夢見のエクソシスト~悪魔の愛に堕ちる時~
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エクソシスト──それは、悪い影響を与える存在から人間を解放するべく儀式を行う者のこと。
主には悪霊や悪魔からの解放。祈りを捧げて神の力を借りてそれらを追い払う。
それで追い払えるのならばいい。
いるじゃないか、人間でもびっくりするほどぶっ飛んだ、常識も良識も通じないのが。
そういう類のものは悪魔にもいるのだ。神に祈っても追い払えない奴らが。「名を名乗れ」なんて脅したって通じないのだ。
そんなヤバい悪魔を祓うエクソシストは、十字架と聖書を持って立襟の祭服を着た普通の者たちではない。ヤバい悪魔専用のエクソシストの部隊がいるのだ。
その部隊の彼らは聖書も持つが、同時に祈りをこめた武器も手にしている。ヤバい悪魔は祈るだけではいけない、物理的に叩きのめすためだ。
そんな部隊には、さぞカッコいい名前がついていると思うだろう。
残念ながらそんなものはない。
悪魔というのは人間の負の感情、特に恐怖で力を増す。だからそんな部隊の存在も、イカれたヤバい悪魔がいるなんていうことも世間に知られてはいけない。
だから、その部隊は単に「裏のエクソシスト」と呼ばれている。表での活動は十字架と聖書のみを持った「表のエクソシスト」がやるのだ。
私は七歳の時に目の前で悪魔に家族を殺され、ボスコ枢機卿に引き取られ、厳しい訓練を耐え抜いて裏のエクソシストとなった。
「三番隊隊長アリアドネ・ワイズに出動を命じる」
会議室で長いテーブルに並んだ枢機卿たちにそう告げられた。
私はいつの間にか十八歳になり、隊長にまで上り詰めていた。上り詰めたというには語弊があるか、前任のエクソシストの引退が早かったから昇進しただけだ。
目の前の枢機卿たちは皆、元裏のエクソシストたちだ。それぞれが顔に傷があったり、隻眼だったり、足を引きずったりしていることから裏での悪魔との戦闘が熾烈であることが分かる。
「とはいっても、すでにワイズ隊長はどこで何の悪魔を討伐するか知っておるだろう」
「また何か夢で見たか?」
枢機卿たちは半ば面白がるように聞いてくる。これは私が持つ特殊能力のせいだ。
「はい。エトス村で鏡の悪魔の討伐命令ですね」
私の淀みない答えにもう枢機卿たちは誰も驚かない。やはりなという様子で皆頷いている。
「そうだ。弱小な鏡の悪魔に三番隊を駆り出すなど大袈裟かもしれんが、被害が三十人になったのでな。村人たちは皆、人が引っ張り込まれた屋敷を鏡の屋敷と呼び、呪われていると大いに恐怖している。これではエトス村以外にも被害が広がってしまう」
「一つ、夢で見た内容を申し上げてもよろしいでしょうか」
「あぁ、何か気になることでも?」
「私が見た夢では、エトス村の鏡の悪魔の討伐の際にエクソシストは全員死にます」
私の言葉が浸透するまで束の間の沈黙が流れ、枢機卿たちの表情が驚きに満ちていく。
「それは、本当か?」
「こんなことを嘘では申しません」
私だって信じたくないが、夢で教えられたのだから言うしかない。みすみす死ぬと分かっていて部下たちを行かせるわけにはいかない。
なにせ、今まで私が夢で教えられた内容が現実にならなかったことはないのだから。
「夢で見た状況を正確に教えてくれ」
「いつも通りです。私は誰かの膝の上に頭を置いてまどろんでいて、その人物は誰か分かりません。まどろんでいる私にその人が起きる未来を教えてくれるのです。その人物は昨夜私に言いました。『エトス村での鏡の悪魔の討伐の際にエクソシストは皆死ぬ』と」
その人は、まるで父か母のように私の頭を撫でてくれる。いつも同じ人だが、顔は見えない。私は声だけで判断している。
家族を殺された七歳の頃からずっとそうだ。
エクソシストを目指す訓練は辛く、私は夜に一人で声を押し殺して泣きながら眠るのが常だった。訓練が辛いのと家族が恋しかったからだ。
