だ。

 そして時刻は、もう昼をとうに過ぎている。


「…………戻って、いる……?」


 俺は、過去に、戻ってきている。

 リリフィエに刺殺される、あの日よりも。

 学院で、ブローチの事件が起きるよりも、ずっと前。

 そして俺は、ラグナスではなく、アリシア・ヴァリエールとして。


「…………」


 俺は、全身から力が抜けるように、その場にへたり込んだ。

 戻ってきた。

 助かった、のか?

 これは、チャンスなのか?

 俺は、あの結末を変えられるのか?


 だがどうやって?

 リリフィエの狂気を、どうやって止めればいい?

 いや、それ以前に、なぜ彼女はあんなことになったんだ?


 それに……それに、じゃあ()はどうなんだ?

 アリシアの中にいる俺じゃなく、俺の、ラグナスの体は。


 もしかして俺の体にはアリシアが入っているのか?

 それとも、過去の俺がそのままいるのだろうか?

 もしくは――ラグナス・エルクハルトなどという人物は、最初からどこにもいないことになっているのか?


 ……わからない。わからないが、確かめてみるしかないだろう。

 ひとまずは今が過去だとして、俺の体は「過去の俺」が動かしているということにしよう。


 そんな願望にも似た仮定をした、その時だった。

 俺の意思とは関係なく、体の奥底から、冷たい、形容しがたい感情が、ぞわりと背筋を駆け上がってきた。

 まるで氷の手で心臓を直接掴まれたかのような、原始的な怯え。

 この感情は、俺のものじゃない。

 これは、この体――アリシア自身の、魂に染み付いた感情だ。


(怖い)


 何が?


(リリフィエが)


「…………は?」


 俺は、思わず間抜けな声を漏らした。

 アリシアが、リリフィエを、怖い?

 馬鹿な。逆だ。

 リリフィエこそが、いつもアリシアに怯えて、俺の腕に隠れていたじゃないか。


(あの女は危険だ)

(あの女は、普通じゃない)

(ラグナス様が危ない)


 アリシアのものらしい、断片的な思考が、俺の頭の中に響く。


 俺は、混乱していた。

 俺の知るリリフィエと、俺を刺したリリフィエ。

 俺の知るアリシアと、今俺が感じているこの恐怖。

 どれが本当なんだ?


(あいつは……アリシアは、何かを知っていたのか……?)


 俺が、凡庸な頭で「お淑やかな令嬢」としか見ていなかったリリフィエの、何か別の顔を。

 アリシアだけが、知っていた……?


