プロローグ:キセル・フリックス④
窓から差し込んでくる陽がキセルの顔を照らす。眩しいようで、顔をしかめた後でうっすらと目を開けた。
明るい。だがまだ視界がぼんやりしている。今は何時だだ。ここはどこだ。あれから自分はどうなったのか。自分と……あの少女……。
そうだあの少女は!?
目を見開き上体を起こす。ズキンと頭が痛んですぐに目を閉じた。手を左のこめかみに当てると、ガーゼが当てられその上からテープで補強されているのがわかった。応急処置は施されているようだ。ゆっくり目を開けて状況を確認しようとした。
「おはようございます」
「うおっ!」驚いて変な声が出てしまった。見ると昨晩の少女__レナーテが身を乗り出してこちらを覗き込んでいたのだ。起き抜けに声をかけられたのもあるが、このレナーテかなりの美貌の持ち主なので少し胸がドキドキしている。
俺はどうやら昨日立ち寄った、事務所のソファに寝かされているらしかった。レナーテはテーブルを挟んで対となるソファに腰かけている。俺が目を覚ましたのを受けてか少女は席を立ち、事務所奥の簡素なキッチンスペースに向かった。
「昨晩のこと、憶えていますか?」
キッチンでインスタントコーヒーをカップに入れながらレナーテが尋ねた。
「ん……ああ、憶えてるが」
状況がわかってきた。レナーテは昨晩の覆面男を撃退し、俺を事務所に運んだ上に怪我の手当てまでしてくれた、と考えてまず間違いないだろう。一体どうやって俺をここまで運んだのやら。
「あの男は?」不意にレナーテが尋ねた。覆面男に心当たりがあるか、ということを訊いているのだ。
「あの覆面は……さあな。俺に差し向けられた刺客ってところじゃないかな。ただ、俺の身を狙う奴の見当はついてる。デイビッドだ。」
「デイビッド?」レナーテはカップにお湯を注ぐ。
「デイビッドは……裏の賭け格闘試合で俺とよく対戦する相手なんだ。ただ結果はいつも俺の勝ち。負けてばかりだと賭け手がいなくなってファイトマネーも安くなっちまうんだ。きっと連敗の腹いせだろうな……昨日の襲撃は」
デイビッドはいつぞやキセルと闘って負けた髭の巨漢のことだ。あのキセル五連勝達成の夜、デイビッドのキセル挑戦はすでに三戦目だった。
つまり現在、裏リングでのキセルの六連勝のうち三勝がデイビッド相手なのだ。長い間デイビッドは裏リングのチャンピオンで、賭け人気も一番だったのだがここ最近は三連敗。キセルに圧勝を許す落ちぶれようだった。
「なるほど。裏試合での立ち位置なんかは?」
いい香りが鼻腔を撫でる。カップのコーヒーをマドラーで回しながらレナーテは質問を続けた。
「あ、砂糖やミルクは要りますか?」
「ありがとう、ミルクを少し頼む」
甘いのが好きなので要望にこたえてくれるのはありがたい。だが"砂糖多めで"というのはなんか恥ずかしかった。寝起きだから苦味で目を覚ましたいというのもあり、苦くなりすぎないミルクに落ち着いた。
と、そうだ質問だ。
「奴はあの裏リングではそこそこ力を持ってる。俺が闘い始めるまではチャンピオンだったと聞くし、あのリングの古株だから試合運営にも携わってる。試合を組むのも奴が担当していたりするらしい」
そこまで言って、自分とデイビッドがよく試合であたるのは奴が俺にリベンジしようとわざと試合を組んでるのか、と少し謎を解明した気になった。しかし再戦の度に完敗を晒すことになり、まったくの逆効果となっているのは滑稽に思えてならない。
「となると、またあなたとの試合が組まれることになるでしょう。勝つために色々仕組んできそうですね」
コーヒーカップを手に少女がキッチンから出てくる。
「くそ……あの野郎……」
自分の身の上話を流れるように吐露したことへの違和感が今になって襲ってきた。違法行為を容易く他人に話すなんて自分はなんてことをしているのか。そもそもそんな話を理解があるかのように相槌を打ってくるレナーテもかなり奇妙だが、悔やんでももう遅い。そちらの秘密も握っているのだからおあいこだと思うことにした。