そんな時に夢で次の日の訓練内容を教えてもらった。そこから、落ちこぼれ気味だった私はうまくいき始めた。
皆不思議がったが、私だって夢の内容を最初から信じていたわけではない。半信半疑のまま、ずっと夢で教えてもらった内容が現実で起き続けるのでやっと信じた。
ある日、夢の中でその人は私を引き取ってくれた養父であるフランシス・ボスコ枢機卿が馬車の事故で死ぬと教えてくれた。
目覚めて着替えることもしないままボスコ枢機卿のところに走って行って馬車事故について告げ、私の夢見の力は皆に知られることになった。
ボスコ枢機卿は生きている。私の告げた嘘のような夢の内容を信じてくれて、回避した結果だ。
「夢見のエクソシストがそう言うのなら……」
一部の教会関係者は私のことを「夢見のエクソシスト」と呼ぶ。
「しかし、相手はただの鏡の悪魔だぞ?」
「念のためだ。一番隊を同行させよう。弱い悪魔でも数が多いと厄介だ」
「皆死ぬという話ではないのか? ならば、一番隊まで行かせてはならない」
「ではどうするのだ。二番も四番隊も他で出払っている。エクソシストの数を増やせば死ぬことはないだろう」
枢機卿たちが揉めるのを聞きながら、今回の討伐案件について分かっていることを整理する。
鏡の悪魔とは、鏡と鏡の間を移動し、人間を鏡の中に引きずり込む悪魔だ。
数が多いと厄介だが、一個体では弱い悪魔である。
鏡の中に潜み、鏡の中は違う世界になるので、聖書の言葉が効かない。鏡を叩いて威嚇しても人間を解放しない場合は、物理的に鏡を破壊するしかない。大体、鏡を破壊する途中でびびって人間を解放することが多い。
鏡の中に引きずり込まれた人間は、鏡の悪魔を殺すか一定時間経過すれば鏡の中から出てくるはずだ。それなのに、今回は最長でも行方不明になった村人が一カ月出てきていないらしい。鏡の中から伸びた手に攫われたという目撃情報があるのもおかしい。鏡の悪魔はそこまで長距離を移動できないはずだ。
「ワイズ隊長、君の夢見はこれまですべて当たっている。私が死ぬはずだった馬車事故も含めて。しかし、全貌が見えない相手のことは信用してはいけないと思っている。夢見に頼りすぎるのは危険だ」
三人のうちの一人、ボスコ枢機卿が静かに私に告げた。
父の同僚だった人、そして現在は私の養父である彼は、夢見の力で死を回避しても客観的な立場を崩さない。
「しかし、フランシス。もしかするとオリバーが娘を心配して夢に出てきて教えてくれているのかもしれない。ワイズ隊長、その人物はオリバーではないか? 若い頃の姿なら一致せずとも無理はない」
「夢見の能力を持つ者は稀にいるが、ワイズ隊長の夢見の精度はずば抜けている。神が彼女に与えた才能に違いない」
慎重なボスコ枢機卿に対して、他の二人は私の夢見を信じている。
オリバーとは、私の父の名前だ。夢に出てくるのが父かどうかなど分からない。
父の姿はおぼろげにだが覚えている。でも、あんな細く長い指ではなかったと思うし、あんな声でもなかった気がする。
父はエクソシストとしての出張から帰って来て、全員で食卓を囲んだその時、妊娠中の母がお腹を押さえて苦しみ始めた。
産み月にはまだ早かったが何か異常があったのかと子供心に不安になっていると、父が厳しい顔をして叫んで聖書と十字架を母に向けたのだ。
そこからはあまり思い出したくない。
久しぶりの家族団らんが、瞬く間に恐怖の空間に染め上げられた。
悪魔は母とお腹の妹か弟を殺し、父に乗り移った。そして悪魔に乗っ取られかけた父は、体内で必死に悪魔に対抗しつつも私の首を絞めて殺そうとした。
最初は強く私の首を絞め、我に返ったようにその力が緩む。何度もそれを繰り返す。
私は必死に逃げ出し、父の仲間のエクソシストに異常を知らせるために震えながら魔道具で教会に連絡を取った。
悪魔に乗っ取られた父にひたすら追いかけられ、もうダメだと思った時に真っ先に助けに来てくれたのが現在のボスコ枢機卿だ。