 俺は衝動的に、部屋の中を探り始めた。

 アリシアがリリフィエを危険視するに至った理由。その断片が、どこかに。


 俺は書斎机の一番下、鍵がかかった引き出しに目をつけた。

 きっとこれだ。

 鍵はどこだ。

 俺は、近くの宝飾箱を乱暴にひっくり返した。ジャラジャラと派手なアクセサリーが散らばる。その底に、他のどの鍵とも違う、小さな、古めかしい鍵が一つ、転がり出た。

 震える手で鍵穴に差し込み、回す。カチリと、小さな音がした。


 引き出しを開ける。

 中には数冊の日記帳が、無造作に放り込まれていた。

 俺は一番上にあった、一番新しいであろう、真紅の革張りの日記帳を掴み取った。

 乱暴な筆跡。いかにもアリシアらしい。

 俺は、無我夢中でページをめくった。


 最近のページは、特に感情的だった。

 ところどころインクが滲み、涙の跡のようにも見える。

 そこには俺が全く知らなかった、アリシアの苦悩が綴られていた。


『従姉妹の部屋で見てしまった。ラグナス様に近づく女の肖像画が、ズタズタに切り裂かれて、壁に……』

『リリフィエの部屋から、変な匂いがした。侍女に聞いたら「お祈り用の香」だと言っていたけど、嘘だ。あれは、もっと、古くてカビ臭い……獣の血のような、嫌な匂い……』

『まただ。あの女、またラグナス様の私物を手に入れて、気味の悪い顔で笑ってた』

『怖い。あの女、絶対におかしい』

『ラグナス様は何もわかってない! あの女の演技に、コロッと騙されてる! あの鈍感男!』


「…………!」


 俺は、息を呑んだ。


『どうしよう、私一人じゃ……。でも、私がこんなこと言っても、誰も信じてくれない』

『でも、ラグナス様が……あのままじゃ、本当に危ない』

『今夜の夜会……。なんとかしてラグナス様に近づかないと。リリフィエから、少しでも引き離さないと……!』


 俺は日記を握りしめたまま、その場に立ち尽くした。

 知らなかった。

 アリシアが、こんなことに気づき、こんな恐怖を抱え、それでも、俺を。

 俺が迷惑だと切り捨てていた、あのアリシアが。


(俺は、何も見えていなかったのか……?)



 リリフィエが、俺の私物を集めていた?

 俺に近づく他の女を、憎んでいた?

 そして、アリシアは、それを知って、怯えていた?


 刺殺されたあの瞬間の、リリフィエの狂気。

 それが、この日記の内容と、嫌な形で結びついていく。


(俺は、確かめなければならない)


 この日記に書かれていることが、本当なのか。

 リリフィエは、本当に、俺が思っていたような令嬢では、なかったのか。

 そして、なぜ、俺は殺されたのか。

 その真実を、このアリシアの体で、突き止めなければならない。


 コン、コン、コン。


「!」


 不意に、部屋の扉がノックされた。

 俺はびくりと肩を震わせ、慌てて読みかけの日記を引き出しに押し戻した。


「お嬢様。アリシアお嬢様」


 扉の外から、少し呆れたような、年配の侍女の声がした。


「もう、とっくにお昼は過ぎておりますよ。今夜は王宮での夜会でございましょう。そろそろ、お支度をなさいませんと」


 夜会。

 そうだ、今夜だ。

 俺は、ゴクリと喉を鳴らした。

 今夜、俺は、「ラグナス」と、「リリフィエ」と、対面する。

 アリシアとして。


「……分かっているわ。すぐに、支度をする」


 俺は、できるだけ、アリシアの甲高い声色を真似て、そう答えた。

 声が、少し震えた気がする。


「まあ、素直でいらっしゃる。では、ドレスをお持ちいたします。いつものドレスでよろしいですね?」


 いつものドレス。

 すぐにあの、俺が忌々しく思っていたドレスが脳裏に浮かんだ。

 夜会の誰よりも鮮烈な、真紅のドレス。

 あれは、彼女なりの武装だったのかもしれない。

 日記に綴られていた、恐怖と焦燥を隠すための。


「…………ええ。それで、いいわ」


 俺は、鏡の前に再び立った。

 鏡の中の気の強そうな赤い髪の女が、俺を睨み返している。

 その瞳には、さっきまでの絶望とは違う、戸惑いと、そして、何かを確かめずにはいられないという、決意の色が浮かんでいた。


(今夜、俺は、(ラグナス)と、リリフィエに会う。この、アリシアの体で)


 まだ、何も確定していない。

 まずは、真実を、この目で確かめる。

 そして、今度こそ、生き延びてやる。


「お嬢様? ドレス、お持ちしましたわよ」


 侍女のどこか気の抜けた声が、厚い扉越しにくぐもって聞こえる。

 俺は慌てて鍵を閉め直し、日記帳を乱雑に引き出しの奥へと押し込んだ。

 心臓がうるさく鳴っている。

 違う。これは俺の心臓の音じゃない。この体が感じている恐怖と焦燥が、俺の意識を乗っ取ろうとしている。


「……今、開けるわ」


 侍女――確か、マリーといったか――は、手慣れた様子で真紅のドレスを抱えて入室してきた。

 俺が夜会で眉をひそめた、あのドレスだ。


「さあ、お嬢様。ぼんやりなさらないで。今夜は王太子殿下もいらっしゃる、大事な夜会ですわ。遅刻でもなさったら、ヴァリエール家の恥になります」

「……分かっているわ」


 マリーの小言を聞き流しながら、私はされるがままに着替えを始めた。

 コルセットが、男だった頃には想像もつかない力で、華奢な胴回りを締め上げていく。

 息が、詰まる。


(本当に、こんなことをしている場合か?)


