プロローグ:キセル・フリックス①
都市部とはいえ、春の夜はわりかし静かなものだ。そろそろ日付が変わる時刻、少し遠くからダウンタウン・コネクターの道路を走る車の音が聞こえる。
ここはアメリカ合衆国ジョージア州アトランタ。この眩しいほど明るい街にも暗闇がある。光を強く当てれば闇は小さくなるが、それにつれて影は濃縮されていく。
一人の男が薄汚れた外観の建物の前に立っていた。三階建てのコンクリートビルで、時間が時間なだけに部屋に明かりは一切ついていない。この暗く静かなビルに男は一体何の用があるのか。わざわざライトを手に裏口から中に入る。
中に入った男は暗い廊下をライトで照らしながら進み、突きあたりを左に曲がる。そのまま少し進むと地下へと続く階段が見えた。照らしながら 慎重に階段を降りていく。階段の先はぼんやり明るくなっていて、地下の部屋には照明がついているようだ。
コツ、コツ、と男が階段を降りる音だけが空間に響く。そして地下二階まで降りると ここから先はもうライトは必要ないほど明るくなっていた。部屋の中央ではいかにも重そうなドアが存在感を放っている。ドアに向かって勢いをつけ、力をぐっとこめて引いた。とたんにドアの隙間から凄まじいほどの大声が飛び込んできくる。相変わらず遮音性の高い防音ドアだなと男は感心しつつ、自身が通れる最低限の幅に開けたドアの間に素早く体を滑りこませた。
ドアがズシン、と重い音をたてて閉まるが 男の耳にはその音は届かない。それほどこの空間は大勢の人の叫び声に震えている。
この空間は何なのか、大勢が叫ぶとはどういう状況か、この男は何の目的があってこの場所に来たのか。それはこの場所__いや『会場』の中央を見ればすぐにわかるだろう。
リングがあるのだ。他にも、こんな変哲もないビルの地下には不相応な設備の数々があった。ボクシングのそれより一回り大きい四角いリング。その上には何台かの照明、そして大きなスクリーンが対角に二つ。
その画面にはそれぞれ今 リングの上で闘っている二人の男の顔と名前、それに賭け率と思われる数字が映し出されている。
リングを取り囲むように人々が密集して歓声をあげている。ざっと500人ほどだろうか。ここはこの街の「影」の部分、賭け試合を大規模かつ組織的に行う、裏リングの会場なのだ。
先ほどの男は観客に紛れてしまった。もっとも、あの男はただの賭博参加者だから注目することもないのだが。今の試合が終わり次の試合が始まるまでには自分の賭けを終え、じっと試合を見届けるだろう。
ここはそういう場所なのだから。
次の試合といえば、今行われている試合もそろそろ決着がつきそうだ。髭を生やした巨漢の男対ボクシングスタイルで闘う青年の試合。
試合を有利に進めているのは青年の方だ。賭けの人気もこの青年の方が高い。軽いフットワークで髭の大男を翻弄する。
「うおおおおおおおおおおおっ!」大男が雄叫びを上げた。
照明に照らされたまぶたは倍ほどに腫れあがっており、鼻も潰れているのか鼻血が大量に出て、濃いあご髭にべったり絡んでいる。
まさに最後の力を振り絞って、という感じで、猪のごとく青年に向かって突っ込んでいく。瞬間、大男はグラリと体勢を崩しながらドシンと大きな音を立てマットに沈んだ。青年のカウンターのアッパーが見事に大男の顎を打ちあげたのだ。大男は動かない。
大男が崩れ倒れた後の一瞬の静寂が意味するものは、決着だった。
「ダウーーーーン!!!そのまま動かない!」
実況の男がマイクを力強く握りしめ、興奮した様子でその青年の名を大声で叫ぶ。
「これで5連勝!やはり強いぞ『キセル・フリックス』ぅぅうう!!!!!!!!!!」
青年は大男を倒したその右手を天高く掲げ、皆の歓声を心地よさそうに聴いている。
「大丈夫かアニキ!」そう叫びながら倒れた大男の傍に駆け寄りながら水をかける男がいた。
「ゔばぁっ!!!!…はぁ…はぁ…」大男が目を覚ます。
ぼんやりとした意識の中、鋭い目で青年を睨みながら、大男はふつふつと湧き上がる怒りを感じた。心配する外野の声もまるで聞こえない。声と肩を震わせながら大男は小さく声を出した。
「あのやろう…ただじゃ済まさねぇぜ…!」
闇に生きる彼らの物語は この熱風吹き荒ぶ地下二階から始まる。
この騒がしい風が地上に吹くことはない。午前0時を迎えた街が静かに語る。
光よりも闇の方がずっと騒がしい、と。