ボスコ枢機卿はその当時は裏のエクソシストだったが、父とは仲が良かった。彼は父を害することを躊躇った。
「フランシス! 私もろとも悪魔を殺せ!」
それが悪魔に操られながらも、正気に一瞬戻った父の最期の言葉だった。
枢機卿たちは揉めに揉めたが、結局三番隊と一番隊合同で鏡の悪魔の討伐に向かうことになった。
裏のエクソシストは、激しい戦闘がある故に負傷者も多く常に人手不足だ。
一番から五番隊までしかなく、一つの隊の構成は隊長・副隊長・部下三名の計五名。
親がエクソシストだった私のようなタイプもいれば、一番隊隊長クロードのように親に何らかの事情で捨てられ教会に引き取られた孤児で才能を見出されて裏のエクソシストになった者もいる。
「鏡の悪魔にわざわざ二隊も割くとは、枢機卿たちも思い切ったことするよな」
「悪かったわね、私の夢見のせいであなたの隊にまで手間をかけて」
鏡の悪魔の巣食っている丘の上の鏡の屋敷と呼ばれる家まで歩きながら、一番隊隊長のクロードは私に絡んでくる。彼は二十歳で、私よりも年上だ。
彼が隣に並ぶと、葉巻の臭いがして頭が少し痛くなる。
「俺は別に迷惑だなんて言ってないけど。それに鏡の悪魔の被害で三十人はおかしい。せいぜい五人くらいまでだろ? なんかあるんだろうな」
「百体もいたら三番隊だけじゃどうにもならないから」
「先遣隊が戻ってこないから、枢機卿たちの判断はきっと妥当なんだろうな」
私とクロードの後ろを、それぞれの武器を所持した部下たちが続く。
教会関係者と分かると噂になって恐怖心を煽るので、皆冒険者か旅人のような服装だ。
「相変わらず、アリアドネのとこの副隊長は聖書食べてんだな」
「そりゃあ、聖書食べた時の方が強いんだから」
私の隊の副隊長であるキャロルは聖書のページをビリビリ破って食べながら歩いている。ちなみに男性だ。エクソシストは圧倒的に男性が多い。最近になってやっと女性のエクソシストも増えてきた。人手不足だからである。
キャロルはクリスマスに教会に捨てられていた。だから、安直にキャロルという名前だ。素養があって裏のエクソシストになり、ある時聖書を読むより食べた方が強くなると分かったらしい。嘘のような話だが、聖書のページを破って食べた後のキャロルの方が強い。
キャロルの隣では一番隊の隊員がパンをずっと食べている。あの子はいつ見ても何かしら食べている。
「クロードの部下だってずっとパン食べてるじゃない」
「あいつは常に食べてないとダメだから。でも紙は食ってない」
「いいじゃない、聖書食べたって」
「聖書食って強くなる原理の方が知りてぇよ」
他にも弓を担いでいたり、大きな杖を持っていたり、双剣を腰に差していたりと裏のエクソシストの装いも武器もさまざまだ。
私の武器は背中に担いだ猟銃と剣だ。
「なぁ、アリアドネはこの仕事辞めたくならねぇの?」
「なんで、そんなことを聞くの」
クロードは家族を悪魔に殺されたわけじゃないから、こんなことが平気で聞けるのだろう。
「いや、結婚とか考えねぇのかなって」
「考えたことない」
「ふーん。じゃあ、裏のエクソシスト辞めて俺と結婚しない?」
教会は聖職者の結婚を禁じているが、エクソシストについては例外だ。
人手不足のエクソシストの子供はエクソシストの素養を持つことが多い、という切実な理由からだ。
裏のエクソシストは任務で死ぬこともあるので、結婚しているのは父のような表のエクソシストが多い。
こんなことが分かっているのも、結婚は禁じられつつも破られていた歴史があるわけだが……。
ただ、エクソシスト同士での結婚は推奨されていない。職場内恋愛禁止といったところだ。ギスギスして任務に支障が出たら困る。
「嫌よ。辞める理由に私を使わないで。大体、隊長が辞められるわけないでしょ」
「代わりがいるならいいんだ?」