コーヒーが手渡され、一言ありがとうと言う。口をつけたところで、そういえば訊くべきことがあったのを思い出し、向かいのソファに腰掛けた少女に尋ねた。
「ところであんた、何で昨日俺を助けた? 別に依頼したわけではないだろ?」
表情を変えず少女が口を開く。
「あの注文が偶然ならば、わざわざ店で一番高いメニューを頼むなんて中々いい額の臨時収入でもあったんで羽振りがよくなったのでしょう。お会いした時、パーカーのポケットから、無造作に突っ込まれた百ドル札が顔を覗かせていましたよ」
かなり正確に見透かされていることに驚いた。ポッケから札だって? 俺自身気づかなかったのにそんなところまで……。
「そして、顔にはところどころ痣や切り傷。何かトラブルを起こしやすいか、生傷の絶えない世界に身を置く人だということは見ればわかります。昨日お話してみて、前者ではないと思いましたが」
概ねその通りだ。先ほどの身の上話を聞いてそういった分析に確信が持てたのだろう。レナーテは流暢に話を続ける。
「昨日は一日尾いていました」
「マジかよ!」
「勝手にやったことではありますが、実際にボディーガードとして仕事をしましたので報酬はいただきたいものです」
窓の外に目を向けたかと思うと、ちらっとこちらの顔を伺った。あくまで親から主導的に褒めてほしい子供みたいな促し方だ。大人びだ雰囲気と仕草の乖離にずっこけそうになる。
ポケットに現金が入っているのだからそこから貰ってしまえばいいのに、と思ったがレナーテはきちんと報酬として受け取りたがっている。
「感謝はしてるよ……いくらだ?」
「二千ドル(およそ二十二万円)ほどいただければ」
あれだけの状況で命を救われたのだから決して不当な要求ではないことはわかるが、二千と言われるとやはりかなり高額に感じてしまう。
「待ってくれ、今は払えない。方々にちょっとした借金も返さなくちゃいけなくてその……ここで二千ドル取られちまうのは……次の試合まで生活ができねえ。次ちゃんと勝てるとも限らねえからよ」
レナーテがこちらを見つめたまま、急に淡白に訊く。
「次の試合はいつですか?」
「金曜の夜」
「金曜の夜、すべては終わります」
レナーテの断言に動揺した。すべてが終わる? この子は一体何を……。
その時、キセルの携帯が鳴り出した。電話の着信、アドレスに登録されていない番号からだ。
いくつか通知が溜まっていて、全て同じ番号からのコールだった。
「あなたが目を覚ます前も何回か電話がかかっていましたよ。私は当然触っていませんが」
レナーテがお手上げのジェスチャーをして答える。だから仕草が妙に年相応で混乱するっての。
この時、液晶に映し出されているデジタル時計を見て初めて今日の時間を知った。もう昼過ぎじゃないか。ずっと寝っぱなしだったのか。
レナーテと顔を見合わせた。彼女が小さくコクリと頷いた。それを受けて、キセルは液晶をタップした。
「よう、キセル」
やはりというかなんというか、デイビッドの声だった。レナーテにも聞こえるよう、無意識に通話状態をスピーカーにした。
「何の用だ?」
「簡単な話だよ。金曜のマッチの件さ」デイビッドは時折含み笑いをしながら話していて虫唾が走った。
「ああ、それが何だ?」苛立ちを隠さずにぶっきらぼうに返す。
「金曜のラスト第五試合目、闘うのは俺とお前だ。ただ今までとは違うことがある……」
そもそも試合のことについて電話をかけること自体今までとは違うだろうに、と思った。
「懲りない奴だ……何だ?」
デイビッドが軽く鼻で笑った。
「今回の試合を俺とお前との最終決戦としたい」
「なんだ? 負けが込んでそろそろやめにしたくなったか?」
思いがけない申し入れに、自分らしくない言葉が飛び出た。動揺したのだろう。するとデイビッドがまた鼻で笑う。今度のは最後にくっくっくと声が漏れていた。
「まあ聞け。最後の試合だ。俺らも自分に賭けようぜ?」
「何? 自分に?」
ちらりとレナーテの方を見ると、今まで無表情だった彼女の顔つきが変わった。といっても少し眉をひそめた程度だが。
