プロローグ:キセル・フリックス③
「依頼人の方ですか?」
金髪の少女にそう言われた。他でもない俺自身に向かって放たれたその言葉の意味を考えてみる。当然、皆目見当もつかない。
「え?」自分でも驚くほど間抜けな声が口からこぼれた。
「は?」すると間髪入れず、隣に立つ黒髪の女性が声を発した。
金髪の少女はただ黙って見ている。少し不思議そうに口をむっと閉じるが、目はまったく動かないから真顔なのは変わらない。
彼女たちは俺のことをどういう風に捉えているのだろうか。黒髪の女性の方は不思議そうな面持ちで、というより怪訝そうな顔でこちらを見ている。「なんだこいつ」とでも思われているに違いない。
だがしかし、連れてこられて突然依頼人かと訊かれてもなんのことやら。不思議なのは俺の方だ。
とにかくこの沈黙は嫌な感じがした。
「依頼? いや、俺は飯が食べたいだけなんだけど…」
「は?」
「え?」
黒髪の女性と、先ほどとは逆の発声になった。何故こんなに責められているような空気なのか。先ほどと違い、金髪の少女が声をあげた。
「どういうことですか、紫涵」
ズーハンというのはこの女性の名前だろうか。女性は答えに詰まりながらも質問に答える。
「いやこれはその……え、マジ?」
俺の顔をじっと見て訊いてくるが一体何が「マジ?」なのだろうか。
「あの……どういうことで?」
数秒沈黙が生まれ、その間に少女は考えをまとめたようだ。しっかりと説明する気になったのか、席を立って手前のソファまで移動してきた。
脚の長いすらっとした立ち姿を見せてくれた少女は、俺にソファへ座るよう促した後、テーブルを挟んで正面に向かい合わせになるように座った。なんだか商談でも始まるような雰囲気だ。
俺の方をじっと見てくるが、さっきと違って真正面から見つめられているので威圧感がある。年下にビビる自分に妙な恥ずかしさを憶えながらも、極力態度に出ないようあえて背筋を反らせて座った。黒髪の女性はテーブルの脇、俺から見て左側のところでしなやかに立っている。この女性も相当に脚が長い。
「さて」少女が口を開く。「初めまして。『Bullet Rain』 アトランタ支部事務局長のレナーテ・バルテルです」
聞き慣れない単語がいくつかあって少し混乱気味だが、やっぱりここは事務所なのかとどうでもいいことを思う。たいそうな肩書きだがそんなことより、この少女の名はレナーテというのか。顔立ちからしてヨーロッパの人間だと思っていたが、バルテル姓ということはドイツあたりだろうか。何にせよこちらも名乗り返す。
「キセル・フリックスだ」
少女は俺の身なりを滑らかな視線移動で見回すと、何かしらの判断を下したように軽く座り直して短く息を吸った。
「私たちは言ってしまえば裏社会の人間です。客の依頼をこなして報酬を得る。そんなビジネスを展開しています。依頼は多岐に渡りますが、表の機関や組織には頼めない私情や裏事情も取り扱います」
「言っちゃうんだ……。表のってのは警察とかの公的機関ね」
黒髪の女性が横から口を挟む。確かに、俺にそんなことを教えてしまっても良いのだろうかとは思っていた。黒髪の女性……ズーハンは続けた。
「依頼の方法っていうのもまぁ……違法な場合は堂々とうちの事務所を訪ねてくるわけにもいかないから、依頼までの流れをこっちで指定して"選別"させてもらってるんだけどね」
俺だってこれでも裏で稼がせてもらってる身だ。彼女らの言いたいことはわかる。つまるところ段階を踏んだ"選別"をして、表に生きる人々の目にはなるべく触れさせないようにするのだ。別段不自然な流れではないが、大きな疑問はまだ解消できていない。
「それでどうして俺が?」
ズーハンはこめかみのあたりをポリポリと掻き、わざとらしく困ったように答えた。
「うちの選別方法はね、"一番奥の席について"、"一番高いメニュー"と頼む。シロップの量は依頼の難易度というかレベルを表してるの。猫探しからその……ダークなものまで広く取り扱ってるからさ」
「それで上に通されてから、今の俺みたいに改めて話を聞く、と」
「そうですね。」レナーテは理解が早いのを喜ぶかのように即答した。しかし声色にはそんな色はまったくない。表情もだが、どうも喜怒哀楽が伺えない。色で例えるなら灰色の感情だ。
「あなた、本当に何も知らなかった?」ズーハンが確かめるように目を細めて尋ねる。
「知らないっすよ」
なんて確率だろうかと思った。普段なら絶対にしない頼み方を、今日この店のあの席で飯を食おうと決めた時に限ってしてしまった。それに確かシロップは"多め"に注文した。今ならあの店員らの緊張の意味がわかる。
「これもまた何かの縁でしょう。この際しておきたい依頼等ありますか?」
これだけの偶然を目の当たりにして口調も声色もまったく変えないこの少女もすごい。そして依頼なんてそんなついでで募ってしまって良いのか。ステーキを頼んだお客様へ、今ならサラダも無料で付いてきますよ、みたいな軽さだ。別に思いつかなかったし金に余裕があるわけでもないので、その場では断った。
「そうですか、それではお引き取りください。お騒がせして申し訳ありません。是非下で何か食べていってください。ちなみにこの店で一番高いメニューは、ミックスベリーの五段パンケーキです」
「ああ、じゃあそれにしとくよ」話は終わったなと席を立つ。
「それと」レナーテが声をかける。まだ何か?