 俺は、リリフィエに殺されたんだぞ。

 そして、なぜか、このアリシアの体で、過去に戻っている。

 アリシアの日記によれば、リリフィエは異常者だ。俺の私物を集め、監視まがいのことまでしていた。

 そしてアリシアは、その事実に気づき、俺を守ろうとしていた。


「お嬢様、本日は随分と大人しいですこと。いつものように『こんな退屈な夜会、出なくてもいいでしょう!』と、癇癪を起こされるかと思っておりましたのに」

「……そんな気分じゃないのよ」


 ドレスの背中の編み上げをマリーに任せながら、俺は重々しく息を吐いた。


「まあ。それはよろしいことで」


 マリーは特に気にした様子もなく、あっさりとそう言った。

 この屋敷の人間は、アリシアが何を抱えているか、誰も知らないのだろう。

 日記に書かれていた。


『誰も信じてくれない』


 その言葉の重さが、じわりと胸に圧し掛かる。


(俺は、どうすべきだ?)


 今夜、夜会に行けば、俺とリリフィエに会える、はずだ。

 アリシア()は、その二人にどう接するべきだ?


 日記の通りなら、アリシアは今夜、なんとかしてリリフィエからラグナスを引き離そうと画策していた。

 その結果が、あの夜会の惨状だ。

 俺はアリシアを迷惑だと一蹴し、手を払い除け、リリフィエの涙を拭う。

 あの行動が、リリフィエをどれだけ安心させ、アリシアをどれだけ絶望させたか。

 そして、リリフィエの狂気を、俺自身がどれだけ助長させていたか。


(駄目だ。同じことを繰り返すわけにはいかない)


 俺は、あそこで死んだ。

 あの平凡な日々がナイフの一突きで終わることを、俺は知っている。

 あんな結末は、二度とごめんだ。


(俺が俺を守る? 馬鹿な話だ)


 いや、違う。今、俺はアリシアだ。

 そして、「ラグナス」は、もはや他人だ。


 俺が生き延びるためには、そして、アリシアの無念を晴らすためには。

 俺は、ラグナスというあの鈍感な馬鹿を、リリフィエという化け物から引き離さなければならない。


(俺が、アリシアを演じなければならないのか?)


 日記には、リリフィエの異常性の証拠について、具体的には書かれていなかった。


『見てしまった』『変な匂いがした』『私物を手に入れていた』


 漠然とした恐怖の羅列。

 これでは、あの凡庸なラグナスに信じろという方が無理だ。


(証拠がいる)


 リリフィエが普通ではないと、あのラグナスに一目で分からせるほどの、決定的な証拠が。


「お嬢様? 鏡の前で固まって、どうかなさいました? 顔色もなんだか優れないようですが」

「……なんでもないわ」


 私は鏡に映る自分を睨みつけた。

 燃えるような赤い髪。気の強そうな瞳。

 だがその奥に宿っているのは、公爵令息だった男の、困惑と焦燥だ。

 このアンバランスな姿で、俺は今夜、戦場に赴かなければならない。


(待てよ)


 思考が、ある一点で止まる。

 アリシアは、どうやってリリフィエの異常を知った?