「そうだ。観客どものベットにプラスして俺ら自身のベットで勝負するんだ。俺は俺自身に五万ドル(およそ五百五十万円)賭けてやるぜ」
「はあ? お前何言って……」
本当に何を言っているんだこの男は。五万ドルだと? それを自分に賭けて試合なんて正気の沙汰じゃない。しかし奴が賭けるとなると……。
嫌な予感は的中した。
「当然お前も自分自身に同額賭けてもらう」
「五万ドルなんてそんな金…」
あるわけない。いや、あるわけないことは知っているだろう。となると借金せざるを得ない。これ以上の借金なんて……。
その時、レナーテが驚くべきことを言った。
「受けましょう」
何? 受けましょうだと!? 五万をポンと出せるわけがない! 奴の仕掛けは至極単純だ。俺を借金地獄に堕とすつもりだ。勝てば逆に俺の借金がチャラになるって甘言で引き付けておいてな。こんな無茶な提案はとても受けるわけにはいかない……。
するとレナーテがまたしても驚くことを言い放った。
「出しましょう」
……何だって?
「どうした?ダメなのか?」
「黙ってろ!」
デイビッドに向かって怒鳴ってしまったが仕方がないことだと思いたい。デイビッドは何を言ってる。レナーテもだ。一体何を考えてやがる。
「あ、あんた……」
「言ったでしょう。すべて終わると」
二人は数秒見つめあって目で会話した。キセルは何か嫌な予感がした。この子もグルかとすら思った。
恥ずかしい話、結局少女の威圧に負けた。
「……ああ、受けよう」
「よぉし! いやぁ断られたりしたらどうしようかと心配したぜ。お前の闘姿を見れなくなるのは残念だからなぁ」
先ほど感じた嫌な予感はこれか。もし断っていたら運営に圧力をかけて俺を試合にすら出さないようにしたのだろう。
「どっちが勝ってもこれで華々しく終われるってわけよ! どーんとやろうぜ!」
「じゃあな。くそったれ」
デイビッドは上機嫌だった。自信たっぷりなようだが、絶対お前には負けないぞ。
強めに通話の終了ボタンをタップした。さて、勢いのままに受けてしまった。レナーテを見る。
「いいのか? 本当に? いくらなんでも五万ドルなんて……」
「お金は私が用意しますので心配いりません。金曜日に備えてください」
それだけ言われてもという感じだが、どうせもう後戻りはできない。勝てば一気に何万と金が転がり込む勝負だ。借金をスッキリ返してもある程度手元に金は残る。今はそれに賭けるしかない。
必ず勝ちたい。というより、負けるわけにはいかない。キセルは黙ったまま少しコーヒーを飲んだ。
レナーテは顎に手を当てて考える素振りをした。そこで気づいたが彼女は両手に白い手袋をつけている。何のためかはわかりかねるが、素人考えでは指紋を残さないため、とかだろうか。レナーテはぽつりと呟いた。
「デイビッドはなぜ急にこんな高額マッチを提案してきたのでしょうか」
ちらりと俺に目を向けるが、俺だってわからない。首を捻り肩を竦ませるポーズをとって答える。
「俺を借金地獄に堕としたいんじゃないのか。それか自分の天下を取り戻したいから手切れ金として俺を追い出すつもりかも」
「彼が五万ドルを要求してきたということは、彼の側にも何か訳がありそうですね。ところで__」俺からじゃ答えは得られないと判断してか、レナーテが話を変える。「__賭け金の五万ドルは現金で持ち込むのですか?」
「ああ、そうなるな」
「観客からのベット金も?」
「そうだ。一晩で何万もの現金が集まって会場を流れる」
「いくらアングラな場とはいえ、なかなかに大胆なことを……よく今まで摘発されないでやってこれましたね」
「そこらの根回しは運営がやってるって話だ。なんでもこのあたりを仕切ってる警察が、元はここの客として楽しんでいたらしい。違法なところはあるものの今のところ裏リングで死人が出たりはしてないから、今はまだ月数千ドルのみかじめ料を払って目をつむってもらってるんだとよ」
レナーテは附に落ちた様子だ。
「ところでさっきも言ったように現金で五万必要なんだ。金曜までにちゃんと用意できるか?」
「ええ。なんなら今用意しましょうか?」
現金で五万を今?
