お見舞い
帆樽晄が入院した、らしい。
朝のホームルームで告げられた言葉は、教室内を大袈裟と言える程にどよめかせた。
帆樽晄の席を確認する。
そこは、担任の言葉を裏付けるように、確かな空席だった。
担任は一度咳払いをし、病状はそれ程深刻なものではない、と付け加える。それを聞いたクラスメイトのほとんどは安堵の溜息をもらす。
恐らく、ただただ無表情で、一つ頷いただけなのは私くらいだろう。
帆樽晄。彼女がこれまでに何度学校を休んだのか、記憶を辿ろうと試みるが、失敗に終わった。先週も、先々週も、それよりずっと前も、私は彼女と友好的な会話をした記憶がなく、もはや、彼女が学校に来ていたのかすら関心がなかった。
記憶の残骸を漁り、帆樽晄の振る舞いをどうにか思い出してみる。
帆樽晄は、言わばクラスのムードメーカー的な存在だった。教室内の机と言う机をスキップするかのように渡り歩き、目が合えば誰であれ分け隔てなくコミュニケーションをとっていた。明るく、奔放で、少々幼く感じる言動すらも、他の生徒にとっては微笑ましく感じる要素となっているらしく、誰もが彼女の傍に寄ろうとした。
反面、私は教室の隅が似合う男だった。
一緒になって昼食を食べる友人はおろか、他愛のない雑談を交わす相手すらおらず、私自身、文庫本を手にした時が一番心休まると思うような、そんな人間だった。
それぞれの立ち位置が、私とそれ以外の生徒との反応に、ここまでの差異を出しているのだろう。
とは言え、全く心配しなかったわけではない。人並みには、彼女の容体を気遣ったが、あくまで一人のクラスメイトとしてであって、友人としてではなかった。しかし、私以外のクラスメイトは皆、帆樽晄を友人か、それ以上の存在であると認識しているようだった。
その為か、嫌な流れが生じ始めるのを肌に感じる。
ホームルーム後、その流れを汲み取るように、クラス委員長である男子生徒が壇上に立った。
彼はクラスのムードメーカーの不在を大いに悲しみ、そして、帆樽晄の見舞いに関する要項を黒板に板書し始める。
正直見るつもりはなかったが、委員長の熱弁に当てられてか、黒板に視線を向けてしまう。
・一度、クラス全員でお見舞いに行く。
・クラスメイトで協力して、今週中に千羽鶴を完成させる。
・お見舞いの品を各自用意する。
等々……。
文字を見ただけで眩暈を起こしそうになる。
板書された要項の数々は、目標と言うより、必ず達成しなければならない義務に見えた。
この提案の数々をどのように対処するか、それを考えるだけで気が滅入る。
放課後になっても、委員長による拘束時間は続いた。
ため息が出る程の要項の中の一つ、『一度、クラス全員でお見舞いに行く』が初日に行われる運びとなったのだ。
入院初日では、検査やら入院後の対応やらで彼女も忙しいのでは、と言う主張を委員長に訴えたが、入院したのは一昨日の土曜日だ、と言う担任の付け加えによって、私の思惑は虚しく瓦解した。
私は黒板から視線を遠ざけ、現実逃避をするかのように窓から外を眺めることにした。
初夏とは思えない程の立派な積乱雲が夕焼けを覆い、気の早い蝉が地球温暖化を危惧するかのように鳴いていた。
私や帆樽晄、その他クラスメイトが登校する高校は、帰宅部に所属する人間にとっては少々堪える立地、つまり、小高い丘の上に建てられてある。
息を切らせて上り坂を登れば、苦労に対する褒美ではないが、校舎の窓から街を一望することが出来た。
私は、教室の隅からこの景色を見るのが好きだった。
遠慮気味に建つ幾つかの背の高い建物や、稲が植えられたばかりの田んぼ。視線を左方に移せば、遠方に山が連なり、右方に視線を変えれば、ビルの間から海岸が僅かに顔を覗かせている。
そんな景色の中心に、帆樽晄が入院していると思しき病院が存在した。それなりの規模を誇る病院で、屋上にはヘリポートが設置されてある。