「ここでのことは他言無用でお願い致します」
「ああ。誰にも言うつもりはないよ」
そう言い残して部屋を出た。よしもう忘れちまおう。連中が俺と同じ、裏に生きる身だといっても住む世界がまるで違う。もう関わることはないだろうからな。
その日の夜、薄汚れた外観のコンクリートビルの地下二階は、昨日に引き続き大きな歓声で震えていた。実況の男がマイクを強く握りしめ全力で叫ぶ。
「ダウーン! やはりキセル強い! 六連勝を達成した!」
ま、こんなもんさ。最近はダメージを食らわない程度にわざと浅くパンチをくらうなど、なるべく速攻での圧勝はせず、賭け率に偏りが起こらないようにする余裕もできていた。もうアマチュア時代に味わったあんな思いはごめんだからな。
周りからの大きな歓声を一身に受けながら右腕を高く掲げる。お決まりのビクトリーパフォーマンスだ。
「六連勝おめでとうキセル! ほい、これ水」
リングから離れた時、声をかけてきたのは初老の男だった。俺のリングコーチや、試合後に水を持ってきてくれるようなマネージャー的存在の男で、名前をロヴという。
「ああ、ロヴさんありがとう」
手渡されたペットボトルの水を半分ほど、一気に喉を鳴らしながら飲んだ。もう半分を顔にバシャバシャとかけると、熱い顔が冷めて気持ちがいい。さっぱりする。
ロヴさんはそれを見て朗らかに笑うと、先ほどの試合で得たファイトマネーや次の対戦カードの話を始めた。なるほど今日はそこそこ稼いだな、とか。次の対戦相手はまだ決まっていないか、とかあれこれ相談する。
その様子を物陰に隠れて見届け、不気味に笑う人間がいたことをこの時誰も知らなかった。
大通りの街灯の光がうっすらと差し込む夜の暗く狭い路地を、キセルは少しうつむきながら歩いていた。
なんだか身体が重くだるい。試合の後で疲れたのだろうか。いつもはここまでの疲労感はないのにおかしいな。いつもと違って連日試合があったからだろうか。いけない。なんだか眠気まで差してきた。早いところ自分の部屋へ帰らなければ。
その時、物陰から人がぬらりと出てきたような音と気配がした。背後からだ。
慌てて振り返ると不審な男がバット高く振り上げていた。まずい。
しかし、ボクサーの反射神経と動体視力は、男の大振りな一撃を避けるには十分な余力持たせた。とはいえ金属製のバットはすごい音をたてて建物の外壁を砕き、細かい破片がぱらぱらと自分の体に降りかかった。
なんだこの男は。目を凝らして見るも覆面をかぶっていて顔はわからない。路地の暗さも認識のしづらさに拍車をかけていた。だが体格で間違いなく男だとわかる。この男は一体なんの目的で俺を襲った?