「いいえ。私はあの悪魔を必ず殺すと決めているから。あいつを殺すまで辞めないし結婚だって考えたくもない。それに、クロードは女遊び激しいじゃない。そういうお店に行ってるの知ってるわよ」
「夢見の力でまだ存在してるって言われた、ご両親を殺した悪魔のことか?」
「そうよ……って、葉巻に火つけないでよ。私、その臭い嫌いなんだから」
「葉巻くらい吸わねぇとやってられねぇだろ。娼館通い辞めたらいいわけ?」
「……そういう問題じゃないから」
クロードはもうすぐ屋敷に到着するというのに、葉巻に火をつけている。
クロードとのこのふざけたやり取りは初めてではない。
一年前から何度か。お互い悪魔の討伐任務で忙しくて会うことも稀だが、クロードと会ったら求婚紛いのこんな話をされている。
会話が聞こえる範囲にいる部下たちはニヤニヤとした笑みを浮かべて誰も止めない。
これから悪魔と戦闘になるかもしれないのにこの緩んだ空気。私が夢見に囚われ過ぎているのだろうか。
葉巻に火をつけたクロードはもう何も言わなかった。
これが彼との最期の会話になると分かっていても、私の答えは変わらなかった。
でも、冗談でも結婚しようと言ってくれて嬉しいということだけは、最期だと知っていたら伝えても良かったかもしれない。
吹けば飛ぶほど軽かったけれど、求婚なんて人生で初めてされたから。
裏のエクソシストは表に出ない存在。普通の人々には認識されない存在。
だから、クロードの軽すぎる本気かどうかも分からない求婚でも私は少しだけ嬉しかった。自分の存在が認識されているみたいで。
鏡の屋敷という名前にふさわしく、広大な二階建ての建物にはそこら中にさまざまな種類の鏡があった。
この屋敷の持ち主が収集していたため、いつの間にやら鏡の悪魔の巣窟になってしまったのだ。
「ん、この感じは雑魚がたくさんいるな。一番でかいあれとあの鏡だけ残して他はすべて破壊しろ。それであの二つの鏡の間を移動しようとする奴らを殺せばいい」
「そうね、これだけ鏡があると聖水をかけるのも一苦労」
屋敷の中はクロードたち一番隊とキャロルともう一人に任せ、私と部下二人は外で結界を張った。一般人に悪魔を目撃されると、その恐怖心によりせっかく弱体化した悪魔が強くなることもあるのだ。
結界を張り、悪魔が結界を破って村に逃げ出さないように聖水も撒く。
中からは鏡を叩き割る派手な音がずっと続いていたが、やがてその音も止んだ。
屋敷の中はそこら中に鏡の破片が飛び散って光が反射し、目に痛い。
大きな鏡と鏡の間を横切る黒い影に向かってクロードが大剣を振るい、クロードの手から逃げ出しそうになった悪魔を部下たちが杖で撲殺したり、射たりしている。
私も五体ほどの鏡の悪魔を射殺し、屋敷の床は鏡の破片と鏡の悪魔の小さな黒い死体で埋め尽くされた。
「教会に状況を報告して。三番隊は外を見回るわよ」
部下の一人が魔道具で教会に状況を報告しているのを横目に屋敷の外に出て、悪魔を取り逃がしていないか見回る。
何体かが逃げ出し、沈みかける太陽の光が眩しくてギャアギャア喚いていたが結界に阻まれてみっともなく飛び跳ねていた。
「おかしいですね。鏡の悪魔はこれほど移動できないはずです。外には鏡もない」
「そうね。特殊な個体ってこと?」
「これまで見たことのある鏡の悪魔と外見は一致していますが」
副隊長のキャロルと首を傾げながらも悪魔たちを殺していく。
「キャロル。やっぱりおかしい」
「どうしました、隊長」
キャロルは聖書を破いて食べながら、悪魔を聖書でぶん殴るという器用な真似をしている。
「殺した悪魔の死体が消えてない」
悪魔は殺すと、小さな黒い灰になってサラサラと朽ちていくはずなのだ。その過程で赤黒い煙のようなものが出る。それなのに大量の鏡の悪魔の体は朽ちていないのだ。
「あ……!」
キャロルも気づいたらしく目を見開いた時だった。
耳をつんざくような爆発音がした。
目の前で鏡の屋敷が一瞬で潰れる様がやけに遅く見えるのに、体が全く動かない。中にはまだ一番隊がいるのに。
