2.破滅の足音
噴水へのブローチ投棄事件の後、リリフィエはすっかり精神的に不安定になってしまった。
夜もよく眠れない日が続いているようで、彼女の透き通るような肌は精彩を欠き、目の下にはうっすらと痛々しい隈ができていた。
俺は、そんな彼女を少しでも安心させようと、できるだけ彼女のそばにいるように努めた。講義の間の休み時間も、昼食も、そして放課後の図書室での自習も、可能な限り時間を共にした。
だが、そんな俺たちの努力を嘲笑うかのように、アリシアは相変わらずふらりと俺たちの前に現れる。
彼女はあのブローチ事件のことなど、まるで記憶から消し去ったかのように、ケラケラと能天気に笑いながら俺に話しかけてくるのだ。
「ラグナス様、次のダンスの授業、私とパートナーを組んでくださらない? 光栄に思っていいのよ?」
「断る。俺はリリフィエと組むと決めている」
「まあ、つれない。でも、リリフィエは最近、ずいぶんと体調が悪いのでしょう? ほら、目の下の隈、ひどい。そんな女、無理に踊らせない方がよろしいんじゃないかしら」
「お前が……! お前がリリフィエをこんな状態に追い込んだんだろうが!」
俺が怒りに任せて怒鳴ると、アリシアは心底不思議だというように、きょとんとした顔をした。
「私が? なぜ? 私は何もしていないわ」
「とぼけるな! あの日のブローチの件、忘れたとは言わせないぞ!」
「ああ、あのこと。まだ根に持っていたのね。しつこい男は嫌われますわよ、ラグナス様」
「なんだと……!」
俺が掴みかからんばかりの勢いで一歩踏み出すと、リリフィエが慌てて俺の袖を引いた。
「ラグナス様、やめてください……! 皆さんが見ていますわ……!」
「だが、リリフィエ……! こいつは反省の色が全くないんだぞ!」
「私は、大丈夫ですから……」
彼女はか細い声でそう言うと、俺の前に進み出て、なんと、アリシアに向かって深々と頭を下げた。
「アリシア。申し訳ありませんでした。私の婚約者であるラグナス様が、あなた様に対して、あのような無礼な態度をとって……」
「リリフィエ! なぜ君が謝るんだ! 君は何も悪くない!」
「いいえ、ラグナス様。私が至らないばかりに、アリシア様にご不快な思いをさせてしまったのですから……」
リリフィエのそのあまりにも健気な姿に、俺は胸が張り裂けそうになるほどの痛みを覚えた。
それと同時に、この状況を作り出した元凶であるアリシアへの怒りが、再び、激しく燃え上がった。
「見たか、アリシア。リリフィエはこんなにも、君のことを……」
「…………本当に、茶番ね」
アリシアが、氷のように冷え冷えとした声で、俺の言葉を遮った。
「何?」
「見ているだけで本当に反吐が出るわ」
彼女は軽蔑と嫌悪を隠そうともしない目つきで俺たちを一瞥すると、それだけ言い残し、またしても俺たちの前から去っていった。
残された俺とリリフィエは、まるで舞台の上に取り残された役者のように、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
*
「なあ、リリフィエ」
その日の帰り、公爵家へと向かう馬車の中で、俺は重々しく切り出した。
「アリシアのことだが……彼女は、昔からずっと、あんな感じだったのか?」
リリフィエは、馬車の窓の外をぼんやりと眺めていたが、俺の言葉にびくりと肩を震わせた。
「はい。昔から、ずっと」
「そうか……」
俺は、どうしようもない無力感と共に、深いため息をついた。
「血の繋がった従姉妹とはいえ、もう、なるべく関わらない方がいい。あんな女とこれ以上関わっていると、君までおかしくなってしまいそうだ」
「…………」
リリフィエは何も答えなかった。ただ、膝の上で固く握りしめられた彼女の拳が、血の気が引いて白くなっているのが、俺の目にもはっきりと見えた。
アリシアの嫌がらせは、ブローチ事件を境に、さらに陰湿さを増し、エスカレートしているように思えた。
リリフィエの大切にしていた教科書が、何ページにもわたってカッターナイフで切り裂かれていたり。
彼女の学院のロッカーに、「男狂い」「偽善者」といった、心無い言葉が黒いインクで落書きされていたり。
どれもこれも、決定的な瞬間を見た者はおらず、犯人は分からない。
だがあんな陰湿で悪意に満ちたことをするのは、あの赤い髪の女くらいしかいない、と。
俺は何度もアリシアを捕まえて問い詰めたが、彼女はきょとんとした様子で「私は知らないわよ、そんなこと。勝手な憶測で人を犯人扱いしないでもらいたいわね」と、答えるだけだった。
そのふてぶてしい態度が、俺の怒りにさらに油を注いだ。
そんな日々が続いていた、ある日の放課後。
俺は、学院の裏手にある、今はもう使われていない古い中庭の東屋に呼び出された。
呼び出してきたのは、アリシアだった。
『今夜、二人きりで、どうしてもお話ししておきたい大事なことがあります』
そう、乱暴な筆跡で書かれた手紙が今朝、俺の教科書の一番下に挟まっていた。
(大事なこと?)
