表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
貴女が死ぬまでは傍にいる  作者: 犬議隼人
高校二年 夏
8/174

距離感

 壁に掛けられた時計の、二本の針を長い間眺めていた。

 ただそれだけだった。長針が一周し、短針が九を示したからと言って、何かが始まるわけでもなかった。

 休日は、そのどちらも朝刊配達を休みにしている。その代わり、平日は五日間、間に休息を挟むことなく働いていた。それは単に、一週間に変化を入れたくなかったからだ。学校がある日にアルバイトを行い、休日になれば泥のような睡眠を取る。

 そんな単純なサイクルを作ることで、毎日を不変的に生きてきた。

 だが、今回ばかりはそうもいかなかった。

 目覚まし時計に従い、朝七時に正確な起床を果たしてから、顔を洗い、朝食を摂り、歯を磨く。それらを終え、私は空虚になっていた。

 しなければならないことは終わったが、次の一手がどこにも見当たらない。本棚に手を伸ばす気にも、テレビのリモコンを操作する気にもなれなかった。その為、働き続ける二本の針を呆然と追っていた。

 帆樽夫人から万が一の可能性を聞いた時、私はそれまで感じていた息苦しさを忘れ、あの病室に行けなくなる、と言う可能性を惜しんでいた。

 それは、私が彼女の身を案じていないことに他ならなかった。

 委員長の言葉通り、私は自身の欲求しか考えていないらしい。そんな自分を恥じたが、今後、それを改められる保証はどこにもなかった。だから、見舞いにも行かないつもりでいた。

 ……だと言うのに、私は時計ばかり気にしてしまう。

 行きたかった。

 彼女のいる病室へ行き、そこで安息を得て、それから彼女の身を案じたかった。

 本棚に置かれた一冊の本が視界の端に映る。

 胸の内に刻んだはずの誓いは時間の経過と共に風化していき、過去の憎悪は新しい欲望に塗り替えられつつあった。

 思えば、二度目の見舞いを終える間際、帆樽晄の誘いを断れなかった時点で、自身の意志の弱さは露呈していた。

 半分は諦め、半分は己の欲求の為か、気が付けば私は部屋を飛び出していた。

 靴を履き、扉を勢いよく開ける。自転車のナンバーキーを手早く外し、そのまま病院へ直行する。

 声援とも暴言とも取れる蝉たちの鳴き声を一身に受け、帆樽晄の下に急ぐ。

 額に汗が滲む。

 頭の中では、彼女と、彼女のいる空間が順々に巡っていた。

 

