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死に戻る公爵令息は嘘を知らない  作者: 秋月アムリ


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1/3

1.清純な婚約者と迷惑な従姉妹

 俺、ラグナス・エルクハルトは公爵家の嫡男だ。

 残念ながら中身は平凡そのものだ。我ながら、家柄に中身が全く追いついていない凡庸な男だと自覚している。

 そんな俺には、家同士の取り決めで、生まれた時から決まっていた婚約者がいる。

 侯爵令嬢のリリフィエ・アシュベリ。

 淡いブラウンのロングヘアが印象的な、控えめで物静かな女性だ。


 今夜、王宮で開かれている夜会は、隣国の王太子を迎えるための盛大なものだった。だが、俺の興味を引くものは何一つない。シャンデリアのきらめきも、軽やかなワルツの調べも、俺にとっては退屈な背景でしかなかった。


 俺は壁際の隅、装飾用の観葉植物の隣で、人知れず息を潜めていた。こういう華やかで騒がしい場所は、どうにも性に合わない。

 手にしたグラスの中身を無意味に揺らしていると、ふわりと甘く、それでいて控えめな花の香りが鼻先をくすぐった。


「ラグナス様」


 鈴を転がすような、しかしささやくように小さな声。

 振り返ると、リリフィエがそこに立っていた。

 純白のシルクが月の光を反射するかのように輝くドレスは、彼女の清純な雰囲気を完璧に引き立てている。


「やあ、リリフィエ。今夜もとても綺麗だ」


 心からの言葉だった。彼女はいつも、まるで作られた人形のように完璧に美しい。

 俺の言葉に、リリフィエは頬を桜色に染め、長いまつ毛を伏せた。


「もったいないお言葉ですわ……。ラグナス様こそ、紺色の礼服がとてもお似合いです」

「そうか? ありがとう」


 この反応だ。どこまでもお淑やかで、慎み深い。

 俺のような凡庸な男には、もったいないくらいの出来た令嬢だ。

 家が一方的に決めた婚約とはいえ、俺は彼女に強い好印象を持っていた。

 これが世に言う「燃えるような恋」でないことは確かだ。だが将来を共にし、公爵家を支えていくパートナーとして、彼女以上にふさわしい女性はいないだろう。


 この穏やかさが、波風を好まない俺には何より心地よかった。

 平凡な俺には、穏やかなパートナーが一番だ。リリフィエとなら、きっと理想の家族が築ける。


 俺たちはそのまま、夜会の喧騒から切り離されたように、壁際で言葉を交わし始めた。

 学院の講義の難しさ、最近読んだ詩集の感想、次の休日に訪れたい庭園の話。

 彼女の声は非常に小さく、オーケストラの演奏にかき消されそうになることもあったが、俺は必死に耳を傾けた。彼女が時折見せる、はにかんだような優しい笑顔を見ていると、自然とこちらの口元も緩んでくる。


 このまま、大きな事件も波乱もなく、俺たちは学院を卒業し、結婚し、穏やかな人生を二人で送っていくのだろう。

 数分前まで退屈で仕方なかった俺の心は、リリフィエという存在によって、温かいもので満たされ始めていた。

 そう、あの女が、嵐のように現れるまでは。


「あら、ごきげんよう。ラグナス様。それから……そちらも」


 やけに甲高く、耳に突き刺さるような声がした。

 俺とリリフィエの間に、不躾な影が落ちる。

 声のした方を億劫な気分で見上げると、そこには燃えるような赤髪を、これみよがしに豊かなウェーブで揺らす女が立っていた。


 アリシア・ヴァリエール。

 リリフィエの従姉妹であり、この国の貴族界隈で知らぬ者はいない、悪名高き「嫌われ者」だ。

 彼女が身にまとっているのは、夜会の誰よりも鮮烈な、真紅のドレスだった。胸元が大きく開き、肌の露出も多いそのデザインは、彼女の髪の色と同じくらい攻撃的で、王宮の上品な雰囲気からは明らかに浮き上がっている。