意味が分からなかった。だがそれ以上に、リリフィエへの新たな嫌がらせの予告かもしれないという懸念が勝った。
俺はリリフィエに「急な呼び出しで、教授に用事を頼まれた」と嘘をつき、彼女の心配そうな視線を背中に受けながら、一人で東屋へと向かった。
正直、気は全く進まない。どうせまた、ろくでもない話に決まっている。
だが、もしこれがリリフィエの身に危険が及ぶような件だとしたら、聞かないわけにはいかない。
約束の東屋に着くと、アリシアはすでにそこにいた。
いつもの派手で露出の多いドレスではなく、学院の制服を身につけていたが、その着こなしはどこかだらしなく、彼女の素行の悪さをそのまま表しているかのようだった。
「来たのね、ラグナス様。もっと遅くなるかと思ったわ」
アリシアは俺の姿を認めると、東屋の手すりに預けていた体を起こし、ゆっくりと振り返った。
その表情は、いつも俺たちを嘲笑うときのものとは、全く違っていた。
真剣、と言ってもいい。いやそれ以上に、何かにひどく追いつめられているような、切羽詰まった悲壮な色さえ浮かんでいた。
「……何の用だアリシア。手紙にあった大事な話とやらを、手短に頼む。俺は忙しい」
俺は、彼女に対する苛立ちと警戒心を隠そうともせず、ぶっきらぼうに言った。
「ええ。単刀直入に言うわ」
アリシアはゴクリと喉を鳴らし、自分の唇を舐めた。
「あの女との婚約を、今すぐ解消して」
「…………は?」
あまりにも突拍子もない予想外の言葉に、俺は間抜けな声を上げた。
「何を……言っているんだ君は。本気か?」
「あの女だけは駄目なの! お願い、ラグナス様。誰でもいい、私でもいい、でも、あの女だけは絶対にやめておきなさい!」
アリシアは、まるで獣が獲物に飛びかかるかのような、凄まじい勢いで俺に詰め寄ってきた。
その瞳は、狂気的とさえ言えるほど真剣だった。必死、そのものだった。
夜会で一瞬だけ見せた、俺には理解できなかった感情の色。今、彼女の瞳に宿っているのは、まさしく、それと同じ種類のものだった。
「…………嫉妬か?」
俺の口から、冷え冷えとした言葉が漏れた。
「結局、君もリリフィエに嫉妬しているだけじゃないか。公爵家の婚約者という、その立場に」
「違うっ!!!!」
アリシアは、まるで喉から血を吐くかのように叫んだ。
「嫉妬!? そんなんじゃ……! 私はただ、ラグナス様のことが……!」
「もういい」
俺は、これ以上聞くに堪えないと、彼女の言葉を冷たく遮った。
「それ以上聞きたくない。君がリリフィエのことを、心の底から妬み、憎んでいるということだけは、よく分かったよ」
「待って、ラグナス様! お願い、話を最後まで聞いて! あの女は……!」
「嫉妬も大概にしろ。みっともないぞ、アリシア。俺の婚約者はリリフィエだ。この先も、未来永劫、それだけは変わらない」
「あの女は普通じゃない! 貴方を、」
「リリフィエをこれ以上、お前の汚い言葉で苦しめるな!」
俺は、怒りに任せて、アリシアの華奢な肩を強く突き飛ばした。
彼女は「あっ」と小さく叫び、よろけて、東屋の古い柱に背中を強く打ち付けた。
「…………っ!」
アリシアは、打った背中の痛みに顔を歪め、悔しそうに、唇の端を強く噛んだ。その大きな瞳が、わずかに潤んだように見えたのは、夕日のせいだろうか。
彼女は、何かを必死に言いかけた。
「私は、ただ、貴方を……」
だが、そのか細い言葉は、最後までハッキリと紡がれることはなかった。
俺は、そんな彼女に目もくれず、冷たく背を向けた。
そして、一刻も早くこの場から立ち去ろうと、足早に歩き出した。
これ以上、この狂った女と一秒たりとも関わりたくない。
リリフィエが待っている。俺の帰りを、きっと、今も不安な顔で。
そう思うと、柱に背中を預けたまま動かないアリシアの、あの必死な形相など、どうでもよくなった。
あの女は、ただリリフィエに嫉妬し、その立場を奪い取るために、俺たちの仲を引き裂こうとしているだけだ。
……そうに決まっているのだ。
俺は東屋を飛び出すと、学院の渡り廊下を走り抜け、公爵家の馬車が待つ正門へと急いだ。
背後から俺を呼ぶアリシアの声が聞こえたような気もしたが、構うものか。
俺の頭の中は、先ほどのやり取りで感じた不快感と、リリフィエへの申し訳なさでぐちゃぐちゃにかき混ぜられていた。
(なんなんだ、あいつは!)