 扉を二度叩く。すると病室から、「はーい」と言う柔らかな返事が返ってきた。

 いつもそうだった。

 体調が優れていなかった初めての見舞いの日ですら、帆樽晄は見舞いに来る客人に対し寛容で、まるで太陽のように接してくれた。

 帆樽晄は、不愛想な男に対しても嫌な顔一つ見せはしなかった。

 今にして思えば、そんなことは彼女だから出来たのだと思う。

 深呼吸をし、扉を引く。

 中では帆樽晄がベッドに腰かけていた。いつもの寝間着姿ではなく、手術前の患者が着るものと思しき水色の布を身に纏っている。

 傍らには彼女の母親。

 帆樽晄は私の登場に心底驚いたのか、咄嗟にタオルケットで膝元を隠していた。

「申し訳ない」

 私は頭を下げた。

 約束を破ったことを謝罪しなければ先に進むこともできない。もし、帆樽晄が私を許さないのであれば、そのまま踵を返し、二度とここへは訪れないつもりだった。

「ど、どうしたの? 健之助君」

「もう来ないと一方的に言っておきながら、一方的にそれを破ってしまった」

 委員長が言ったように、私がわがまま千万であることは変えられない事実であった。だが、不思議と彼女の返答が柔らかなものであると想像してしまう。

「全然気にしてないから、頭を上げて。ね?」

 思った通りの、優しいと言うよりも、甘いとすら思える対応。

 顔を上げ、数週間ぶりに帆樽晄の顔を見る。

 寝間着姿ではないこと以外にも、なにかしらの違いを感じた。外見的な違いである筈だが、それがなんなのかは皆目見当もつかない。

 それ程までに、私は普段から彼女を見ていなかったのだ。

「ありがたい」

 帆樽晄は微笑んでいた。屈託のない、帆樽晄の代名詞と言える笑顔だった。

「どういたしまして」

 だからこそ、一つの気掛かりが生まれる。

「貴女は、怖くないのか?」

 医者から、万が一があると言われれば、誰であれ少なからず動揺を覚えるはずだ。たとえ、日数が経ち、多少なり覚悟が出来たとしても、当日になれば内に抑えた恐怖心がじわりじわりと顔を出すだろう。だが彼女は、そんなことを微塵も感じさせない程、穏やかな様子だった。

 突然の質問に、帆樽晄は一瞬だけ困り顔をしたが、すぐに笑顔に戻り、こう言った。

「お医者さんを信じてるよ。それに、簡単な手術だって聞いてるから」

「簡単だと?」

 難しい手術ではないのか?

 こちらを心配させない為に虚勢を張っているかもしれないとも思ったが、彼女がそれ程のポーカーフェイスの持ち主には見えなかった。

 傍らの夫人を見るが、帆樽晄同様に穏やかな笑みを浮かべているだけだった。

 不自然な様子は見られないが、それがかえって怪しくも思える。

「帆樽晄。貴女はこの手術で、万が一自分が死ぬかもしれないと医者から聞かされているか?」

 鎌をかけてみると、帆樽晄は首を縦か横かに振ることも忘れて、ただただ唖然としていた。

 死の宣告を初めて聞いた者なら、この反応もおかしくはないだろう。そうなると、怪しいのはやはり夫人の方だ。

 再度、夫人を見る。やはり笑みを欠かすことなく、静かにこちらを見つめている。

「もしかして、健之助君がお医者さんからそう聞いたの?」

「医者ではなく、貴女の母親から聞いた」

「お母さんから?」

 娘からの疑惑の声を受けた夫人は、口元の笑みを保ったまま、しかし眉を(ひそ)めて両手を上げた。

「ちょっとした冗談のつもりだったのだけど」そのまま自身の罪状を述べ始める。「山ノ下君がお見舞いに来てくれたら、晄ちゃんも元気が出ると思ったのよ。私的には良かれと思って少し誇張しただけのつもりだったのだけど……」

 帆樽晄は困惑とした表情を一転させ、頬を膨らませながら母親を睨んだ。

 私も、夫人に視線を送るが、そこに怒気や失望の色は含ませなかった。

 私はただ安堵していた。彼女が死なないこと以上に、またこの病室に訪れられることに対して。

「そういうのを嘘って言うんだよ、お母さん」

「ごめんなさい」

「私じゃなくて、健之助君に謝るの」

「はーい」

「はい、は伸ばさない」

 母と娘が逆転しているかのような光景が終わり、夫人がこちらに視線を合わせた。

「山ノ下君、嘘については、ごめんなさい。それと、約束を破ってまで愛娘のお見舞いに来てくれたこと、母親として心から感謝しています。ありがとうございます」

「……はい」

 お礼の言葉に、反射的な返ししか出なかった。

「彼も来たことだし、お母さんは少し席を外すわね」

 そう言うと、夫人は娘に抱き着いた。その際に耳元で何か囁いたらしく、帆樽晄は顔を紅潮させて怒り出す。夫人はそんな彼女から反撃を食らう前に足早に退散していった。

 数秒の沈黙の後、帆樽晄は紅潮した顔を冷やす為か、両手で頬に触れた。

 私はただ、立ち尽くすだけだった。

「椅子、どうぞ……」

「良いのか?」

 彼女の死が偽りだと知った今、この場所にいる意味も、資格も失ってしまった。いや、資格は元から有してはいないか。

「ダメっていう人の方が稀だよ」

「椅子のことではない。私がここにいることが、だ」

 この場に来るまでの間、そして来てからも、私は自身のことばかり優先していた。彼女はそれを良しとしないのではないか。或いは、私のことを思いやりのある人間だと勘違いしているのではないか。もしそうであるならば、そう思われたままでいるのは我慢ならなかった。

