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貴女が死ぬまでは傍にいる  作者: 犬議隼人
高校二年 夏
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万が一

 太陽の起床が迫っていた。

 自転車のペダルを回すたびに、ヘッドライトが左右に揺れ、職務を放棄するように明滅を繰り返す街灯を照らしては消していく。

 薄暗がりの中、私は住宅街にある無数のポストを巡る。

 病室へ向かわなくなってから数週間、なにかが変化した訳でもなく、時間だけが過ぎていった。

 朝になれば朝刊配達を行い、昼になれば教室の隅でコンビニのおにぎりを食べる。夕刻には自然と意識してしまう病院を横切り、そのまま帰宅する。そして、翌日に備えて早々に床に就く。

 委員長とは教室ですれ違うこともあったが、互いに会話を交わすことはなかった。

 前々から敵意を向けられている自覚はあったが、病室での一件以来、目を合わせようとすらしてこない。

 なんとなく、帆樽晄のことが気にかかり、クラスメイトの噂話に耳を傾ける。だが、聞こえてくるのは次の見舞いの日程や、どのような病気であるかの推測、手術日が未だに明らかにならないことへの疑問など、些細なことばかり。

 日常が戻ってきたはずだった。

 一日のサイクルに刺さった、『見舞い』と言う杭が抜け、正しい循環が戻ってきたはずだと言うのに、どうにも落ち着かない。心のどこかで、安息の地を求めている気がしてならなかった。

 そんな感覚に囚われているせいか、日常生活にも歪が生じていた。

 現在行っている朝刊配達では、数件の配り損ねが起きてしまい、職員から注意されることが続いた。学校の授業でも、これまでは感じることのなかったアルバイトの疲労が重く伸し掛かり、頻繁に、気絶に近い眠りに陥っていた。

 現状を打破する方法は明白だった。

 帆樽晄の病室へ赴き、謝罪の言葉を一つ唱えるだけで、全てが解決する。しかし、私の中にあるちっぽけな矜持が、それを拒んでいた。それに、赴いたところで帆樽晄が迷惑に感じるのならば、行かない方が彼女の為だ。

 手を伸ばせば届くはずの存在に葛藤を抱きながらも、目の前の問題を片付ける為に私は重たい足を酷使し、ペダルを回す。

 普段よりも大幅に遅くなりながらも、最後の朝刊を投函する。しかし、荷台にはあってはならないはずの朝刊が一つ残っていた。それはつまり、どこかの家に配り損なったことを意味する。

 私は急ぎ道を戻る。

 これ以上の失態を積んでいけば、いくらアルバイトの身とは言え、首元を気に掛ける必要が出てくる。しかし、郵便受けを一つずつ確認していけば解決する問題でもない。

 たとえ郵便受けが空だったとしても、すでに住民が回収した可能性も拭いきれない。その為、私はある一軒に的を絞り、そこを目指した。

 曇り空のせいか、太陽は未だにその姿を見せない。


 「帆樽」と書かれた標識。そして空の郵便受け。

 早々に朝刊を投函し、そのまま立ち去りたかったが、すでに回収されている可能性もある為、確認を取る必要があった。

 こんな時、自分の記憶力は全く当てにならない。

 一昨日の夕食、何を食べたか覚えていないように、或いは中学校の校歌を思い出せないように、記憶に靄が掛かってしまう。

 意を決して玄関のチャイムを鳴らすと、僅かな間もなく扉が開き、鈴の音が鳴った。

「そろそろ来るかな、と思ってましたが、まさにグッドタイミングでしたね」

 そう言って、帆樽夫人が微笑む。

「恐縮です」

 実を言うと、このやり取りも今回が初めてではなかった。

 過去に犯した数件の配り忘れも、そのほとんどがこの家だった。その度に帆樽家に赴き、謝罪と共に朝刊を渡していた。

 無意識に訪れることを拒んでいるのか、或いは謝罪の言葉を帆樽晄ではなく、その母親にすることで少しでも気を紛らわせようとしているのか、どちらが真実か定かではない。ただ、一つ言えることは、病室での宣言以降、私は彼女ではなく彼女の母親と会う機会が増えていた。

「何度も配り損なってしまい、本当に申し訳ありませんでした」

 深々と頭を下げ、最後の朝刊を手渡す。

「気にしないで。こうして話す機会に恵まれましたから」

 そのまま、この場を後にしようとした時、「山ノ下君」と、夫人に呼び止められる。

「なんでしょうか」

 夫人はすぐに語り掛けることはせずに、ジッと私の目を見た。

 私も同じように見つめ返す

 思えば、帆樽晄とこのように見つめ合ったことは、ただの一度もなかった。

「寂しがっていましたよ」

「誰がですか?」

 私を想い、寂しがる人間などいるのだろうか。どこにいるかもわからない両親か、愛想の悪い養子を持った叔母夫妻か、或いは校内で一番私のことを嫌っている委員長だろうか。

「もちろん、晄です」

「そんなことはありません」と断言するも、「そうでもありませんよ」と返された。

「私があの子のお見舞いに行くと、いつも貴方の話題が上がるんです」まるで、テストで満点を取った我が子を自慢するかのような口ぶりで、夫人は語り始めた。「最初こそ、ムッとした表情で一言二言話しただけで帰ったり、お見舞いに来るなり居眠りするような、『変わったお客さん』だったみたいだけど、思い出話になったとたん、子供みたいに目を輝かせている姿が、なんだか可愛いらしいって」

「……そうですか」

 今の話を聞く限り、私が彼女に好印象を与えている気がしなかった。

「よくお見舞いに来てくれていることもあってか、最近は、『健之助君が来てくれると、不思議と落ち着くんだ』なんてことも呟いていましたよ」

 それが本当なら喜ばしいことだが、鵜呑みにするには少々虫が良過ぎる気がした。

 委員長の言葉でようやく気付かされたが、見舞いの場で相手のことを無視して本を読んだり、舟を漕いだりする行為に好感が持てるとは思えなかった。

「けど、貴方がお見舞いに来なくなってから、笑顔が下手になったのよ。私が話しかけても上の空で、窓ばかり見て。ほとほと困っていた時に、あの子はこんなことを呟いたわ」

 夫人は、病室で日々を過ごす我が子の真似をしたのか、それともそんな我が子を見る自分の感情を出したのか、切なげな表情を作った。

「『また来ないかな、健之助君……』」

 アルコールの匂いが僅かにする病室のベッドに腰かけ、学校の見える窓に視線を移し、悲しそうな表情で呟く帆樽晄の姿を、私は想像してしまった。

 なぜだか、呼吸が辛くなった。

 痛みを伴うわけではないが、息を吸い、そして吐く行為が困難に感じた。

「ねえ、山ノ下君」

「……なんですか」

「明日、娘のお見舞いに来てくれませんか?」

 危うく、頷くところだった。

 多くは望まない。たとえ会話することが許されなくても、ただあの病室で、彼女の傍らにいるだけでも、と願ってしまった。

「お断りさせて頂きます」だが、私は首を横に振った。「私が彼女の下に行きたい、行きたくないに関わらず、私はあの場で彼女に、『もう来ない』と宣言しました。それを易々と破ることは出来ません」

「そうですか」

 夫人は、そこで言葉を切った。

 朝刊を手に、玄関へ向かっていく。扉を開き、鈴の音が鳴った時、最後に一度だけ振り返り、口を開いた。

「明日の十時に、あの子は手術をします。難しい手術です。お医者様からは万が一を覚悟しておくように、と言われています」

 扉が閉まり、鈴の音だけが虚しく鳴り響いた。

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