嫉妬
後を引き受けたベッケラートは久し振りの堅苦しい仕事に逃げ出したい気分だった。相変わらずグダグダ長い話をする年寄りや、訳がわからず話をかき回す頭の悪い奴。それらの言い分を聞くだけであくびが出る。彼らにやっと開放されたら次は執務室での書類の山だった。机に足を上げて休憩していると、ふわりと良いお茶の香りがしてきた。
「お疲れさまです。どうぞ」
片目を開けて見ればドロテーが茶を注いでくれている。
〝オレの女に〟は流石にもう一度言い出せなくて、この皇城で寝泊りする間の世話係の侍女として就いてもらっていた。それにあんなに性急に言い寄るのは止めたのだ。あれでは遊び半分で誘っていると誤解されてもおかしくないと悟ったからだった。今回は慎重に進めたいのだ。恋は熱しやすく冷めやすいと自分では思っていたがそれは間違いだった。思い返せば熱した記憶は無かったのだ。
そう・・・いつも冷めていて恋をしている振りをしていただけだ。だが今はどうだ!熱く胸がたぎっている。それでも我慢だ!焦って逃がすわけにはいかない。
「ああ、すまんな」
そう短く答えると手を伸ばして茶を取った。一口飲んで溜息をつく。
「随分お疲れですね。大丈夫ですか?」
彼女から声をかけてくるのは久し振りだ。先日はもしかしてオレの事好きなんだろうか?と思ったがその後は逆に避けられる感じで単なる思い違いだと思った。
「おや?心配してくれるわけ?ふ~ん。今日はやけに優しいな」
「・・・・別に・・・私がお願いした事だから申し訳なくて・・・」
「ふ~ん。別にいいさ・・・今まで楽していた罰だろうよ」
気の毒がられたい訳じゃない。疲れた時にはそんな気遣いが逆に気分を滅入らせる。
ベッケラートはもう一口茶を啜ったら机に戻し溜息をついて目を閉じた。自分の事を何とも思っていなくてもドロテーが近くにいる気配だけで心が休まるような気がした。
その時、目に冷りとする柔らかいものが当てられた。それはドロテーの手のひらだった。驚いて何か言おうとしたベッケラートにドロテーが、しーっと言って止めた。
「静かに・・・私の手って冷たいから気持ち良いでしょう?先生に言うのも何ですけれど疲れって目にくるのですものね。昔から父や兄にしてあげていますから効果は保障しますよ」
ドロテーはそう言いながら優しく目元やこめかみを揉み解していった。それは本当に気持ちが良いものだった。冷たく細い指が強弱をつけながら動き、それは疲れを癒す以上に官能を刺激される。思わずその手を掴んで引き離した。
驚いて瞳を見開くドロテーを見てベッケラートは、はっとした。
「あっ・・・すまん。もういい・・・仕事を始めるから・・・」
「そうですね・・・すみません。お邪魔して・・・申し訳ございませんでした」
ドロテーは急いで茶の器を片付けると出て行った。
(・・・・私ったら何やっているんだろう。あんな事をして・・・)
ベッケラートの疲れている様子につい構ってしまったのだ。もうすっかり熱が冷めたような彼に、今度は自分が言い寄っていると思われたくなかった。叶わない恋だが煩い女だと思われたくない。今頃になって恋をして浮き足立っていた侍女仲間の気持ちが分かってきた。アーベルに恋をしていたと思ったが、今と比べるとあれは幼稚な想いだったと思った、それにこの恋は傷付く事が無いと思っている。勝手に恋をして楽しんでいるけど期待はしていないからだ。
「さてと・・・先生の食事の指示でも出してきましょうかね」
気持ちの整理をつけたドロテーは厨房に向ったのだった。その帰りに近道で中庭を横切っているとエリクと出くわした。
「エリク様、皇子の遠巻き警備に行かれていたのではないのですか?」
「ああ、今日はハーロルトが行っている。しかしドロテー、君って切り替えが早いねぇ~もうオレは〝様〟付けかい?オレ達の仲でさ!」
エリクはクスクス笑いながら顔を近づけて言った。
「当たり前です。此処は皇宮でございますよ」
「ぷっぷぷ・・・おかしいよ!それっ!ガチガチの古株侍女みたいだー」
ドロテーは顎を上げてツンとして見せると、一緒に笑った。本当だったらエリクとこんなに仲良く話しているのを侍女仲間にでも見られたら一大事だ。エリクは人気があるから抜け駆けしたと言われるだろう。そう思いつつも彼の調子にのってしまったのだった。
しかしこの様子は侍女仲間では無く、ベッケラートに見られていた。窓から見下ろす彼の顔は冷たく暗く歪んでいるようだった。
「エリクの野郎・・・手引けって言っただろうが!クソッ!」
ガタンと大きな音がして、バサバサと崩れる音がした。ベッケラートが机を蹴ったのだ。頑丈な机が揺れ上の書類が落ちたようだった。大きな物音に警備兵が入室して来た。
