逃げ
もう長いこと、故郷の土を踏んではいなかった。
記憶を辿り、最後に訪れた日のことを思い出す。
あれは、中学一年の秋だった。叔母夫妻の下で住むことになり、数カ月が立った日のこと。
父親の妹に当たる叔母は、その人にとって兄であり、私にとっての父、そして母について何一つ話してはくれなかった。
こちらが何度聞いても、知らない、の一点張り。
だが、中学生の私でも何かを隠していることが分かる程、言葉の節々に影を感じた。
私は叔母夫妻に内緒で、あの日以来初めてとなる故郷へ向かった。そこで、それまで当たり前に住んでいた家を訪れ、愕然としたことを今でも覚えている。
表札は外され、車庫の中に父の車はおろか、私の自転車や、奥にしまい込んでいた工具までもが姿を消していた。
その時点で嫌な予感はしていた。
心臓は張り裂けそうな程に鳴り響き、最悪の想像ばかりが頭を駆け巡る。
おぼつかない足取りで階段を上がり、門扉を潜る。恐る恐る玄関扉を引くが、固く施錠されており、びくともしない。
私は悪態を付きながら、庭に回った。
窓に手を掛けるが、玄関扉と同様に施錠されている。が、窓越しに居間の様子を伺うことは出来た。そして、最悪の想像が的中していることを知った。
無理をして購入した薄型テレビも、欅の食事テーブルも、寝心地の良い絨毯も、なにもかもがそこにはなかった。
崩れ落ちそうな膝をどうにか支え、今度は裏庭に向かう。
そこからなら和室が見える。
私は朦朧とする頭を捻り、何らかの理由でリビングにだけ物を置いていないのではないか。と、都合の良い希望を抱いていた。
当然のように和室の窓も施錠されており、その上で窓の先に障子が張られていた為、中の様子が全くわからなかった。
リビングでのこともあり、私の頭は更に混乱していた。
ほんの少し前までは、当たり前のようにこの家の中で食事をとり、勉強をし、眠りについていたはずなのに、今ではガラス板一枚の隔たりによって、その全てが禁じられている。
拳を握りしめ、窓を叩く。割ってしまう覚悟で何度も何度も叩いたが、結局は窓ガラスの耐久に敵わなかった。
私は膝から崩れ落ちた。
そうして姿勢を低くしたことによって、私は障子に空いた指先程の穴を偶然発見した。
その先にはなにもなかった。
リビングと同じように、家具の類は一切ない。
あるのは静寂と、私の心に広がる絶望感だけだった。
父と母と私が過ごしてきた家は、もう誰の物でもなくなっていた。私の帰る場所は、もうこの町には存在しなかった。
項垂れながらも、私は両親のことを考えていた。
孤独と恐怖で気が狂いそうになった日々を終えたと言うのに、両親は私を迎えに来ることもなく、置き手紙や伝言を残すことすらせずに、住んでいた家さえも売りに出し、消えた。
両親は私を見捨て、どこかへ逃げたのだ。と確信した。その瞬間、私の心は両親からの裏切りに耐え切れず、ズタズタに切り裂かれた。
少しずつ、立ち上がる気力を取り戻したのは、それから数年後、中学を卒業し、この街で生き始めてからだった。
週に二回から三回、曜日に一貫性はなく、二日連続だったり、月曜の次が金曜になったりもした。
何かと問われれば、もちろん帆樽晄の見舞いのことだ。
故郷の話をした時は、去り際に思わず、「また今度だ」と次に持ち越すような発言をしてしまったが、結局のところ、あれからその手の話題を振ることはなかった。彼女もまた、催促はしなかった。尤も、あれから会話らしい会話もなかったが。
入室時に軽く挨拶を交わし、いつの間にか慣れていた手付きでパイプ椅子を開き、そのまま文庫本を取り出す。初めは文字の世界に没入していき、次第に朝刊配達の疲れからか、瞼を重くしていく。誰が起こすわけでもなく、いつも夕日が目に染みる時間に覚醒し、そのまま、「また今度」とだけ添えて帰路に就く。
それだけで充分だった。それだけで充実していた。教室でも、一人暮らしのアパートでも、時折、理由のわからない不安感を覚えていた私には、この空間に身を沈めている時間だけが唯一の安らぎだった。
自分でも驚くことに、彼女の見舞いの場に第三者が訪れた時、私はその人物に不快感を覚えていた。
口に出したことはなかったが、もしかしたら顔に出ていたかもしれない。
そんな日々が続き、二つの月が変わった。
蝉の鳴き声が本格的になってきたある日、私はいつものようにまどろみの中にいた。
見舞い当初は、詳細まではわからずとも、人の出入りや話し声を認識できていたが、眠りが深くなった為か、最近はそれすらもわからなくなっていた。そのせいか、肩を叩かれ、傍で声を掛けられるまで眼前に人がいることに気が付かなかった。
「悪い悪い。爆睡してる奴を起こすのは、俺も気が引けるんだがな」
「……そう思うのなら、もう少し寝かせてくれないか」
薄目を開いた時、そこにいたのは委員長だった。
形だけの笑みを浮かべているが、青筋を立て、頬の筋肉を強張らせているところを見るに、穏やかではないらしい。
「俺はお前のこと、少しは見直してたんだぜ? ちょっと前までは校内で嫌いな奴ワースト一位だったが、最近は帆樽さんのお見舞いにも積極的に行ってくれてる。だから、お前に対する評価を改めないといけないとも思っていた」
「それはありがたい話だな」
前々から、委員長に冷ややかな目を向けられている自覚はあったが、まさかこれ程までに嫌われているとは思わなかった。