 俺の眉が、無意識のうちに不快感でぐっと寄せられるのを、自分でもはっきりと感じた。


「アリシア……」


 リリフィエの声が、怯えた小動物のように震えた。

 彼女は反射的に、俺の腕にしがみついた。その細く白い指が、俺の礼服の袖を強く、強く握りしめている。


「まあ、相変わらずですこと。リリフィエ」


 アリシアは、その光景を面白がるように、唇の端を意地悪く吊り上げた。その挑発的な視線は明らかにリリフィエを……いや、俺の腕に隠れようとする彼女の姿を、上から下まで値踏みするように嘲笑っている。


「そんなにラグナス様の後ろに隠れて、まるで私はか弱くて可哀想な存在ですって、アピールかしら? 貴女も侯爵家の令嬢なら、少しはしゃんとなさいな。みっともない」

「そ、そんなつもりは……私は、ただ……」


 リリフィエの美しい瞳が、みるみるうちに涙の膜で覆われていく。


「やめないか、アリシア」


 俺は低く、自分でも驚くほどの苛立ちを抑えつけた声で言った。


「リリフィエが怖がっているだろうが」

「怖がってる? 私が何かいたしました?」


 アリシアは心底不思議だというように、芝居がかって小首を傾げた。その大げさな仕草の一つ一つが、俺の神経を逆撫でしていく。


「ただ、従姉妹としてご挨拶をしただけですのに。ねえ、ラグナス様?」


 馴れ馴れしく俺の名前を呼ぶな。心の中で毒づく。

 アリシアは、リリフィエの従姉妹という立場を最大限に利用し、事あるごとに俺たちに絡んでくる。

 特に、リリフィエに対しては、異常なほど当たりが強い。


「リリフィエ。その純白のドレス、とても素敵だわ」


 一瞬、褒めたのかと思いきや、アリシアは続けた。


「でも、残念ね。貴女みたいな地味で平凡な顔立ちには、白は膨張して見えるだけじゃないかしら? ああ、まるで仔牛みたいだわ」

「ひっ……!」


 リリフィエが、喉の奥で引き攣ったような悲鳴を上げた。


「アリシア! 言葉がすぎるぞ!」


 俺が我慢ならずに強く非難すると、アリシアはつまらなそうに肩をすくめた。


「あら、怖い。ラグナス様は仔牛がお好みでしたの? 私はただ、事実を申し上げて、アドバイスをして差し上げようと思っただけですのに」

「余計なお世話だ」

「そうかしら? ねえ、ラグナス様も、本当はそう思いませんこと? こんな影の薄い女より、私のような華やかで情熱的な女の方が、次期公爵である貴方のお隣には、よっぽど似つかわしいとは思いません?」