「少し待っていてください」
レナーテが事務所の奥に入っていった。本当に今用意するというのか。ポンと貸せるだけの現金が手元にあるなんて、事務所の金庫にはそのくらい入ってるものなのだろうか。程なくしてレナーテが出てきた。手に札束を持って。
「これで五万ドルですね。お確かめを」
ソファに座りながらテーブルに金を置いた。トシン、と少し重い音がした。
確かに五万ある。すごいな。こんな簡単に……。
持ち上げて確認した後、またテーブルに戻す。するとレナーテが金を封筒に入れた。
「今は渡せません。金曜日にお渡ししますのでお手数ですが私のところへ取りにきてください」
てっきり今渡してくれるものだと思っていたから面食らった。そんな心理を見透かすようにレナーテが告げる。
「金曜日までに五万ドル用意することは可能、ということを確認していただいただけですから」
「まあ確認はとれたが……」
肝心なことが確認できていない。そう言いたげなキセルの表情を読み取って、レナーテが立ち上がる。
「大丈夫です。金曜日にこのお金をお渡しすることも保証します。外に行きましょう」
「外? ああわかった」
「貸すわけですので本来金利がかかりますが、今回は特別にナシにしておいてあげます。元金五万にプラスしてボディーガード代二千、合わせて五万二千ドルを支払っていただければ結構です」
ありがたい話だが、ありがたすぎて言いようのない不安に駆られてくる。ついに質問した。
「なんだってそんなに俺を助けてくれるんだ?」
詐欺られているのかもと普通は考えるだろうが、俺にはどうもレナーテが、ただ献身的に動いているように思えてならなかった。
「……行きますよ。用意してください」
レナーテはキセルからの質問に答えなかった。
腑に落ちないが仕方ない。残りのコーヒーをぐいっと飲み込み、席を立つ。一気に飲むと苦味が後に残った。
事務所から出て階段を降りるレナーテを、キセルは忘れ物やなくなったものがないかを手早く確認して追いかける。そもそも大した荷物は持ち合わせていないのだが。昨日の朝、わけのわからぬまま黒髪の女性に連れられてきたのと同じルートだ。階段を降りきると店内ではなく店の裏口へ向かった。
外がやけに明るく感じた。通りの方は陽が入ってきて暖かそうだったが、裏口の方は日陰になっていて少し涼しく感じた。
「ここのロッカーを使ってください」
外に行くと言っていたので裏口から出るかと思っていたが、そうではなかった。裏口から店に入ってすぐのスペースにロッカーが設置されていた。レナーテがロッカーの一つを開けると、そこに封筒に入った五万ドルを放り込んですぐに扉を閉め、番号鍵を抜いた。
「この鍵を持っていてください。そして金曜日の夜にここに来て、お金を持ち出してください。その時までは裏口は閉めておきますから、勝手に持ち出すことはできません。わかりましたか?」
これで金曜日に五万ドルの現金を確実に受け取ることができる、というわけだ。ややまどろっこしいというか随分と手間をかけているが、現時点でこの方法が一番簡単で確実だろう。素直に感心した。この若さでここら一帯の裏稼業の長を務めるだけある。合理的で手際の良さもすばらしい。
ロッカーの鍵を受け取り、そのままパーカーのポケットに入れた。少し不安になってジーンズのポケットにしまい直した。道に落としたりするわけにはいかない。
「では金曜日に」
「ありがとうレナーテ。じゃあまた」
キセルはそのまま裏口から外へ出て、昼の通りを横切って消えていった。レナーテは裏口を施錠すると二階の事務所に戻り、テーブルの上のカップを手にキッチンへ向かった。
キセルが五万ドルを受け取りに来たのは、この日から四日後のことだった。