喉の奥に声が張り付いている。足も地面に縫い付けられたかのようだ。
破片が飛んできてそれを避けてやっと我に返る。
「クロード!」
私が叫ぶと、呆然としていたキャロルも動き出す。
キャロルの足に何かが巻きついた。どこからか出てきた黒いツタのようなものだ。
私は慌てて発砲するが、私の銃にも鏡の破片から伸びてきたツタのようなものが巻きついた。
「なっ!」
ツタに銃が取り上げられる。
剣を抜いたが、体にもツタが巻きついてあっという間に締め上げられた。
あの時と同じだ。
悪魔に乗っ取られた父に首を絞められているみたいだ。
視界の端でキャロルや部下たちも同じようになっているのが見える。
完全に崩壊した屋敷の瓦礫の中に、大きな鏡二つだけが無事に残っていた。不思議なことに鏡にはヒビ一つ入っていない。
ポケットの中の聖水を探しながらツタに抵抗していると、鏡の中にクロードの姿が見えた。鏡の中でクロードは同じように黒いツタに締め上げられており、鏡から黒いツタが何本も出ていた。
クロードが対峙しているのがこのツタを出している悪魔だろう。
クロードがふとこちらを見て、目が合った。
彼は軽く笑う。
笑ってる場合じゃない。部隊は皆死にそうなのに。
暴れていると、クロードが咥えていた新しい葉巻をわざと落としたように見えた。
葉巻が鏡の中で地面に落ちると、ぶわりと炎が広がる。
油でも事前に撒いていたのだろう。でも、あんなことをしたら──。
「クロード!」
片腕だけ何とかツタから逃れて私は叫ぶ。
鏡の中でのみ炎は広がり、甲高い軋むような音を上げながら大量の黒いツタが鏡の中から炎から逃れるようにすごい勢いで出てくる。
黒いツタにあっという間に飲み込まれて、私は意識を失った。
誰かが私の頭を撫でている。
これはいつもの夢の中だ。それか、私はツタに締め上げられるか圧をかけられて死んだのか。
また、夢見の通りになったわけだ。
「私のアリアドネ」
そんな風にこの人に呼ばれたのは初めてだった。
「君はまだ死んでない。助けてほしいかい?」
誰? この人は誰? 助けてくれるの?
そう問いたいのに意識が混濁して言葉が出ない。
父じゃない。母でもない。この人は誰?
「私は君とずっと一緒にいた。君が父親に首を締め上げられたあの瞬間からずっと一緒だ」
知らない。そんな人いない。
あの時助けてくれたのはボスコ枢機卿だ。でも、この声は彼じゃない。
「両親を殺したあの悪魔を殺したくないのかい?」
殺したい。でも、もう無理だ。弱いとされる鏡の悪魔にさえ私は勝てない。夢見がなければもっと早く死んでいたくらいだ。
私はきっと今死にかけている。眠くて眠くて仕方がない。このまま眠気に負けたら夢から覚めることなく私は死ぬのだろう。
もう、後輩の誰かに託してもいいかもしれない。だって、私はこんなに弱いんだから。夢見で事前に教えてもらったから対処できていただけ。
私が一人死んだところでどうせ世界なんて変わらない。もういいじゃないか。
人間の恐怖心がある限り、悪魔は消滅しない。
「いいんだ? 他人任せで。そんな他人任せならクロードにエクソシストを辞めようって言われた時に頷けば良かったのに。ついさっきとかね」
眠くて沈みかけた意識が急に浮き上がる。
見ていたのか、この人はずっと。夢の中だけじゃなくて現実もすべて。
「どうして頷かなかったんだい、アリアドネ。クロードはタイプじゃないにしても、まぁまぁいい男だ。稼ぎも貯金もあって、年齢も釣り合う。いいじゃないか、それで。復讐を他人任せにできるのに、どうして君はしなかった? クロードにさっさと頷いていれば、彼は炎に包まれて死ななかったのに」
やっぱりクロードは死んだのか。私に冗談でも初めて求婚紛いのことをしてくれた男性は、さっき私の目の前で死んだ。
