プロローグ:キセル・フリックス⑤
キセルがポプラー北西通りの事務所に着いた時、時刻は夜の九時を回っていた。裏口のドアノブに手をかけ、意を決してひねる。回し切ったドアノブを引く手に、自然と力が入った。
レナーテの言っていた通り、鍵はかかっていなかった。
ドアを開けて中へ入ると、キセルは思わずぎょっとした。レナーテがそこで待っていたからである。
「こんばんは」
「こんばんはって……びっくりしたな。いたのか」
「ちゃんと五万ドルを受け取っていただけるかの確認です。それと、いま渡したいものがあります」
それならば最早、このような仕組みを施した意味はないのではないかと思ってしまう。レナーテはロッカーに手を向けた。どうぞ鍵を回してください、という感じだ。キセルはその通りに、鍵と同じ番号のロッカーを開けた。
中には四日前と変わらぬままの厚く膨れた封筒が入っていた。誰にも触れられていない、あのままの五万ドルだった。
キセルはそれをポケットにしまい、レナーテの言っていた"渡したいもの"について訊いた。
「これなんですが」
レナーテはスーツの内ポケットから金属製の器具を取り出して見せた。ぼんやり差し込む街灯に照らされて鈍く光沢を放っている。それは二つの輪っかに筒がついたような形をしていて、サイズは手のひらより一回り小さい。輪っかはどうやら指にはめるものらしく、二つ穴のメリケンサックといった感じだった。
「これは…?」訊くと、レナーテはこの金属器具について説明を始めた。彼女は一旦、自身の指にはめる。
「これはこのように指に通して使います。人差し指と中指です。人差し指側にこの銃身がくるようにしてください」
「銃身?」
レナーテは筒状の部品を示した。
「ええ。これは銃弾を一発装填して使います。その装填した状態で……」
「ちょっと待て! これを俺に渡して……試合で使えってのか?」
思わずレナーテの説明を遮った。彼女はこくりと頷いた。
「こりゃあ武器だろ? うちの裏リングじゃ武器の使用はご法度! 素手で闘わなきゃならねえんだ」そう言ってレナーテの手を押しやると、じゃあ俺はこれで、とだけ言って裏口を出た。
「気持ちだけ受け取っておく。試合に勝ったらちゃんと五万二千ドル返しにくるよ」
通りを横切って暗い路地裏へ小走りで消えたキセルを、レナーテは何も言わず見送った。
例の3階建てのコンクリートビル、その地下二階はいつもより熱かった。観客たちの声は聞こえずとも、振動となって地上まで熱を届けた。時刻すでに深夜十一時。空には雲がかかっていた。
リングと観客席は大きく揺れるほど熱と音を帯びていた。観客らは誰一人として例外なく、みな全力で声を張り上げていた。
その時、ひときわ大きな歓声が上がった。リングの上で一人の男が、赤い汚れが目立つ白いマットに沈んだ。実況が立っている選手の名を叫び、勝利を告げた。
『決まったああああああ! これで第四試合までが終了! この後は本日のメイン・マッチ! みんなお待ちかね、デイビッド対キセルの因縁の対決だあ! これからリングの準備をするから、みんなはたっぷり賭けて待っていてくれ! なんせこの試合は……!』
選手控え室でキセルは椅子に腰掛け、うつむきながら目を閉じて渋い顔をしていた。前の試合が終わってしばらく経つが、まだ声は掛からない。きっとメインの試合ゆえ、賭け金が多くて集計に手間取っているのだろう。
あれからも考えたがやはりわからない。デイビッドも、レナーテもだ。
レナーテは何故こうも俺に協力する? 前に訊いたときは結局無視されたんだったか。そしてデイビッドめ……最後だから華々しく? あいつはそんな奴じゃない。何か細工を……? だが、裏リング唯一のルールは武器の使用を禁ずることだ。その上ではいくら奴でも絶対に武器の使用はできない。もしかしたら観客にバレないようなものを使ってくるかもしれないが。
レナーテが差し出してきたあの器具を思い出し、一応貰っておくべきだったかと考えた。
しかし結局、素手でデイビッドを打ち負かしてきっちり己の強さを証明してみせよう、と自身を奮い立たせるに至った。
ドアが軽くノックされた。すぐにドアが開き、ロヴがひょいっと顔を覗かせた。
「キセル、出番だ」
「ああ、ロヴさん。今行くよ」
この間の昏倒に、キセルはロヴへの疑念を捨て切れていなかった。しかし自分が今無事でいることに特別なことは何も感じていないようなロヴを見て、やはり薬を盛ったのは他の誰かで、試合後に必ず水を持って来てくれるロヴさんはただ利用されただけなのではないかと結論づけた。それがもっとも自然な解釈だろう。
