プロローグ:キセル・フリックス②
アメリカ合衆国 ジョージア州 アトランタ。デルタ航空、コカ・コーラ、CNNなど多数の大企業の本社を構え、ジョージア州のみならずアメリカ南部の商業・経済の中心として栄え、90年代には国際的な影響も持つようになる。
また、ビジネス・人材・文化・政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングで2014年、世界第36位の都市と評価された。
だが、アトランタは全米でも有数の犯罪多発都市であり「全米の危険な都市ランキング」では1994年、1995年と2年連続ワースト1位であったのを含め、2000年代前半までワースト5の常連。現在もワースト6位にランクインするなど、アトランタの裏は薄汚れている。
ポプラー・ストリート・ノースウエストの路地は朝日に照らされ、キラキラと輝いている。春の朝方、陽光をそのまま気温に反映したような暖かな空気が心地いい。
時刻は午前八時を過ぎたころ。通勤時間だからか表の通りには車が走っている。カフェで少し遅めの朝食を食べている者もいた。
キセルは手で目庇を作りながら路地を歩いていた。そろそろ飯を食おうかと、店を探しながら路地を歩く。
昨日ちょっとした収入があったので、今朝は豪華なものでも食べてやろうかと考えていたら、少しだけ口角が上がった。やがて雰囲気の良いカフェを見つけた。外壁にレンガが貼られた二階建てで、その一階部分が店になっている。路地に面した窓の外にはテーブルが四つ置いてあり、外でも食べられるらしい。
ちょうど今くらいの季節に利用したい席だ。さらに気温が上がる昼下がりなら、この席でいいお茶会が開けそうだ。もっとも、自分にそんな趣味はないしお茶会に呼べる友人もいないが。
通りに面した大きなガラス窓から少し中を覗いてみた。落ち着いた雰囲気の店で悪くない。すぐに入り口のドアを開けた。
チリンチリン。ドアの上についている鈴の音に出迎えられ、店内を見渡す。レンガ調の壁と木の柱の内装が、暖色系の照明と合わさって温かく、妙に落ち着く空間を作り出していた。テーブル席とカウンター席があり、何組かの客がゆったりと食事をとっていた。
おしゃれな店だ。それが第一印象だった。味と店員の態度が良ければもしかしたら通うことになるかもしれない。
「いらっしゃいませ」
不意に声をかけられた。入店直後に店員が出迎えてくれるとは思わなかったので少々驚いた。黒髪を後ろで結んでいて背が高い、メガネが印象的な女性だった。
「おひとり様ですか?お好きな席へどうぞ」
そう促され、どの席につこうか改めて店内を見渡す。まあ、奥の席でいいか。
さて何を食べようかと少し考えたが、ふとあることを思いつく。壁を背にした一番奥のテーブル席につき、メニューも見ずに店員を待った。
「ご注文お決まりになりましたらお呼びくださいね」
テーブルに水を置いてすぐ戻ろうとする店員を呼び止め、そのまま注文をとる。
「"この店で一番高いメニュー"を」
言っておくが、普段なら絶対にこんな頼み方はしない。今はまとまった現金を持っているし腹も空いている。ある程度高くてボリュームのあるメニューがきても平らげる自信があったからこそ、今朝に限ってこんな高慢な注文の仕方をした。今にして思えば、これが運命の始まりだった。
店員は何やら驚いた様子だった。店の雰囲気に合わない注文の仕方をしてしまったから引いているのかと危惧したが、どうやらそういうわけではないようだった。メガネのレンズ越しに見える綺麗な黒目が見開かれる。しかしすぐに元のにこやかな表情へ戻った。
店員はテーブルのメニュー表ではなく、腰に巻いたエプロンのポケットから別の小さなメニューカードを取り出して提示してきた。まず品と値段を知りたくてカードを見たが、そこには数段に重ねられたパンケーキの写真が載っているだけで、値段のようなものは表記されていない。
「こちらのパンケーキとなっております。シロップの量、多め・普通・少なめ、とお選びいただけますがどうなさいますか?」
「"多め"で」
どうせならと深く考えもせずそう答えると、店員はまた驚いたようだった。今度はどこか神妙な面持ちになって、表情を戻さずに承諾した。
「……かしこまりました」店員は踵を返して奥に戻る。後ろに結んだ長い黒髪がふわりと振れた。
少し離れたところで酒の並んだ棚の整理をしている店員も心なしか真剣な顔をしているようだ。真剣というより、なんだか恐い顔だ。
酒の棚…このカフェは夜からはバーになるのだろうか。だからカウンター席がついているのかと自分なりに納得したが、さっきのやり取りの直後から自分の中で温かな雰囲気は消え失せていた。
部屋の様子も他の客も変わらずにいるというのに、このうっすらとした緊張感は店員二名の雰囲気が変わったためであろうか。
張り詰めた空気は流石に居心地が悪い。この店はこの一度きりで利用しなくなるかもしれない。せっかくいい店を見つけたと思ったのに残念だ。ヤケまじりにグラスの水を一口、勢いをつけてぐいっと飲んだ。
「お客様、どうぞこちらに」
あの店員が帰ってきた。何故だか席を離れる必要があるらしい。黙って彼女についていく。カウンター席の脇やキッチンの横の通路を通った時は流石に部外者が立ち入って大丈夫なのかと心配したが、特に誰からも指摘されることなく階段の前まで来た。先ほどカウンターで酒棚を整理していた背の低い店員からも口出しはない。
二階に上がるというのか。外から見た限り 店は一階部分だけだと思ったが違うのだろうか。いや、二階にも席があるのなら何故こんなルートを通る?
彼女は階段を登っていく。ためらいはしたが、仕方なく続いた。店内には二階へと続く階段なんてなかったはずだ。そもそも俺が呼ばれる理由もわからない。
二階へ上がって廊下を少し進んだところに木製のドアがあった。彼女は短く三回ノックし、ノブに手をかけて優しく引いた。
まず彼女が、それに続いて自分も部屋に入る。
一番に受けた印象は……"事務所のよう"だった。簡素な部屋で、家具やインテリアなどに個人の趣向を凝らしたようなものはなく、角張って整然としていた。それが余計に事務所感を出しているのかもしれない。
部屋の手前に四つ足の深いチョコレート色をした木製のテーブル、それを挟むように置かれた二つの黒い革張りのソファ、壁際の本棚。窓際に設置されたデスクの上にはノートパソコンと分厚い本。デスクにあわせた椅子もある。
その椅子に金髪の少女が座っていた。座ってじっとこちらを見ている。
ふと、自分の思考に自分で疑問を投げかけた。これは少女か? 少女というより女性というべきかもしれない。二十歳の自分より年下なことは間違いなさそうだが、雰囲気が少女のそれではない。
黒いスーツに白いシャツ、黒いネクタイというなんとも色味がない男性的な服装をしていることも手伝ってか、少女と分類づけるにはかなりの違和感がある。限りなく女性と呼称するに相応しい少女だ。何とも言い表せられない人間がいたものだと早々に結論づけて思考を放棄する。
人形のような彼女は、どこか憂いを帯びた碧い目で俺をじっと見つめたままその小さな口を開いた。
「依頼人の方ですか?」