入学当初は、離着陸を行うヘリコプターに物珍しさを感じもしたが、一年も経てば、プロペラの轟音を鬱陶しく思う程度に変わっていた。
改めて病院を見る。
とても低い可能性ではあるが、彼女も私と同じように窓の外に視線を送っているのならば、それら二つが交わるのかもしれない。と、くだらないながら、そんなことを考える。
いつの間にか話し合いは終わり、担任とクラスメイトの面々は、大切な学友の為に寄り道を始める。私はその列の最後尾に並びながら、何気なく今朝の出来事を思い出していた。
今朝のクラスメイトの反応、あれは帆樽晄の入院を初めて知ったような反応だった。私と言う例外を除き、誰もが皆、彼女とは良好な関係であるはずなのに、誰もクラスのムードメーカーの所在を二日間知らなかったのは、なぜなのだろうか。
素朴な疑問だったことと、近くで鳴き始めた蝉の騒音も相まって、私の頭から先ほどの疑問は瞬く間に色を失っていった。
一クラス分の見舞いと言うのは前例がなかった為か、病院の受付ではそれなりに待たされた。更に、道中の順列のまま病院に入った為、私は相変わらず最後尾だった。
一度に病室に入れる人数はせいぜい四・五人と言ったところで、先に見舞いを終えた生徒たちは目的の達成に満足し、後続のことなど考えもせずに帰っていく。
見舞いを終えてからも律儀に残っているのは、担任と、壇上で熱弁を振るっていた委員長ぐらいだ。
待たされることに関しては仕方がないと思えたが、自分たちの都合で勝手に盛り上がっておきながら、我先に帰っていくクラスメイトを見ていると、無性に腹が立ってくる。
何度か、帰ろうとする者の肩を掴もうと考えもしたが、実行に移す寸前で、ようやく私の番が回ってきた。
最後尾の特典と言えるかはわからないが、私だけ一人での見舞いだった。
病室の扉を二度叩き、入室する。
なにか掛ける言葉を考えるが、病人に対する適切な言葉を見つけられず、結局無言のままに帆樽晄と対面する。
青地に白の水玉模様の寝間着姿に身を包んだ帆樽晄は、少しやつれているように見えた。背中まで伸びた長髪は所々で乱れ、小さく作った笑みも、病気のせいか、或いは荒波のように訪れた見舞客のせいか、すぐに崩れてしまった。
「健之助君も来てくれたんだ。うれしいな」
自身の下の名前を呼ばれ、僅かに動揺を覚える。
ここ数カ月、自分の名前など文字として書くことはあっても、自分や誰かの口から出ることはなかった。その為、帆樽晄が放った、「健之助」と言う言葉の抑揚に、不思議な気持ちを覚える。
うまく言葉に出来ないが、不快感でないことは確かだった。
「クラスの意向だからな」
出来るだけ平静を装い、私はそう答える。
「それでも、うれしい」
心の底から思っての言葉なのか、疑問に思えた。
私と帆樽晄は、偶然にも去年から同じクラスになってはいるが、覚えている限りの交流と言えば、教室ですれ違った時の挨拶ぐらいのものだ。それも、最初に彼女が発し、私はそれに返すだけ。
「パイプ椅子、よかったら座って。取り合いにならない貴重な場面だから」
帆樽晄は冗談めかした口調で言った。
場を和ませようとしたのかもしれないが、口角を無理矢理に上げただけの表情では、こちらとしても反応に困ってしまう。
私は首を横に振るい、長居はしない、と言う意思を彼女に伝える。
「そっか」
私は、帆樽晄との会話の引き出しを持っていなかった。仕方なく周囲を見渡し、いくつかある窓の先を覗くと、私たちの通う高校が見えた。
校舎の窓に反射する夕日が目に染みる。
「今日の夕刻、窓から学校を見たか?」
突然の質問の為か、帆樽晄はすぐには答えず、考えるように人差し指を顎に置いた。
こちらとしても、突発的に、放課後のうんざりしていた時の記憶を思い出し、なんとなく口に出た。その程度の質問だった。
「放課後のチャイムが鳴った後は、気になって少し眺めてたかな」
「そうか」
私は一礼し、踵を返す。扉へ向かって歩く。