「閣下、如何なされましたか!」
「ちっ、なんでもねぇーよ。つまずいただけだ・・・出て行ってくれ・・・」
警備兵は安否を確認すると敬礼して出て行った。
それからベッケラートは机に残っている書類を全て払い落とした。大きな音は出なかったがそれらは床に散乱した。そうしても胸に燻る憤りが消えない。椅子に、どかりと座ってまた机に両足を上げると自傷気味に嗤い出した。
「まったくオレも馬鹿だって事だな!レギナルトなんか見ていて笑っていたけどよ、オレも同じじゃないか!いちいちこんな事で腹立てるなんてな。まったくどうかしているって!」
ベッケラートは本当にどうかしていると思った。ドロテーがエリクと笑って話をしているだけだったのにこんなに嫉妬を覚えるとは思わなかったのだ。そんな光景は今まで一緒に住んでいたのだから見慣れていた筈だった。しかしドロテーに対する想いが深くなるにつれて違う方向に見てしまうのだ。
(あーあ。仕事する気おこんねぇ~な)
「何ですか!これは!」
一喝するその声にベッケラートは驚いて椅子から落ちそうになった。
入り口でドロテーが既に怒った顔をして立っていたのだ。さっきお茶を出してからそんなに時間が経ってないのに、部屋が目も当てられない程の状態になっていたからだ。ドロテーは床に散らばった書類を拾い集め出した。そして近くまで近づいてくるとベッケラートを睨んだ。
「仕事が嫌で癇癪でもおこされたのですか!困った方ですね!」
「あ・・いや・・・そういう訳じゃなくってだな・・・」
「そうじゃない?じゃあどうしてです?」
「・・・・・・・・」
嫉妬してまるで子供みたいに癇癪おこしましたなんて言える訳が無い・・・・・
ベッケラートも立ち上がって書類を拾い集め出した。
「私が集めますから先生あっ、公爵様は座って整理して下さい!」
「敬称なんかいちいち言い直さなくていーさ」
ふて腐れて机に向うベッケラートの姿にドロテーは思わず吹き出した。
「ふふふっ同じですね。さっきエリク様も〝様〟はいらないって言われていましたけど、此処は皇城なんですからね。私が罰せられますもの。だから困らせないで下さい」
エリクと同じと言われてベッケラートはまた苛々が募った。
「ああもう!自分でするから出て行ってくれ!」
ドロテーは何故彼が怒っているのか分からなかったが、とても声をかける雰囲気じゃなかったので大人しく出て行った。その後はお茶を運んでも仕事に没頭していて顔さえ上げなかったのだった。
ベッケラートは一日中気持ちを紛らわす為とはいえ、仕事に埋没していたから夜の時間が空いてしまった。皇宮の一角には名門貴族達の居住区がある。そこに皆が皆住んでいる訳では無い。皇家より部屋を与えられるとは名誉であり権力の象徴のようなものだった。だから定期的に通って宮廷にある彼らが自由に使うことが出来る大小の広間では、茶会や観劇に演奏会、夜会と様々な華やかな会で賑わせていた。
ベッケラートは仕事をする為に来たからそんな遊びに顔を出す事は無かった。しかし気が滅入っていたせいか、楽の音に誘われてその灯りを見ながら歩いていた。寒い夜誰もそんな庭を歩く者などいないと思っていると呼び止められたのだった。彼を見つけて外へ出て来たのは昔馴染みの侯爵夫人だ。恋人だったこともある人物だった。面倒なことに馴れ馴れしく誘ってくるのだ。適当に断っても去ろうとしない彼女にベッケラートは舌打ちした。そんな気分じゃないのだ。仕方なく黙らせるように口づけをして言った。
「もういいだろう?餌はやったんだからあっちに行ってくれ」
「まっ!もう結構よ!」
ベッケラートの冷たい態度に元恋人は去って行った。
その頃、ドロテーは最後の仕事を終えて歩いている所だった。ベッケラート付になったといってもティアナの時のように彼が寝床に入るまで付き合う訳では無かった。仕事が詰まっているので何時に帰るか分からないからいいと言われていたのだ。だから寝仕度の用意を整えて帰っている所にベッケラートを見かけたのだった。真っ直ぐ来れば良いところを横の庭に向って歩いていた。何処かに行くのだろうか?と気になってドロテーはつい後を追ってしまった。
そこで目撃したのは宮廷で指折りの美しさで有名な侯爵夫人と口づけしている場面だった。ドロテーはそれを見た途端、走り出してしまった。走りながら自分はなんて馬鹿だったのだろうと思った。
(何よ!何がこの恋は傷付かないからいいって?そんな馬鹿なこと思っていたなんて!私は大馬鹿者だわ!傷付かない訳ないじゃない!こんなに、こんなに好きなのに!)
