33.最期の計略
「――……後継者の方はともかくとして、婚約者の方には署名が足りなくてね」
「足りない?」
亡きケリーを思い浮かべながら、困った様子で言うアーノルドに勇は聞き返した。
「うん。ここにね、カトレア令嬢の署名が足りないんだ」
そう答えながら、アーノルドは婚約申請書の、勇の署名の隣を指差した。
アーノルドが指差した箇所に目を落とすと、確かに空欄と思わせる空間がある。
「貴族間の婚約申請書は両家の主人の署名と、本人達の署名が必要不可欠なんだ。勿論、本人の直筆でなければならないから、偽署名の婚約申請書は当然、却下される。今回の場合は、ケリー侯爵の署名は間違いなく彼の物だと幾らでも証明出来るし、イサムのは今ここで本物だと証明された。だから、後はカトレア令嬢が署名すれば、婚約申請書は正式な書類として受理出来るんだけど……」
そこまで言って、アーノルドは婚約申請書をカトレアの目の間に差し出す。
「敢えて欠陥のある書類を送って来たって事は、最後の決定権をカトレア令嬢に持たせようとした、ケリー侯爵の策略じゃないかな」
微笑みながら言うアーノルドを見た後、カトレアは無言で婚約申請書を手にした。
じっと婚約申請書を見つめるカトレアを横に見て、勇は深い溜息を吐いてから呟く。
「一体、いつの間に……」
署名した覚えのない書類を前に頭を抱える勇。
その様子を見て、アーノルドは駄目押しでもう一度尋ねた。
「本当に署名した覚えはない?」
「ある訳がないだろ……」
弱々しく答える勇に、アーノルドは続けて言った。
「書類が届いたのが二ヶ月前で、アルベロからミモマ付近まで通常十日は掛かるから……。恐らく、西方防衛戦が開始されてからか、される前かに書類は作成されたんだと思う。イサム。ケリー領に到着してから、何かに署名した覚えは本当に無い?」
「だから、無いって――」
時系列を辿り推測で問われ、勇は「無い」と答えながらハッとした。
……そういえば、ミモマ防衛戦を開始する前に、部隊長任命書に署名したな……。
「……まさか……」
部隊長任命書に署名した後にも、他に二枚の書類にも署名してくれと言われて……。
似た様な書類だから確認は必要ないと誤魔化された……。
その書類を持って、署名を受け取りに来た人物は、ケリーの側近で部下だった筈……。
記憶を辿れば辿るほど、ぼろぼろと心当たりが出て来て、勇は顔面蒼白した。
「……。心当たりが出てきた様だね」
顔色を変えた勇を見て、アーノルドが気の毒そうにしながら言った。
それがケリーの嘲笑と重なり、勇は一瞬で顔を真っ赤にさせて声を荒げた。
「あんの狸親父……!!」
まんまとケリーの術中に嵌められたと察し、勇は故人である事を一切合切、考慮せずに罵声を叫んだ。
ふざけた書類だったら破きに行くと宣言したのに、皇帝や皇太子の目に触れた今となっては、それも出来ない。
下手にそんな事をすれば、勇にではなくカトレアに被害が及ぶ可能性が出てくるからだ。
ケリーが亡き今、非難出来るケリー家の人間はカトレアしか居ないのだから。
恐らく、それすらも分かった上でケリーはいち早く、これらの書類を皇帝に届けさせたのだ。
つまりは、勇に拒否権は無いのである。
署名が直筆であると証明してしまった上、皇帝が乗り気なのだ。
逃げられる筈もない。
しかし、後継者の件はともかくとして、婚約自体は最悪、反故に出来る。
にも関わらず、カトレアに最終決定権があると、アーノルドが言ったのは何故なのか?
その疑問が浮かび、勇はアーノルドに問う。
「俺をこの国に縛り付けたいのは分かったが……。いや、納得はいかないが! お前でも皇帝陛下でも無く、カトレアに最後の決定権があると言ったのは何故だ? 俺と……無理矢理、婚約する謂れもないだろう」
元婚約者の家を助けられず、肉親も助けられなかった男と、友人で居るだけでも温情なのに結婚しろだなんて……。
カトレアに対して、あんまりでは無いか。
世間がどう言おうと、カトレアには勇と結婚しなければならない理由は無い。
にも関わらず、まるでカトレアが勇と婚約しなければ、全ての話が成り立たないかの様な口ぶりだ。
勇の問いを受け、アーノルドは神妙な面持ちで答えた。
「イサム。君は戦士……いや、軍人として優秀だ。西方の守護者として喉から手が出るほど欲しい人材だ。けど、領地を納める領主としての才があるとは思えない」
そこまで聞いて勇は理解した。
「……だから、カトレアが良いのか」
「……うん。この一ヶ月でカトレア令嬢は領主としての資質を十分に示してくれた。侯爵となった君の後ろで、領主の役目を果たす事になっても何の問題もないと証明されている」
つまり、カトレアが領主代理を行なっていた一ヶ月間の事を、今後も執り行え。と言うのが、皇帝の望みなのだ。
カトレアが領地経営を。勇が領地防衛を。
二人でケリー領を守って行け、と。
その為にはカトレアを勇の配下とするよりも、妻として結婚してしまった方が外聞的に都合が良いのだ。
かつての領主の娘が、侯爵夫人として領地に残れば、領民の反発も出にくくなるだろう。
全てに於いて、二人の結婚は都合が良いのだ。
しかし、それにはカトレアの署名が必要になる。
故に最終決定権はカトレアに握られているのだ。
勇とアーノルドの傍で、カトレアは婚約申請書に目を落としたまま、一切の言葉を発しない。
そんなカトレアを見て、アーノルドが声を掛けた。