俺の婚約者という立場、公爵家の次期当主の隣という誰もが羨むその席を、リリフィエが持っていることが、あいつは許せないんだ。
だから、あんな卑劣な嫌がらせを繰り返し、リリフィエを精神的に追い詰め、あまつさえ俺にまで「婚約を解消しろ」などと、正気の沙汰とは思えない要求を突きつけてくる。
「私でもいい」だと? 冗談じゃない。
あんな粗暴で、品性のかけらもない、他人の気持ちを踏みにじることしかできない女と、俺が?
考えるだに反吐が出る。
俺は乱暴に馬車の扉を開け、中にどさりと身を投げ出した。
御者に「屋敷へ」とだけ短く告げると、馬車はすぐにガタガタと石畳の上を滑り出した。
「…………」
馬車の小さな窓から、急速に遠ざかっていく学院の尖塔を、俺は無言で見送っていた。
リリフィエは、俺が嘘をついて姿を消したことを、きっとひどく心配しているに違いない。
アリシアと二人きりで会っていたことなど、口が裂けても言えない。
あんなに不安定になっている彼女に、さらに追い打ちをかけるような真似は、絶対にしたくなかった。
(それにしても……)
俺の脳裏に、不意に、先ほどの光景がフラッシュバックする。
俺に突き飛ばされ、柱に背中を打ち付け、悔しそうに唇を噛んでいたアリシアの姿。
そして、あの瞳。まるで何かに取り憑かれたかのような、尋常ではない必死さ。
ただの嫉妬にしては、あまりにも……。
(……本当に、ただの嫉妬、だったのか?)
一度芽生えた小さな疑念は、馬車の振動と共に、俺の中で少しずつ、しかし確実に存在感を増していく。
もちろん、俺はアリシアという女が、心の底から嫌いだ。
だが、どれだけ嫌いな相手であっても、あの瞬間、彼女の瞳に宿っていた何かは、俺が今まで知る感情とは、少しだけ質が違うような、そんな奇妙な違和感を残していた。
あれは、憎しみや妬みというよりも、もっと別の……そう、まるで焦燥に近い何かに突き動かされているような……。
(馬鹿な。俺は何を考えている)
俺はかぶりを振った。
疲れているんだ。あんな女に振り回されて、俺までおかしくなりそうだ。
俺は自分の婚約者をもっと信じるべきだ。あんな女の芝居がかった言動に、惑わされてどうする。
屋敷に帰り着いた俺は、そのまま自室に直行した。
侍従に「今夜の夕食はリリフィエと共にする。準備ができ次第、彼女の部屋へ迎えにいく」とだけ伝え、一人にしてくれと部屋にこもる。
重苦しい気分を振り払うように、冷たい水で顔を洗い、ごしごしと乱暴に拭った。
鏡に映った俺の顔は、我ながらひどく疲れていた。金髪は乱れ、いつもは冷静さを保っているはずの碧眼が、苛立ちと戸惑いに揺れている。
「くそっ……」
俺は小さく悪態をついた。
全てアリシアのせいだ。あいつが俺たちの前に現れなければ、俺とリリフィエは、今も穏やかな時間を過ごせていたはずなのに。
俺は深くため息をつき、自室の書斎机の椅子に深く沈み込んだ。
頭を冷やさなければ。
リリフィエを迎えに行く前に、このぐちゃぐちゃになった思考を整理し、いつもの「穏やかな婚約者ラグナス」に戻らなくてはならない。
俺は目を閉じ、意識してゆっくりと深呼吸を繰り返した。
(大丈夫だ。俺がしっかりしなければ)
リリフィエは、俺だけを頼りにしている。
俺が、彼女を守るんだ。アリシアの、あの理不尽な悪意から。
そう、改めて決意を固めた、その瞬間だった。
バンッ!