 アリシアはそう言うと、ぐいと一歩踏み出し、俺に顔を近づけてきた。むせ返るような、濃厚で甘ったるい香水の匂いが鼻につく。

 俺は思わず、その匂いから逃れるように一歩後ずさった。


「冗談はよせ。俺にはリリフィエという大切な婚約者がいる。君が入り込む隙など、どこにもない」

「つれないのね」


 アリシアは楽しそうに、クスクスと喉を鳴らして笑う。


「でも、婚約者なんて、所詮は家の都合で決められたものじゃありませんの。そこに、貴方自身の愛なんて、本当にあるのかしら?」


 その言葉は、まるで鋭い針のように、俺の胸の奥に妙な棘を残した。


「…………君に、俺たちの何が分かる」

「あら、図星でした? まあ、いいわ。そんなことより、リリフィエ」


 アリシアは再び視線を、俺の影で震えるリリフィエに戻した。リリフィエは俺の礼服を掴んだまま俯き、今にも泣き出しそうだ。


「貴女、その髪に挿している飾り、とても素敵ね。それ、この間王都の店に入荷したばかりの、一点物の新作でしょう? 私も、あれ、喉から手が出るほど欲しかったのよ」


 アリシアの視線が、リリフィエの髪に留められた小ぶりなサファイアの髪飾りに注がれる。


「あ……これは、その……先日、ラグナス様に、いただいたもので……」


 リリフィエが、か細い声で答える。


「ふーん。ラグナス様から。ますます欲しくなっちゃった」


 アリシアは、まるで子供がおもちゃを欲しがるような、無邪気で、それゆえに残酷な笑みを浮かべた。

 そして、なんの躊躇もなく、リリフィエの髪に向かってその手を伸ばそうとした。


「やめろ!」


 俺は咄嗟に、その無礼な手を強く払い除けた。

 パシン、と乾いた、場にそぐわない音がホールに響く。

 一瞬、夜会のざわめきが止まり、音楽さえ遠のいたような気がした。


 アリシアは目を見開き、自分が何をされたのか分からないといった顔で、俺を凝視している。払い除けられた彼女の手の甲が、じわじわと赤くなっているのが見えた。


「…………っ!」


 隣で、リリフィエが息を呑む音が聞こえる。

 周囲の視線が、好奇と非難の色を帯びて、俺たち三人に突き刺さる。


「ラグナス様……?」


 アリシアが、呆然とした声で俺を呼んだ。


「もういいだろう。俺たちに二度と構わないでくれ。君は、本当に迷惑だ」


 俺は、心の底からの嫌悪感を込めて、吐き捨てるように言った。

 我ながら、公爵家の跡継ぎとして、あまりにも大人気ない、感情的な対応だったと思う。だが、腕の中で震えるリリフィエを守るためには、こうするしかなかった。


 アリシアは何も言わず、ただじっと俺を見つめ返していた。

 その瞳には、先ほどまでの他者を嘲るような余裕の色は、綺麗さっぱり消え失せていた。


 代わりにそこにあったのは、驚きと、悲しみと、そして俺には到底理解できない、何か別の激しい感情がごちゃ混ぜになった、不思議な色だった。

 やがて彼女は、ゆっくりと唇を開いた。


「…………そう。迷惑、ですか」


 彼女はそれだけ言うと、ふっと自嘲するように、壊れたように笑った。

 そして、優雅とは言い難い、荒々しい動作でドレスの裾を翻し、俺たちの前から足早に去っていった。

 真っ直ぐに、意地っ張りに伸びた背筋だけが、彼女の有り余るプライドの高さを物語っているようだった。


「…………ラグナス様」


 アリシアの鮮烈な赤い姿が、人混みの中に完全に消えて見えなくなると、リリフィエが俺の腕を弱々しく引いた。

 見れば、彼女の大きな瞳からは、堰を切ったように大粒の涙がいくつもこぼれ落ちていた。


「す、すみません……! 私のせいで、ラグナス様に、あのような真似を……!」

「君のせいじゃない。君は何も悪くない。悪いのは、全てアリシアだ」


 俺は懐からシルクのハンカチを取り出し、彼女の透き通るような頬を流れる涙を、優しく拭った。


「しかし、いつもそうだ。なぜ彼女は、君にばかりあんな風に執拗に絡むんだ。従姉妹だろうに」

「わかりません……。でも、アリシアは、昔からずっと……私が大切にしているものを、いつも欲しがるのです……」


 リリフィエはそう言って、再び俺の胸に顔を埋めた。その声は、絶望の淵にいるかのようにか細く震えていた。


「俺は、君の大切なものか?」


 尋ねるつもりはなかったが、言葉が勝手に出ていた。


「……はい。誰よりも、何よりも、大切なお方ですわ」


 俺の胸元でくぐもった、しかし、はっきりとした声が、俺の胸を不思議な温かさで満たした。


「そうか」


 俺は彼女の細い背中に手を回し、優しく、壊れ物を扱うように抱きしめた。


「大丈夫だ、リリフィエ。俺はどこにも行かない。君から離れたりしない」

「ラグナス様……」


 リリフィエは俺の腕の中で、ようやく安心したように、小さく息をついた。

 周囲からは、俺たちを遠巻きに見ていた貴族たちのひそひそ話が聞こえてくる。


「まあ、リリフィエ様が本当にお可哀想に……」

「アリシア様のあの振る舞い、もはや公然の嫌がらせですわね」

「リリフィエ様も、あんな従姉妹がいて、さぞお辛いでしょうに」

「ラグナス様も、婚約者を守ろうとなさって、本当に大変だわ」


 誰もがリリフィエに同情し、アリシアの行動を非難していた。

 俺も、もちろん、心の底からそう思っていた。



 *



 夜会から数日が過ぎ、俺たちの日常は王都の高等学院へと戻っていた。

 王侯貴族の子弟が、将来の伴侶を見つける場、あるいは次代を担うための教養を身につける場。それが、この学院だ。

 俺は公爵家嫡男としての責務を果たすため、リリフィエは未来の公爵夫人としての教養を身につけるため。


 そして、アリシアは……正直、あの女が何のためにこの学院に通っているのか、俺にはさっぱり分からない。彼女の素行の悪さと態度の大きさは、学院内でも指折りの有名さだったからだ。


