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初恋

作者: 疎遠

 消してしまおうと思った。


 消しゴムをかけるように。

 修正テープを引くように。

 白く白く、何も描かれていなかった頃に戻れるように。


 覆ってしまおうと思った。


 絆創膏を貼るように。

 包帯を巻くように。

 誰の目にもつかない場所で、いつか誰もが忘れ去ってしまえるように。


 失くしてから初めて分かる物もある。使い古された陳腐はたしなめるようにそう囁く。

 けれど、そんなのは欺瞞だ。

 誰に対してでもなく、自分を欺くための嘘。

 そうでも言わなければ、失くす前からその痛みを分かっている、虚ろで臆病な自分を肯定できないから。

 だから、


「僕達は、きっと間違っていたね」

「私達は、きっと最高だったよ」


 これは、きっと恋じゃなかった。

 自分だけでは自分を埋められなかったから、自分だけで自分を認め続けるのは虚しいだけだったから。

 誰でもよかった。自分を認めてくれる、自分以外の誰かが欲しかった。自分という存在を望んでくれる他人が欲しかった。ただ、それだけだった。

 こんなこと、もっと早くに気づいていればよかった。

 紅を沈める黒板。真新しいワックスの残り香。穏やかにさらっていく風が微かな木霊を引き連れる。

 あの教室で君と出会った時に気づいていればよかった。


「僕は、どこにもいなかった」

「君は、無遠慮に私へ入ってきた」


 春を窺った。

 時の速度は変わらないなんて言うのは嘘だ。一日が、一時間が、たった数分でさえ、その速さは定まらなくて、僕は時計の無意味さを知った。

 僕はどうしたら君に近づける。僕はどうなれば君に気に入られる。僕はどう振る舞えば君の特別になれる。

 僕は、どんな人間であれば君に求められる。

 空虚というのは便利だ。自尊心も主義主張も持たない僕は、何者でもない代わりに何者にもなれる。

 きっと君の気に入る僕に————俺になろう。道化でもいい、詐欺師と罵られても構わない。

 誰からも、なんて贅沢は言わない。

 一人でいい。誰か一人が認めてくれるのであれば、俺はそれで十分だった。


「僕には何もない」

「私は君に貰ってばかりだった」


 夏を踏み出した。

 役立たずの時計は、その瞬間、ついに動くことさえ放棄したようだった。

 湿ったそよ風。さざ波のような蝉の声。藍色の空気は、猛暑の残滓を孕んで俺達を包み込む。

 鼓動がうるさい。早く動けと、泣き喚く子供のように急かしてくる。

 手足が冷える。このまま動くなと、うずくまる子供のように駄々をこねる。

 自分がこんなに矛盾だらけだなんて知らなかった。矛盾がこれ程苦しいものだなんて知らなかった。

 いいよ。その三文字の肯定だけでこんなにも矛盾が綺麗に見えるなんて、知らなかった。


「僕は、知りたくなんてなかった」

「君は、ずっと前から気づいていた」


 秋を過ごした。

 風化していく。冷えていく。

 春風が桜を散らしていくように、夏の湿った火照りが残暑となって乾いていくように。

 ほろほろと、ほろほろと。

 葛藤も、決意も、躊躇いも、矛盾も、解けて溶けるように、冷めていく。

 あんなこともあったねと、こんなことがあったんだよと、熱が過去に冷えていく。

 冷えていくのが心地よくて、乾いていくのが愛おしくして。失くしていくのは悲しいはずなのに、風化していくのは寂しいはずなのに、冷えていくものが増えれば増えるほど、空虚が埋まっていくような気がしていた。

 そんなところまでも矛盾しているのがおかしくて、掴みどころのない自分に少し笑える。

 どうしてだろうねと訊いた。

 知らないよと笑いあった。

 そんな些細な微熱さえも、冷めて、冷めて、固まって、沈みこんでいく————染みるように、沈んでいく。

 幸せだった。

 俺は、幸せだった。


「幸運と不運の量は等しくない」

「幸運と不運の価値も等しくないよ」


 冬を重ねた。

 普通でありきたりな日だった。

 事実は小説よりも奇なりなどとは言うが、あれは多分かなり盛っている。ドラマチックなのはやはりドラマの中だけで、ロマンチックなのは少女漫画の中にしかない。

 特別なきっかけも、何も無かった。

 ただ、気がついたら唇に他人の感触が残っていた。

 正直に言おう。心底焦った。

 仕方が無いと思う。なにせ初めてだ、それが記憶に無いとなれば焦りもする。そんな事実が知られればどう思われるか分かったものではない。かと言って、ここで慌てふためいた態度を取って幻滅されるというのも避けたい所だ。