静寂を切り裂くように、俺の自室の扉が、何の予告もなく、乱暴に開け放たれた。
「え……」
俺は驚いて目を見開いた。
この公爵家の屋敷で、俺の部屋にノックもなしで入ってくる者など、今まで一人だっていなかった。
「ラグナス様っ!!」
鋭い声。
そこに立っていたのは、最愛の婚約者だった。
だがその姿は、俺の知っているリリフィエとは、まるで別人だった。
「リリフィエ……? どうしたんだ、そんな慌てて……」
俺は椅子から立ち上がり、戸惑いながら彼女に歩み寄ろうとした。
彼女の淡いブラウンのロングヘアは、侍女の手入れが行き届いているはずなのに、今はひどく乱れている。いつもは清純な輝きを放つ純白のドレスも、あちこちにシワが寄り、裾はわずかに汚れているようにさえ見えた。
そして、何よりも異様だったのは、彼女の表情だった。
「どこへ行っていたの!?」
彼女は俺の言葉を遮り、金切り声で叫んだ。
その瞳は、俺が今まで見たこともないほど恐ろしいほどに吊り上がり、血走っていた。
いつもは桜色に染まっているはずの頬は、今は憎悪と怒りで歪み、血の気を失って真っ青だ。
「ど、どこへって……学院から、まっすぐ……」
「嘘をおつきにならないで!!」
リリフィエの絶叫が、部屋中に響き渡った。
「わたくしは、わたくしは、この目で見たんです!!」
「見た……? 何を……」
「学院の、あの古い東屋で! あの女と、二人きりで密会していたのをっ!!」
息が止まった。
頭を鈍器で殴られたかのような、強烈な衝撃。
なぜ、彼女がそれを。
いや、それよりも、あの時の彼女は、俺の「教授の用事」という嘘を信じ、心配そうに俺を見送っていたはずでは……。
「リリフィエ、君は、あの時……」
「わたくしは、ラグナス様が心配で、心配で……! ずっと、物陰から、貴方様のことを見ておりました!」
彼女は、まるでそれが当然の行いであるかのように、高らかに言い放った。
俺の背筋を冷たい汗が、嫌な感触でつう、と伝っていく。
「あんな女と二人きりで会うなんて……! やっぱり、ラグナス様は私を捨てる気なのねっ!? そうなんでしょう!?」
「ち、違う、リリフィエ! 落ち着いてくれ! あれは、アリシアが一方的に……!」
「黙って!!」
俺の弁明は、彼女の叫び声によってかき消された。
彼女はわなわなと肩を震わせ、その美しい顔を恐ろしい形相で歪ませている。
「あんな女の、どこがいいんです!? いつも派手な化粧をして、男に媚びを売って……! わたくしの方がずっとラグナス様を愛しているのに! わたくしの方が、ずっと、ずうっと、貴方様のことだけを想ってきたのに!」
「リリフィエ、話を……!」
「もういいの」
不意に、彼女の声のトーンが、すっと落ちた。
彼女は先ほどまでの激昂が嘘だったかのように、ふっ、と息を吐いた。
そして、ゆっくりと、その顔を上げた。
「…………え?」
俺は、彼女のその表情を見て、声にならない声を漏らした。
彼女は、泣いていた。
大粒の涙が、その血走った瞳から、次々とこぼれ落ちている。
だが、その口元は。
その唇は、まるでこの世の全てを手に入れたかのように、恍惚と、歓喜に満ちて。
三日月のように、美しく、恐ろしく、吊り上がっていた。
それは、俺の知らない。リリフィエの、初めて見る顔だった。
「もう、わかったの」
彼女は、うっとりとした声で、ささやいた。
「ラグナス様は、わたくしだけのもの」
「リリフィエ……? いったい、何を……」
「もっと早くこうすればよかったんだわ。あんな女が近づいてくる前に」
まるで愛の告白でもするかのように、甘くとろけるような声で彼女は言った。
「ラグナス様。わたくし、貴方様を、心の底から愛しておりますわ」
次の瞬間。
彼女は、そのか細い体からは想像もつかないほどの速さで、俺との距離を詰めていた。
銀色の閃光が、俺の目の前を走る。
「…………え?」
どん、という衝撃とともに、俺の胸の中心に、焼け付くような激しい痛みが走った。
視線をゆっくりと、自分の胸元に落とす。
俺の服を、鮮やかな真紅の血が、じわりじわりと染めていく。
そしてその中心には、美しい銀細工の柄が、深々と突き立っていた。
「…………な」
俺は、目の前の信じられない光景に、ただ呆然とするしかなかった。
「…………ん、で……?」
声が、出ない。
呼吸が、できない。
口から漏れたのは、言葉にならない、空気の塊だけだった。
俺は、ナイフを突き立てた張本人である、リリフィエの顔を見上げた。
彼女は俺の血で赤く染まった自分の手を、うっとりと見つめていた。
そして俺の胸に突き刺さったナイフの柄を、まるで愛しい恋人の肌を撫でるかのように、優しく、優しく、指でなぞった。
俺の膝が、ガクン、と崩れ落ちた。
意識が急速に遠のいていく。
視界が、端から黒く黒く、塗り潰されていく。
俺の意識は激しい痛みと底知れない絶望と共に、冷たく暗い闇の中へと、深く沈んでいった。