 昼休み。俺は学院の中庭にある、一番日当たりの良いベンチで、リリフィエと二人きりの昼食をとっていた。

 我が家の侍従が毎朝用意してくれるサンドイッチは、正直少しパサパサしていて味気なかったが、リリフィエと二人きりで過ごすこの穏やかな時間は、俺にとって何よりのご馳走だった。


「ラグナス様、昨日の歴史の講義、少し難しくありませんでしたか?」


 リリフィエが、彼女愛用の可愛らしい弁当箱を広げながら、小首を傾げて尋ねてきた。


「ああ確かに、かなり骨が折れたな。ノートを取るだけで精一杯だった」

「ふふ。もしよろしければ、放課後、私のノートをお貸ししますわ。私なりに、要点を分かりやすくまとめてみたんです」

「本当か? それは助かるよ、リリフィエ。君は本当に優秀だな」


 彼女は本当に良くできた女性だ。成績は常にトップクラスで、物腰は柔らかく、いつも俺のことを第一に考えて、細やかに気遣ってくれる。

 俺が素直に感謝の言葉を口にすると、リリフィエは「そんな……」と、また嬉しそうにはにかんで微笑んだ。

 この笑顔を守りたい。

 柄にもなく、俺は本気でそんなことを考えていた。この平凡な日常が、永遠に続けばいいと。


「あら奇遇ですわね。こんな日当たりのいい場所で、お二人仲良くご一緒に」


 その甲高い声が聞こえた瞬間、俺たちの間に流れていた穏やかで温かな空気は、まるで真冬の北風にさらされたかのように、一瞬で霧散した。

 アリシアだ。

 なぜ、こいつはいつもいつも、俺たちの邪魔をしに来るんだ。

 しかもあんなことがあったばかりなのに、よく顔を出せたものだ。


「アリシア……様」


 リリフィエの声が怯えに引き攣り、彼女は反射的に俺の服の袖を掴んだ。


「何よその他人行儀な呼び方。気味が悪いわね。普通に『アリシア』と呼べばいいじゃないの」

「う、でも……」

「ああ。なるほど、壁を作ってるつもりなわけ。貴女、私がラグナス様に手を払われたのがそんなに嬉しかったの? 私はこんなに可哀想なのよって、アピールできてよかったわね」


 アリシアは、わざとらしく、心底うんざりしたというようにため息をついた。


「ラグナス様も、こんな女のどこがいいの? いつもメソメソして、男の庇護がなければ何もできない。まるで意思のない人形じゃないの。見ていてイライラするわ」

「黙れ、アリシア。君にリリフィエのことをとやかく言う資格はない」


 俺は食べかけのサンドイッチをバスケットに戻し、リリフィエを庇うように、アリシアの前に立ちはだかった。


「資格? 私には十分すぎるほどあるわよ。だって、私とこの女は、血を分けた従姉妹なんですもの」


 アリシアはニヤリと、毒蛇のように笑った。


「あら、リリフィエ。貴女、また新しいブローチをつけているのね」


 不意に、アリシアの視線が、リリフィエの制服の胸元に注がれた。

 そこには、先日俺が王都の宝飾店で選び、夜会の埋め合わせとして贈ったばかりの、青い小鳥をかたどった小さなブローチが輝いていた。


「あ……」


 リリフィエは、アリシアの視線に気づき、反射的にブローチを手で覆い隠した。


「素敵ね、それ。とても可愛らしいデザインだわ。ねえ、私に貸してくださらない?」

「い、いやです……! これは、ラグナス様に新しくいただいた、本当に、大切な……」

「あら、ケチね。ちょっとの間、借りるだけよ?」


 アリシアはリリフィエの必死の抵抗などまるで意に介さず、強引にブローチを掴んだ。


「やめてください! お願い、返して……!」


 リリフィエが悲鳴のような声を上げる。


「アリシア! いい加減にしろ!」


 俺はアリシアの細い手首を掴み、その手を無理やりこじ開けさせようとした。

 だが、アリシアは驚くほどの力でブローチを握りしめ、離そうとしない。


「離しなさいよ!」

「君こそ離せ! それはリリフィエのものだ! 君のものではない!」


 俺たちが中庭でみっともなくもみ合っていると、アリシアは握りしめていたブローチを、まるで道端の石ころでも捨てるかのように、近くにある装飾用の噴水に向かって、力任せに投げ捨てた。