「可哀想なクロード。彼はアリアドネのことを結構好きだった。孤児だからね、普通の告白なんてできなかったんだよ。親から捨てられた上に、告白まで断られたら自分のすべてを否定されるようでショックだからね。娼館通いだって愛されたいから。でも、肝心の一番好きな子には振り向いてもらえない。ふふ、滑稽な男だよ、クロードは」
私の耳元でその人は囁く。
思っていたよりも甘い声だ。そしておそらく、男性だ。
「あんなに何度も言ってもらって頷かなかったのは、死んだ両親の仇を取りたいからだろう? 生まれてくるはずだった妹か弟に報いるためだろう? それに、父より偉大なエクソシストになりたいんだろう? 悪魔に乗っ取られて、可愛い娘の首を何度も絞めた愛のない父親よりも自分は素晴らしいエクソシストになりたいんだろう? だから君は辛い訓練でも逃げなかった」
聞きたくない。父は確かに私の首を絞めた。
でも覚えている、父が激しく葛藤して揺らぐ目を。悪魔に対抗して涙まで浮かべたあの目。私と同じ緑色の目。
「君が仇を取りたいなら私が協力してあげるよ。私のアリアドネ」
さらりと髪の毛が落ちてくる。綺麗な長い髪で光る銀色だ。
私の髪は赤いので、銀髪はこの声を発している人のものだろう。
「君の物語なのに、もうさっさと終わらせるのかい? 鏡の悪魔がなぜ消えないか、教えてあげようか。あれは本体が別にいてね、小さいのはすべて鏡の悪魔の虚像。本体が消えない限り消えない。最後まで鏡の中にいたのが本体で、そいつはなんと羨ましいことに人間と契約している。だから並みの鏡の悪魔より数段強くなっている。悪魔は人間と契約すると格段に強くなるからね」
なぜこの人はそんなことまで知っているのだろう。私でさえ知らないのに。
目の前に垂れる銀髪をそっと掴んだ。今なら手が動く。
そのまま体の向きを変えた。
長い銀髪に緑色の目をした綺麗な男性に、私は膝枕をされている状態だった。男性はよく見ると燕尾服を着て、黒い手袋を嵌め、胸ポケットには赤いバラまで挿している。どこかの貴族の家の執事みたいだ。
こんな綺麗な人に私は会ったことがない。
「やっと私を見てくれたね、私のアリアドネ」
「あなたは誰?」
いつの間にか声も出せるようになっている。
「私は、君が呼んだ存在」
「知らない、分からない」
私の家族の誰も銀髪ではない。だから、生まれるはずだった弟が夢の中で具現化したということもない。
「私は、君の愛の恐怖によってできた悪魔。君のための、君だけの『愛の悪魔』だよ」
「……私は悪魔憑きだったということ?」
大体、悪魔というのは黒い異形のはずだ。こんな綺麗な人の形をとる悪魔を私は見たことがない。人間に乗り移っているのならまだしも。
「悪魔憑きは、元々存在した悪魔が人間に憑りつくこと。君が小さい頃から私はずっと君といた。両親と生まれるはずだった妹か弟を悪魔に殺されたあの日から、私は君とともにある。表のエクソシストだった父親が君の首を絞めたあの瞬間に私は君の中で姿を成した。君はあの時、この世界に一滴の愛もないのだと絶望したからね」
「私は教会で引き取られていたのに……悪魔が私に入ることなんて……」
「関係ないよ。君が私を生んだのだから。私は君の一部。さぁ、アリアドネ、私と契約しよう。そうすれば、ありとあらゆる悪魔は私が一緒に殺してあげる」
「悪魔が悪魔を殺す? 何のために?」
「我々悪魔には欲求がある。根源の欲求で実は天使と同じ。どうして悪魔が人間に憑りついたり、契約したりするか知っているかい? そんな面倒なことをする意味を」
悪魔の事情なんて知らない。眠い。もう眠ってしまいたい。
七歳から私に休みなどなかった。
訓練に次ぐ訓練。エクソシストになったら任務や任務や任務。
もう疲れた。悪魔が悪魔を殺せるなら勝手に殺しておいてほしい。
多分、クロードもきっとこんな気持ちだったのだろう。キリがない任務、次々に現れる悪魔。
ぐいっと顎を掴まれる。
「何を諦めている、アリアドネ。私を生み出しておいて勝手に死ぬというのか」
ぼんやりと綺麗な男性を眺める。