初撃をかわされた覆面男は舌打ちして、再びバットを振り上げる。鈍い光の反射によって、それが凹んでいることに気づいた。
こいつは何だ。金目的か? 確かに今、もらったファイトマネーをパーカーのポケットにそのまま突っ込んでいる。金が目的なら、それを知ってる裏試合の関係者なのだろうか。
とりあえずこの場をどうにかしないと。構えていると、男がバットをスイングさせた。
そのとき突如として視界が揺れ、脚の力がたちまち抜ける。即座に膝をつくほどの脱力により頭の位置が一気に下がったため、横に振られたバットは左のこめかみをかすった。皮膚が切れてそこから血が溢れ出す。
まずい、当たった。応戦は無理だ。
重い脚に力をこめ、少し先の灯りが強く差し込んでいる場所へと走り出す。傷口から流れ出す血が耳の後ろあたりに流れていく。
だが10歩も走らないうち、またもや視界がぐらりと大きく揺れた。数十回ぐるぐると回転した後のような強烈な三半規管の歪みに耐え切れず、脚がもつれ今度は派手にすっ転んだ。地面に倒れ込み、流血を手で抑えながら、ジンジンとした鈍い痛みとぐわんぐわん揺れる脳の気持ち悪さに耐える。
この体調不良の原因は何なのか考えた。目眩なんてものではない急激な視界の反転。こんなことは初めてだ。おまけに体に力も入らない。薬でも盛られたのか。一体いつ、どこで、誰に? ロヴさん……? わからねぇ……。
覆面男はこうなることが予測できていたかのように、慌てることなくゆっくりと近づいてくる。しかしまさか二度も直撃が決まらないとは思わなかったであろう男は、今度こそとゆっくりとバットを振り上げる。
だめだ今度こそ頭を砕かれる。
そのときだ。暗闇に溶け込むような黒いスーツに身を包んだ少女の金髪がふわりと揺れ、強く差し込む灯りに照らされて輝いた。
音もなくいきなり現れた少女に覆面男が驚く。キセルはもっと驚いた。
「あ……あんた今朝の……」
「どうも」
こんな状況でもレナーテは全く動じていないのか、地に伏すキセルを一瞥するとそれだけ言って覆面男に視線を戻す。男はしばし様子を伺ったあとで、息を整えてレナーテに向かって言う。
「……ふん、なんだ嬢ちゃん。夜にこんな暗い路地を歩くなんて危ないぜ? ここは治安悪いんだから」
男はそう言ってシッシッと手で追い払うジェスチャーをしたが、少女は何も言わない。不気味な沈黙の後、男が続ける。
「それは承知、って感じか? 嬢ちゃんもしかしてそういう願望があるとか? へへっ」
この現場ほど治安の悪さを実感できる場もそうないだろう。バットを持った覆面の男と頭から血を流して倒れている俺。そしてこんな夜中に暗い路地を出歩く少女。一体なんて絵面だろうか。頭の痛みと混濁さえなければ笑っていただろう。男の声がぐにゃぐにゃと聞こえてくる。
「まあいいぜ。そういうことなら後で相手してやるよ。こいつぁラッキーだぜ、金と女がいっぺんに手に入るんだからな!」
男がキセルを無視して少女の方へ歩みを進める。キセルはこのあとどうにでも始末できると踏んでのことだろう。
瞬間、男からの歪んだ殺意をキセルとレナーテは即座に感じ取った。本能からか経験に基づく確信か、一通り楽しんでから殺そうとしていることは、容易に感じ取ることができた。
少女が腰の銃に手をかけ、今まさに引き抜こうとしたその瞬間、キセルは男の背中に飛びかかった。驚いた少女の手が一瞬止まる。
覆面男は背中に覆いかぶさってきたものがキセルだと確認するとひどく驚いた。動けないはずの泥人形も同然のキセルが立ち上がり、あまつさえ向かってくるなんて。
驚いて振り向いた男の顔面に、キセルの拳が鋭く入る。
「その子に手出すんじゃねぇ……殺すぞ……」キセルが強く低い声で睨む。だが殴りぬけたキセルはそのまま地面に倒れた。
少女はハッとして銃を抜ききり、男に照準をあわせる。
「何だこいつまだ……!」
鼻を殴られた鈍い痛みの中で、男は自分に銃が向けられているのを見た。
閃光が瞬き、暗がりを三度短く照らす。続いて甲高い金属音も三度響く。薬莢が地面を跳ねた音だ。
放たれた9mmの弾丸は男の右耳と肩、上腕に極めて正確に撃ち込まれた。男は鋭く悲鳴をあげて呻いた。バットが男の手から放れ、傷を抑えながら男は暗闇に逃げていった。
少女が銃をしまい、うつ伏せに倒れたキセルを仰向けに起こす。
「大丈夫ですか? 歩けますか? 早くここから離れますよ」
声をかけても反応がない。きっと何か薬を盛られたのだろう。致死性の高いものでなければいいのだが。
痙攣など特に目立つ症状は出ていない。脈はある。心音にも異常はみられない。呼吸も問題ないし眼球運動も……。
レナーテが手早く様々な確認をしていると、キセルが静かに寝息をたて始めた。レナーテは無表情のままため息を吐いた。
「寝てるだけですか」
ほっとした。盛られたのはおそらく睡眠薬の一種だろう。もっとも、明らかに適正量より多いだろうが。
さっきの男がまた仲間を連れて戻ってきたら厄介だ。早くここから離れなければ。
さて、この気持ちよさそうに寝てる男をどうやって運ぼうか。




