朝刊配達
帆樽晄の病室でうたた寝してしまったことに対して言い訳を述べても良いのなら、私はアルバイトについて説明するだろう。
東の空が白むよりも早くに起床し、それなりの肉体労働に勤しんでいるのだから、夕暮れ時に睡魔に襲われたとしても、いくらかの反論は許されるべきだ。
そのように今日も、睡魔に負けた昨日と同じように早朝から起き、薄暗い道を自転車と共に進む。
五月の末とは言え、暗闇の道を自転車で風を切るように走れば、多少の肌寒さも感じる。
アルバイト先でタイムカードを切り、制服に着替える。用意された朝刊にチラシを挟み、アルバイトと兼用している自転車の荷台に詰め込む。それらを割り当てられた区域に配達していく。
平たく言えば、朝刊配達だ。
アルバイトを始めた当初は、支給された住宅地図と睨み合いをしながらの配達だった為、それこそ亀のようなペースだったが、一年が経つ内に、兎とまではいかないが、半人前には配達できるようになっていた。
徐々に色付き始める街並みを追いかけるように、自転車のペダルを回す。少々の肌寒さも、次第に火照り始めた身体には良い塩梅だ。
故郷から離れたこの土地に愛着こそなかったが、一年以上、街が朝日と共に目覚める瞬間に立ち会っていると、不思議な高揚感が沸くことも否定は出来なかった。
太陽が僅かに顔を出してくる。
就寝していた住民も、朝一番の陽光を浴びる為か、ちらほら顔を見せ始める。玄関先で遭遇すれば、自然と挨拶が交わされる。
どちらからとも言えない、自然体な言葉の交わりだ。
「おはようございます」
何人目かの挨拶を行った時、その日初めて、相手から返事が返ってこなかった。
寝ぼけているのであるとか、元から挨拶を習慣化していない人物であるとか、可能性はいくらでも考えられた為、気に留めることもなく朝刊を相手に手渡す。
向こうも手を伸ばし、受け取ったように見えたが、どういう訳か、朝刊は誰の手にも収まらず地面に落ちてしまった。
「申し訳ございません」
落ちた朝刊を急ぎ回収し、再度手渡した所で、相手の声が聞こえた。
「貴方、もしかして晄のクラスメイトの山ノ下君?」
危うく、違います、と言いそうになり、それをどうにか飲み込む。
「そう、ですが」
相手の顔を見る。
四十代前半……、いや、三十代後半とも思える女性だった。しかし、見知った顔ではない。この街に、教師陣を除き、年上の、しかも女性の知り合いはいないはずだ。帆樽晄の名前を口に出していたことから、病院関係者の線を探ってみたが、思い当たる人物はいない。
「失礼ですが、どこかでお会いしましたか?」
尋ねると、相手はクスクスと笑い始めた。
一体、何が可笑しいのだろうか。
「いいえ、会ったことはありませんね。こちらから見ていただけですから」
ますますもってわからない。
まるで盗撮でもしたかのような言い草だが、私自身、盗撮される謂れはなく、仮にそうだとして、ここで暴露する理由が見当たらない。
「誤解しないで下さい。娘のお見舞いに行った時に見かけたものだから、つい声を掛けてしまって」
娘。つまり、眼前の女性は帆樽晄の母親と言うことになる。
言われてみれば、どことなく雰囲気が似ている気がした。解せないのは、私だけが帆樽晄の母親を目撃していない理由だ。二度の見舞いの際に、このような女性と遭遇した記憶はない。
「時々、こうして朝日を浴びるようにしているのだけれど、まさか晄のお友達に会えるなんて。まさに、早起きは三文の得ですね」
「そうですか」
「新聞配達のアルバイトは長いの?」
「高校に入り、少し経ったくらいに始めたので、おおよそ一年です」
「立派に自立しているのね。偉いじゃない」
褒められれば、素直に嬉しかった。特に、一人で生きていくと心に決めていた分、自立出来ていると他者から評価されれば、満足感も得られた。
「ありがとうございます」
「その上、晄のお見舞いにまで来てくれるなんて、なんだか申し訳ないわ」
「約束ですので」
「あんまり気難しく考えないでね。お見舞いは、する方がリラックスしてることがなにより大事だから。なんて、貴方には大きなお世話かしら」
最後に、「新聞ありがとう」と言うと、帆樽夫人はそのまま家の中へ入っていく。
扉を開く時に、取り付けられたドアベルが鈴の音を奏でる。
表札を調べてみると、確かに、『帆樽』と言う文字が彫られてある。
自転車のブレーキを解きつつ、夫人の声色を頭の中で反芻していると、次第に、あの声をどこかで聞いた気がしてきた。
どこだろうか。
「あ……」
思わず声が漏れる。
あの声は、帆樽晄の病室でうたた寝している時に聞いた、幾つかの女性の声の一つだった。だから、相手はこちらの顔を確認する余裕すらあり、逆にこちらは相手のことを全く知らなかったわけだ。
私は自転車のペダルを回しながら、うたた寝による弊害について考えを巡らせていた。