こんなに綺麗な男性を見ながら死ねるのならいいのかもしれない。
「クロードの告白に頷かなかったのは、君が愛を恐れているからだ。どうせ、相手が先に死ぬかもしれないと思っているから。両親のように。私ならアリアドネとずっと一緒だ。君が死なない限り、私も消えない」
顎を掴まれたまま、私は男性を眺め続ける。
男性は私の鼻先ぎりぎりまで顔を近づけて来た。
「愛に恐怖しろ、絶望しろ。父に首を絞められてこの世界に愛なんてないのだと、一滴の愛もないのだと苦しみながらも愛を求めろ。君が愛を求める限り、私は君とずっと一緒だ」
あぁ、それはいいかもしれない。
クロードはあんなことを言いつつ、私とは一緒にいてくれない気がしていたから。どうせ娼館通いは辞めないし、家庭が窮屈になってふらっとどこかへ出て行く。私はそうしてまた一人になるのだ。
両親だってさっさといなくなった。母と、弟か妹は殺された。
結局あの時、ボスコ枢機卿は父を殺せなかった。彼が躊躇っている間に、正気に返ったままの父は崖から飛び降りたのだ。その身に宿した悪魔と一緒に死ぬことを選んだ。残される私のことは考えずに。私は父に生きていて欲しかった。
養父のボスコ枢機卿だって私を置いて先に死ぬだろう。
三番隊の部下たちだって今日死んだ。
私はまた一人だ。
「神は自分に似せて人を作った。悪魔も天使もそれが羨ましくて仕方がない。我々は神の近くにいることを許されながらも、決して神にはなれない存在。だから、天使は人間を助けて神になろうとし、悪魔は人間に憑りついたり契約したりして神になろうとする」
そんなこと教会では教わらなかった。
悪魔は邪悪で、人に害を及ぼして、人を操り堕落させると。
確かに、悪魔が強大な力を持っているなら人間になんて干渉しなくていいのだ。さっさと滅ぼして悪魔の国でも作ればいい。
「私のアリアドネ。ずっと一緒にいよう。どうか私の名前を呼んでくれないか。私は──」
「……聞こえないわ」
こんなに近くにいるのに、男性の唇が動くだけで名前の部分は無音だった。何を言っているのか途端に分からなくなる。
そう告げると、彼は悲し気な顔をした。
「そうか……私の名前はまだ聞こえないか」
「契約したらどうなるの? 私が死ねばあなたも死ぬの?」
「その通り。私がエクソシストに殺されれば君も死ぬ」
エクソシストとしては、悪魔と契約して悪魔を追い払うなんて頭がおかしいと思われるだろう。
でも、この男性の言うことは甘美だった。さすがは悪魔だ。こんなに綺麗に喋る悪魔とこれまで私は会ったことがないけれども。
「君が七歳の時から、ずっと私は夢の中で一緒にいた。契約すれば現実でも一緒にいられる」
この人はずっと夢の中で私の頭を撫でてくれた。「明日はこんなことが起きる」と教えて安心させてくれた。
この男性に夢で会えてから、私は夜に孤独と寂しさで泣かなくなった。父に締められた首を搔きむしってボスコ枢機卿を困らせることもなくなった。
皮肉だ。
エクソシストの私に最も寄り添ってくれたのはまさかの悪魔だった。
「私は君だけの『愛の悪魔』だよ」
「本当に、ずっと、一緒にいてくれるの?」
父に締められた首のあたりが苦しくて声が出しづらい。
あぁ、なんて怖い。この人までいなくなったら私のことを誰も愛してくれない。そんな気分になって震えてくる。父だって私を置いて死んだ。
「七歳からずっと一緒にいたじゃないか。これからも一緒だ。私は何があっても君を愛している。君だけを一番にしていて、悪魔が憑りついたからって君を残して崖から飛び降りたりしない。そもそも悪魔だから憑りつかれることもない」
男性の手が私の手を握ろうと優しく触れてくる。それはあまりにも甘美な誘いだった。
私もそっと男性の手を握り返す。目の前の綺麗な顔に喜色が広がった。
「これからはずっと一緒だ。私のアリアドネ」
エクソシストとしては間違ってる。私のこの選択を後悔する時が将来絶対にくる。