 チャポン、と小さな、しかし絶望的な水音がした。


「あ…………」


 リリフィエの口から、全ての音が失われたかのような、絶望とも取れる声が漏れた。

 俺も、そして投げた張本人であるアリシアも、一瞬、何が起こったのか理解できず、動きを止めて固まった。


「…………あ、ああ…………! ああああ!」


 リリフィエが、わなわなと肩を震わせだす。


「私の……私の、ブローチが…………!」


 彼女はよろよろと噴水に駆け寄ろうとしたが、足がもつれて、その場にへたり込んでしまった。


「な……」


 俺は、怒りで我を忘れそうになりながら、アリシアを睨みつけた。


「君は……! なんてことを……!」

「ち、違う……私は、そんなつもりじゃ……」


 あの傲慢なアリシアが、珍しくひどく狼狽えていた。その顔は真っ青に青ざめ、投げた自分の手と、ブローチが消えた噴水の水面を、信じられないというように交互に見ている。


「私は、ただ、ちょっと借りようと……あんな、遠くまで飛ぶなんて……」

「言い訳は聞きたくない!」


 俺は、心の底からの怒りを込めて叫んだ。


「リリフィエがどれだけあのブローチを大切にしていたか、君も知っていたはずだ! なのに、それを……! それを、噴水に投げ捨てるなんて!」

「だって、あれは……! あのブローチは……!」


 アリシアが、必死の形相で何かを言いかけた。だが、その言葉は、リリフィエの絶叫にも近い泣き声によって、無情にもかき消された。


「うわああああああ……! ラグナス様ぁ……! 怖い……!」


 リリフィエは地面に突っ伏し、まるで幼い子供のように、人目もはばからず泣き出した。


「リリフィエ、大丈夫か! しっかりしろ!」


 俺は慌てて彼女のそばに駆け寄り、その震える体を抱き起こした。


「ブローチが……私の、大切な……! アリシアが……アリシアが、また、また私から奪っていく……!」


 彼女は俺の胸にすがりつき、しゃくりあげながら訴えた。


「大丈夫だ、リリフィエ。落ち着け。ブローチなら、また俺が買ってやる。もっと素敵で、もっと高価なやつを」

「違うんです……! そうじゃないの……! あれじゃなきゃ、ダメなんです……!」

「リリフィエ……」

「アリシアはきっと、ラグナス様まで私から奪うんだわ……!」

「なっ……!?」


 俺は、彼女の衝撃的な言葉に息を呑んだ。


「そ、そんなことはない! 俺は誰にも奪われたりしない! 俺は君のものだ!」

「でも、アリシアはラグナス様を狙ってます……! いつも、私とラグナス様の間に入ろうとする……! いつか、きっと、ラグナス様も私のもとから奪われてしまう……! 私、怖いの……! ラグナス様までいなくなったら、私、私、どうしたらいいの……!」


 リリフィエの体は、まるで嵐の中の木の葉のように小刻みに震え、その美しい瞳には、純粋な怯えだけではなく、何か得体の知れない、底なしの不安の色がどす黒く浮かんでいた。

 俺は彼女を、その不安ごと包み込むように、強く抱きしめた。


「俺はここにいる。何があっても、絶対に君のそばにいる。アリシアなんかに、俺たちの仲を引き裂かせたりはしない」

「本当……? 本当に、どこにも行かない……?」

「ああ、公爵家の名にかけて、約束する」


 俺はリリシエを必死に慰めながら、アリシアが立っていた場所を、殺意にも似た怒りを込めて睨みつけた。

 だが、そこに彼女の姿はもうなかった。

 いつの間にか、あの女、自分がしでかしたことの重大さから、逃げ出したらしい。


「…………最低の女だ」


 俺の口から、本心からの侮蔑の言葉が漏れた。

 あんな女、絶対に許せない。

 俺のか弱く、純粋なリリフィエをここまで苦しめるアリシアを、俺は心の底から憎悪した。

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