新たな約束 その一
「ねえ、似合ってるかな?」
手鏡で自身の姿を確認していた帆樽晄は、ベッドから降りると徐に振り返り、はにかんだ。
パイプ椅子に身体を沈ませ、安眠を目の前まで招いていた私は、覚醒しきっていない頭を動かし、質問の意味を考える。
「なにがだ?」
考えはしたが、主語が抜けていた為、皆目見当もつかなかった。
素直に聞き返してみるが、帆樽晄は表情をむくれ顔に変えるだけで、質問に答えてはくれなかった。
どうやら、自力で当てる他ないらしい。
名探偵ではないが、とりあえず帆樽晄を観察してみる。
病人に相応しいとも言える、華奢気味な身体。私よりも指三本程低い、平均的な背丈。うまい例えが見つからないが、とにかく整った顔立ちと、首元までない短い髪。それに水色の手術服。
「ううむ……」
駄目だ、早くも迷宮入りしてしまった。
腕を組んで唸っていると、看護師が部屋にやって来て、手術の準備が整ったので移動する様に、と帆樽晄に声を掛ける。
帆樽晄は明るい声で返事をした後で、「もうちょっとだけ待ってもらってもいいですか?」と看護師に尋ねる。
看護師は頷き、部屋を出て行った。
「似合ってる?」
もう一度、念を押すように帆樽晄が聞いてくる。
尚もわからないままでいると、帆樽晄は髪を弄り始めた。
今時の女子高生は、枝毛を異様な程気にすると、どこかの番組で言っていたことを思い出す。入院生活が続こうとも、帆樽晄は今時の女子高生なのだな。と感心してから、違和感を覚える。
彼女の髪はこんなにも少なかっただろうか?
確か、初めての見舞いの際は肩を覆う程度にはあったと記憶している。しかし、今目の前にいる彼女の髪は、耳から下程度で整えられている。
「髪の量が減ったのか?」
難病治療の副作用として、毛髪が抜け落ちることがある。と、これまたどこかの番組で言っていたことを思い出す。
不意に、帆樽夫人の嘘が脳裏にちらついた。
万が一がある、と。
「切ったの!」
帆樽晄は目を見開き、彼女にしては珍しい強めの語調でそう言った。
「そうなのか、全く気が付かなかった」
その言葉を聞いた帆樽晄はまたもむくれ顔をしたが、私は内心で、病気が関係していないことに安堵していた。
「それで、健之助君はどう思うの。この髪の減った姿を見て」
半ば、投げやりな問いかけだったが、ようやく質問の意味がわかった。
髪を切ったことに対する、感想を求めているらしい。
「どうも思わないな」
「どうも思わない?」
帆樽晄は山彦のように繰り返し、目を伏せた。
悲しんでいるのかもしれない。私としても、彼女を悲しませたかったわけではない為、慌てて言葉を続ける。
「私は似合う、似合わないに疎い。私が言いたかったのはただ……」
言葉が詰まる。
伝えるべき言葉は把握しているはずなのに、帆樽晄をこれ以上悲しませないようにと、頭の中で何度も反復している自分がいた。
「髪が長かろうが、短かろうが、貴女は貴女だ。帆樽晄が帆樽晄でなくなることはない、と言うことだ」
「そっか」
帆樽晄は目を伏せたまま、振り返ってしまった。彼女がどんな表情をしているか気になった為、正面に回り込もうと思ったが、彼女の言葉には続きがあった。
「それなら、私のことはどう思っているの。帆樽晄自身は?」
考える間もなく、再度看護師が現れた。
数分前に移動を指示した看護師で、中々病室から出てこない帆樽晄を心配し、声を掛けてきたらしい。
帆樽晄は一つ謝罪してから、明るい声で自身の好調ぶりをアピールしていた。
これ以上待たせるわけにもいかず、帆樽晄は病室を出た。私も後に続く。
先を行く帆樽晄の後ろ姿を眺めながら、先ほどの問いについて考えようと思ったが、彼女が声を掛けて来た為、そちらに意識を使わざるを得なかった。その内容も、天気や温度の話と言った、不自然なまでにありきたりな話ばかり。
しばらくそんなことが続き、手術室に続く重々しい扉の前までやって来た。
「それじゃあ、行ってくるね」
帆樽晄は振り返ると、小さく手を振った。
私は手を振り返すことも忘れ、病室で彼女から投げられた問いの答えを探していた。
若干の間が空く。
互いの視線が交わったかに思えたが、そのようなことはなかった。彼女は手を振ることを止め、手術室へ歩み始める。
「帆樽晄」
声を掛けると、帆樽晄は扉を開く為に伸ばした腕すらそのままに、硬直した。
「先ほどの質問に対する、明確な答えが見つからない」
帆樽晄は依然、動く気配を見せない。
「今もその答えを探しているが、どうにもうまくいかない。だから、いつの日になるかわからないが、答えが見つかったら、貴女に伝える」
彼女の身体が僅かに揺れた。
「約束だ。今度は守る」
帆樽晄は振り返り、微笑んだ。
「破ったら針千本、だよ」
「指切りでもするか?」
「守ってくれるって信じてるから、大丈夫」