でも、アリアドネ・ワイズとしては間違ってない。私は一人で生きていくには疲れすぎた。
チリチリと熱さが頬を撫でて飛び起きた。
すぐに片足に燃えるような痛みが襲ってきて、骨折していると分かる。
「鏡の。契約して姿を酷く変えたな。それは流行りのイメチェンなのか? 人から遠のいて趣味が悪いと思うが、契約者の趣味が悪いのか?」
夢の中と同じ男性の声がする。
落ちていた自分の剣を拾って杖代わりにして立ち上がると、夢の中で「愛の悪魔」と名乗った男性が大きな黒い塊を前にしゃがみこんで話しかけていた。
「誰と契約したんだ?」
黒い塊は震えて黒いツタを出すが、愛の悪魔は素手でツタを掴んで防いでいる。
「私のアリアドネ。鏡のは契約者を吐かない。こいつを殺すには契約者を殺すか、こいつを殺すかだ。こいつを殺すのが手っ取り早いと思う。多分村の誰かが契約者だろうが、探すのは面倒だろう」
彼と喋っていると夢の中にいるみたいだ。
頭が少しクラクラする。私の様子を見て、彼は眉をひそめた。
「正式に契約していないからアリアドネの負担が大きいのか。早くした方がいいな、殺せるか?」
彼の言葉と同時に全貌を見せた鏡の悪魔は震えて逃げ出そうとする。彼が指を鳴らすと、鏡の悪魔はそこに縫い留められたように動きを止めた。
悪魔にも天使にも階級というものがあるらしいが、彼は鏡の悪魔よりも圧倒的に階級が上のようだ。でないと、この状況の説明がつかない。
「鏡の悪魔如きが相手なら、このくらい簡単だ」
そんな如きと言われるものに、私の部隊と一番隊は殺されたのだ。
弱い。吐き気がするほど私は弱い。よくこんな実力で両親を殺した悪魔を殺すと言えたものだ。
これまで実績を積んできて、私は派手に勘違いをしていた。バカだ、大バカだ。
襲い掛かって来る黒いツタを払い、その場から動くことができない鏡の悪魔に剣を突き立てた。
足を折ったせいか、先ほどまで意識がなかったせいか、フラフラする。
ふらついた私を愛の悪魔は抱き留めて、ゆっくり地面に横たえる。
「あなたは一体、何?」
私の問いかけに彼はあくまで上品に笑った。
頭が朦朧として意識が薄れていく。それだけではない、彼の姿も薄れていっている。
「おやすみ、私のアリアドネ。次はまた夢で会おう。そしていつか必ず、私の名前を呼んでほしい」
その言葉を最後に私の意識は途切れた。
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<鏡の悪魔 討伐案件>
以下は現場から入った連絡である。
隊長クロードが率いる一番隊と三番隊副隊長キャロルとその部下一名が鏡の屋敷に突入。残った三番隊隊長アリアドネと部下二名は結界を張り、聖水を周囲に撒いた。
四十分後に鏡二つだけを残し、屋敷の中の鏡を破壊することに成功。
外にいた三番隊の三名も鏡の屋敷に突入。
鏡と鏡の間を移動できる鏡の悪魔計九十九体の討伐完了。
最初の突入から一時間後、突如鏡の屋敷が爆発でもしたかのように崩壊。
ここで現場からの連絡は途絶えた。連絡は魔道具の音声のみ。
連絡が途絶えたため、祈りを捧げていたエトス村の教会のバーレン神父が事態の確認のため鏡の屋敷に向かう。
二番隊・四番隊は遠征中のため、裏のエクソシストは手配できず。
バーレン神父が到着して目撃したのは、粉々に破壊された鏡の屋敷、飛び散った鏡の破片。
一番隊と三番隊を合わせた九名のエクソシストの遺体、深く抉られた地面。
見たこともないほど巨大化した鏡の悪魔の消えゆく赤黒い煙。
結果だけなら鏡の悪魔の討伐案件は成功。
一番隊と三番隊のエクソシスト計九名死亡。一番隊隊長クロード含む。
生存者は三番隊隊長アリアドネ・ワイズ一名のみ。意識不明だが足の骨折のみ。
同日、エトス村の村長の息子が変死体で見つかった。彼が鏡の悪魔の契約者だと推察される。
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