涙が出そうだった。だけど泣いている場合では無い。自分はまだ何もやっていないし逃げていただけだ。そんな自分は大嫌いだ!アーベルの時だってそうだった。彼から有頂天にさせられて捨てられた時は逃げただけだったのだ。だけど今回はもう諦めないし諦めることなんて出来ない。
(私に飽きたって言うのなら、もう一度こっちを向かせればいいだけよ!)
どんなに頑張っても駄目だった時にだけ、思いっきり泣こうとドロテーは決心した。
一大決心をした翌日、ドロテーはベッケラートの侍女の任を解かれていた。皇子宮から滅多に出ないドロテーの顔を知る貴族は少なかったが、ここ最近は皇宮で見かけられ噂になっていた。美人だから目立ったのだろうが噂とはもちろんベッケラートの求婚話だ。噂に尾ひれが付く前にベッケラートは彼女から離れる事にしたのだった。
いずれにしてもティアナ達が帰って来るのは後数日だ。ドロテーはその帰りを待つ平穏な日常を送ることとなったのだった。
晴れやかな笑顔でティアナが帰って来た。
「ドロテー!あなたも帰っていたのね?」
「はい。ご不便をおかけ致しまして申し訳ございませんでした。如何でございましたか?皇子とのご休暇は?」
聞かれたティアナは頬を薔薇色に染めて微笑んだ。本当に幸せそうな微笑だ。
「とっても素敵だったのよ。それにね――」
ティアナが嬉しそうに色々話し出した。ドロテーはそれを聞きながら皇子の贈物が成功したのを心の中で安堵した。
皇子はというとベッケラートから不在の間の内容を引継ぐため直接皇宮に行ったが意外と早く帰って来たのだった。ベッケラートが噂に違わず有能だったようだ。
皇子がティアナの部屋に入って来ると早速ドロテーは外へ出た。もう言われなくてもそうするのが常だ。
朝別れた時と違って浮かない顔をしているティアナにレギナルトは気が付いた。
「ティアナ何かあったのか?」
「え?・・・・そうではないのですけど・・・何だかドロテーが元気無いみたいだったから。どうしたのかなと思って・・・お仕事大変だったのかしら」
「ドロテーが?」
レギナルトはそう言って考え込んだ。ベッケラートの様子も何と無くおかしかった。二人の間で何かが起きているのは薄々察していたが・・・何か進展があったのだろうか?
レギナルトはふっと笑った。
(私が人のことを心配するようになるとはな・・・・)
「皇子?」
「ああ、大丈夫だ。先日頼んだ仕事の件なら後でドロテーに聞いてみるからティアナは心配しなくていい」
それから暫くしてドロテーはレギナルトに呼ばれた。呼ばれた先はまた執務室だった。皇宮の執務室は先日見たが同じくきちんと整理された部屋で、皇子の性格が分かる感じだった。それが半日もしないうちに、ベッケラートがぐちゃぐちゃにしていたのを思い出してつい笑ってしまった。
「ドロテー?何を笑っているんだ」
「失礼致しました。いえ、皇子の向こうの執務室が大丈夫だったのかなぁーと思ったものですから・・・つい」
レギナルトは嫌な顔をした。ドロテーの指摘通り大丈夫じゃなかったからだ。見事に散らかっていたのだ。
「よく分かっているな。お前の想像通りだ」
ドロテーは皇子の前だというのも忘れて笑ってしまった。
「本当に先生って困った人ですね」
「まあしかし今回は助かった。私としては時々利用させてもらおうと思ったぐらいだ」
「またでございますか?さあどうでしょうか。難しいですよ」
「そうかな?ドロテー、お前の頼みなら聞くんじゃないか?」
ドロテーの顔色が変わった―――
「そ、そんなことございません。たまたまでございます」
「・・・・・・まあ、いずれにしても今回の件は希望通りにやってくれたから、お前に贈物を用意した。大したものでは無いが気持ちだ。受け取ってくれ」
「贈物でございますか?光栄でございます」
何だろうと思っていると何やら招待状らしき封書を渡されたのだっ
た。開封してみるとそれは皇子の正式な晩餐会の招待状だ。
「出席は私とティアナ。正式なものにするからお前の同伴者が必要なんだが・・・一応、協力してもらったのだからベッケラートを呼ぶつもりだ」
皇族のしかも皇子の個人的な晩餐に招待してもらうなど、大貴族でもそうそうあるものでは無い名誉な事だった。しかもベッケラートをそれに招待すると言うのだ。診療所に追っかけようと思っていた矢先だったがこの機会を逃す訳にはいかない。
「皇子、ありがとうございます。俄然やる気が出てまいりましたわ」
「そうか?それは良かった」
勇ましく出て行くドロテーの後ろ姿を、レギナルトは意味深気に微笑みながら見送ったのだった。