彼女と一つの会話を終えた為、委員長に課せられたノルマの最低条件は満たせたと判断した。それに、帆樽晄に今一番必要なことは、見舞客よりも休養に思えた。
「もう帰るの?」
後方から帆樽晄の声が聞こえる。
私は立ち止まり、振り返らずに頷く。
「次来る時は見舞いの品を持ってくる」
「無理、しなくていいんだよ」
そうしたいのは山々だが、ここで彼女の言葉に甘えてしまうと、後々に面倒が起きる予感があった為、結局こう伝える他なかった。
「クラスの意向だからな」
病室を出ると、委員長が廊下の壁に背を預けながら、待っていた。言い方を変えるなら、委員長以外は誰も待ってはいなかった。担任すらも。
「やけに早かったな」
そんな委員長ですら、こちらを歓迎している様子ではなかった。まるで、万引き犯を尋問する警察官の様に、こちらを睨んでいる。
「そうだな」
委員長は帆樽晄に次ぐ、クラスの人気者だった。
顔立ちは整い、帆樽晄同様、笑顔で他人と接することに長けていた。しかし、どういうわけか私にだけはその笑顔を見せたことはなかった。
「他に言うことは?」
「特にはないが、強いて言えば早く帰りたい、ぐらいだ」
部活動に所属している者は活動時間を犠牲にしてまで見舞いに来ていた。
私は帰宅部なので、放課後に多少寄り道をしたところで誰かに迷惑をかけることはなかったが、それにしても、これ以上の拘束は勘弁願いたかった。
帰路に就く為、委員長の脇を通ろうとした時、私の身体は大きく揺れた。
委員長に胸倉を掴まれ、押されていたのだ。身体が壁に打ち付けられ、背中一杯に痛みを感じる。
「あのよ、お見舞いに来た奴が一分二分で帰るってのは、帆樽さんに嫌々ながら来ました、って言ってるようなもんだと思わねえか?」
委員長はそんな細かいところまで気にしていたらしい。
それには素直に感心させられる。私にはせいぜい、彼女の顔色から想像するのが関の山だった。
「そうだろうか?」
しかし、私は首を横に振った。確かに見舞いに対し、面倒な気持ちを抱いていたのは事実だが、それが全てではない。私が早々に見舞いを切り上げたのには、私なりの理由があった。それを飲み込み、形だけ謝罪する程、私は出来た人間ではない。
「なんだと?」
「誰だって大人数から一斉に声を掛けられたら、気が滅入るものだ。ならばこそ、せめて最後の一人ぐらいは気を遣うべきだと思ってな」
「それはつまり、俺がクラス総出でお見舞いをしたのは、むしろ帆樽さんに迷惑かけた、って言いたいのか?」
委員長は顔を真っ赤にしていた。
ここで正直に言葉を選べば、委員長を逆上させる可能性があった。だが、性分と言うものもあり、嘘は吐けなかった。
「私一人の意見かもしれないが、そうだ」
背中の痛みを再び感じる。肺の空気が強制的に排出される感覚の後、私は解放された。
「参考になったよ、どうも」
とても感謝している者の形相ではなかったが、ともかく委員長は礼を述べ、去っていった。
背中の痛みを気遣うように深呼吸をしていると、扉の開く音が聞こえた。
帆樽晄の病室に視線を移すと、案の定、彼女が恐る恐る顔を出していた。
「健之助君……」
帆樽晄は、普段彼女がしないであろう、悲しみや罪悪感を含んだ表情でこちらを見つめていた。だが、私と目が合ったかと思うと、顔を青くしながら俯いた。僅かに開いた口元が、微かに震えている。謝罪の言葉を探しているのかもしれない。
「帆樽晄」彼女の名前を呼び、出しかけたかもしれない言葉を遮る。何故だか、彼女の口から謝罪の言葉は聞きたくはなかった。「今日の夕刻、貴女がチャイム音に気を取られて学校を見た時、私も同じように病院を見ていた」
だから、こちらから適当な話題を振った。
帆樽晄は突然の答え合わせに言葉を失っていたが、すぐに微笑んだ。無理をせず、作ったものではないと思わせる自然な笑みだった。
「そっか」
「そうだ」
今度こそ、私は帰路に就く。