何か委員長の気に障ることでもしたのかと考えるが、さっぱり浮かばない。
「だけどな、今日のお前を見てはっきりしたよ。お前はやっぱり、人に迷惑を掛けても何とも思わない人間なんだってな」
胸倉を掴まれ、無理矢理に立たされる。
奥に見える帆樽晄が慌てた様子で委員長を制止するが、効果はなかった。
「なんの話だ。私は彼女に迷惑を掛けた覚えはない」
「そういうところだよ!」
握りしめた拳を振り上げるのが見えた。そのまま振り下ろされるかと思ったが、帆樽晄の手前だった為か、そこまでには至らない。
「ほんの少しでいいから、お前は自分だけじゃなくて、周りのことを考えてみろ」
「周りのこと?」
学校での周囲の目。アルバイト先での従業員のやり取り。彼らが何を考えているのかわからなかったし、理解しようとも思わなかった。
彼らと親しくなるつもりがないのだから、別に良いではないか。
では、帆樽晄はどうだろうか。私は彼女を理解しているのだろうか。理解するに値する人間だと認識しているのだろうか。
根底を言えば、父と母は私の悲しみを理解しているのだろうか。
「お前はここに来て本を読んでばかりだったな。帆樽さんの体調を気遣うこともせずに。それだけで、本当はお前をぶん殴りたかった。それでも、帆樽さんの手前、どうにか我慢してきた。だがお前は、その上爆睡すらしていた。そうすることで相手がどんな気持ちになるか、少しでも考えたことはあるか?」
両親は私を一人置き去りにして逃げたではないか。それによって、一人息子がどれほどの絶望を味わうのか、少しでも考えたのだろうか。
「帆樽晄。貴女は、私がうたた寝していることをどう思っているのだ?」
彼女が答えるよりも早く、委員長が私の身体を揺らした。
「お前はどうなんだ。お前はなぜ、どうしてお見舞いに来ている」
初めは、クラスの意向に従う形で訪れた。二回目も大して変わらない。三度目以降は、彼女との約束を守る為。しかし、その約束を交わすことにしたそもそもの理由は……。
「この場所にいる時、それが一番落ち着くからだ。教室よりも、自室よりも。ただそれだけだ」
私の答えを聞いた委員長は、歪むような笑みを浮かべた。
「それが答えだ。お前は他の誰でもない、お前の為だけにここに来ているんだよ。他のクラスメイトは帆樽さんの容態を心配して、気を使っていた。だがお前は、自己中心的な考えしか持たず、自分の欲求を満たす為だけに行動している。そんな奴がお見舞いに来たところで、迷惑なんだよ!」
頬に感じる痛みと共に、身体が突き飛ばされた。
後方の、恐らくパイプ椅子に背中からぶつかり、大袈裟な音と共に床に転倒する。
「健之助君!」
傍に駆け寄る帆樽晄の姿が見えた。
膝をついて、手を差し出してくるが、私の手に触れる間際、まるで静電気でも走ったかのようにその手を引っ込めてしまった。
「大丈夫……?」
息遣いすら伝わりかねない距離に帆樽晄を感じる。彼女の長い髪が私の頬に触れ、くすぐったさを覚える。
私は、頬と背中の痛みに耐えながら向きを変える。そして帆樽晄と目が合った時、彼女が心配そうな顔を僅かにこわばらせ、目を逸らすところを見た。
「……そうか」
胸に黒く小さな穴が開くような感覚がした。その穴からなにかが漏れ出ているようだった。
「私は貴女に迷惑を掛けていたのだな」
両親が私にしたことを、今度は私が帆樽晄にしていたらしい。無意識だから免罪だと訴えるつもりはない。罪を犯したのならば、償わなければならない。
「もうここには来ないことにする」
「……え?」
立ち上がり、彼女に対し深々と頭を下げる。
両親と同じ過ちを犯してしまったことに苛立ちを覚える。だからこそ、その後の対応だけは変えておきたかった。
「これで良いのだろう、委員長」
委員長の望む通りに行動したつもりだったが、何が気に食わないのか、彼は拳を震わせ、歯を強く食いしばっていた。
「健之助君――」
私は、帆樽晄の言葉を待たずに、病室を出た。
再度、帆樽晄の声が背後から聞こえたが、私は足を止めることも、声を返すこともしなかった。
廊下を進みながら、あの心落ち着く場所に行けなくなったことを惜しんでいると、不意に、激しい不快感に襲われた。
乗り物酔いを何倍も酷くしたような、そんな気分だ。
他者の想いを考えることもせずに、面倒事から逃げる。
それは両親のことを指しているが、私にも寸分狂いない程に当てはまっていた。
自己の欲求を満たす為だけに見舞いを行い、委員長に叱責されたので、逃げるように来ないと宣言する。
あまりに似ているせいで、私自身が両親の映し鏡だと思ってしまった。その瞬間、腹の底から怒りが込み上げてくる。
否定しなければならなかった。私は両親のような人間ではないと怒声と共に宣言せずにはおられなかった。
足を止め、来た道を戻ろうとする。
もう一度、帆樽晄の下へ赴き、逃げる以外の選択肢を選べば、両親との差異を声高らかに主張できると思った。
しかし、そうするわけにはいかなかった。
私はもう、病室に行かない、と宣言した。それを易々と破ると言うことは、両親に関すること以上に、もっと根本的な、私が私であることすらも、否定する行為に思えたからだ。
最善に思えた一手が、最悪の結果を呼び寄せてしまった。今はもう、苛立ちよりも虚しさで一杯だった。
目を閉じ、唯一の安息が得られた空間のことを思い出し、更に惨めな気持ちになる。