"誰か"が誰であるかのおおよその見当はついている。キセルは膝を叩いた勢いで立ち上がり、ロヴの後に続いて控え室を出た。
通路を進むにつれ観客の歓声が大きくなってきた。
時が震える。月が消えてく。星座の消えた空の下で、キセルは一歩踏み込み、強いライトを身体に浴びた。
『来た! みんな待たせたな! 第五試合、選手入場!』
先の第四試合のフィニッシュの時よりも大きな歓声が会場を震わせた。先にキセルの登場を受け、観客たちはキセルコールをかけている。実況の男が更に熱を込めた。
『突如としてこの街の裏リングに登場し、現在なんと六連勝中! この快進撃はいつまで続くのか! 今一番勢いのある若きボクシングファイター「キセル・フリックス」!』
また歓声が大きくなった。どこまでも大きくなりそうな歓声が、また一段と大きくなった。もう一つのゲートから髭の巨漢がどしどしと歩いて来る。その巨影をライトが強く照らす。観客の声を高めるように、実況の男も声を張り上げる。
『対してキセルに挑み続けて三連敗! ベットが下がり続けもう後がない! 裏リング元チャンプ「デイビッド・カール」!』
キセルがまだ少し遠くに見えるデイビッドを[[rb:睨 > ね]]めつけた。当人は気にしてはいないようだった。
この時点でキセルには一つ、かなり気になることがあった。対戦相手のデイビッドのことではない。
『この二人が闘うのはこれで最後! 二人とも自分自身に五万ドルをベットしての試合という異例の事態だ! だがそれでこそ最後の試合にふさわしいというもの! みんなもガンガン賭けてくれよな!!』
リングが巨大なシートで覆われているのだ。もうすぐ試合が始まるというこの状況で、まだシートを撤去しないというのはどういうことなのか。キセルはロヴに尋ねたが、ロヴはリングの方を向いたまま、知らないと不安げに首を横に振った。実況はさらに過熱していく。
『さっきから繰り返している「最後」の試合! この「最後」が意味するもの、それはこの第五試合が……』
シートが勢いよく降ろされ、隠されていたリングが姿を現した。瞬間キセルは目を見開いた。隣のロヴも同じく驚愕していた。
そして、キセルのすべての疑問は一気に晴れたのである。
リングはいつもの姿ではまるでなかった。
リング自体の大きさは変わってはいないようだが、四隅のポールから伸びるロープが金属製の太い強靭なワイヤーで出来ており、しかもその一本一本に棘が付いていた。
まさに茨のようだった。この棘殺ロープに囲まれたリングで闘うことが意味するものは一つ。
それを頭の中で整理しきる前に、実況が大声で正解を告げた。
『キセルとデイビッドのデスマッチだからだ!』
「なんだって!?」キセルはそう叫んだ。つもりだった。声が出ていたかはわからない。
「上がってこいよ! キセル」
その声にはっとすると、デイビッドはすでにリングに上がっていた。キセルを見下す形になっている。観客たちはキセル、デイビッドコールで二人を奮いあげる。
もう逃げ場はない。そう覚悟した途端、体の血液が一気に沸騰したように熱くなった。かと思えば急激に下がり、またじわじわと熱が上がる感覚に陥った。
「この外道!」今度はちゃんと声が出たと自認できた。デイビッドは罵倒にも反応せずにやにやと笑っている。
金曜の夜、すべては終わりますと言ったレナーテの顔が浮かんだ。彼女は何故このことを知っていた?
デイビッドがまた上からキセルに声をかける。
「おいキセル! もうリングに上がって闘うしかねぇんだぜ! 逃げ場はねぇぞ」
改めて言われるとまた血が沸騰した感じになった。頭にきたがどうしようもない。闘うしかない。ここで負け……死んだら、五万何千ドルかの借金をこの体で返さなければならない。嫌な想像ばかりがかき立てられた。臓器は一体いくらで売れるのかとか、よもや親の元まで借金の取り立てが行くなんてことは……とか。
考えれば考えるだけ、どんどん悪い方向に話が進む。いけない。そんなでは生き延びられない。迷いをなくさなければならない。この闘いにおける敗北は死を意味し、その死は闇の餌にされ、そのままさらに深い闇へ葬られるだろう。こんな地下で死ぬのか? お断りだ。そんな惨憺たる結果は全力で避けねばならない。
__奴を殺すしかない。
目をデイビッドに向けた瞬間、血液は一気に冷却され、水中に潜ったみたいに会場の音が急に静かになった。
今や対象しか見えていない。隣で喚くロヴの声も、喧しい歓声も、全てが濁った雑音だ。これが殺意か。そんな状況でも、不思議と実況の声はよく耳に入った。
『第五試合、キセル対デイビッドのデスマッチ……スタート!』