 日記には『従姉妹の部屋で見てしまった』とある。

 アシュベリ侯爵家の、リリフィエの部屋。


(俺がラグナスだった時、あそこは聖域だった)


 控えめで、花の香りがする、清純な彼女の部屋。

 一度だけ、体調を崩した彼女を見舞うために、部屋の前まで行ったことがある。


 中には入らなかったが、侍女が扉を開けた瞬間に見えた室内は、白と淡いピンクで統一された、彼女のイメージそのものの、無垢な空間だった。

 あんな部屋に、本当に、日記に書かれたような狂気の証拠が?


(アリシアは、どうやって入ったんだ?)


 従姉妹とはいえ、婚期も近い令嬢の部屋に、そう易々と入れるはずがない。

 ……いや、待て。

 アリシアとリリフィエは、従姉妹だ。

 二人の関係性は、俺が思っているよりも複雑なのかもしれない。


 俺は侍女のマリーに、できるだけ不自然にならないよう、平静を装って尋ねた。


「ねえ、マリー」

「はい、なんでございましょう」

「私、最近、アシュベリ侯爵家……リリフィエのところへ、行ったかしら?」

「リリフィエお嬢様の? さあ……お嬢様は、侯爵家へお出向きになるのは、いつもお嫌がりでございましたが」


(嫌がっていた? アリシアが?)


「そう……だったかしら。でも、何か、リリフィエに用事があったような……」

「さようでございますか? ……ああ、そういえば」


 マリーは、何かを思い出すように、天井を見上げた。


「ひと月ほど前でしたか。お嬢様が、ひどい嵐の夜に、ずぶ濡れになってお帰りになったことがございました。あの時、確か『侯爵家のお屋敷に忘れ物をしてきた』と、ひどくご立腹でいらっしゃいましたね」

「……ひと月前」


(嵐の夜。ずぶ濡れで。忘れ物)


 日記の内容と符合する。

 あの日記に書かれていた恐怖の発見は恐らく、その日のことだ。


 アリシアは、リリフィエの部屋に忍び込んだ?

 もしくは従姉妹として訪ね、そして、何かを見てしまった?


(だが、何を?)


 日記には「肖像画がズタズタに」「獣の血のような匂い」「ラグナス様の私物」とあった。

 もっと具体的な証拠が、そこにあったのではないか。


 もし、それがまだリリフィエの部屋にあるのなら。

 俺が、もう一度それを確認できれば。

 そして、それをあの凡庸なラグナスの前に突きつければ。


「……マリー。私、夜会の前に、少し立ち寄りたいところができたわ」

「まあ? どちらへ? 今からでは、お時間があまりございませんのに」

「アシュベリ侯爵家よ」

「えっ」


 マリーは、心底驚いたという顔で、目を見開いた。


「侯爵家、でございますか? あんなに、リリフィエお嬢様のことを毛嫌いなさっていたお嬢様が?」

「うるさいわね! 従姉妹として、夜会の前に挨拶をしておこうと思っただけよ! 何か文句があるの!?」


 咄嗟に、俺の知るアリシアの口調を真似て、甲高い声で怒鳴りつけた。

 これは賭けだ。

 俺の行動が、リリフィエに警戒されるかもしれない。

 だが、あの部屋に何かがあるのなら、それを確認しない限り、俺は今夜、何の武器も持たずにあの二人と対峙することになる。


 マリーは、俺の剣幕に「ひっ」と小さな悲鳴を上げ、慌てて首を横に振った。


「も、申し訳ございません! すぐに、馬車の手配をいたします!」


(よし)


 ひとまず、第一関門は突破だ。

 俺は、真紅のドレスの裾を乱暴に掴み、マリーを急かした。


「早くしなさい! あの陰気な女のところに長居したら、こっちまで気が滅入るわ! サッサと行って、サッサと終わらせるのよ!」


 完璧だ。

 我ながら、実に「アリシア・ヴァリエール」らしい振る舞いだった。

 鏡の中の赤い髪の女が、俺の意図を汲んで不敵に笑ったように見えた。

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