 今、キスした?結局のところ、余裕を装った微笑でそう聞くのが精一杯だった。

 確かめてみる?つぎはぎの余裕を見透かしたように、そう聞き返された。

 そんな吹っかけられ方をされたら乗らない訳にはいかない。わずかにあった男としてのプライドが彼女の頤を上げさせて、俺達は二度目のキスをした。

 特別でもなんでもない、

 ただ、雪の降る日だった。

 しんしんと、しんしんと。

 彼女の体温を近くに感じる。彼女の息遣いを近くに感じる。

 しんしんと、しんしんと。

 彼女の鼓動と同化する。彼女と俺が同化する。

 しんしんと、しんしんと。

 雪は二人の邪魔をしないように、二人の邪魔になるものを埋めていくように、静かに、静かに振り積もって、



 パキリ、と。

 心のどこかで、罅割れる音が鳴った。



「僕はもう、ずっと前から気づいていた」

「まさか。君は何も知らないよ」


 聞こえないふりをした。

 聞こえないふりをした。

 聞こえないふりをした。

 それが嘘だと分かっていて、聞こえないふりをした。

 聞こえなかったことにしてしまえばそれ以上考えなくていいから。聞こえなかったことにしてしまえば気づかなかったことにできるから。聞こえなかったことにしてしまえば、罅の奥を覗き込まなくていいから。

 だから、俺達の時間はますます重なっていった。

 まるで、内側から目を背けるように。

 二人で眺めた初日の出は、このまま世界が終わってしまうんじゃないかと思うほど儚かった。

 ————その日も、

 彼女の隣でなびかれた風は、乾きの中に微かな春の匂いを感じさせた。

 ————その日も、

 彼女の声を聴きながら見上げた夜空は、遠くに北斗七星が輝いていた。

 ————その日も、

 ————その日も、

 ————その日も、

 ————その日も、その日も、その日も、その日も、その日も、その日も、その日も、その日も、その日も————、

 ……ずっと、僕は嘘を吐いていた。

 恋をしているという嘘を。彼女が好きだという嘘を。

 本当は誰だって良かった。僕を認めてくれる人、僕を肯定してくれる人、僕を求めてくれる人なら誰だって良かった。

 認められることで、求められることで、僕は僕の存在価値を確認したかった。そのために最も都合が良さそうだったのが彼女だった、ただそれだけ。

 明るくて、常に周りに誰かがいて、いつも誰かに求められている。そんな彼女に求められれば、それはこの上ない存在保証だ。……そう、思った。

 そして春を過ごし、夏を過ごし、秋を過ごし、冬を過ごし、また春を迎えて————満たされた僕は、ついに飽きた。

 彼女一人から得られる物だけでは満足できなくなった。彼女に与えられる物だけでは満たされなくなった。



 結局、僕が愛していたのは僕だけだった。

 世界で一番人を馬鹿にした嘘だけが、残っていた。



「だから、別れよう」


 これ以上彼女といることは苦痛だから。

 自分勝手に、身勝手に。

 始まりからして僕はどこまでも身勝手だった。なら、終わる時もその身勝手を貫くことはなんの矛盾でもない。

 彼女は微笑んでいた。

 いつものように、いつものような、全て見透かしたような笑顔で。ただ、良かったねと、そう言った。

 それだけだった。

 罵倒も、詰りも、何一つ口にすることはなく、去っていった。

 呆気ないほどに。

 まるで、最初から全部夢だったかのように。


「…………、」


 遠く、校庭から運動部の声。

 乾いたそよ風に乗って吹奏楽が聞こえてくる。

 真新しいワックスの匂いが鼻腔をくすぐって、吐き出す息は夕暮れの紅に溶けていく。

 一年前、嘘を始めた場所。ならば終わる時もこの場所だ。そう思って、この教室を選んだ。

 ……君は。

 君は、その意味に気づいていただろうか。

 あんまりにも呆気なく消えていった後ろ姿を思い出して、そんなことをふと思った。


「……ああ、そっか」


 君は。

 僕ではなく、君は。

 君は、どんな風に僕を見ていたのだろう。

 湿ったそよ風を、さざ波のような蝉の声を、藍色に染まった空気を、動かなくなった時計の中で君はどんな風に感じたんだろう。

 冷えていく時間の積み重ねを、残った他人の感触を、しんしんと降る雪の重みを、君はどんな思いで聞いていたんだろう。

 二人で見た初日の出を、微かな春風の匂いを、届きそうで届かない星の光を、君はどんな目で見ていたのだろう。

 君は、君は、君は。


「笑える……今更、こんなの」


 時計は戻らない。

 止まっても、速まっても、遅くなろうとも、戻ることだけは絶対にない。

 だから、許されるだろうか。

 君に何も返さなかった僕でも。君から奪うだけだった僕だからこそ。

 もしも、願うことが許されるのなら————、


「どうか、君は幸せに」


 ————僕は今、初恋をした。

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