「私は、約束を二度も破った。一度目は思慮が浅かった為と言えたが、今回は違う。今回はただ、自分の勝手な感情の為に約束を破ったのだ。そんな男が、ここにいる資格があるのか?」

「あるんじゃないかな」

 帆樽晄は頬に当てた手を下し、窓の向こう側、学校を見た。

「私は貴女の母親から、手術の失敗による死の可能性を聞いたから、ここに来た。もしも手術を受けると言うことだけなら、私はここには来なかったかもしれない」

「うん、それについてはお母さんに感謝しないとだね」

 そうではない。

 もっと根本的なことを伝えなくては彼女に理解してもらえない。私の内に潜む、利己的な本性を。

「私は……」

 喉が詰まる。胸が苦しくなる。自身の恥部を他人に打ち明けることがこれ程までに難しいとは。

 それでも、私は彼女の瞳をまっすぐに見つめる。

 言い訳がましくこの場所に来ておきながら、いや、来てしまったからこそ、彼女には真摯な態度でいなければならなかった。

「私は貴女と会えなくなることを恐れて来たのではない。この空間にある、説明の出来ない安らぎを得られなくなることを恐れたから来ただけだ。万が一の可能性に備えて、最後になるかもしれないこの場所で、一息つきに来ただけなんだ!」

 酷い話だ。告白をされたわけでもないのに、相手を振っている自意識過剰な男と同等、いや、それ以下ではないか。

 それでも、帆樽晄は怒ったり悲しんだりはしなかった。

「私もそうだよ」

 それどころか、微笑みを浮かべながら私の言い分に同調すらしてきた。

「健之助君は自分勝手な理由でお見舞いに来てるって言うけど、それなら、私も同じようなものだよ。誰かがお見舞いに来てくれたら、それまで独りぼっちだった分、すごく嬉しいし、また来てほしいと思う。それどころか、出来ることなら毎日だって来てほしいと思う。それは私が私の寂しさを紛らわしたいと思うからであって、健之助君がこの場所でのんびりしたいと思う気持ちと同じだよ。それに、健之助君がお見舞いに来てくれた時は、お話し出来ない分、ちょっと物足りなく感じることもあるけど、最近は何だかお父さんに見守られてる感じがして、不思議と落ち着くんだ」

 一度に話し続けた為か、帆樽晄は自身の胸に手を当てた。

 その姿を見て、クラスメイトの一人が校内で倒れる帆樽晄を見た時、彼女が苦しそうに胸を押さえていた。と噂していたことを思い出す。

「だからね……、他の人になんて言われても……、健之助君がお見舞いに来てくれたら……、私は嬉しい」

 苦痛の為か、僅かに表情を歪ませる帆樽晄だったが、すぐに落ち着きを取り戻し、胸に当てた手も下ろしていた。

「うたた寝して、起きてから少しだけ私のことを見てくれるだけでもいいんだよ。私も眠ってる健之助君のこと、勝手に見ちゃうから」

「本当に、良いのか?」

「もちろん」

 帆樽晄は、私が椅子に腰掛ける様、手招きした。

 私は、見舞いの際にいつもそうするような自然な流れで腰を下ろしていた。

 蛍が薄暗がりを漂う季節から始まり、蝉が炎天下に拍車を掛ける季節になるまで続いていた出来事が、数週間ぶりに再開された。

 パイプ椅子とベッドの端。仮に互いが手を伸ばしたとして、ギリギリ届かないこの距離感が私に安らぎを与えてくれる。

 瞼の裏側を見つめる私と、窓の向こう側を眺める帆樽晄。視線が交わらなくても、言葉を交わさなくとも、意識の隅に互いが存在するだけで充分だった。

「ああ……、やはりここは落ち着く」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